山本七平氏は戦時中の戦艦大和出撃の際に、空気が事の決断に作用していたと書いています。
すなわちその時、軍事の専門家達が大和の出撃を無謀と断言できる細かなデータ、根拠をもっていながら、最終決定は「そうせざるを得なくしたのはその場の空気だった」というその会議に居合わせた人達の証言を記しているのです。そして、私達が知っているようにこの無謀な攻撃により戦艦大和は海の藻くずとして消えたのです。さらにこのような決断は大和の出撃のみならず、日本国が過去の諸々の戦争に突入していく背景にもこの空気が大きなはたらきをしていたというのです。
山本氏はこのことを上げて「空気とはまことに大きな絶対権をもった妖怪」だと言っており、それは一種の「超能力」であるかもしれない、なぜなら専門家が揃った海軍の首脳達がこぞって「作戦として形をなさないことが明白な事実」であることを強行させ、後になると連合艦隊司令長官が、なぜそれを行ったのかを一言も説明できないような状態に押し込んでしまうのだから、この空気の力はスプーンが曲がるとかいうマジックの比ではないと書いています。
こうなると統計・資料・分析における論理的な裏づけは一切無駄であって、そういうものをいかに踏まえていても、いざという時は、それらが一切消し飛んで、全てが「空気」に決定されることになるかもしれない。とすると我々はまず何よりもこの先に、この空気なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないと言っています(以上「空気の研究」(山本七平著:文春文庫)より)。
マック
以下、今日の礼拝メッセージです。↓
空気を読むよりも、み声に聞こう
ルカ10章38節‐42節 2009年7月5日
昨年だったかと思いますが日本で「KY式日本語」辞典なるものが出版されました。この辞典には主に若い世代の方々に使われているローマ字を使った略語とその説明が記されています。その中には「JK(女子高生)」とか「HD(ヒマだから電話する)」とか「ND(人間としてどうよ)」というものがあり(もう、私達は完全に浦島太郎です)、その中にこの本のタイトルとなった「KY」という言葉があります。KYとは何か。それはケンタッキー州の略語ではなく「空気が読めない(Kuuki-ga-Yomenai)」という言葉を略語にしたものなのです。
「空気を読む」という言葉はここ数年、色々なところで取り上げられており、その意味は「会話において言葉に出さなくても当然、あなたも分っていますねという“暗黙の了解”に従って会話や対話がなされていく」ということで、それによって互いのコミュニケーションを図るということなのです。そして最近はこのことがエスカレートして「空気を読めるか、否か」によって、人と人との関係に区別がなされ、読めない人達はその集団から排除されてしまうというようなことが起きているようです。この空気の力は実に小学生にまで達しており子供達が「あいつは空気が読めない」と嘆き、これらが陰湿ないじめの温床となっているというのです。
そして、調べればこの空気の話は最近でてきたものではなく、「日本人として生きる」という礼拝シリーズになって度々取り上げている山本七平氏が25年も前に書いた「空気の研究」(山本七平著:文春文庫)という著書の中で、山本氏ご自身がある編集者と打ち合わせをしている時のことを記しています。そこで、山本氏は編集者に意見を求められ、自分の考え、思うところを述べたところ、その編集者は「そんなことは現場の空気からすれば絶対に言えないことだし、編集部はそんな話を持ち出せる空気ではない」と応答したというのです。
その時に山本さんは編集者が度々、使う「空気」という言葉に対して「何やら分からぬ空気に、自らの意思決定を拘束されている、いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなくて、その「空気」なるものである。採決は「人ではなく空気」が決め、「空気」だと言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の余地はない、なぜなら、「空気」を相手に議論するわけにはいかないからだ」と書いています。
さらに山本氏は戦時中の戦艦大和出撃の際にもそのような空気が事の決断を作用していたと書いています(文藝春秋 昭和50年8月号)。すなわちその時、軍事の専門家達が大和の出撃を無謀と断言できる細かなデータ、根拠をもっていながら、最終決定は「そうせざるを得なくしたのはその場の空気だった」というその会議に居合わせた人達の証言を記しているのです。そして、私達が知っているようにこの無謀な攻撃により戦艦大和は海の藻くずとして消えたのです。さらにこのような決断は大和の出撃のみならず、日本国が過去の諸々の戦争に突入していく背景にもこの空気が大きなはたらきをしていたというのです。
山本氏はこのことを上げて「空気とはまことに大きな絶対権をもった妖怪」だと言っており、それは一種の「超能力」であるかもしれない、なぜなら専門家が揃った海軍の首脳達がこぞって「作戦として形をなさないことが明白な事実」であることを強行させ、後になると連合艦隊司令長官が、なぜそれを行ったのかを一言も説明できないような状態に押し込んでしまうのだから、この空気の力はスプーンが曲がるとかいうマジックの比ではないと書いています。
こうなると統計・資料・分析における論理的な裏づけは一切無駄であって、そういうものをいかに踏まえていても、いざという時は、それらが一切消し飛んで、全てが「空気」に決定されることになるかもしれない。とすると我々はまず何よりもこの先に、この空気なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないと言っています(以上「空気の研究」(山本七平著:文春文庫)より)。
皆さん、私達の多くは日本で生まれ育ったゆえに、たとえ外国に住んでいるとしても、やはりこの「空気」の支配を完全に免れているとはいえません。そして、この空気を読むということも、他者への気配りとか配慮という範囲においてなされているのなら、それは日本が世界に誇れる美徳なのですが、それが子供の社会に限らず、大人の社会においても陰湿な感情の伴う要因となってしまっている現実、すべき決断がなされずに大きな間違いを起こしてしまう可能性、また空気を読み、それを過剰に気にするあまり、自分のことを自分で決め、行動する、そして、その自分に責任を持つという、当たり前のことが否定されていくのであるならば、それはやはり問題であります。そこで今日は聖書の中からこの「空気」について見ていきたいと願っています。
そもそも、この「空気と関わる出来事」というものが聖書の中にあるのか、数日間、思いめぐらしました。そして、その中で一人の女性を神様は思い起こさせて下さいました。ルカ10章38節‐42節を読んでみましょう。
38一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。39この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。40ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 41主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている(心を乱している)。42しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
ここに記されているマルタとマリアという姉妹は度々、聖書の中に出てきます。その兄弟にはあのラザロがおり、彼らはイエス・キリストととても親しい間柄であり、イエスも度々、彼女達の家を訪ねていたことが想像されます。そして、このところに書かれている「ある村」というのもマリアとマルタの家のあるベタニアであったと思われます。
今は携帯電話がありますから、例えばそれが当日であっても「たった今、ロスアンゼルスに到着しました。ちょっとこれから寄らせていただいていいですか」という連絡ができます。それは急な出来事でしょうが、何とか私達は最善を尽くしてお客さんを迎え入れるでしょう。しかし、当時はそのようなものはありません。たとえそれが三日前であっても、三日後に行きますという連絡がつかない時代です。それゆえに文字通り、この時の来客は突然の出来事であったことでしょう。
その辺り、この状況はどうだったのか。一節を注意深く読みますと、そこにはは「一同が」と書かれているように、この時にイエスは一人ではなく、おそらく加えて12弟子プラス何人かの人達が共にいたということがうかがい知れます。そして、その一行がベタニヤに来られているということを知らせる人がいたのでしょう。それを聞いたマルタはイエス様一行を家に迎え入れたのです。
このところでその大切な決断をしたのが「マルタ」であったと名指ししていることはとても大切なことです。そして、このマルタはそれのみならず、この一行のために忙しく接待の準備に取りかかったというのです。しかし、それに対して妹のマリアはイエスの足元でその御言葉に聞き入っていました。ここから幾つかのことをお話しましょう。
心をとり乱す。
皆さん、この家の状況というものが鮮明に目に浮かんできませんか。突然、私達の家に20名ものお客がこられたとしたら、それはそれは大変なことです。まったく「猫の手も借りたい」というのはこのような状況の時をいいます。その家の者なら、全員がかりだされて動き回らなければならない時です。
しかし、そのような時にマリアはイエスの足元に座ってイエスの口から語られる言葉に聞き入っていたというのです。同じ時に姉マルタがせわしなく動いていることが当然、視界に入ってきているでしょうし、当然、共に働いていない自分を見て、何かを感じているに違いないという無言の空気はマリアにも届いていたに違いありません。
それに対して姉マルタはイエス一行が町に来ているという知らせを聞いた時からイエス達とその一行の状態というものを「想像」したのでしょう。すなわち、イエス様はどんな旅行をしてこの町にたどりついたのだろうかということから、今はこの時間だからお腹は空いていないだろうか等々、この「想像」というのは「空気を読む」ことに欠かせないことで、そのような意味において、彼女は状況をよく読んで、一行の者達の空気をよく読んで、行き届いた接待をしようと試みたに違いありません。そのことは評価のできることです。
この聖書の箇所はよく議論されますが、このマルタは間違っているということではありません。彼女のその配慮の心、おもてなしの心、それは神様が彼女に与えられた賜物であったに違いありません。ですからマルタは「あれもすべき、これもすべき」とその心には「すべき項目」が溢れていたことでしょう。あの弟子は“こんな健康状態だから”、“彼はこんな性格だから”と巧みにその状況を読むことができた人でしょう。そして、実際にそのような役目を誰かが担わなければ私達の生活はうまくまわりません。
しかし、マルタはその状況の中で“心が乱れる”ほどに回りの空気を読むことだけに心が奪われてしまったのです。このことが大切なポイントです。相手の気持ちを察するということは大切です。しかし、そのことが過剰になる時に私達はこの空気によって全く心が乱されてしまうのです。心の余裕が失われてしまうのです。そこでマルタは飲み込んでいた言葉をついにイエスに向けて言いました。
「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
皆さん、私達は「場の空気を読むことに長けている民族」です。しかし、その素晴らしいものによって、私達は心が乱れ、疲れてしまうことがないでしょうか。この「乱れ」は時に内なる混乱でとどまらず、外に向かい「あなたも私と同じようにこの空気を読んで動きなさい」という思いとなり、自分と同じ空気を読まない者に圧力をかけるようになります。そして、その時に私達の心に誰かのためにサーブする喜びは失われ、苦々しい思いが満ちてくるのです。私達はこのことをしかと知っていなければなりません。
最も大切なこと。
マルタを見てきましたので、今度は妹マリアを見ていきましょう。彼女はこのマルタが巧みに状況を読んでいた時にイエスの足元にいてその話を聞いていました。回りでは陣頭指揮をふっている姉マルタの姿があったと思います。しかし、マリアはそイエスの話を聞いていました。
皆さん、ここで私達はこのマリアは「空気の読めない女だ」と思います。私も最初、そのように感じつつ、このメッセージを準備していたのです。しかし、「いや、まてよ」と思ったのです。いいや、この時マリアは回りの状況も知っていたのではないか。すなわち、その空気は読んでいた、しかし、彼女はその中で自分にとって最も大切なことは何かということを考えて、その結論としてイエスの足元にいたのではないかということです。
実はこのマリアについてもう一つ、とても興味深い出来事がヨハネ福音書12章1節‐8節に記されています。読んでみましょう。
①過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。②イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。③その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。④弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、⑤「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。 ⑥彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。⑦イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。⑧貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
本当にこの姉妹の性格は違います。この時もマルタは給仕をしていました。おそらく、また忙しく過ごしていたのでしょう。しかし、ここにまた一見、空気を全く読んでいないようなマリアが登場します。
すなわちマリアは姉マルタが給仕をしている時に、イエスのもとに高価で純粋なナルドの香油、一斤をかかえてやってきたのです。そして、何を思ったのかその壷から香油をイエスの足にぬり始め、自分の髪でそれをふき始めたのです。それは今日の香水のようにシュパ・シュパというようなことではなくて、まさしく彼女は惜しみなくその香油をイエスの足にぬったのです。
このナルドの香油は当時でいうところの最高級、しかも混ざりものではない、100%ピュアなものでした。その値段について300デナリとありますが、それは成人男性が一年かけて得られる収入に値するといいますから、それはマリアにとって大切な財産であったに違いありません。
皆さん、マリアのしたことに対して、回りの人達が凍りついていることが想像できないでしょうか。全くもって彼女は、ここでその場の空気を読み、それゆえに自分の行動をとどめてはいません。ただただ彼女は、その時に主イエスの前に最も大切なことは何かということを考え、そしてそれを実行に移したのです。
なぜ彼女がこのような行為に出たのか。それは彼女がいつもイエスの言葉を聞くことを最優先していたからでした。すなわちマリアは自分の周りの空気よりも、もっと大切なものに耳を傾けるべきだということを第一としていた人であり、そして、そこから何をしたら一番、神様が喜んで下さるかということを考え、それに従っていた人なのです。そして一度、その決断をしたならば、他の人が彼女のことをどう思うか、そんなことを気にすることなく、それにまい進することができたのです。
それゆえに彼女はこのところで、彼女よりも長く、いつもイエスと共にいた弟子達すらも気がつかない最も大切なことをに気がついていたのです。すなわち、イエスが言っているように、彼女はイエスの葬りの日が近いことを察知し、そのためにこの油を使いきろうとしたのです。 彼女は人と人の間の空気を読むことよりも、イエスの身に起きるであろう空気を察していたのです。そして、それは人間の空気を読むことに長けている人達にはできなかったことなのです。
皆さん、私達が神経をすり減らしてまで、過剰に人の気持ちを察することによって得ることができるものは何でしょうか。おそらくそれは、その集団の中にかろうじてとどまることができるということです。しかし、その集団の中で空気を読むことを怠ると、私達ははじき出されてしまいます。ですから、空気を読むということは私達にとって死活問題となり、私達はそのことに心が奪われてしまうのです。日本において小学生達に肩こりの子が増えているといいますが、一重にこの空気がその原因ではないでしょうか。
パウロはⅡコリント3章12節‐18節にとても興味深いことを書いています。
⑫こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、⑬ そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。⑭実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。 ⑮今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 ⑯しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。⑰主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 ⑱わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
この箇所は明らかに律法主義のユダヤ人に向けて書かれたものです。すなわち彼らの目はかつての古い律法によって縛られており、ということはどういうことかといいますと、この律法を守れるかどうかということに彼らの関心は集まり、それのみならず、そんな自分が他者にどのように見られているかというような、偽善的な生き方をユダヤ人達はしていたというのです。それゆえパウロはそのような生き方をその霊の眼にはおおいがかぶせられており、まことに神の愛と恵みを見ることができない、知ることができないようだと書いたのです。
これは私達にも当てはまるのではないでしょうか。私達は「空気を読む」すなわち、常に他者の目を気にする余り、その心におおいがかぶさっている。それがあるゆえに神を見ることができない、信仰に立つことができない、ということがないでしょうか。
マルタはイエスに指摘されているように「多くのことに心を配って思い煩って」いたのです。それゆれにイエスの言葉に対しておおいがかかってしまっていました。それゆえに最も大切なことを見失ってしまいました。それは目に見えない場の空の中で、その空気を読むことだけに心を奪われている私達のようです。
しかし、パウロは言っているのです。これらのおおいは「キリストにあってはじめて取りのかれる」(14)と。「主に向く時に、そのおおいは取りのかれる」と(16)。
マリアがイエスから目を話さずにいた時に、その周りの空気から解放されて最も大切な生き方を彼女が選ぶことができたように、私達も主イエスに目を向けていく時に、周りの空気に流されることなく何が最も大切であるかということを見極めることができるのです。
そして、この言葉はこのように閉じられているのです。⑰主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 ⑱わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
律法主義にがんじがらめになる生き方ではなく、空気を読むことだけに精力を傾けるのではなくて、そのおおいをとりのけて私に心を向けなさい。律法の文字を読むのではなく、空気を読むのではなく、まず私の霊と共に生きなさい。そこには自由があるから。その自由によって生きなさいと神様は私達に語りかけているのです。
あの騒然としたベタニヤのマルタ、マリアの家に戻りましょう。心乱したマルタにイエス様はこう言われました。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている(心を乱している)。42しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
状況を読んで動いたマルタの判断はイエスの望んでいることではありませんでした。戦艦大和の突撃において空気を読んだ人達の決断は謝っていました。しかし、私達は空気を読むことに全ての精力を注ぐよりも、その状況で主のみ声に耳を向けようではありませんか。
このみ言葉を今日、21世紀を生きる日本人である私達は主の言葉として、こう受け止めるのです。「あなたはあの人の顔色、この人のご機嫌、あの人の言葉、この人の行為とあなたの回りを取り巻く空気に心を配って思い煩っている。しかし、なくてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。あなたはその一つのことを選んで人生を歩みなさい。すなわち私を見上げて、心のおおいを取り除け、私の言葉に従いなさい。これらのことは誰もあなたから取り去ってはならないものなのだ」。
お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り
空気を読むよりも、み声に聞こう
ルカ10章38節‐42節
①「そんなことは現場の空気からすれば絶対に言えないことだし、編集部はそんな話を持ち出せる空気ではない」というような言葉について、どう思いますか。空気を読むとは何ですか?(これは諸外国では考えられない概念です)。
②他者への配慮とか気配りにおいて「空気を読む」ことは大切なことですが、それが陰湿な感情の伴うものとなってしまっている現実、すべき決断がなされずに大きな間違いを起こしてしまう可能性(戦艦大和)、また空気を読み、それを過剰に気にするあまり、自分のことを自分で決め、行動する、そして、その自分に責任を持つという、当たり前のことが否定されていくのであるならば、それはやはり問題です。あなたはこのような弊害を体験したことがありますか。
③ルカ10章38節‐42節を読んでみましょう。あなたはマルタですか、それともマリアですか。「忙しくして心をとり乱した」(40)マルタの心境はどのようなものだったと思いますか。マリアはどんな気持ちでイエスの足元に座っていたのでしょうか。マリアはその場の空気が読めなかったのでしょうか?
④ヨハネ福音書12章1節‐8節も読んでみましょう。なぜマリアはここでも、その場の雰囲気を考えずに、回りの人達が驚くようなことをしているのでしょうか。これらのことについてイエス様はマリアをどのように思っていますか?
⑤Ⅱコリント3章12節‐18節を読みましょう。私達は「空気を読む」すなわち、常に他者の目を気にするあまり、その心におおいがかぶさっていて、神様を見ることができない、信仰に立つことができない、ということがないでしょうか。
⑥「常に人の目を気にする人は、魂の平安をもつことができない」と曽野綾子さんは書きました。あなたはこの言葉をどう思いますか。あなたは空気を読むことに心を砕いて生きていますか、それとも神様のみ心に従い、自由の内を歩みますか。
https://pmac.sanbi.us/ もしくは https://www.sdjcc.net/japanese/index.htmlから
本日のメッセージ全文を読むことができます。
