曽野綾子さんの著書、「私を変えた聖書の言葉」より抜粋。
「実に信仰があるかないかは、その人が立派な人間であるかないかということではなく、その人が骨の髄まで自分をいいかげんな人間だと思えるかどうかにかかっている。おかしな言い方だが、自分をインチキなやつだと思える人は、信仰をもてるのである。このあたりが、信仰を持たない人と話していて、よく食い違う点である」。
ほんと、そうなんだよなー。今まで何度、聞いてきただろうか。
「まともな人間、いい人間になったら教会に来ます」。
心の中で、何度思ったことだろうか。
「それなら生涯、教会でお会いすることはありませんね」(おっと失敬!)。
マタイ9章9節-13節
さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人と共に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」(イザヤ57章15節)。

マック
追伸:「義人はいない。一人もいない」。 ローマ3章10節