ルールがあなたを守ります

皆さんは永遠に生ることができるとしたら嬉しいですか。

本屋に行きますと2009年の手帳やカレンダーが並ぶようになりました。でも、どこを探しても2345年まで使えるカレンダーを置いている店はありません。言うまでもないその時に私達はいないからです。

どうですか、時間の制限なく永遠に生きるとしたら。「あなた2232年6月23日の予定空いている?実はその日が私達夫婦の1000年アニバーサリーなの」。

個人的なことを申し上げますが、私は神様がこれ以上は不可能だろうという寿命を私に与えていてくださることに感謝します・・・。

Happy 1000 Aniversary !?

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マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。

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ルールあっての人生                                        2008年11月9日

これまで私達は日々の優先順位、すなわち「神」、「人」、「仕事」ということを見てきました。そして、それらは全て、私達が今テーマとして見ています「シンプルに生きる」ために必要なこととしてお話しました。何を自分の人生の優先とすべきかということによって、本当はそれほどに大事なことではないことを整理し、大切なことにさらに目を注ぐ事ができるようになるからです。

そして、今日はそれら優先順位に生きようとする私達にとって必要不可欠なことについてお話します。それは「ルール」ということです。別の言い方をすれば「制約」ということです。たとえ私たちの生活が優先順位によって整理されたとしても、このルールを守ることができなければ、私たちの生活は混乱してしまうでしょう。そこで三つのことをお話します。まず第一に「制約は私達を守る」、二つ目「制約は私達を楽しませる」、そして最後に「制約があるからこそ思い切り生きられる」ということです。

制約は私達を守る

私達が今、厳しく制約を強いられる場所があります。それはエアポートの荷物チェックです。そこでは靴も脱ぎ、ベルトも外し、私達はチェックを受けます。そして、言うまでもない持参できる荷物には制限があります。

もう随分前、サンフランシスコ空港の荷物チェックの前で悲劇が起こりました。その時は日本からの帰りで、まだ幼い娘が日本にいる祖父母からディズニー・プリンセスの文房具セットをもらっていたのです。彼女は嬉しくてそれを自分の小さなリュックに入れて持ち帰っていたのです。でも、その中に子供用の小さな赤いハサミが入っていました。私達、親も迂闊だったのです。でも時遅し、そのハサミはプラスチックの没収箱に入れなければなりませんでした。

その時、彼女は完全に打ちのめされてしまい、しばらくフロアーに泣き崩れ大泣きし、その鳴き声が空港中に響き渡ったのです。さすがにまだ小学校にも入っていない女の子がディズニー・プリンセスのハサミでハイジャックなどするはずもないのですが、でも、このような妥協のない厳しいルールによって私達は命が守られているのです。ですから、これらのチェックに関しては、誰も文句も言わずただ黙々と言われたことに従っています。

今、合衆国の法律において、未成年者に対する制限があります。そして、それは若干その内容は異なりますが、多くの国々でも適応されています。例えば車の運転、アルコール、結婚等について、未成年者にはこれらのことをすることができる年齢が明記されており、それを破るなら処罰の対象になります。そして、私は今までにその法律について文句を言っている親に出会ったことがありません。すなわち「なぜ、我が子に12歳でアルコールを買わせることができないんだ」とか、「もううちの子も10歳になったのだから、車を運転させてあげたいんだ」とか、「この子は13歳になって、好きなガールフレンドもいるのだから、結婚させたい」というような文句です。

なぜ、親達は我が子に対するこれらの制限について文句を言わないのでしょうか。なぜなら、その制限が子供達を守っているからです。そして、皆さん制限が守るのは子供だけではないのです。神様が私達に与えてくださっている制限は、私達を守るのです。神様が私達に与えてくださっている制限は私達互いの関係を守るのです。

そもそも人間に与えられた最初の制限は何だかご存知ですか。神がエデンの園において「食べてはいけないという木」を与えられたことです。すなわち、神はアダムに言われました「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない」ここには、最初の人間に既に神から与えられた制約があったことが記されています。これは大切なことです。なぜなら、これが人間と神を区別する第一の事柄だからです。神は何にも制限、制約されない。しかし、私達人間は、自由奔放、傍若無人に神のように生きるのではなく、神が与えられた制限と共に生きる者なのです。

皆さん、アダムとイブがその制限を守り、その中に生きている限り、彼らは完全な神の守りの中にいることができたのです。しかし、彼らがその制限を破り、その実を食べた時から彼らは神の守りから、飛び出したのです。聖書はその時に彼らが持った感情として、彼らが「恐れた」ということを記しています(創世記3章10節)。この恐れは今を生きる私達にまで受け継がれ、私達は「自由に生きよう」と言いつつ、ますます平安を失い、いつも何かを恐れて生きています。

制約を「してはならない」という言葉で置き換えることができるとするならば、神が私達に与えてくださっているその最たる制限は「十戒」です。先日もお話しましたように、私達は十戒を嫌々守るのではないのです。その中にいる限り、私達は守られているのです。先日も投じられた住民投票の中に「カリフォルニアにある全ての信号機を撤廃しましょう」という法案はありませんでした。言うまでもない、それは多くの人達の命を奪うことになるからです。私達は赤信号という制限によって我が身を守っているのです。しかし、今日、私達はこの十戒すらも身の回りから捨て去ろうとしています。そのことによる問題を私達はこれからも抱え込んでいかなければなりません。

二つ目のこと、それは制限を楽しむということです。

制約は私達を楽しませる

ワールドシリーズが終わりました。野球にはルールがあります。ルールというのは「制約」ととってもいいものかもしれません。すなわち、この一線を越えるなよということです。野球選手がテニスラケットのようなバットで球を打ったり、バスケットボールのようなボールを投げていたとしたら、三振する打者はいなくなるでしょう。でも、誰がそんな野球を楽しむでしょうか。

以前インドを放浪していました。私達にはうかがい知れない世界ですが、これらの国々は世界中からのバックパッカーがいます。彼らの生活は自由きままです。時間的な制約が全くありません。多くの人達が求めているライフスタイルかもしれません。しかし、その若者達から失われた目の輝きを見た時に、私はそのライフスタイルに自分の楽しみと喜びがあるとは到底思うことができなくなりました。

詩篇一篇に有名な言葉があります。

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に座らぬ人は幸いである。このような人は主のおきてを喜び、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者は裁きに耐えない。罪人は正しい者の集いに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

「悪しき者のはかりごとに歩むということ」、「罪人の道に立つということ」、そして「あざける者の座に座る」ということは、一言で言いますならば「制限を無視して生きるということ」です。しかし、それらに「歩まず、立たず、座らない」ということは、自分に神の制約を課すことです。そして、そのような人は「主のおきてを喜び、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」とあります。制約に生きる者には喜びがあり、楽しみがある、いやそれだけではない、その人は実を結び、その葉はしぼまないというのです。

以前もお話したかもしれません、このことに関して隈研吾という日本人建築家からとても興味深いことを教えられました。彼は日本のみならず世界数カ国で同時に仕事をしている世界的に有名な建築家です。その人の仕事の流儀というものがとても興味深いのです。

一つの土地に何かを建築する時に、当然そこには敷地面積、周りの環境、建築素材、予算などさまざまな制約があります。しかし、彼はその制約を「創造の源」としてとらえているというのです。その制約があるからこそ、そこに深い考えが生まれ、工夫が生まれるというのです。彼はそのインタビューの中で、「もし予算や敷地に制約がなかったらどうしますか?」と尋ねられ、「制約がなかったら制約を探しに行きます。まさに宝ですよ、制約は」と答えています。ふんだんな独創性が問われるその建築の現場で制約こそが宝と言い切ること、それはそのまま私達の生活にもあてはまるのではないでしょうか。制約があるからこそ、私達は日々の生活を楽しむことができるのです。

人生を本当に楽しむということはプレジャー・ボートを買うとか、世界一周クルーズに出かけるということではありません。神様が与えてくださった制約の中にとどまるということ、それこそがまず第一に私達がすべき人生を楽しむ秘訣です。

制限があるからこそ思い切り生きる

私達、誰にも例外なく与えられている制限というものをご存知ですか。それは「時間」ということです。それはリタイアして時間が全く自由です。朝、いつまでも眠っていられますということではありません。それは、あなたも私も抱えている現実問題です。それは、私達の人生の舞台の幕が下りる時のことです。人は生まれた時からその最後に向かって生きているのです。

よく聞かれます「聖書の創世記を見ますと、人が700年とか800年生きたと書かれている。あの記事はいったい何でしょうか」。その時とは天地創造の直後のこと、まさしくその初めの環境はパーフェクトだったことでしょう。その環境の中で人間というものは長く生きられたことでしょう。今日、純度の高い酸素を放出するカプセルの中で、呼吸をすることによって疲労を取り去るというようなことがスポーツ選手の間でなされていると言いますが、その始まりにはそのような純度というものが空気のみならず、環境全てに反映されていたことでしょう。しかし、地球規模の環境破壊であるノアの大洪水が起きてから、環境は激変しました。聖書はご丁寧にこれらノアの箱舟の出来事を事細かに記した後の創世記6章3節にこう書いています「わたしの霊は長く人の中にはとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の歳は120年であろう」。そうです、その環境の激変の後から人の寿命は今日の人間の限界とされている120歳にまで引きおろされたのです。

そう、私達は肉にすぎない。どんな生き物も物質も今日、「熱力学第二法則」から免れることはできないのです。その法則とは自然に放置したものは時間の経過と共に秩序が減少して崩壊の方向に向かうという法則です。巻かれたゼンマイは緩み、ほぐれはするものの、それがもう一度巻き上げられることはないのです。私達の肉体も誕生と共に衰えていくのです。

詩篇の記者は言いました「われらの齢(よわい)は70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしょう」。

言うまでもない、この命の長さというのは明らかに私達が誰しも抱える究極の制限です。そして、時にこの制限を私達は恐れ、悲しみます。しかし、こんな観方もできないでしょうか。

この間も若い方々の集会でお話しました。皆さんは永遠に生きられるとしたら嬉しいですか。本屋に行きますと2009年の手帳やカレンダーが並ぶようになりました。でも、どこを探しても2345年まで使えるカレンダーを置いている店はありません。言うまでもないその時に私達はいないからです。

でも、どうですか時間の制限なく永遠に生きるとしたら「あなた2232年6月23日の予定空いている?実はその日が私達夫婦の1000年アニバーサリーなの」。個人的なことを申し上げますが、私は神様がこれ以上は不可能だろうという寿命を与えていてくださることを感謝します。

もしいつまでも生きるなら、私は自分の人生をただ惰性で生きるでしょう。そして伝道の書の著者が行っているように、「今も昔も変わらず起こること」にやがてうんざりすることでしょう。おそらく、それは500歳まで待つまでもない、もう150歳前くらいにそのような気持ちになるのではないかと想像しますが、いかがでしょうか。

「僕の生きる道」というテレビドラマがありました。主人公は20代後半の高校の理科教師。ふとしたことで受けた健康診断から余命一年と宣告され、それからの残された日々を生きる姿を描いているストーリーです。

そんな彼が職員室にある自分の机の中に読まずに置いといた本を見つけるシーンがあります。彼はその本を見るにつけ、一つの考え方へと導かれていきます・・・。ある日、教室でその本を手に取りながらこの教師は大学受験を控えている生徒にこんなことを話しかけます。

「ここに一冊の本があります。この本の持ち主はこの本を読みたいと思ったので買いました。しかし今度読もう今度読もうと思いつつすでに1年がたちました。この本の持ち主はこれを読む時間がなかったのでしょうか。多分違います。読もうとしなかった、それだけです。そのことに気づかない限り、5年たっても10年たっても持ち主がこの本を読むことはないでしょう」

「受験まであと1年です。皆さんの中にはあと1年しかないと思っている人もいるかもしれません。でもあと1年しかないと思って何もしない人は5年あっても10年あっても何もしないと思います。だから、1年しかないなんていってないでやってみましょう。この1年やれるだけのことをやってみましょう」 第二話「読まなかった本」より 

この主人公は自分の人生が一年であるということ知っていました。自分の人生の制限を知っていたのです。そして、その制限を知っていた彼にとって、その一年はとてつもなく大切な一年となったのです。言うまでもなくそれまでの人生のどの一年間よりも、その最後の一年を彼は自分らしく、思い切り生きたことでしょう。

私達には制限があります。だから、そのことを思う時に、私達は今を思い切り生きることができるのです。

皆さん、どうですか。あなたはどんな制約の中に生きていますか?いいえ、制約など窮屈だと思われる方いますか。でも窮屈だと言いながら、その人生、混乱していませんか。ご自身の身も心もとても危険な場所に立っていませんか。一見、あなたは自由人、先進的な人と思われるでしょう。でも、フト心に沸きあがるあの空しい気持ちはどこからくるのでしょうか。

神様が私達に与えておられるルールはあなたを守ります。私達は神の制約の中、この人生を喜び生きることができるように造られているのです。あなたも私も有限なものです。それは私達の寿命というものが物語っています。神は私達に初めと終わりを設けられました。そこには神の愛があります。制限の中に生かされているからこそ、私達は今日という一日を大切に生きることができるのです。私達は聖書がいうところの優先順位に立ち、そして、この神が私達を愛するがゆえに与えたもうルールの内を歩むのです。

お祈りしましょう。

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