あなたは透明な存在ではありません 

医師であり、作家の養老孟司さんが「名刺」について面白いことを言っていました。日本人は名刺が大好きで、すぐに交換します。そこには部長とか課長というような肩書きが記されています。養老さんはその時、名刺を受け取った人はその人の名前より、まずその人の肩書きに目がいっているのだから名刺のデザインを変えたらどうかと提案します。すなわち「○○局△△部長」とだけを大きく名刺の中央に書いて、名前は隅っこに小さく書いておいたらどうかというのです。

私達の脳は名刺を受け取り、その肩書きを見る時、瞬時にその相手が自分にとって上か下なのかということを判断します。なぜなら、そのことをしなければ、自分のポジションが定まらないからです。互いにそのあたりを探り合っていましたら、大切な本題も落ち着いてじっくりと話しをすることができません。ですから名刺とは日本社会におけるビジネスや人間関係をスムーズに動かす必須アイテムなのです。

さらに名刺を受け取った時から他国人には到底できない日本人の技が始まります。すなわち、自分と向き合う相手のポジションを知ってから、私達は相手の呼び方を微調整するのです。それゆえに日本語には「あなた」「君」「お前」「あんた」「貴様」「おたく」「自分」「てめえ」「おめえ」(地域限定として「おのれ」「おまえさん」「おんどれ」などもある)というような多くの二人称があり、日本人の間で生きながらえるためにはこの二人称をそれぞれの関係と状況において私達は臨機応変に使い分けることが課せられているのです(もちろん、名刺を交換した直後に「おめえ」という人はいないと思いますが)。

そして、言うまでもなく相手の人称を使い分けるだけではなくて、相手のポジションが判明しましたら、今度は自分という一人称である「私」「僕」「俺」「自分」「うち」をその相手と状況に合わせて使い分けなければなりません。このことをないがしろにすると、どんなにその人が能力のある人であっても、その人は日本社会からはじきだされます。恐ろしい言葉を使いますと、干されてしまいます。それが日本の社会なのです。よく海外生活の気楽さをいう人がいますが、海外においては「I」と「YOU」「BOB」と[MARY]でいいのですから、それはそれは気が楽でしょう。

そして、これら何気なく私達が日々していることには、とても深い意味が含まれています。すなわち、私達日本人は相手の年齢や社会的地位や性別によって、自分自身を常に変化させているということです。つまり私達は常に相手によって自分が決まるのですそこには主体である自分はなく、常に自分は客体なのです。そこには常に相手にとっての自分があるのです。ですから私たちの自我というものは多くの場合、他者によって規定されていくのです。そして、それは対面する人によって変わるのです・・・。

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マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。

よかったらどうぞ)「シリーズ・日本人として生まれて3」↓

あなたは透明な存在ではありません。                     2009年6月14日

先週は日本人社会ににおいて「神」のような存在となっている「世間様」についてお話しました。この社会で私達は「関係の空気」や「場の空気」というものを読みながら(このことはまた後日、お話します)、巧みに本音と建前というものを使い分けて生きています。否、そうしなければ生きていけないのがこの社会の特徴です。

どの社会でも秩序が尊ばれるように、この日本のような社会において、その秩序は私達が使っている「敬語」によって保たれています。私達が日本人として生きるためにはこの敬語をしっかりとマスターしていなければなりません。このことを知らないでいると「あいつは生意気だ。口のききかたを知らない。非常識だ。親の顔が見たい」とそれはそれは大変な反感を買い、やがては社会から孤立するようになります。

医師であり、作家の養老孟司さんが「名刺」について面白いことを言っていました。日本人は名刺が大好きで、すぐに交換します。そこには部長とか課長というような肩書きが記されています。養老さんはその時、名刺を受け取った人はその人の名前より、まずその人の肩書きに目がいっているのだから名刺のデザインを変えたらどうかと提案します。すなわち「○○局△△部長」とだけを大きく名刺の中央に書いて、名前は隅っこに小さく書いておいたらどうかというのです。

私達の脳は名刺を受け取り、その肩書きを見る時、瞬時にその相手が自分にとって上か下なのかということを判断します。なぜなら、そのことをしなければ、自分のポジションが定まらないからです。互いにそのあたりを探り合っていましたら、大切な本題も落ち着いてじっくりと話しをすることができません。ですから名刺とは日本社会におけるビジネスや人間関係をスムーズに動かす必須アイテムなのです。

さらに名刺を受け取った時から他国人には到底できない日本人の技が始まります。すなわち、自分と向き合う相手のポジションを知ってから、私達は相手の呼び方を微調整するのです。それゆえに日本語には「あなた」「君」「お前」「あんた」「貴様」「おたく」「自分」「てめえ」「おめえ」(地域限定として「おのれ」「おまえさん」「おんどれ」などもある)というような多くの二人称があり、日本人の間で生きながらえるためにはこの二人称をそれぞれの関係と状況において私達は臨機応変に使い分けることが課せられているのです(もちろん、名刺を交換した直後に「おめえ」という人はいないと思いますが)。

そして、言うまでもなく相手の人称を使い分けるだけではなくて、相手のポジションが判明しましたら、今度は自分という一人称である「私」「僕」「俺」「自分」「うち」をその相手と状況に合わせて使い分けなければなりません。このことをないがしろにすると、どんなにその人が能力のある人であっても、その人は日本社会からはじきだされます。恐ろしい言葉を使いますと、干されてしまいます。それが日本の社会なのです。よく海外生活の気楽さをいう人がいますが、海外においては「I」と「YOU」「BOB」と[MARY]でいいのですから、それはそれは気が楽でしょう。

そして、これら何気なく私達が日々していることには、とても深い意味が含まれています。すなわち、私達日本人は相手の年齢や社会的地位や性別によって、自分自身を常に変化させているということです。つまり私達は常に相手によって自分が決まるのです。そこには主体である自分はなく、常に自分は客体なのです。そこには常に相手にとっての自分があるのです。ですから私たちの自我というものは多くの場合、他者によって規定されていくのです。そして、それは対面する人によって変わるのです。

このようなことをお話して私は日本の敬語をなくそうというのではありません。敬語とは読んで字のごとく、それは相手をリスペクトして話す言葉ですから、それは真心と共にその使い方を気をつければ美しいものであります。

しかし、私達が心にとめておかなければならないことは、私達は常に自分以外の人によって、自分という個を決めてしまいがちなものであり、それゆえに私達は自分を見失ってしまう、自分の考えや願いを常に押しとどめて他者に合わせる、神様が与えて下さっているその人だけのギフトすらも見失い、放棄してしまうことが多々あるということを心に刻み、注意しなければなりません。

今日はこれらのことを踏まえて、聖書に登場するイエス様の弟子の一人、ペテロという熱血漢の男をみていきましょう。彼に関わることとしてマタイ26章31節-35節にこんな出来事が記されています

31その時、イエスは弟子たちに言われた「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。32しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。33するとペテロはイエスに答えて言った、たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。34イエスは言われた「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。35ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。

イエス様は弟子達にこんな警告をなさいました。「あなたたちは今夜、私に従っているゆえに身の危険を感じてバラバラになってしまうよ」しかし、ペテロはすぐにその言葉に反応して言いました。たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません

「私はつまづきません」という意思を表明するペテロの心意気を私達は理解できます。しかしペテロは「みんなの者があなたにつまづいても」とも言ったのです。イエスに対してつまづくかつまづかないかということはペテロの問題であって、他の弟子には全く関係のないことなのです。おそらくこの「みんなの者」とは自分の仲間たちのことでしょう。彼は「イエスと自分」の関係の中に他者をもちこんできたのです。

すなわち、このことはペテロという人も「自分」というものを確立できずにいたということです。なぜなら、彼も自分というものを常に他者との関係において位置づけていたのです。そして、皮肉なことにこの勇ましい言葉が試される出来事がこの後すぐに起きまして、彼はまさしくそこでも「イエスと自分」の問題を「女中やその出来事の周囲にいた人達の視線と言葉」によって台無しにしてしまったのです。すなわち、「つまづきません」どころかイエスを三度も「知らない」と否定するというようなことを彼はこの後にしでかしてしまうのです。

しかし、こんなペテロにイエスはガリラヤ湖畔にて復活して現れてくださいました。その時のことがヨハネによる福音書21章15節22節に書かれています。

15彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。16またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。17イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。ヨハネによる福音書21章15節‐22節

ここにはイエスとペテロの「あなたとわたし」という関係がしるされています。そこに誰彼が入る余地はありません。そして、実際にイエスに従っていくと言うことは誰彼の問題ではないのです。それは「あなたとわたし」の問題なのです。

この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた。人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう。やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない。そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである・・・。

この少年の犯行声明文には度々自分を「透明な存在」という言葉がでてきており、当時、この言葉を日本中が驚き怪しんだのです。そして、さらに衝撃的だったことはこの少年と同世代の若者たちの5人に1人がこの犯人の声明文に対して「それなりに気持ちはわかる」と反応したというのです。こうした事実から、この少年の「透明な存在」というのは子供たちの心の叫びを代弁していたということも分かり、ますます日本社会は混乱したのです。

そして、この事件に関する専門家達の文献を読むときに、この「透明な存在」というのは少年たちだけの叫びではなくて、私達日本人の多くがいつも心の奥底にもちうる自分に対する正直な気持ちであり、それはいつ爆発してもおかしくない状態だというのです。私達は本音と建前という社会の中で生き、相手によって自分のポジョンが確認し、皆と一緒であることが望まれ、それゆえに自分の主義・主張を失い、確固たる人生哲学を持つことも難しく、さらに結果だけを重んじる競争社会、履き違えた自由が横行する経済至上主義社会の中で、疎外感を持った「透明な存在」の子供や大人が社会に溢れているというのです。

そして、皆さん、もうお気づきになられていると思うのですが、この「透明な存在」という自己認識から一人のかけがえのない自分というものを回復するためには私達が誰もそこに介入できない、その相手が自分の状態やその時の状況によって変わることのない「あなたとわたし」という関係を築く以外にないのです。そして、その関係になりうる唯一の存在は「父なる神とわたし」という関係なのです。その関係が確立する時に、相手の神は不変なお方ですから、ははじめて私達も変わることない「わたし」というものを見出すことができるようになるのです。

しかし、私達の社会構造にはそのようなものが全くといってなく今日まできていますので、実際に私達もそのような環境の中で生まれ育ってきましたから、この神との「あなたとわたし」の関係を築くことは容易なことではないのです。

そして、興味深いことにそれはペテロも同じでした。イエスとペテロの出来事をもう一度、見てみましょう。ペテロはイエス様と直々に「あなたとわたし」という会話をしながら、それでも他者のことを気にすることが心に刻まれた男だったのでしょう。先ほど読みました会話の後にこんなことが書かれているのです。

20ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。21ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。22イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。

「わたしとあなた」という関係が築かれた直後に彼は仲間の行く末が気になりました。しかし、そこでイエスはまたペテロに念をおしました。「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。

イエス様はここではっきりとペテロに言われたのです「あなたと彼と何のかかわりがあるのか。彼に対する私の思いと計画があなたと違ってもそれはあなたとは関係はない。あなたわたしに従ってきなさい」

ペテロはこの時をスタートとして神と私という関係を確立していったのです。そして、そのような人がどういう生き方をしていくのか。聖書はところどころにこの後のペテロの姿を記録しています。こんなことがありました。使徒行伝4章13節22節を読んでみましょう。

13

人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、14 かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。15 そこで、ふたりに議会から退場するように命じてから、互に協議をつづけて16 言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。17 ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。18 そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。19 ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。21 そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。

ペテロはこの時に多くの反対者に取り囲まれていたのです。その反対者からの脅しを受け、「今後はイエスについては何も語っても説いてもならない」と脅迫されたのです。かつてのペテロならこのような時にその心は たやすく揺れてしまったに違いありません。

しかし、彼は「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と答えたのです。確かに彼の心の中に「あなたとわたし」という神様との垂直な関係が出来つつあったのです。それがあるから、彼はここぞという時に動くことがなかったのです。自分はどう生きるべきかという機軸が彼の心の中に芽生えていたのです。

しかし、ペテロは本当に我らのペテロです。愛すべき人間です。このように「あなたとわたし」という機軸ができつつも、後にまたもや失敗を犯しました。その後、彼は仲間のパウロからこんな叱責を受けました。

11ところが、ケパ(ペテロのことです)がアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。12というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。ガラテヤ2章11節‐14節

皆さん、ペテロ自身ももしイエスを拒んでその後に再びイエスとの関係を築かなければまさしく「透明な存在」として身を隠しながら、その生涯を生きたことでしょう。しかし、神様はそんな彼を引き上げ、その「あなたとわたし」という機軸を色々な経験を通して、時には失敗を通して彼を変えてくださったのです。そして神様は私達と同じ、そんな弱いぺテロに大きな期待をかけてくださったのです。

皆さん、ある時、神様がペテロに見せた幻をご存知ですか。使徒行伝10章9節から16節をごらんください。

翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。10彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。 11すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。12その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。13そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。14ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。15すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。 16こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。

ペテロはこの幻の後にコルネリオという人との出会いにより、この幻の意味に目が開かれています。すなわち多種多様な生きものを全て食べなさいということは、それらを全て拒んではいけないということです。ということはペテロが言っているように、こういうことです(使徒行伝10章34節)。

神は人をかたよりみないかたで、35 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました」。

すなわち、その幻の意味はもはや神の教えはユダヤの世界にとどまるのではなくて、全世界の人々に伝えられるべきものだということでした。これはキリスト教がユダヤ人だけの民族宗教として終わるのではなくて、それが世界的なものとなるために超えねばならぬことであり、当然そのことを実現していくためには、恐るべき迫害が予想され、まさしく命がけの覚悟を要しました。

このことは人の顔をうかがっていては絶対、成し遂げることができないことでした。神だけを見上げてその前にいかなる他者も入れずに歩みとおす強い信仰が必要でした。その大任がペテロに託されたのです。なぜですか。彼はイエス御自身から「あなたはわたしを愛するか」と直接、その言葉を語りかけられ、それを受け止めたその人であったからではないでしょうか。そして、ペテロは実際にそのことを成し遂げ、実際にその過程で殉教し、その彼の犠牲によって今日、私達は日本人としてこの教会に集まり礼拝を捧げているのです。

アイルランドの作家、オスカー・ワイルドは言っております。「キリストは最高の個性主義者であったのみではなく、史上における最初の個性主義者であった」オスカーはそのプライベートにおいて色々な問題を起こした人で、彼がいったいどんな思いでこの言葉を言ったのかその本心は分かりませんが、その中心にはイエス・キリストこそ「父なる神と自分」という確固たる機軸をもって生きた人であり、その関係に生きたイエスを最高の、そして史上最初の個としてオスカーは賞賛したのではないでしょうか。

ペテロがそうであったように一夜にして「神と私」という関係が私達の間に確立されることは難しいことでしょう。特に日本で生まれ育った私達には心に刻まれたものがありますから、このことは大きなチャレンジです。しかし、神様がペテロという人を作り変えてくださったように私達もこの神にあって作り変えられていくのです。

あなたのこれまでの生涯はどうですか。あなたは「父なる神と自分」という関係をもっていますか。それとも常に人の顔色で自分というものを決定してきたでしょうか。あなたは自分がこの地上に生まれ、確かに自分の足でこの地に立ち、その生涯を生きたという証を残すことはできるでしょうか。そのことは人と違う奇抜なこと、ユニークなことをするということではなく、私達が「あなたとわたし」という神様との関係を築き上げる時に始まるのです。

皆さんも耳にタコができるほどお聞きになっていると思いますが、今日も言います。「私達は今、たった一度の人生を生きています」。その人生を「透明な自分」として終えますか。それとも「神と自分」との機軸をしっかりと持ち、しっかりと自分の足でこの世界に立ち、自分で自分のことを決断し、神から与えられたギフトと使命に自らを燃焼させていく人生、そのような神の招きに私達はこの朝、応答していこうではありませんか。

お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り                                 あなたは透明な存在ではありません。                    2009年6月14日

①私達日本人は「あなた」「君」「お前」「あんた」「貴様」「おたく」「自分」「てめえ」「おめえ」に呼応するかのように「私」「僕」「俺」「自分」「うち」を使い分けています。すなわち私達は常に相手によって自分が決まります。このことをあなたはどう思いますか?

②あなたにとって「個」とはなんですか。

                                      ③イエス様が十字架にかけられる前にペテロとした会話で、下線にあるペテロの発言をあなたはどう思いますか。ペテロはいつも自分の立つ場所をどのように定めていたのでしょうか。その時、イエスは弟子たちに言われた「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。するとペテロはイエスに答えて言った、たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。(マタイ26章31節-33節) 

                                      ⑤ヨハネによる福音書21章15節22節を読んでみましょう。このところにおけるイエス様とペテロの間に交わされた「あなたとわたし」の関係はペテロにとってどんな意味をもっていたでしょうか。

                                      ⑥透明な存在」という言葉からあなたはどんな人間の状態を想像しますか?あなたは自分自身、そんな存在だと思ったことはないですか?

                                      ⑦アイルランドの作家、オスカー・ワイルドは「キリストは最高の個性主義者であったのみではなく、史上における最初の個性主義者であった」と言いました。彼の言わんとしたことは何でしょうか。ヨハネ17章1節―26節を読みましょう。ここに記されている「あなた」と「わたし」は何を指していますか。

                                        ⑧もう一度、お聞きします。あなたにとって「個」とはなんですか。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしあなたを愛している。           (イザヤ書43章4節)

1997年に兵庫県神戸市連続児童殺傷事件が起きました。連続で通り魔事件を起こし、最後に小学生を殺害し、その首を校門においたというその残虐な犯行は当時、人々を震撼させ、さらに自らを酒鬼薔薇聖斗と名乗るその犯人が14歳の少年だったということが大きな衝撃を日本社会に投げかけました。その少年が捕まる前にマスコミに送った声明文にはこのように書かれています。

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あなたは透明な存在ではありません 」への6件のフィードバック

  1. 俺がNZで英語地獄の中でもがいてる時にアメリカにいた大倉から手紙が来てさ、
    「IDの確立だって」書いてあったよ。
    日本にいれば周りがみんな日本人だし、髪は黒いし、モヒカンはいないし、
    目の色、肌の色、国籍、親の国籍、祖父母の国籍とか意識した事もなかったけどね、そういう自分が何者なのかっていうIDを考えさせられたね。
    たしかに何か対象が無いと自分のポジションって確立できないもんね
    神との1対1の関係をもたない日本では、両親とか、友達との関係の中で透明な自分の位置を透明じゃなくしていくんだろうね、いい関係がつくれればそれでいいんだけどね。そうじゃないときに問題が起きるんだよね。
    親と子の関係っていうのも、お互いが神との関係を持っているから対等に付き合えるんだろうし、神との関係がないと上下関係になっちゃうし、仕事なら上下でいいけど、仕事以外は上下関係って面倒だよね

  2. 俺がNZで英語地獄の中でもがいてる時にアメリカにいた大倉から手紙が来てさ、
    「IDの確立だって」書いてあったよ。
    日本にいれば周りがみんな日本人だし、髪は黒いし、モヒカンはいないし、
    目の色、肌の色、国籍、親の国籍、祖父母の国籍とか意識した事もなかったけどね、そういう自分が何者なのかっていうIDを考えさせられたね。
    たしかに何か対象が無いと自分のポジションって確立できないもんね
    神との1対1の関係をもたない日本では、両親とか、友達との関係の中で透明な自分の位置を透明じゃなくしていくんだろうね、いい関係がつくれればそれでいいんだけどね。そうじゃないときに問題が起きるんだよね。
    親と子の関係っていうのも、お互いが神との関係を持っているから対等に付き合えるんだろうし、神との関係がないと上下関係になっちゃうし、仕事なら上下でいいけど、仕事以外は上下関係って面倒だよね

  3. たしん
    たしんも三尾さんも「肩書きは自分」っていうことかな。いいじゃない。
    さんぼ
    「自分の位置」は「動かないもの」を基準にして測らないと分からんね。いつも動いている相手に合わせて、自分も動くっていうのはけっこうしんどいよね。

  4. タイムリーですね。ちょうどこの記事を読んだ日、自分が「鎌田神学生」やあまつさえ「先生」と呼ばれること、また「ヤス」とファーストネームから「鎌田君」など苗字で呼ばれることの意味を考えていました。
    これから「お持ち帰り」やってみます。

  5. かまたやすゆきさん
    「二人称」に対する「一人称」の判断・決定に直面していますね。
    敬意と礼儀を失うことなく、でも決して動じない方との「汝と我」を機軸にしっかりとおいて、人との関係を築いていきたいですね。

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