私達は日曜日の一時間だけ神を礼拝しているのではありません。
その神の恵みと知恵は私達の家計簿にまでおよぶのです。

「ためしてガッテン」や「おはよう奥さん」(知っています?)も触れないおはなし、公開します。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
よかったらどうぞ↓
家計簿に書き加えておくべき言葉
2008年4月13日
本当に大切なもの
私達の多くは働いています。そして、そのことによってその働きに対する報酬をいただいています。この場合の報酬とは、一言で言いますとお金のことでありまして、必然的にそのお金からなる収入というものは人によって違うものでありまして、ということはそれぞれの家計というものも異なります。
私達にとって家計はとても大切なものです。第一にそれによって私達に衣食住が与えられていくのですから。また、それ以外にもその家計によって私達の生活は潤いが与えられていくのですから。
「聖書とお金」などと言いますと、聖書はスピリチュアルなことだけを書いている書であって、お金とは無関係と思うかもしれませんが、決してそうではありません。実際にイエスの譬の多くには賃金の話がよく出てきますし、ビジネス上のかけひきというものが、まさしくその譬となっているものもあります。
最近、トーランスで経営コンサルタントとして働きながら、牧師もしている前原利夫先生が「聖書が語るビジネスの法則」という本を出されましたが、その書のうたい文句は「紀元前の時代、現代の経営戦略はすでに存在していた」というものなのです。また何よりもこの聖書とは今日のビジネスシーンで各業界をリードしているユダヤ人達にとって、全てその内容を暗記してしまうほどに大切な書物であるということも忘れてはなりません。
結論から言いますと、聖書は私達の家計をないがしろにしなさいとは言っていません。私達はしっかりと自分自身の家計をやりくりしなければなりません。しかし、一つの注意が聖書には書かれています。それは「私達とお金」ということについてであり、まずそのことから今日は見ていかなければならないかと思います。幾つかの聖書の言葉を紹介しましょう。
ヘブル人への手紙13章5節 「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい」
テモテへの手紙第一6章10節 「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺し通した」
聖書は一貫して金銭の必要を否定してはいません。しかし、その金銭に対する執着、特にそれを愛すること、その愛が神様を脇に追いやるようになるということについては断固ノーと言うのです。その金銭を愛する時に、そのことがあらゆる悪の根となるからだというのです。
今日の世界を見ますときに、この金銭を愛することによって起きてくる問題が毎日、起きています。それが銀行強盗であっても、コンビニ強盗であっても、カージャックであっても、彼らは銃器をもってバナナやジャケットを盗むのではなく、お金もしくは金目のものを盗むのです。そして、それによって時に人を傷つけ、その命さえ奪うことがあるのです。そして、言うまでもない、このようなことをした人は、見つかれば犯罪人として、そのことに対する罰を受けなければならないのです。
でも金銭はそのように銃器をもって強引に人の金銭を奪うことだけではなく、私達の平凡な家庭にも入ってきます。いつの間にか、家族の思いが自分たちがどれだけの収入があり、どれだけの物を手に入れられるかということだけに関心がいってしまうことがあります。その家族の中心にはお金がありますので、その家族を構成している夫や妻や子供達が脇に追いやられていきます。住む家や家を飾る調度品は年毎に豪華になっていくけど、その分、家族と家族の間の心には隙間風が吹いているなんてこと、彼らは犯罪人とは呼ばれませんが、そこでは生きている人間よりも物が一家の主役となってしまっているのです。
聖書はなぜ金銭を愛するなと言っているのでしょうか。金銭よりももっと深く愛すべき者達が私達にはいるからです。その愛すべき者達以上に金銭を愛すると、あなたの生活は荒んでくるよ、虚しくなってくるよと聖書は私達に語りかけているのではないでしょうか。
米国の雑誌「SUCCESS」が、2006年にアメリカ人に対して行った「成功」に関するアンケート調査結果を発表していました。私達はこの合衆国の様を観察していると「成功」イコール「豊かさ」というようなイメージを持ちやすいのですが、実ははそこにはこんな結果が記されていました。
「成功の中に含まれている最も重要な要素は?」(上位3つ)
信仰-41%
家族-25.5%
バランスの取れた生活-11.7%
「成功するために必要な要因とは?」(上位3つ)
家族との良い関係-89.9%
配偶者との良い関係-89.6%
神との関係-86%
興味深いのはこの中にお金ということが出てこないということです。アメリカ社会、特にカリフォルニアに住んでみますと何と言う消費社会、物質社会と思いますが、アメリカ人の心に思い描く成功とは信仰であり、神との関係であり、また家族のことだというのです。もしかしたら、彼らはそのような生き方をしているか否かは別としても、少なくともそのことは分かっている、いやそのことが心からの願いなのかもしれません。
イエスの弟子の一人にマタイという人がいました。彼は取税人として生きていた人です。すなわちお金を数えていた人です。数字には滅法、強い人です。「あいつの納税額はいくらいくら、その内の何パーセントはこっちに、残りの何パーセントは俺の手数料」なんて計算を毎日していた人です。「これじゃ赤字、こっちは利益を得られる」なんてことを生業としていたそんな彼がイエスに声をかけられその弟子となりました。そして、その彼がマタイによる福音書を書きました。彼はその書の中で、自分のそれまでの職業柄、いつも敏感に「損とか得か」という言葉に敏感に反応していたことでしょう、「損か得か」ということについて、イエスが言われた言葉をしかと聞き取り、こう書き留めました。
マタイ16章26節 「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したらなんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」
ルカによる福音書を書いたルカという人がいました。彼は医者として生きていた人です。すなわち人の命というものをどうにかして救おうとしていた人であり、命というものを人一倍、いつも考えていた人です。「この患者の体は今こうなっている、あの人は今、回復している、あの人はとても厳しい状況だ、何とかその命を救いたい」というように。そんな彼は職業柄、いつも敏感に「命」という言葉に反応していたことでしょう、「命」ということについて、イエスが言われた言葉をしかと聞き取り、書き留めました。
ルカ12章15節 「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人の命は、持ち物にはよらないのである」
私達はお金によってかき集めた物の多さとか、その物の質のよさで人生の勝ち負けを決めるのでしょうか。そのようなことをある人はとても分かりやすく言いました。
「いちばん多くのおもちゃを持って死ぬ人が勝ち」。
はたしてそうでしょうか。聖書は断固言うのです。たとい全世界を自分のものとしても永遠の命を失ったら何の得となるでしょう。たといたくさんの物を持っていても、人の命は持ち物によらないのです。すなわち、お金よりも大切なことがあります。だから、まず、そちらを獲得しなさい。それこそが私達の本当の成功へと導くものなのだから。そして、そのことは神を知ることなのだ、神と共に歩むことなのだと聖書は私達に語りかけているのです。このことをまず、しかと心に刻み、そして、その土台に立って、賢くお金とつき合いなさいというのが聖書のいうところなのです。
では、この前提を踏まえて、私達が日々の生活においてお金とどのように付き合っていけばいいのかということについて具体的に見ていきましょう。お金というのは流れていくものであります。そこでまず最初に「出て行くお金について」見てみましょう。
出て行くお金について
ピリピ4章10節‐13節にはこのような言葉があります。
10さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。11わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。12わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。13わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
このところにパウロの生き様が書かれています。彼は二つの状況にそれぞれ生きたことがある人のようです。すなわち富とともに生きたことがあり、また反対に貧に生きたこともあるというのです。そして、多くの私達もこのような二つの境遇に生きたという方も多いかもしれません。特に日本における戦争を経験なさった方々は、まさしく戦争における貧しさとその後の経済発展における繁栄というものも経験したことでしょう。同じようなことを体験したパウロはいうのです。「わたしはどんな境遇にあっても足ることを学んだ」。
神様は私達に足る事を教えてくださいます。私達は時に過剰な物に自分自身を見失ってしまうことがあります。その中で「欲しいもの」と「必要なもの」を見分ける力を神様からいただきましょう。
幼子と共に買い物に行きますと必ず、彼らの欲しい物の前を通ることがあります。ですから、左側におもちゃ屋さんがあると、そちらを見させないように子供の右側に立ち、どうでもいいことを話しかけて、左側を見ないようにしてその場を去ることがあります。ゆったりと買い物もしていられません。でも万が一、子供が欲しい物を見つけてしまうと、しばらくそこでひと悶着あるのです。そして、私達、大人の目には、それら子供が本当に欲しいと握り締めているものが、数時間後にリビングに放ってある光景が鮮明に見えてくるのです。そして言うまでもなくそれを片づけている自分の姿もはっきりと目に浮かぶのです。これは度重なる経験からの確信であって、同情と憐れみの心を持って、うなづいて下さる方も相当いると思います。
子供は「その物が必要だから」という判断で物を求めません。子供は「それが欲しいから」求めるのです。ですから、その子の判断には大人の広い視野に立った判断が必要なのです。
でも実は偉そうなことを言っていますが、私達も「どうしても欲しい」と「どうしても必要としている」ということの区別ができずに生きています。米国においてクレジットカードで買い物をし過ぎたために破産している人の数がそのことを物語っています。その買い物の多くは「必要」というよりも「欲しい」という感情と共に支払われた物ではないでしょうか。私達は時に「欲しい」と「必要」という判断をつけられなくなってしまうのです。それで、すぐにそれらを手に入れることができる魔法のカードを持っているのですから、ある意味、子供以上に危険なのです。ですから、幼子に大人の冷静な判断が必要な時に、私達も全てをご存知であられる神様に助けていただかなければならないのです。
私の家内は7人兄弟の牧師家庭に育ちましたが、彼女から聞いたことがあります。彼女がまだ幼少の頃、ごたぶんにもれずにデパートに行けば欲しいものがある。そこから動かない。泣く、叫ぶ。すると彼女の母は彼女が駄々をこねるその場所に正座をして、人目をはばからず祈るというのです(大抵、このあたりで子供達は恥ずかしくなって諦めるそうです)。きっとその祈りは「この子が、この物を欲しいと言っていますが、神様、あなたはこの子が一番、必要なものを知っていると思います。どうか、その一番大切なものをあなたが与えてくださるまで、待つことができますように」というような祈りなのでしょう。
皆さん、私達は自分の家計をどうやりくりするか、何にその財を使うかということに関しても、神様の視点を交えて「欲しい」のか「必要」なのかということを教えていただかなければなりません、その家計に私達の全てをご存知であられるファイナンシャルアドバイザーでもある父なる神様に介入していただかなければなりません。そうすることによって、私達の家計は整理され、かつてよりは安定するのではないでしょうか。自分に家族に、そして神の目にそれは本当に必要なのか、その祈りがどれだけ私達の家計を正常なものとし、またゆとりを与えることになることでしょうか。
二つ目のことです。出て行くお金に対して、入ってくるお金について見ていきましょう。
入ってくるお金について
今、みてきましたピリピ4章10節から20節において、パウロはどんな境遇にあっても足ることを学んだということを見ましたが、その後半の19節、20節において彼はこんなことを書いているのです。
19わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。 20わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
ここで私達は「私達の神はご自身の栄光の富の中から、私達のいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」という言葉にハッとするのです。私達は稼ぐということは自分の力だけでなしていると思います。しかし、それらの全ては神からきているというのです。神の栄光の富の中から、私達の必要は与えられているのだというのです。
旧約聖書のヨブ記に記されている主人公のヨブはその財においても人格においても郡を抜いた人でありましたが、彼はその財や家族や健康を失った時に言いました「主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」。彼は知っていました。自分の財は神が与えて下さったものなのだ。いいや、厳密に言うならば、自分の財産だけではない、自分の家族も健康もそうなのだ。
イエスはそのことを簡潔な譬でマタイ6章25節‐34節において語りました。
25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
この言葉は山上の垂訓と呼ばれているものですから、イエスが話した場所は小高い丘の上であったと思われます。そこに集まった群衆に向けてイエスは語られたのです。そして、イエスをはじめ人々の視界には花が咲き、鳥達も飛んでいたことでしょう。
それらを見て、イエスはこれらの言葉を言われたのです。皆さんが今日、教会に来るまで、多くの方々は車にのってこられたと思うのですが、その間にどれだけの数の野花をパスしたことでしょう。木に止まったり、空を飛んでいるどれだけの鳥をパスしてきたことでしょう。私達はその存在にも気がつかないし、いちいち、それらの一つ一つに目を留めることなどありません。でも、花が咲いてから一度も人の目に留まらない野の花であっても、そして、その花は誰にも見られることなく刈られ、炉に投げられてしまうようなものであっても、その花びらに宿る色の美しさは私達が最高級ブランドの服を着ても、勝ち得ないというのです。
我が家では一匹のインコを飼っていますが、この世話は家内がしています。時々、餌と水を変え、かごの掃除をするのです。簡単なことなのですが、これすら億劫となってしまう自分の姿を発見します。たった一匹の小鳥です。神は私達が見たこともない幾十億の鳥を養っているというのです。
だから、心配するなというのです。思い煩うな、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要なことを神は知っているというのです。じゃー、どうすればいいのか。この最後の結論です。
33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
私達の家庭には往々にして「我が家の大蔵省」と呼ばれる人がいて、チェックをきったりしてくれていますが、本当の大蔵省は神様なのです。このお方が私達の必要を与えてくださるのです。その与え方は私達を富豪にするものではないかもしれません、しかし、私達が自分の出来る働きを最善をもってなして、神様を第一としていくならば、神様は必要の一切を与えてくれるお方です。
皆さん、ご存知のように私は母一人子一人で育ちました。しかも、母が牧師ですから、アメリカならまだしも日本で未亡人の女牧師というのは、ある意味とても弱い立場にある者だったと思います。
今は分かりますが、ある時、私がまだ小学生だった頃、担任の先生が「大倉君、帰りに教室で待っていなさい」というので、何を叱られるのかとビクビクしながら、一人で教室で待っていますと、その先生が大きな紙袋を持って表れたのです。そして、その紙袋を私にくれたのです。もう友達は皆、家に帰った後で窓から夕陽がこぼれていたのを今でも覚えています。大きな袋ですから引きずりながら家に帰ってみると、その中には書道道具やエンピツや筆箱が入っていました。まだ幼くて「なぜ」ということも考えずに、単純に喜んでいたのですが、今、思えばそれは国からの援助であったかと思います。
でも、いつも私は言うのですが、決して無理して強がりを言っているわけでもないのですが、その母との生活を貧しいと思ったことは一度もないのです。もちろん、その背後には母自身の犠牲と生活に対する知恵と工夫があったでしょう。しかし、それ以上に父なる神様が私達を養って下さったということを今、思うのです。
旧約聖書に食を必要としている預言者エリアの元に神様がカラスを用いて肉とパンを運ばせたという話がありますが(列王記上17章1節‐7節)、母の口癖は「エリアのカラスがやってくるよ」という言葉であり、その言葉の通り、本当にエリアのカラスがやってくるので驚いたことが数え切れないほどありました。私には肉親の父はいませんでしたが、頼りがいのある父なる神様がいたのです。だから、同じく神の子なる皆さんに強く強くお勧めするのです。
33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
今日、皆さんのお手元に「家計簿に書き加えておく言葉」として、また家計簿がない方は冷蔵庫に貼ることができるように、今日、お話した聖書の言葉を書き記した紙をお配りしました。その時々に、これらのみ言葉に目を向けて、私達は神様から与えられているものを大切に管理させていただきましょう。そして、そんなあなたを通して神様の栄光が日々の生活の中に輝くことができますように。
お祈りしましょう。
先生、
私にとって、個人的にもタイムリーなメッセージでした。感謝します。
先日、主人と長女が、ある私立大学の説明会に行ってきたのですが、彼女が大学に入る年には、学費は年間38000ドル、他にroom & board で12000ドルかかると言われました。1年で5万ドルです! しかも、アメリカの大学は、学費が毎年数千ドルずつあがっていくのです。このペースでいけば、息子が大学に行く頃には、学費だけで年間7万ドルくらいになっているでしょう…
他にもいろいろあって、ここしばらく経済的なことで不安を覚えていました。でも、私たちには最善最良のファイナンシャルアドバイザーでもある父なる神様がついておられる… 本当に感謝です。
先生のメッセージはいつも、この地上で神の子供として歩む私たちに必要な「霊」と「肉」、「聖」と「俗」の両面がすばらしく統合されていて、私たちを成熟した信仰へと導いてくださるのを感じます。さすがは「世俗牧師」、これからもよろしくお願いします! 先生のお働きの上にさらなる祝福がありますように!
はちこさん
コメントをありがとうございます!
学費の高さについて常々、聞いていましたがお嬢さんの実際の学費にひっくり返りました。わが家のチビ達が進学する頃は、どうなってしまうのでしょーか。10年後、色々と相談にのっていただけますとありがたいです(笑)。
でも、そうですね!私達のファイナンシャル・アドバイザーは心強いお方。私も信頼しきっています。
活字だらけのメッセージを読んでいただいていること、本当に励まされました!
私にとっても、はちこさんと同様、我が子二人の将来の学費は近未来の火薬ですが、アメリカの学費の狂気の高騰は国が政策で切り込まない限り歯止めが効かない気がします。
たしん
我が家も3つの火薬庫があります。白髪が増え、薄くなります。でも、天の窓も開かれているから大丈夫と信じています。