お答えしましょう。先週、我が家の次男坊が40度をこす高熱に襲われました。彼は二晩で完治しましたが、発生源としての役割を十二分に果たし、その後、長女がその熱を引き継ぎましたが、彼女の場合、ケロリと一晩寝て完治しました。しかしマッチ一本火事の元、鎮火後のくすぶりを引き継ぎ、私も水曜、夜未明から発熱し木、金、土と38℃-39℃の世界を行ったり来たりする状態に。私の発熱対処法は毛布に包まりひたすら汗をかくこと故、今回もこの3日間に30枚くらいのTシャツを洗濯機送りにしたのですが、これがなかなか手ごわく・・・。

日に日に近づく礼拝メッセージ、そして日曜午後からの結婚式の司式、土曜日の晩にはその式のためのリハーサルと、これら全てを乗り切れるのだろうーかと悩みつつ、祈りつつ毛布に包まれていたのです。これがスリリングなこと(長い説明かたじけない)。
でも、やはり神様は全てを良きにしてくれました。昨晩から朝方にかけて、たくさんの汗が出て、朝起きましたら平熱となっていました。この3日間、平熱になることは一時もなかったのに!「私に近寄らないでくださいまし」オーラを発しながら、教会での御用も終えることができ、予定していた結婚式も新郎新婦の幸せそうな顔と共に無熱で終えることができました。
どうやら山は越えたようです。
しかし・・・、昨日から長男が発熱。今、39℃の世界をさ迷っています。あと残る非感染者は奥様。この放熱地帯で威風堂々としているその姿を驚愕の思いで眺めています。
マック
追伸:今日、お話したメッセージは「体の管理は必須です」というもの。神様は“現役ヘロヘロ人間”を用いて、このメッセージを語らせて下さいました。これもTHE ETERNAL DIRECTORの粋な演出なのでしょうか(私のメッセージは全て一週間前に決まっています)。
よかったらどうぞ↓
「体の管理は必須です」
2008年4月20日
コリント第一の手紙6章19節-20節
私は牧師となって12年になりますが、今日のタイトルのようなことを話すのは初めてではないかと思うのです。あまり聖書から「肉体」云々ということを私達は聞くことがないかと思います。しかし、私達が家族や友人と話す話の多くが自分や家族の体調のことであったり、病気であったり、飲んでいる薬であったり、受けている治療であったりということを思います時に、何でこんな大切なことを今まで聖書から話さずにいたのかとも感じています。
連日仕事が忙しく、徹夜明けで迎えた朝と休暇中でゆっくりと過ごしている時に迎えた朝が全く同じという人はあまりいないと思います。言うまでもなく忙しく寝てもいない時には体に相当の疲労がたまっているからです。反対に休暇中の体はリラックスしているからです。疲れと寝不足で迎えた朝、前日に近所で起きたトラブルを話す家族の言葉に耳を傾ける余裕のある人はあまりいません。
お腹が空いている時と、好きなものを満腹食べて帰宅した時というのも、また私達の精神状態は異なります。創世記にはエサウという腹ペコの男が自分の長男としての権利を、一杯の食事と共に失ったという話が書かれていますが、私も時々、ペコペコで帰宅します時に自分の思いが食べ物だけに向けられており、他のことはどうでもいいから、まず、そのあなたが今、作っている、そのコロッケを一口くれないかと妻に懇願することがあり、エサウを無二の親友のように感じることがあります。
これら私達の日常で起きる私達の言動というものは、どちらも私達の体のコンディションというものと関係しています。私達は疲れていたり、病んでいたり、空腹である時に、私達の心もこれらのコンディションに支配されてしまうことがあるのです。そして、時に私達の霊的なコンディションも体のコンディションと深く関係があるのです。
聖書は私達の体ということをどう捕えているのでしょうか。とかく、私達は肉体と心ということを比較する時に、心は大切だけど肉体はあまり重きを置かないということはないでしょうか。最初にこれからお話することの大前提として、私達の体というものは一体何なのかということをお話したいと思います。
前提
詩篇31章9節
主よ、わたしをあわれんでください。わたしは悩み苦しんでいます。わたしの目は憂いによって衰え、わたしの魂も、からだもまた衰えました。
この詩篇31篇はイスラエルの王であったダビデが書いたものです。この31篇全体を読んでみますと、彼は何かしらの困難に直面していたようです。そして、その心中を隠すことなく「わたしをあわれんでください。わたしは悩み苦しんでいます」と言い表しているのがこの9節なのです。そして、その悩み苦しみによって彼の「目は悲しみによって衰え、魂も体も衰えてしまいました」というのです。
ダビデはここで、分かりやすく言いますと「私の心が疲れてしまいました。力を失ってしまいました」と言っているのです。しかし、それと同時に彼はその心だけではなく、私の体も力を失いました。私の目も哀しみによって衰えてしまいましたと言っているのです。
彼は自分の心だけが大変なのだとは言っていないのです。私の体ももうボロボロだと言っているのです。そして、この古の王、ダビデの言葉を私達も共有するのです。皆さんは言ったことはありませんか「もう、私の心も体もボロボロです」「もう心身共に疲れ果てました」私達の心と体は別々のものではありません。
目を転じて新約聖書のマタイによる福音書26章36節から46節などを見ますと、こう書かれています。
マタイ26章36節‐46節
36それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。37そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。38そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。42また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。43またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。44それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。45それから弟子たちの所に帰ってきて言われた「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。46立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
多くの皆さんもご存知のようにここに記されている出来事はイエスが十字架にかかる数時間前のことであり、そのご自身の十字架のことを知っていたイエスは父なる神と直談判の祈り、すなわち有名なキリストのゲッセマネの祈りの場面です。
イエス様は人の肉体をもってこの世界を生きたのです。「お前に俺の気持ちが分かるか」などと私達は日常、言いますが、キリストは私達のもつ肉体の痛みを知っていました。そして、その最も苦しい時に、自分の弟子に「わたしと共にいてほしい」と言ったのです。イエスは彼らに自分と共に祈っていて欲しいと願ったのです。
しかし、この弟子達はそのような大切な時に疲れていたのでしょう。眠ってしまいました。イエスに一度は起されながら、イエスが「悲しみのあまり死にそうだ」というほどに、血が滴るような汗を流して祈っていた側で、彼らは再び、眠り遂にイエスが捕えられるその時まで彼らは眠っていたのです。そのような最中、イエスは彼らに言われたのです「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(41)。
皆さん、これが私達、人間です。私達はこの地上にある限り、心だけで生きているのではないのです。私達は肉体を持ち合わせて生きているのです。そして、この私達の肉体は私達の心に影響を与え、私達の心は私達の肉体に影響を与えるのです。別の言い方をすれば私達の心を大切にするために、私達は自分の肉体を無視することはできませんし、私達の体を大切にするために、私達は自分の心を無視することはできないのです。
時々、経験豊かな牧師先生と共にいる時間をもたせていただくと、教えられます。ある年配の牧師はパンにバターをぬらずに食べていました。ある牧師は水をよく飲むことを意識して心がけていました。ある牧師はとても忙しい方なのに、毎日、歩くことを怠りませんでした。なぜでしょうか?出来うる限り最高のコンデションで主の御用に励みたいと先生方が願っているからです。そして、それは長い人生経験から肉体が弱い時に心も弱くなってしまう事を幾度も体験してきたからに違いありません。
皆さん、私達はキリストが言われたように、肉体をもつ限りいつも弱点を持っているようなものです。この肉体は消耗されるものですし、年と共に確かに弱くなっていくものなのですから。そして、私達の肉体はいつも外の世界にむき出しとなっているゆえに、様々な誘惑に向き合っているのですから。
ですから、私達はこの肉体を出来る限り「メインテナンスする」のです。もっと分かりやすくいいますと「大切にする」のです。なぜ?その根拠は?
その理由がコリント第一の手紙6章19節‐20節に書かれているのです。
19あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
このコリント書はパウロによって書かれました。彼はコリントにある教会に向けてこの手紙をかいたのです。コリントという町は自らの体を好き勝手にしている人達で満ちていました。すなわち、自分の体を売る、買う、見境いない人達の住む町だったのです。その人々にパウロは言ったのです。
「あなたたち、知らないの?あなたの体の内には聖霊が宿っているんだよ。あなたはもう自分自身のものではないんだよ。あなたの体のためにはイエス・キリストという代価が払われているんだよ。あなたの体にはそれだけの値打ちがあるんだから、それをいい加減にするのではなくて、その体で神の栄光をあらわしなさい」と。
パウロのこの言葉は2000年の時間をひとっとびに超えて、弱い肉体を持っている私達にも語りかけられているのです。「あなたの体は聖霊の宮なのであり、あなたのためにキリストの命が支払われているのだ。だから、あなたをして、その体をもって神の栄光を表しなさい」。
それでは私達はそのためにどうしたらいいのか。まず最初に自制ということをお話します。
自制
私達に身近な言葉となりました「生活習慣病」という言葉があります。聖路加病院の日野原重明先生が作った言葉です。先日もある方と話していて、とても有名な医師が本に書いている言葉として、大切なことを聞きました。それは「今日の病気の多くは私達が「自制」できるか否かによってその発病がかかっていることが多い」ということです。
それを聞いてなりほどと思いました。確かに病原菌や事故、または高齢になることによって併発する病気は別として、私達の食生活や休息、運動不足によってもたらされる病気というものを今日、私達は耳にタコができるほどに聞いています。そして、これらのことは私達の注意や節制によってある程度予防することができるものでもあります。
すなわち、私達は代価を払って買い取られた私達の体をもって、出来うる限り神の栄光を表すために(それは美しい男、女になるということではなくて)私達は自制するのです。自分をコントロールするのです。
コリント人への手紙10章23節にはこう書かれています。
「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない」。
私達は一つ1500キロカロリーのハンバーガーを食べることも許されています。でも、そのハンバーガーを一日、3つ、毎日食べたらどのようなことが体に起きるかを知っています。私達は野菜を多く取り、豆腐やヨーグルトを食べるという事が体にどんな影響を与えるかを知っています。
私達は全く体を動かすにカウチに座ってポテトチップスを食べる事ができます。一日中、それをすることもできます。しかし、それが体にどのような影響を与えるかも知っています。私達はほどよい汗をかいて一日30分歩くことが体にどんな影響を与えるかを知っています。これらの選択は誰彼ではなく、自分の手の中にあるのです。そして、そのことは私達が願うだけではなくて、私達のことを思っていてくださるお方がいるのです。
私達にとっつきにくいレビ記という書が聖書にあります。そこには当時のイスラエルの民に対する諸々の食事規定が書かれています。まるで、それは食事のレシピのように事細かな当時の人達への食について書いています。その中で例えばレビ記11章2節-3節にはこう書かれています
「イスラエルの人々に言いなさい『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。 獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる』。
予防医学を専門にしておられる黄聖周という韓国人医師が書いた「健康の知恵」という本によると「ひづめの分かれている動物というのは、分かたれた爪の割れ目から汗を流すことによって、胎内の老廃物を排出しているといいます。反対にひづめがないと汗を流すことができず老廃物を円滑に処理することができない、つなわち新陳代謝がうまくいかない、ちょうど服を重ねたまま一生を過ごす人にたとえることができ、こうした動物は食用には適しないというのです。また反芻も同様に、反芻を繰り返すと消化作用と殺菌作用を強めることができ、解毒作用にもなり、体内に蓄積される有毒物質を初期の段階で防止できるというのです(健康の知恵60 カレブ・ゴスペルサービス出版部 黄聖周 著)。神様はそのような動物を食べてよろしいと言われました。
またレビ7章23節-24節などを見ますと「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、すべて牛、羊、やぎの脂肪を食べてはならない。自然に死んだ獣の脂肪および裂き殺された獣の脂肪は、さまざまのことに使ってもよい。しかし、それは決して食べてはならない」と書かれています。
すなわち、これは動物性の脂(あぶら)を食べてはならないというものであり、当時から数千年後になって、私達は、これらの油を悪玉コレステロールと呼び、動脈硬化、心臓病、癌の原因になりうるものだから気をつけなさいと言われているのです。じつにレビ記は単なる「あれもダメ、これもダメ」という禁書なのではなく、予防医学の手引書ということもできるのです。母親がその子の栄養と健康を願ってレシピを選び、調理をするように神様は私達の体をも配慮していて下さるのです。
そして、その神様のご配慮にお応えするために私達には自制が必要となるのです。食べる事は楽しみでありますから、自制がなければ私達は健康を害します。自分でコミットして体を動かさなければ、それは私達の健康に影響するでしょう。先に触れましたように今日の病気の多くが私達の習慣の問題であるならば、私達は神様に助けていただいて自分で自分をコントロールしなければなりません。次のことをみましょう。
休息
私達の社会において時々「休まないで働く」ということを美徳とする風潮があります。特に日本の社会ではその傾向が強いかもしれません。武田鉄矢が海援隊というバンドの中で「母に捧げるバラード」という歌を歌っています。その中で、彼は母親が自分に語りかける台詞を自ら言っています。「死ぬ気 で働いてみろ、テツヤ。人間働いて、働いて、働き 抜いて、もう遊びたいとか、休みたいとか思うた ら、一度でも思うたら、はよ死ね。それが人 間ぞ。それが男ぞ。おまえも故郷をすてて都へ出て ゆく限りは、帰ってくるときは輝く日本の星となっ て帰ってこい。行ってこい。行ってこい」
確かにこの心意気が戦後の日本経済を復興させたに違いありません。しかし、どうでしょうか、私達はそのツケを払っているということはないでしょうか。このことがどんどんエスカレートして、私達は過労死とか、夫婦や親子の断絶というものを生み出してきたのではないでしょうか。
確かにこの武田さんのお母様の言葉は私達を励ますものでありますが、私達は武田さんのお母さんの言葉に生きる者ではなく、神様の私達に対するラブレターである聖書が何を言っているかを見なくてはなりません。これらのことを聖書の中に見つけることは難しいことではないのです。まず創世記を見てみましょう。
創世記の一章には神が天地万物を6日かけて創造されたことが書かれています。先日もある方々と、この6日というのは文字通り24時間を一日とする時ではないのかもしれないということを話したのですが、それがクリスチャン科学者の間では一般的に今日、受け入れられているそうです。今日はそのことは置いときますが、この神の創造は6日間で終わりました。そして、7日目に神は何をされたのか。創世記の2章1節から3節に書かれています。
①こうして天と地と、その万象とが完成した。②神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。③神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
神は7日目にやすまれたというのです。そして、その日を祝福して聖別されたというのです。HolidayはHolly Dayなのです。6日の十分な働きがあり、そしてその後に休息があったというのです。
そして、神がモーセを通して与えられた十戒にもこう書かれています。申命記5章12節‐14節を読んでみましょう。
12安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。13六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。14七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。
神が人に与えた十戒に記された休みは徹底していたのです。すなわち、その休息はその家族、僕、そして家畜までも、また自分の国に住む寄留の外国人たちも、休まなければならないというのです。
さらに、イエス様の言葉がマルコ6章31節に記されています。その言葉は、イエスの弟子達があちこちで働いてきたことを報告した後に言われたものです。すなわち、その報告を聞いた後にイエスは彼らに向かって言われたのです。「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。そして、その理由として「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」と書かれています。
今日的に言いますならば「営業から帰って来た部下達に、さぁ、これから半日、静かな所へ行って休んできなさい」というようなものです。しかも、その時というのは食事を取る暇などないほどに多くのお客さん来ている時にということです。どうでしょう、皆さん、そんな時に部下に半日休む時間を与えますか。そんな人いないでしょう。食事を抜いてでも部下も上司も働き続けるでしょう。そして、それがエスカレートしていく時に、私達は大きなツケを支払わなければならないのです。
「神様へのインタビュー」という詩にこんな言葉があります。人間:「神様、あなたは人間のどんなところに一番、驚いていますか」神様:「金持ちになろうとして体を壊してしまい、そのお金を使って、健康を取り戻そうとしていること」。どれだけの人達がこの悪循環に組み込まれてしまっているのでしょうか。
これはあくまでも伝説ですけど、イエスの弟子であったヨハネが晩年、一羽のウズラを捕まえて、ゆっくり歩いていると、一人の男が猟師の服装をして彼に近寄って来ました。その男はヨハネのような高名な、評判の高い人が、そのようなつまらない平凡な喜びで自身を卑しくしていることに驚き、そして言ったというのです「あなたが、その偉大さと、評判のゆえに、私を引きつけ、私にあなたと知り合いになりたいと願わしめている、あのヨハネなのですか。そのあなたがまた、一体どうして、そのような安っぽい快楽に身を任せておられるのですか」と。
ヨハネは彼に答えて言いました「あなたが手にお持ちになっているものはなんでしょうか」と。その男は答えました。「弓です」ヨハネは「なぜ、その弓をいつでも引けるように、曲げたままで持ち運ばないのですか」とたずねました。彼は答えました「いつも曲げておくと、ゆるんで役立たなくなり、本当に必要な時に、その弾力は過重なまた継続した緊張で失われてしまうからです。その肝心な時に射るためのす力がなくなってしまいますから」。ヨハネは言いました「ちょうどそのように、この僅かな一時の私の心の寛ぎで、煩わされないようにして下さい。何かのレクリエーションによって、その目的の厳しさをゆるくし、寛がないと、精神は不断の緊張によって破られ、必要な時に役立たなくなり、正しいものに従うことができなくなるでしょう」。
(ヨハネス・カシアヌの伝承:「イエスの弟子達」ウィリアム・バークレー 新教出版社)
情熱的なヨハネもその長い人生経験を通して「曲げたままの弓は、間もなく射ることができなくなる」ということを学んだのでしょう。
休むということ。最近、私もこれらのことを思い巡らして思うことがあります。それは、「休まないでやれる」と思うことは、実は傲慢なことなのではないだろうかということです。天地創造における休息。イエスと弟子の休息。そして、ヨハネの伝承。どれをとっても、私達がその体をもって神の栄光をあらわすために、私達には確かに休息が必要であることを語りかけてはいないでしょうか。
3つ目のことです。それは返却ということです。
返却
今日、色々なレンタルがあります。車しかり、夏の休暇を過ごす山小屋もしかり、釣竿から食器にいたるまでそれは多岐にわたります。そして、借りた人達が常識的な人であるならば、その借りているものを壊したり、破いたり、汚したりしないで返そうと心がけます。なぜなら、それは自分のものではないのですから。
ヨブ記においてヨブは自分の家族、財産を失った時に言いました「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1章21節)。この「主が取られた」という言葉は英語の聖書では「TAKEN BACK」と書かれています。すなわち、それは神様が与えてくださったものを、神様がもう一度、自分のもとにTAKE BACK、すなわちお戻しになったのだということです。
変なことを話しますが、私達は基本的に脱皮しません。あの人、冬から春になるから脱皮したみたいよ。肌の色も顔も変わったみたいよなんて人はいません。私達は与えられている体と共に生涯付き合うのです。そして、その体というのはやがて死と共に朽ちて、土に帰ります。そのように確かに私達の肉体は滅びてなくなるけれど、魂は死んでも生きるというのが聖書がいうことです。
ですから、私達の肉体というものが、レンタルされたスケート靴が返却されて靴箱にきれいに並べられるように私達の肉体が天国でからのぬいぐるみのようになって並べられることはないと思います。でも、私達の気持ちといいましょうか、心構えとしては神様からいただいた私達の取替えのできないこの体をよく管理して、整えてその時がきたら神様にお返しするような気持ちが大切なのではないでしょうか。
パウロはテサロニケ人への手紙の中で言いました。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」(1テサロニケ5章23節)。
このテサロニケ人への手紙は主イエスがもう一度、この世界に来られるということを書いているのですが、その時に神様が私達の霊と心と体を完全に守って、責められるところのない者にしてくださるようにというのです。その時に主が私達と出会い、その時に私達の霊と心と体を見て、私達が「お前、その心はどうしたんだ」とか「その体はどうしてそんなに汚れてしまったのだ」とならないようにというのです。与えられた体をしっかりと管理しなさいというのです。
レンタカーを返却する時、私達は傷のないように心がける。なぜなら、それは自分の車ではないからです。体は神から与えられたもの。代価をもって買い取られたもの。その体を神にお返しする。
なぜ自分で自分の命を絶ってはいけないのですか。なぜ自分の体を売ってはいけないのですか。買ってはいけないのですか。なぜ自分の体をドラッグで破壊してはいけないのですか。なぜ、私達は自分の体を管理しなくてはならないのですか。
これらの問いに対して、世の中に本当に納得のいく答えはありません。でも、聖書はシンプルな答えを持っています。それは、私達の体はいただきものだからです。一人に一体、私達には神様から肉体が託されているからです。この体を大切に、しかし、それは何も用いないで、極力セーブしてということではなく(それをしたらあのタラントを土の中に埋めていた僕と同じです)、一生懸命に神様のために用いて、しかし、日毎のメインテインを忘れることなく生涯を歩むのです。
主にある兄弟姉妹、先に申し上げましたようにこのようなメッセージをしたのは初めてです。でも、今日も私達は与えられた肉体と共にここにきたのです。確かに私達の体はいつか、いや今もそうかもしれません、機能が動かなくなったり、弱ったりして、静止する時がくるでしょう。しかし、私達は,神様が与えて下さっている、その人生最後の瞬間まで、私達はできる限りこの体をよく管理して、神の栄光をあらわすことが求められているのです。
19あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。1コリント 6章19節-20節
お祈りしましょう。
見事に感染しましたね~!!って感動している場合じゃないですね。さて、最後は奥様ですね。最後に感染してみんなに放っておかれるか(放っておかれるのが一番ということもありますし...)、何ともなかったという結末で終ってしまうかのどちらかでしょう。後者であることをお祈りしていま~す。(^^;)
きこさん
今のところ家内はいたって元気。最後の砦は崩れる兆しが全くありません。すごいなー。母親の力なのでしょうか。