「千の風になって」という歌が日本で数年前に大ヒットしました。私は数日間、この大ヒットとなった歌をなぜ多くの日本人は聴くのかということを思いめぐらしました。それはこんな歌です。
「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません 眠ってなんかいません。千の風に、千の風になってあの大きな空を、吹きわたっています。秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る」。
私達はこのシンプルな歌詞にグングン心がひきつけられます。先日、お話したスマップの「世界に一つだけの花」ではありませんが、この曲がヒットした理由もよく分かります。その理由とは;
この歌のヒットは、おびただしい数の人間が人の死に対して涙を流してきたということを実証するものです。また、この歌のヒットは、どれだけ多くの人達がお墓の前で涙を流したことがあるかということを証明します。そのような経験をした者にとって、既に亡くなられた愛する人が「私のお墓の前で泣かないでくださいそこに私はいません 眠ってなんかいません」と語りかけるというのですから、その一言で私達の心は確実に鷲づかみにされるのです・・・。
マック
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今日、礼拝でおお話したメッセージです。
「千の風になって」を歌う人達へ
「千の風になって」という歌が日本で数年前に大ヒットしました。私は数日間、この大ヒットとなった歌をなぜ多くの日本人は聴くのかということを思いめぐらしました。それはこんな歌です。
「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません 眠ってなんかいません。千の風に、千の風になってあの大きな空を、吹きわたっています。秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る」。
私達はこのシンプルな歌詞にグングン心がひきつけられます。先日、お話したスマップの「世界に一つだけの花」ではありませんが、この曲がヒットした理由もよく分かります。その理由とは;
この歌のヒットは、おびただしい数の人間が人の死に対して涙を流してきたということを実証するものです。また、この歌のヒットは、どれだけ多くの人達がお墓の前で涙を流したことがあるかということを証明します。そのような経験をした者にとって、既に亡くなられた愛する人が「私のお墓の前で泣かないでくださいそこに私はいません 眠ってなんかいません」と語りかけるというのですから、その一言で私達の心は確実に鷲づかみにされるのです。
そして、そんなことを思っていました時に、私達は気がつくのです。この「千の風」に共感する私達日本人は、聖書の語る福音から遠いところにいるのではなく、すぐ近くにいるのだということを。なぜなら「私のお墓の前で泣かないでください」ということこそ、聖書の中心的なメッセージであり、その願いが驚くなかれ、本当に現実的なことなのだというのですから。これらのことについて、今日は「千の風になってを歌う人達へ」というタイトルで三つのことをお話させていただきます。最初に死の悲しみということを見ていきましょう。
死の悲しみ
この「千の風になって」という歌がヒットしたように、今年「おくりびと」という映画がカンヌ国際映画祭で賞をとりました。この映画は山形の田舎町を舞台とした納棺師という亡くなられた人の体を敬意をもって整え、ケアーをする人達の話しなのですが、なぜこの日本映画が世界で評価されたのでしょうか。それはこの映画が取り上げる人間の死とそれに伴う思いというものが国籍や文化を超えて共感されたからです。
聖書のヨハネ11章にラザロというイエスと親しくしていた一人の男性の死が描かれています。イエスはその時、ラザロが死んでから数日経って、その亡骸が納められている墓の前に立ちました(ヨハネ11章32節-36節)。その時のことを読みます。
32マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。33イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、34「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。 35イエスは涙を流された。36するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
そこでイエス・キリストはここでラザロの死を前に涙を流されました。神の子の眼から涙が流れたのです。そして、その原因がここには書かれています。すなわち、33節にあるように「イエスは、彼女が泣き(彼女とはラザロの姉妹であるマリアです)、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせた」というのです。
皆さんの中にも愛する者の死を悲しみ泣かれた方がいると思います。いや、それだけではない、イエス様のように愛する者を失って悲しんでいる人達を見て、こちらの頬からも涙が流れることもあります。ここに人の死というものが、同時代の文化を超えているだけではなく、異なる時代においても私達は変わらぬ思いをもっているということが分かります。
さらに、このヨハネの箇所の後半を見ていきますとイエスはこの後に死んで四日経っているラザロを甦らせています。すなわち、イエスはラザロの墓の前に立った時点で、ラザロはもう一度生きるということを知っていたのです。それにも関わらずイエスは泣かれた。ラザロの死を悲しむ人達を見て、イエスは泣いたのです。
この涙は今日も、明日も あさっても世界中のどこかで流されていきます。人が生まれたその数だけ、人の死はあり、その同じ数だけ悲しみが世界を覆うのです。
ですから、私達はキリストが生きた時代から2000年もの年月が経った今も、同じ涙をもつものとして「私のお墓の前で泣かないでください」という歌に心が惹かれるのです。もう既にその人の声を聞いたり、温もりを感じることができない、しかし、目には見えない、触れることもできないけど、今も私と共にいるのだというメッセージを私達は何度も口ずさむのです。次に死の原因というものをみてみましょう。
死の原因
ですからこのいかなる人にも起りうる「死」について、聖書はその初めから終わりにいたるまで、その恐ろしい存在から目を離すことはありません。そして、いつの時代にも人間の人生に大きな闇となってきた死について聖書はその原因ということについても触れているのです。聖書からその起源を見てみましょう。
それは最初の人アダム、そしてエバの時代にさかのぼります。神様はこの二人の生活の場となってエデンの園に決して食べてはいけないという木を生えさせました。そして、園に生えるいかなる木からでも心のままに取って食べてよろしいと言われました。しかし、この木からだけは取って食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬと言われました(創世記2章16節-17節)。そして、実際にその時以来、全ての人間は生まれ、そして死んでいるのです。
この時から人間は死ななければならない存在となったのです。この時から聖書は一つの厄介なテーマを抱えることになりました。この人間の宿命は今も世界中の病院で、路上で、そして家々で起きているのです。
聖書が死というものを神の約束を破ったことによってもたらされたものとしていることは、とても興味深いことです。すなわち、死は人の罪によってこの世界に入ってきたということです。
先にふれましたようにラザロの墓の前でイエス様は「彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせました」。この「激しく感動し、心を騒がせ」という表現とは私達にとって不思議に思えます。なぜなら、これらの言葉はあまり私達が人の死を前にして使う言葉ではないからです。この言葉についてよくよく調べていきますと、この言葉には本来の悲しみ以上に強い怒りがこめられているということが分かります。
それではイエスはラザロの死を前に、悲しむ人達を見て、何に怒られたのでしょうか。それは死というものが本来あってはならぬものなのに、本来は人間にとって異質なものであるにもかかわらず、人間の生命の営みの中に後から入ってきたものであるということです。死に直面する時に、人はなぜこれほど恐れおののくのでしょうか。また愛する者を失った時、人はなぜ悲しむのでしょうか。それは断じてそうであってはならぬ事態に直面したゆえの恐怖と悲しみだからです。
そしてイエス様はその場にいた人達の心に、この死に対する無力感、諦めを見たのです。その背後にあって、その光景を嘲笑しているかのような悪の力に対して激しい怒りがイエス様に湧き起こったのです。
神の愛はこと死に関していうならば、弱々しい慰めに終わるものではなくて、まさしくそこには「死」と「罪」を激しく怒り、どうにかしてその縄目から私達人間を奪還しようとする神のパッションがそこにうかがい知れるのです。それゆえに私達はこうとも言えるのです。この罪の問題を私達が解決するならば、私達は死の問題も解決できるということです。三つ目のことをみてみましょう。
死の希望
先ほど、ラザロの墓の前で泣くイエス様のことについてお話しました。さらに別の場所でお墓の前で泣く人を聖書に見たいと思います。
ヨハネ20章11節-18節
11しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、12白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
13すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。 14そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
15イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
16イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。17イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。
わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
18マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
先のお墓がラザロのそれであったのに対して、今回の墓はイエスその人の墓でした。イエスが十字架にかけられ死に、そして収められたその墓の前にマリア(このマリアは今までお話してきたマリアとは別人の、かつて七つの悪霊にとりつかれていたマグダラのマリアです)が立って泣いていました。
先にお話しました映画「おくりびと」は納棺夫という人達の生涯を描いたものです。納棺夫とは、死体に白衣を着せ、髪や顔を整え、手を組んで数珠を持たせ、納棺するまでの一連の作業をする人のことです。映画の中では、その一連の所作が芸術的ともいうべきほどきれいに表現されていました。
イエス・キリストが亡くなられたその時代、死人には香料を塗ることがしきたりとなっていました。このマリアも他の福音書を見るときに、香料をたずさえてイエスの亡骸にそれを塗るために墓に来たものと思われます。それゆえ、もし、この女性達に映画「おくりびと」を観せたら共感できるものがあったことでしょう。
しかし、彼女はその持参した香料をどうすることもできずに、ただ墓の前にいたのです。なぜなら、その墓を閉じていた大きな石は取り除けられ、その中にイエスはいなかったからです。マリアは誰かがイエスを取り去ってしまったということに対して涙を流していたのです。
その彼女達に二人の御使いが現れて、あることを尋ねたというのです。そして、その後に同じ問いかけがイエス・キリストご自身によって悲しむ彼女になされました「あなたはなぜ泣いているのか」(20章15節)。
この言葉の背後には「あなたは泣く必要があるのか、ないだろう」という意味が込められています。すなわち「わたしのお墓の前で泣かないで下さい」ということです。このイエスの一言が時代を超えて、現代を生きる私達の心に強く迫ってくるのです。
すなわちその迫りというのは、人の作った詩に楽曲がつけられた歌としてではなくて、私達の心に直接語りかける神の子なるイエス・キリストの言葉として刻まれるのです。先ほど、お話しましたようにイエスはラザロの死を前に涙を流されたのです。激しく心が動かされたのです。それは死が人間にもたらす悲しみの大きさについてイエス様が共感をした涙だったと思います。人は死に対して、これほどまでに悲しく絶望的な思いになるのかという激しい感情です。
ですからイエス様の心には常にこの死に対する解決に強い思いがありました。そして、そのためにイエスはご自身が歩むべき道、すなわちご自身が十字架にかかるということを常に心にとめていたのです。
私達の予定というのは時に、行き当たりばったりコロコロ変わっていきます。特に自分の予定よりも、さらに魅力的な、私達の場合の魅力的なというのは、予定していたものよりも量が多かったり、豊かに見えたり、快適に思われることなのですが、私達は簡単にそちらの方に向いていきます。そのような予定変更はその日のランチメニューから、職業や結婚相手の選択にまでも、私達の人生によく起こることです。
しかし、ことイエス様に関して言えば、その十字架への思いを変えることはありませんでした。サタンが総力をかけて、その思いを変えるように臨んできました。そんな血生臭い生き方をする必要はない、世界の栄華は全てあなたの手の中にあるではないか、あなたが望めば万民をあなたに従わせることができるではないかと囁きました。イエスの回りにいる人間、弟子達までもが、イエスの十字架への思いなどはとんでもないと、その思いを挫くような期待はずれの言葉を言いました。しかし、イエス様の思いはぶれることなく常にカルバリの丘に立つ十字架にあったのです。
なぜですか、あのラザロを死なせた、そしてそのラザロを愛する者達を悲しみの淵に貶めている、死の問題に解決を与えるためです。もっといいますと、愛する者を失い、悲しみの中に生きている私達のために、その死に対して心が揺さぶられるほどに、その内に激しい怒りをもたれたイエス様は、その死を一転、希望と変えるために、気休めでなく、嘘偽りでもなく、本当に「あなたは墓の前で泣かなくてもいいのだ」と今も私達に語りかけるためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。
ですから「千の風になって」を歌う人達よ。あなたが時々この歌を口ずさみ歌う時に、しばしの間、心が安らぐということではなく、本当に確信をもって、その墓の前で泣かなくてもよいのだと、そんな生涯を全うしたいと願うなら、イエス・キリストに出会うことを強くお勧めします。
そして、次のイエス・キリストの語られた言葉をそのまま皆さんへの問いかけとしてお尋ねします。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか?」(ヨハネ11章25節)
本日のお持ち帰り 「千の風になって」を歌う人達へ 2009年8月16日
あなたは「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません 眠ってなんかいません」で始まる「千の風になって」という歌をどう思いますか。もし、先に召された愛する人が「私のお墓の前で泣かないでください。私はそこにはいません」とあなたに語りかけるとしたら、何を感じますか?
あなたにとって「死」とは何でしょうか。ヨハネ11章32節-36節を読んでみましょう。なぜイエス様はラザロの死を前に涙を流されたのでしょうか。その時の激しい怒りを伴うような感情(33)はどこからきているのでしょうか。
全ての人間は例外なく誰もが死を迎えます。その死の原因について聖書は何を記していますか(創世記2章16節-17節)。「死」と「罪」はどんな関係が互いにあるのでしょうか。なぜ、罪によって人は死んだのですか?
ヨハネ20章11節-18節を読んでみましょう。このところでマリアはなぜ泣いていたのでしょうか。この涙とイエスが流された涙と共通することは何でしょうか。共通しないことは何でしょうか。
このマリアに向かいイエス様は「女よ、なぜ泣いているのか」(15)と言われました。この一言には「あなたは墓の前で泣く必要はない」という意味が含まれています。このイエス様の一言をあなたは受け止めて生きていますか?
あなたはこのイエス様の言葉を自分に語りかけられたものとして受け止める時に、またその泣く必要もない原因となっているヨハネ11章25節の「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか?」というイエス様の言葉を信じる時に、その心にはどんな思いが与えられますか。
