「悲しみは幸いです」と言えますか?

私は仕事柄、多くの喜びに立ち会いますが、等しく多くの悲しみにも立ち会います。その時にその場所でもし私が「あなたは悲しんでいますね。とても幸いなことですね」と言いましたら、私はおそらく追い出されるでしょう。しかも、先週もお話しましたように、この「幸いである」というのは、感嘆詞であり、本来「あぁ、なんと幸いなことだ!悲しんでいるあなたは!」という意味がありますから、もし、私がその釈義に忠実に悲しんでいる人に向かって「本当によかったね!幸いだね!だってあなたは今、悲しみに沈んでいるんだから」などと言いましたら、私はそれこそ蹴飛ばされてしまうことでしょう。このように思う時に、私達はこの言葉が常識を逸した言葉であるということが分かるのです。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。

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「悲しみは幸いです」と言えますか?

マタイ5章4節

2009年9月6日

悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう。

Blessed are those who mourn, for they will be comforted.

何とも不可解な聖書の言葉に私達は今、向き合っています。おそらくこの言葉をイエス様が山の上で話されようとした時、そこにいた人達は皆、イエス様が何を語るのか、その口元にその関心を寄せたと思います。そして、その時に第一声としてイエス様は言われたのです心の貧しい人達は幸いである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人達は幸いである。彼らは慰められるであろう」。この言葉を聞いた人達は、その時、どんな顔をしていたのでしょうか?

私は仕事柄、多くの喜びに立ち会いますが、等しく多くの悲しみにも立ち会います。その時にその場所でもし私が「あなたは悲しんでいますね。とても幸いなことですね」と言いましたら、私はおそらく追い出されるでしょう。しかも、先週もお話しましたように、この「幸いである」というのは、感嘆詞であり、本来「あぁ、なんと幸いなことだ!悲しんでいるあなたは!」という意味がありますから、もし、私がその釈義に忠実に悲しんでいる人に向かって「本当によかったね!幸いだね!だってあなたは今、悲しみに沈んでいるんだから」などと言いましたら、私はそれこそ蹴飛ばされてしまうことでしょう。このように思う時に、私達はこの言葉が常識を逸した言葉であるということが分かるのです。

それではこの言葉を言われたイエス・キリストとはどんなお方なのでしょうか。私達は私達とイエス様との違いというものをいくつも挙げることができますが、その中で一つ際立っていることは、私達はこの世界で見聞きすることこそが全てであると思いながら生きていますが、イエス様はこちらの生活の中にご自身を置きながら、私達には知り得ないもう一つの世界を知る唯一のお方であったということです。

私がまだ4,5歳の頃、千葉県の神崎という町の教会に母が牧師として遣わされていました。その教会は利根川のすぐ側にある教会で、よく母が自転車の後ろに私を乗せ、その利根川の土手を走り、訪問をしました。その途中、おやつだといって、土手に座ってヤクルトを飲んだ思い出を忘れることができません。その時、それまで海というものを見たことがなかった私は、その土手に座る度に「海は広いなー大きいなー」と歌いました。利根川は川幅の広い大きな川ですから、幼子の私にはそれが海に思えたのです。

土手を走るたびにこの歌を歌うわが子が忍びなくなったのでしょう、母はその年、銚子の海へと私を連れて行ってくれました。生まれて初めて見る海、キラキラと光る広い広い海、幼子の心にその光景は刻まれました。それ以来、私はどんなに大きな川を見ても「海は広いな~大きいな~」とは歌いません。本物を見たのですから。

私達も同じではないでしょうか。私達にとって見える世界こそが全てであり、私達の価値観もその中で育まれていき、それは子供達にも引き継がれていきます。本物の海を知らなければ、川を海と思い続けることは可能なのです。私達は本物(真理とも言えるでしょう)に出会うまでは、悲しみとは忌むべきもの、避けるべきもの、とり除くべきものと思っています。確かにこちらでの生活の中だけで、それを見つめるなら、そう思えるかもしれない。しかし、あちらの世界を知り尽くしたイエス・キリストにとって、悲しむということは幸いなことだったのです。そして、驚くべきことにこのお方はその悲しみを肯定できることとして、私達もそれを受け取ることができるようにと今、差し出しているのです。

それではあちらの世界を完全に知りえない私達にとって、この言葉を理解することは可能なのでしょうか。イエス様はかつて「今のこの時の苦しみは、やがて私達に現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8章18節)と言われましたが、「やがて私達に現されようとする栄光」をまだ知らない私達にとって、イエスの言葉を完全に理解することは無理ではないかと思われます。どんなに賢い人であっても、このイエスの言葉を完全に解釈することは不可能でしょう。

しかし、私達はイエスの生涯を見ていく時に、この言葉の意味が分かってきます。例えばイエス様が日常、共に親しく過ごしていた人達はどんな人達だったでしょうか。

悪徳の中を生きてきた取税人、五度の結婚を繰り返した女、皮膚病につかれ、その生涯を偏見と共に生きた者、七つの悪霊につかれた者、墓場に住む者、自らの体を売る女性達、色々な重荷を負って生きている人達・・・。これらの人たちに共通することは社会的な力とか、尊敬とか、見た目の良さとか、頼りになる人脈というものが彼らには全くなかったことです。

私達が聖書の中にイエス様の姿を見る時に、常にその周りにはこのような人達がいることに気がつきます。これらの人達に共通することは、皆が何かしらの悲しみを抱えており、それは人から指摘されるまでもなく、自分自身で気がづいている悲しみであり、さらに彼らはそれらを何とかしたいという願いがあったということです。

かつてイエス・キリストは「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)と言われました。この言葉の意味はよく誤解されるのですが、世の中には病人と健常者とがいて、イエスは病人のために来たのだから、すなわち罪人を招くためにきたのだから、それなら俺には関係ないということではないのです。

人間は二つに分けることができると言った方がいますが、その人はその違いは肌の色であるとか、話す言葉だとか、人間のDNAだとは言いませんでした。その人はこう言ったのです。「人は眠っている罪人か、目覚めた罪人かのどちらかである」と。なんと知恵に満ちた言葉でしょうか。言い方を変えるならば、自分が罪人であることを知っている罪人か、それを知らない罪人かということであり、どちらにせよどちらも神の前には罪人、全ての人は罪人だということです。

皆さん、先にあげたイエスと共にいた人達は、どちらかというと「あなたは罪人であるとか、あなたには欠けているものがある」と言われても、「ああ、俺は確かにそうだよ」と自ら認めることができる人達であったのです。なぜなら、彼らはそのことで日々苦しみ、嘆き悲しんでいたのですから。

そして、彼らのその悲しみがイエスに近づく思いを生み、変われるなら、変わりたいという思いが彼らの悔い改めを生み、その結果、彼らは全く神に信頼して新しい人生を歩むことができるようになったのです。イエス様の目がこれらの人達を見た時に、これ以上に幸いな人間の姿はなかったのです。ですから「あぁ~なんと幸いなんだ、君たちは!その悲しみは慰められ、新しい生涯を私と共に歩むことができるのだから」というのです。ルカは同じ言葉として、イエスの言葉をこのように記録しています。「あなたがた今、泣いている人達は幸いだ。笑うようになるからである」(ルカ6章21節)。イエスの元に悲しみをもってきた人達は、慰められ、それだけではなく笑みすらも取り戻すことができたのです。

これらの人達に対して、反対に常にイエスを距離を置いていた人達をも私達は聖書の中に見出すことができます。彼らはパリサイ人や律法学者と呼ばれ、当時の社会においては階級の高い学者であり、宗教家であり、また政治的な発言力も有する人でした。そんな彼らにとって、自らには欠けがあるというようなことや自分の悲しみを認めることは至難のわざで(実際は欠けだらけなのですが)、そのことを誰かに指摘されないためにも学を積み、社会的な権力を常に求めていたのです。すなわち、彼らはまさしく神の前には「眠っている罪人」だったのです。

覚えましょう。イエスの目にはこれらの人達は幸いな人とは見えなかったのです。なぜなら人の目は騙せても、イエスの目には彼らは生涯、その偽りの自分の姿を隠すことに心を注ぎ、そのために財を使い、心をすり減らし、知識を蓄えていながらも、真の平安からはほど遠く、常にその心に余裕もなく毎日を歩んでいるように見えたからです。ですからイエス様はこのような人達に対して、こんな言葉も残しているのです「あなたがた 今笑っている人達は災いだ。悲しみ泣くようになるからである」(ルカ6章25節)。

よく聞きませんか。病人は自分が病人だと認めることが絶対に必要だと。当たり前のことなのですが、これが難しいのです。自分の心の問題にしても、それを認めてカウンセリングを受けるところにいくまでが至難のわざなのです。治療の一番、大きな障害は、医療技術とかよりも、この本人の自覚と決断なのではないかと思います。それを認めた時に、治療は始まり、癒しと回復は始まるのです。同じように、私達は人生のどこかで歴然とした事実、すなわち私達には絶えず悲しみがあるということを受け容れなければなりません。そして、その悲しみを何とかしなければなりません。

この国について色々な人達が様々なことを言います。その一つに「アメリカン・ドリーム」という言葉があります。実際に多くの人達が、そのアメリカン・ドリームを夢見てこの国に渡ってきました。かつてほどではないかと思いますが、今もこの「アメリカン・ドリーム」なるものを手に入れようと日夜がんばっている方は多いと思います。

しかし、そもそもアメリカン・ドリームとは何なのか。これについて先日、おもしろい定義を見つけました。すなわちアメリカンドリームとは「したくないことはする必要なく、したいことは何でもできることである」というのであります。短い言葉ですが、こんなに的を得ている言葉を私は知りません。

そして、実際にこの「アメリカンドリーム」を手に入れた人はたくさんいることでしょう。しかし、私達は大変な誤解をしていました。それは、このアメリカン・ドリームを手に入れれば、自分の人生は幸いになると思いこんでしまったことです。自分が抱えている問題、それは今までお話している心の悲しみまでもどうにか、解決されるのではないかという思いです。しかし、実際は全くそうではないということに私達は気づき始めています。

すなわち、もし私達が結婚生活に行き詰り悲しんだり、育児について途方に暮れ悲しんだり、突如、告知される病や事故や災いに悲しんだり、死という逃れることができない宿命に悲しむ時に、さらに先週もお話したように、自分の本性、すなわち、自分という人間は、その機会さえあれば何をしでかすか分からない者であり、人の目にはよく見える自分の姿も、もし心の動機までも探られたら、私の心の中には決して灯すことができない暗闇があるではないかという、そんな自分の心の有様を悲しむ時にしたくないことはする必要なく、したいことは何でもできることであるというような特権は、ほとんど何の役にも立たないのです。これらのことに対して、それでは手のうちようがないのです。まさしく、それは周囲に人がいない、荒野の只中で一人迷った人に、数億ものキャッシュが入っているクレジットカードが何も役に立たないのと同じです。

しかし、私達がその悲しみを神様のところにもっていくなら必ず慰められる、否、それだけではなくて、その悲しみすらも喜びに変わるというのがイエスのこの言葉なのです。

詩篇の記者はそのことをこんな言葉によって言い表しました。

詩篇84篇5節-6節(新解訳)「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます

私たちと同じようにその悲しみゆえに涙したこの記者は言ったのです。なんと幸いなのだろうか!その力と慰めが自分にあるのではなく、神様よ、あなたにあり、常にその心があなたとつながっている人は!そのような人はたとえ涙の谷を過ぎるようなことがあっても、そこからは喜びの泉がわくのだからと。                                    

皆さん、もし、私達の人生から悲しみがなくなったらどうでしょうか?その時、全米展開しているカード・ショップは従業員、アルバイト総出で忙しくなります。なぜなら、それまで商品としてあった「お慰め」とか「早く元気になってください」というようなカードを全て処分しなくてはならなくなるからです。残ったものは、誕生日、結婚、クリスマス、記念日を祝うカードだけになります。

しかし、私達はその失ったカードの数だけの同情、労わり、献身をも失います。悲しみは辛いことですし、できるなら私達は悲しみたくないのですが、しかし、私達の間から同情、労わり、献身がなくなるということはもっと悲惨なことなのかもしれません。私は自分の命すら維持できない人間ですから、悲しみの意味などということを知ることなどはできません。ただ、こんな凡人の者であっても神様は確かに悲しみにも意味を持たせていてくれることが分かるような気がします。人生には悲しみだけが、涙だけが教えることが出来るとても大切な何かがあります。

悲しみに向き合う時に私達は人生において本当に重要なことと、さして重要ではないことを見いだします。悲しみの時に私達は自分の信仰が人生の飾りなのか、それとも人生の土台なのかを見いだします。そして、悲しみの意味における最大のことは、悲しみの時に、人が神を見出すことです。悲しみの時に私達はイエスに出会い、そこで慰めを受けるのです。悲しみによって、私達は涙の谷が、泉の沸く所へと変えられることを体験することができるのです。

皆さん、ここでイエス様によって言われている「慰める」という言葉の元々の意味は「傍らに呼ぶ」ということです。すなわち悲しむ私達は、神の傍らに呼ばれることを意味するのです。

人は互いに異なった感情や考えを持ちますゆえに、私達が互いに受ける慰めには限界があります。ましてやその人に生涯、片時も離れずに自分を慰めてくれ、励ましてくれと期待することは不可能であります。しかし、イエス・キリストがその人生が続く限り、私たちを傍らに呼び、私達を慰めてくださる。また、このお方が私たちのために十字架を担い、私たちのためにその苦しみを全身に引き受けてくださったということは、主イエス・キリストが私達の傍らにいて下さることだけにとどまらず、私たちの悲しみをも私達に代わって担ってくださるということをも証明するのです。

マザー・テレサはかつてこう言いました。悲しそうな顔をしている人を見ると、この人はまだ何かを手放すことができないのだなと私は思います彼女の言葉は実に、悲しんでいる者は、その悲しむを自分で取り除けようとあれこれと試みるのではなくて、その試みを手放してイエスの傍らにその悲しみをもったまま、近づきなさいということなのです。

最後に、皆さんもよく知っている有名な「あしあと」という詩を読んで今日のメッセージを終えましょう。

ある夜、私は夢を見た。私はイエス様と共に渚を歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二つの足跡が残されていた。一つは私の足跡と、もう一つはイエス様のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は、砂の上に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生で一番辛く、淋しい時だった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについてイエス様にお尋ねした。

「イエス様、私があなたに従うと決心した時、あなたは、全ての道において、私と共に歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生で一番辛い時、一人の足跡しかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、
あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません。」

主は囁かれた。「私の大切な子よ」私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡が一つだった時、私はあなたを背負って歩いていた・・・。

なんと幸いなことなのだろう、悲しんでいる人たちよ。彼らは私の傍らから決して離れることはないのだから!

お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り

悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう。

マタイ5章4節

あなたがもし悲しんでいる友人に「あなたは悲しんでいますね。とても幸いなことですね」と言いましたら、どんなことが起きますか。イエスが「悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう」といわれたことについて、あなたはどう思いますか?

丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)という聖書の言葉や「人は眠っている罪人か、目覚めた罪人かのどちらかである」という言葉について、あなたはどう思いますか?今日「あなたは罪人であるとか、あなたには欠けているものがある」と言われてそれを認めることはなぜ難しいのでしょうか。

自分の本当の姿(自らが罪人であること、欠けがあるということ)を隠すことに心を注ぎ、そのために財を使い、心をすり減らし、知識や経験によって武装していくことによって、私達はその心に余裕と平安を得ることができますか?

詩篇84篇5節-6節(新解訳)を読みましょう。「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます

悲しみに向き合う時に私達は人生において本当に重要なことと、さして重要ではないことを見いだし、悲しみの時に私達は自分の信仰が人生の飾りなのか、それとも人生の土台なのかを見いだします。そして、悲しみの意味における最大のことは、悲しみの時に、人が神を見出すことです。悲しみの時に私達はイエスに出会い、そこで慰めを受けるのです。このように、悲しみによって、私達は涙の谷が、泉の沸く所へと変えられることを体験することができるということに、あなたは同意しますか?

今日、取り上げられている「慰める」という言葉には元々「傍らに呼ぶ」という意味があります。私達が悲しみに沈む時、イエス様は常に私達の傍らにおられます。この事実はあなたの心に何をもたらしますか?

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