結論を出すには早すぎます!

正直者は馬鹿を見るのか?

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不義が闊歩するのか?

マック

今日、礼拝でお話したメッセージーです。

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結論を出すには早すぎます!

マタイ5章6節

義に飢えかわいている人達は幸いである。

彼らは飽き足りるようになるであろう

2009年10月11日

日本からは「新型インフルエンザ」のニュースがよく伝えられてきます。毎度のことで、もう驚きも慌てもしないのですが、アメリカでの、このインフルエンザの状況は皆目分かりません。あまり人々の関心がなく、伝えられていないからです。最近ある方が「インフルエンザ以上のニュースがこの国には山積しているからでしょう」と言っていましたが、なるほどそうかもなと思いました。

時々、サンデイェゴの地元新聞を読みます。三面記事に目を留めますと前日に起きた事件というものが書かれています。銀行強盗、カージャック、傷害事件と色々です。これらの被害者には大抵、何も罪がないのですが、彼らは強奪され、また生涯消えることのない傷を心身ともに受けています。

これら新聞に掲載されるような事件も実際のところ氷山の一角で、実際にはさらにおびただしい数の不正義が私達の回りで日々起きています。子供達や弱者が虐待され、それが見過ごされる。無実の人達が不当な扱いを受け、泣き寝入りを強いられることがある、法律をかいくぐって、常識では考えられない訴訟が勝利を得ていく。正直者が損をし、力のあるものが正義すらもねじまげてしまう、そんな世界を私達は垣間見ますし、人事ではなく、そのようなことがわが身に降りかかってくることもあります。

そして、このような思いというのは現代に限ったことではなく、エレミヤという預言者も当時彼が暮らした世界を見回して、このような嘆きを神様ご自身に向かってしているのです「主よ、わたしがあなたと論じ争う時、あなたは常に正しい。しかしなお、わたしはあなたの前に、裁きのことを論じてみたい。悪人の道が栄え、不信実な者がみな繁栄するのは何ゆえですか」。(エレミヤ12章1節)このエレミヤが発した言葉は今日も私達の思いを代弁するものとなっています。

それでははたして、「義に飢えかわいている人達は幸いである」という言葉をイエス・キリストが言われたその当時はどうだったのでしょうか。その状況というものについて、この山上の教えが語られる直前までイエス・キリストがどんな人達と関わっていたのか、どんな人達の問題を直視し、彼らの叫びを聞いていたかということを知る時に私達はその現状を知ることができます。マタイ4章23節以降を読んでみましょう。

23イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。24そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。

そして、続く5章1節、2節にはこう書かれています「1イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」。ここから私達が今、見ております「八つの幸い」が始まるのです。

すなわち、イエス様は今、見ています言葉を話す直前まで、あらゆる病にかかり、苦しみ悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の人達と共にいたのです。もっと言いますとイエス様は常にこのような人達が直面していた現実というものを直視していたということです。そなわち彼らはその境遇ゆえに、当時の社会において何の保障もなく、虐げられていた人達、家族からも見捨てられてしまうような人たちであり、それゆえに、彼らの言葉や願いというものがまともに聞き届けられるというようなことはなく、彼らは皆、一様にこの世界には正義などは存在しないということを肝に銘じて生きていたということです。

イエス様はそれらの人達と共に生き、そして言われたのです「義に飢え乾く人は幸いだ」。すなわち、この不公平な邪悪がはびこる世界で、私は義が全うされるのを見たい、そんな世界に生きてみたいと渇いている人達、願っている人たちは幸いだと言われたのです。そして驚くべきことにその理由として「彼らは飽き足りるようになるからだ」と言うのです。

こんな話を聞いたことがあります。サタンがどうしたら人間が堕ちるかという作戦会議をしていました。そこには人間を攻撃する武器が並べられています。サタンの大将に問いかけがなされました。「この武器さえあれば、人間もイチコロというものは、この中のどれですか」。大将は答えました「お前の足元にある、それだ」。取ってみるとその槍には「失望」とい言葉が刻まれていました。

私達は「失望」する時に立ち上がれなくなります。私達の世界は、正義など失われた世界なのだ、この世では正直者は報われないし、まじめに生きていてもダメなのだ、どうせ何をやってもダメなのだという思いが私達の心を支配すると、私達は自分の生き方に嫌気がさします、そうなると自分の人生を大切にすることができなくなります、自棄(やけ)になります(自棄という字は自分を棄てるという字です)。自分で自分を棄ててくれるのだから、サタンにとってこんなに嬉しいことはありません。放っておいても彼らは堕ちていくからです。その時、サタンは祝杯を挙げていることでしょう。

まさしくイエスが接していた人達は例外なく、そんな生き方をしていたのではないかと思います。それゆえ彼らが一度でいいから聞きたかった言葉というのは「いいや、必ず義は全うされるのだ!」という言葉だったと思います。しかし、そんなことを言い切ることができる人間などはいないのです。誰かが言ってもそれは嘘くさいのです。胡散臭いのです。そもそもそんなことは人間の力では到底、できることではないからです。

しかし、イエス様だけは違いました。キリストの「義に飢えかわいている人達は幸いである。彼らは飽き足りるようになるであろう」という言葉は、まさしく言い換えれば「義は必ず全うされる」という神の約束の言葉なのです。

皆さん、私達が聖書を読んでいく時に、この義が全うされるということをいたるところに見ることができます。アブラハムの生涯、ノアの生涯、ヨセフの生涯、モーセの生涯、エステルの生涯、これらの人達のみならず多くの人達は様々な不義に直面しました。まさしく悪がはびこる、栄えるということに彼らは目の当たりに直面したのです。それは彼らにとって全く納得のいかない理不尽な出来事でした。しかし、どの人達にも共通することは、彼らが取り囲まれている不義に神様は介入し、隠された不義をすべて光のもとに引き出し、その義を全うされたのです。そして神様は確かに私達にも同じことをしてくださるお方なのです。

時々、誰かに対する復讐に情熱を燃やす方がいます。その思いが自分の私生活を支配し、心身ともに疲労困憊してしまう人もいます。そして、実際にその復讐によって、事が好転するかといいますと決してそうではない、それが相手への危害となりますと、自らがその罪を報うために生きなければならなくなります。その復讐で自分の人生を全て棒に振ってしまうこともあるのです。もったいない話です。ローマ書12章17節以降にこう書かれているではないですか。

誰に対しても悪をもって悪に報いず、全ての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしと神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。(ローマ12章17節‐19節)。

この「自分で復讐をしないで、むしろ神の怒りに任せなさい。復讐は私のすることである」という言葉は英語の聖書ではDo not take revenge, my friends, but leave room for God’s wrath. "It is mine to revenge.と書かれています。すなわち、それは復讐というスペースを自分で埋めようとするな、私がはたらくためにしっかりとそのスペースを残しておきなさい。私は義なる者であるゆえに、私は不義を決して見過ごすことはない、その復讐は私のものだから、勝手に手を出すなとでも言うかのごとくです。皆さん、神様はその名にかけて不義をそのままになさることはありません。それは義なる神の本質に関わることだからです。

しかし、こうお話しても「でも、なかなかそんなことは起きないではないか」という方がいます。だから、俺が神に変わって、罰をくだしてやるのだというのです。そんな方のために、さらにもう一つの聖書箇所を開きましょう。ルカ16章19節-31節です。

19ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。20ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、21その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。22この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。

23そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。24そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。

25アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。26そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

27そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。28わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。29アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。30金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。31アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。 

あえて説明するまでもありますまい。ある金持ちとラザロという男がいました。金持ちはきらびやかな着物に身を包み、贅沢を極めながら遊び暮らしていました。ラザロはこの金持ちの玄関先で家から捨てられるもので生きていこうとしていました。彼の体には全身できものができており、それを犬がなめていました。「全身のできもの」というところから彼は何かしらの皮膚病を患っていたと思われます。

そして、このような病を負った者達に対する社会の取り扱いというものが聖書にはよく出てきますが、当時、皮膚病は空気によっても感染するものと思われていましたから(実際はそんなことはありません)、彼は最も忌み嫌われる者として取り扱われていました。ということはどういうことかといいますと、彼自身の心にはこの世界は誰も自分を正当に扱ってくれない場所であり、ラザロにとって「義」というものは自分には無関係の言葉であったに違いありません。

おそらくラザロが死んだ晩、その日から、金持ちの玄関先から彼がいなくなったということを悲しむ人はいなかったでしょうし、多くの人達はそれすらも気がつかなかったでしょう。否、もし、彼を知る者がいたとしても、その人はこう思ったに違いない「彼は実に惨めな人生を送った」と。

そして、同じように金持ちも死んだのです。死に上下はありません。死は死です。物乞いのラザロであっても、大金持ちの男であったも死ぬ時は死ぬのです。ただ違いといえば、聖書は「ラザロは死に」と書いていることに対して、金持ちについては「金持ちは死んで葬られ」と書かれています。おそらくラザロの死体を引き取る人はおらず彼はどこかに遺棄され、金持ちの方はその生前の財力ゆえに盛大な葬儀をしたということなのでしょう。

皆さん、ここまでは私達に身近なことです。形こそ違えど、このような様々な人の死というものを私達は見聞きします。しかし、ここから先について私達は、聞いたことがありません(時に人間はどうでもいいことに情熱・時間・お金を使い、最も大事なことを全くないがしろにしています)。

すなわちラザロは死後、御使いに連れられてアブラハムの元へ、金持ちは黄泉にいて苦しみながら、アブラハムの懐ににいるラザロをはるかに見上げたというのです。さすがに金持ちも自分の家の玄関先にいるラザロのことを知っていたのでしょう、声をあげて言いました、「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」。彼は燃える炎の中で苦しんでいるというのです。自分の舌に一滴の水が滴り落ちることだけでも自分は慰められるというのです。

皆さん、金持ちは死んで、盛大にその葬儀がなされたのです。それを見た人達は言い合ったかもしれない。金持ちは大した財産を残したものだ。見てみろ、あの棺の素晴らしさ、彼はあの一等地に葬られるに違いない。日本風にいいますならば、たいしたもんだ、あんなに立派な戒名が与えられ、花輪もこんなにたくさんきている。ほれ、見ろあれは市長さんからだべ~と。一つ、冷静になって考えてください。そんな言葉が取り交わされていた時に、当の金持ちはとこにいて何をしていたのですか?

ラザロは誰にも気がつかれることもなく死んだのです。その死体は野良犬やハゲタカに食べられてしまったかもしれない。それを見た人達は言い合ったかもしれない。ラザロは惨めな男だ。ああはなりたくないものだ。一つ冷静になって考えてください。そんな言葉が語られている時に、ラザロはどこにいて何をしていたのですか?

アブラハムは金持ちに言いました、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。26そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

皆さん、私達はこの金持ちとラザロが生前、どんな生き方をしていたのかは知りえません。ただし、分かるのは金持ちの人生に神はなく、ラザロの人生には神があったということです。金持ちは時にその財力によって自分自身で義をたてることができたでしょう、時には強引に不義を義に変えることもできたでしょう。

それに対してラザロは路上で生活をしながら、ただ道を行き交う人達の足元ばかりを眺めながら、義に飢え乾いていたことでしょう。しかし、どんなに貧しくともラザロの心には神様がいたのでしょう。そして、彼が生前、渇き求めていた義はまさしくこの時、すべて明らかにされ、その完全な義によってラザロは飽き足りるようになったのです。

なぜ、私達はこの譬を見ているのでしょうか。なぜなら、時に人の不義に対して、神様は何もなさっていないのではないかと私達は思うことがあるからです。先ほど見ました「復讐」ということに対しても、はたして神様は公平にそれをなしてくださるのか。あの人の問題は解決したけれど、私はもう何年もそれを待っているのだと私達は思うのです。

ですから、私達はよく「この世は不公平」だと聞くのです。確かにそうです、この社会は不公平で満ちています。だから人はさらに問いかける。なぜ神はこの不公平を見過ごしにしておられるのかと。そんな神なんか信じられるかと。

もし私達の世界において、義が全うされないというのなら、最も賢い生き方は早々に自棄(やけ)になって、悪賢く、極力その悪賢さが人にばれないように、自分の欲求を満たして生きればいいのです。自分のために人を騙して、うまく誤魔化して世を渡っていけばいいのです。やがて人は死んで灰となるのですから、自分が死んで50年もすれば誰も自分のことなど語りもしないし、知らないのですから。

しかし、この譬は私達に大切な真理を教えるのです。それは私達はまだ結論を見ていないということです。神様は今日の午後、その義を明らかにしてくださるかもしれませんし、それは半年後かもしれません、5年後、30年後かもしれません。もしかしたら、この地上でそれを垣間見ることがないかもしれません。しかし、今日のみ言葉はそれはないがしろにされているのではなくて、全ての事柄は必ず神のみ前に最も良き時に明らかにされ、その義と不義に対する報いが下されるということは確かだということです。

コリント第二の手紙5章1節-10節に書かれているとおりです。「なぜなら、私達は皆、キリストの裁きの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けなければならないからである

このみ言葉は私達に語りかけます。すなわち私達が「ばれなかった。だませた。得した。」「損した。だまされた。」と思っている時、神様はそれをそのままないがしろにされることは絶対に絶対に、絶対にないということです。この世の不公平、不平等が、そのままで終ることはない、義に飢え乾いて生きた人達には、神の国において満ち足りる喜びが与えられ、それによって神の正しさ、正義が貫かれるのです。ですから、私達は自棄(やけ)になってはならない、腐ってはならないのです。希望を失ってはならないのです。

パウロは言っているではないですか。「私たちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合せて、見るであろう。私たちの知るところは、今は一部分に過ぎない。しかしその時には、私たちが完全に知られているように、完全に知るであろう」(コリント第一の手紙13章12節)。

主にある兄弟姉妹、結論を急いではなりません。自分で結論を出さずとも、神様は必ずその義を明らかにされるのですから。わたしたちの知るところは今は一部分にすぎないのですから。お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り

マタイ5章6節

1)あなたは私達の実社会で、不正義を目の当たりにすることがありますか?正直者が損をし、力のあるものが正義すらもねじまげてしまう、そんな現実を見ることがありますか。

2)上記のようなことを目の当たりにする時に、あなたは“義なる神様”についてどんな思いをもちますか?

3)イエス様が言われた「義に飢えかわいている人達は幸いである。彼らは飽き足りるようになるであろう」という言葉は、言い換えれば「義は必ず全うされる」という約束の言葉なのです。あなたは神様が不正義を正されたということを体験したり、見聞きしたことがありますか?

4)あなたは誰かに復讐をしたいという気持ちにかられたことがありますか?その時、あなたの心にはどんな感情があったでしょうか。仮にあなたが願っている復讐を成し遂げたら、あなたの心に平安はやってくるでしょうか。ローマ12章17節‐19節の約束をどう思いますか。

5)ルカ16章19節-31節を読みましょう。あなたはここに記されているような事が死後にあるということを信じていますか?この物語は何を私達に語っているのですか?

6)万が一、地上での不正義が裁かれることがなくても、後の世において神様はもれることなく、全ての不義に報いを与えられるという事実は、あなたにどんな希望を与えますか(コリント第二の手紙5章1節-10節)?

7)あなたは自分の力で不義を正すことができるでしょうか。不義に対する結末を神様に委ねることができるということは、あなたにとってどんな意味があることすか。

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