私達は燕なのか?

夫婦はつがいの燕なのか?

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巣作りが終わったらどうなるのか?                                  雛が巣立ったらどうなるのか?

マック

今日、お話した礼拝メッセージです。                                 よろしかったらどうぞ↓

私達は燕なのか?(結婚について)                      エペソ5章22節-33節 

2009年2月8日

私はこれまで多くの結婚式の司式をさせていただきました。しかしそれには条件がありまして、必ずその前に結婚カウンセリングを受けていただきました。その中で結婚するとはどのような意味があるのかをお話し、その式の中ではこのようなことがありますからとその段取りというものを話しました。

大抵の場合、私の前にいるカップルは幸せそうで、何を言ってもニコニコして聞いています。言っておかねばならないと「結婚生活には困難もありますよ」と話しても、どこ吹く風、そんなことは自分達には関係がありませんというような顔をしています。結婚式におけるあの有名な誓約についてお話しますと、まさしくこの誓約は私達二人のためにあるのね、私達は健やかな時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、いつまでも一緒なのねと感動しているように見受けられるのです。ご存知ですね、あの誓約を・・・。

あなたは今、この女子(男子)と結婚し、妻(夫)としようとしています。あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。あなたは神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、命の日の限りあなたの妻(夫)に対して堅く節操を守ることを約束しますか。

最近、私はこの結婚前に心踊っているカップルに老婆心ながら、結婚生活が直面する問題について何を言っても届かないだろうと思い、結婚カウンセリングが終わる最後の日に必ずこう言います。「もし、結婚生活で何か問題が生じたらいつでもいらしてください」。でも、これまた、そんなことは私達にはありませんから大丈夫ですというようなお二人の後姿を見送ることが多いのです。

そう、私の思いすごし、思い違いで、彼らが本当に問題なく結婚生活を続けていけば、こんなに嬉しい事はありません。しかし、私達が自らの経験を通して知っているように、あるいは身近なところで見聞きしますように、結婚生活というのは「おままごと」ではないので、時に私達は大きなチャレンジに向き合うことになるので。今日は結婚カウンセリングの時には避けて通れないエペソ書5章からお話します。このエペソ書は使徒パウロがエペソにある教会に宛てて書いた手紙です。 

エペソ5章22節-33節

22妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。23キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。24そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。25夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。26キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。28それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。29自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。30わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。31「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。32この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。 33いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。 

この聖書を読む時に私達は「妻たる者よ」、「夫たる者よ」(22、25節)という語り掛けによって、それぞれ妻、夫にいかにあるべきかということを記しています。同じようなことがコロサイ人への手紙3章18節、19節にも「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当ってはならない」と短くまとめられています。しかし、このエペソ書はさらに入念に掘り下げて記しています。そして、その内容というのは、私達が書店で売られている「結婚関連の本」には書かれていないものなのです。なぜ、そのような掘り下げが必要だったのでしょうか。

最近ヨーロッパに住む友人が嘆いていました。もう欧州では結婚という形態がなくなってきている。すなわち結婚することなく、男と女が一緒に住むようになっている。その同棲が数年になっても彼らは結婚を考えることがない。結婚すると束縛されるし、いつか別れなければならない時に面倒だからだといいます

そして、この現象はヨーロッパーだけの話しではなく、世の中は確実にこのような流れにあります。すなわち全てのことが合理的になってきます。これはある意味、私達に予想できる事の成り行きでした。なぜなら、人間は面倒に思えることはやがて省いていく性質をもっているからです。結婚することは面倒くさい、何かがあった時にこれまた面倒くさいというのです(私達がパートナーを自分にとって便利か、不便かということで考えていて、その関係が長くもつはずはありません)。 

しかし、聖書はそのような世界観とは全く違ったもので、結婚というものをとても大切なものとして位置づけています。このエペソ書が「結婚は奥義だ」と書いている通りです。

数年前に今日、開かれているエペソ人への手紙のあて先となった古代都市のエペソを訪ねました。今も当時の石畳の街並みが残されています。ここをパウロも歩き、伝道したのかと思うと感無量でした。このエペソの町には一つの大きな特徴がありました。それは、この町にはアルテミスという女神が祭られていたのです。この女神の銅像が町の博物館にあるのですが、この女神には乳房がたくさんついているのです。それはそれはグロテスクな銅像でした。

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なぜ、そんなに乳房がついているのか。なぜなら、それは豊穣の神だったからです。その体には羊や豊かな果実が描かれていたのです。これが町のいたるところに祭られており、家庭にも飾られていたということを想像してみてください。そして、それが宗教的な意味づけをもって、家庭生活、夫婦生活というものに多きな影響を与えていたということを想像してみてください。家庭において生産ということが最も大切なものとされており、それが夫婦と家庭の存在理由であったということを想像してみてください。

このような考え方は古いものではなく、確実に今日も残っています。「子は鎹」という言葉、子供によって、どうやら二人は結ぶついている。しかし、最近、オシドリ夫婦と呼ばれる人達も、その仲がいいのは巣作りまでと言うそうです。すなわち子供のための巣、すなわちマイホームを作り、財産を築き、雛たちが巣立っていくまでは、何とか夫婦で協力し合う。しかし、一度、子供が巣立ってしまうと、夫婦は各々好きな方に飛んで行ってしまうというのです。私達は果たして燕なのでしょうか(ここに来て今日の不思議なメッセージ・タイトルが解き明かされました)。 

そのようなことが生産を中心としたエペソでも起きていたと思うのです。パウロはそのような人々に対して、結婚とはそんなものではないのだということをここに書いているのです。そして、そのようなことを記すためには結婚の本質に触れなければならなかったのです。 

このパウロの勧めの文章を読むと、驚くほど同じ一つの言葉を繰り返して使っていることに気づきます。それは「ように」という言葉です。全部で六回も使われています。そしてその「ように」とはすなわち、私達夫婦の前には、夫婦生活を営むにあたって模範になる存在がいるということです。そして、それは「イエス・キリストと教会の関係なのだ」と聖書は言うのです。ここに書かれている言葉を見てみましょう。 

22妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。23キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように夫は妻のかしらである。24そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。25夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。29自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。33いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。

皆さん、ご覧になって分かりますように教会には色々な人が集まります。極端な話、昨日まで獄に捕らわれていましたという人も来ますし、銀行を所有していますというような実業家も来ます。温かい家庭に育てられた人もいれば、虐待を受けて育ってきたと言う人も来る場所です。

そして、このところが多くの人達に誤解されるのですが、この教会は完全な人達(世の人はそのような人達をしばしば品行方正な人と呼ぶのですが)の集まりだと思うのです。しかし、新年最初の礼拝でもお話しましたように、私達はその最後の日まで、皆が工事中の人間であり、そこには色々な問題があるのです。 

そして25節に「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」とあるように、イエスはこの教会のために命を捧げたというのです。そして、それは愛されるに値しないような者すらも愛するキリストの無条件の私達に対する愛なのです。すなわち結婚というのは相手が自分によくしてくれるから続けるというようなものではなく、また互いの共通財産である子供が巣立つまで互いにがんばるというパートナーでもないということです。 

キリストの愛が教会が病んでいる時も、健やかな時も、富む時も、病める時も貧しい時も消えうせてしまうことがないように、私達の結婚というものもこのキリストのように営なまれていくものなのです。

夫婦や家庭という意味づけは、キリストを知る以前と以後では全く違って来るのです。パウロがなぜ結婚は奥義と言ったのか、なぜなら私達の結婚生活はキリストの愛の広さ、深さ、高さを私達のパートナーの夫、妻と向かいながら、人生賭けて知っていくということだからです。そして、それは相手から愛されるという、愛をくださいということを望み続ける生活ではなくて、相手を愛する、相手に愛を与えつづける生活なのです。キリストにある結婚は「相手が自分にとって心地よい、相手が自分にとって益となることをしてくれる間には一緒に住みましょう」というような生活とは全く違った次元のことなのです。

ここには細かに夫、妻のすべきことが書かれています。今日はそのことをお話する時間はありません。またいつかの機会にお話しましょう。しかし、皆さん、どうでしょうか。これから結婚しようとしている方、結婚したけれど、この問題、あの問題を抱えているという方いませんか。私達は鎹である子供が去ってしまって、まさしく二人の間に隙間風が吹いていて、これからどうしたらいいのか分からないという方、いませんか?ただ一言の結論です。キリストを土台として夫婦生活を建て直しませんか。

お祈りしましょう。

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私達は燕なのか?」への2件のフィードバック

  1. 我が家は雛が巣立つ前に親鳥の私たちのほうがは、巣をサンディエゴにおいて飛び立ってしまいました。その親鳥たちも今は別々の所におりますが、キリストを土台にしていれば大丈夫!という安心感があります。
    まずは、工事中、欠点だらけの、愛するに値しないような妻を夫が愛してくれること、、、、。
    これは、男性にとってはそれはそれは忍耐と覚悟のいることでしょうね。
    そして、妻は主に仕えるようにすべてのことにおいて、夫に仕える、、、。いいかえれば、夫に仕えられないということは、主に仕えていないこと、、、。
    すべてのことですよ~、すべて!!いやあ、女性も大変です。でも、お祈りする時は、主よ、おゆだねします、従います、、、って言っておきながら、夫に向って、何よ!なんて言う、、、(私だけか?)反省反省。
    聖書のこのみ言葉、何十年もたってようやくわかりましたから、、、。でも、日々の生活では、なかなか難しく、、、。だから、み言葉をよみ、自分を顧みることが大切なのですね。
    いやはや、結婚ってしてみないと分からないけれど、本当に、奥義ってありますが、すごいことです。
    バレンタインデーがもうすぐですが、多くのカップルにこの聖書に書かれている結婚の意味を知ってほしいですね。そうしたら、幸せになれるよ~~って。

  2. たべすぎさん
    結婚とは不思議です。血縁でもなく、互いに異なる人生を歩んできた者同士がある日から共に一番近い人になるのですから。
    この奥義を一つ一つ、生涯かけて紐解いていきたいですね。う~ん、本当に深い!

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