2001年9月11日。コンピューターをつけるとツインタワーが炎上している写真が目に飛び込んできた。ブルース・ウイリスが新作の映画でも公開したのかと思うのも束の間、それがNYで起きているリアルな出来事であると知る。その日は、ラジオをつけたまま、牧師会出席のためにLAへ。帰宅して二つのビルが倒壊したことを知る。
それからの数日間は、自分の心が落ち着く場所を見つけることができずにいたのだが、ふと玄関を見ると小さな小包が。そういえば、注文しておいた本が11日に送られてきていたのだ。でも、それどころではなく、封も開けずにいたのだ。そこで開封してみると、中から出てきたのはJohn Stottの「Biblical Preaching Today」。それは、二週間前ほどにCBDというクリスチャン・ブックのカタログ販売を通して数千冊の中から注文していた一冊の本。

そこには数日前まであったツインタワーの写真。そして、その隣に建っていたのだろう教会の屋根と十字架の影。これは2001年9月11日に送られてきた本。このような不思議な出来事についていたずらに騒いだり、それにのめり込んではいけない。でも、毎年、9月11日になるとこの本を書棚から出してくる。そして移りゆく今の世界に、十字架の力を信じ、語り続ける使命を確認する。
「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシア人は知恵を求める。しかし、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」。 コリント第一の手紙一章22節-23節
2001年9月16日に礼拝でお話したメッセージです。
よかったらどうぞ↓
「希望はどこに」
Sep16 2001 合衆国テロ攻撃の週の礼拝
ルカによる福音書23章32節から38節から
さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。 兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。
9月11日、早朝、牧師会に行く準備を済ませ、いつものように新聞を読むためにコンピューターをつけてみました。いつもなら前夜に活躍したであろうスポーツ選手の写真やきれいな風景写真がそこにあるのに、その日には高いビルから炎が燃えている画像がでていました。最初は新作の映画の宣伝かと思ったのですが、すぐにワールドトレードセンター・アタックという言葉が目に飛び込んできました。
悪い冗談かと思って、テレビをつけてみると全てのチャンネルがマンハッタンの二つのビルとペンタゴンの火災とを映していました。何がなんだか分からず、現実を理解するのに時間がかかりました。実況しているアナウンサーの声は、生れてからこのかた聞いたことがないほどに興奮し震えていました。飛行機がハイジャックされ、乗客を乗せたままこのビルに突っ込んだという状況がわかってきた時に鳥肌がたちました。
時間が来たのでロスアンゼルスに行き、そこで牧師たちと祈りました。夕方5時前に帰ってみたら、アメリカ経済のシンボルの二つのビルが倒壊していました。その日は夜半までテレビの前に釘つけにされました。およそ考えられないことが起きたのです。死者は数千になると報じられ、埃まみれになった男女が町をさまよっているのです。一人の女性が埃で真っ白になった顔をしながら、泣きながら言っていました。「今晩、父、母がいない子供がいるのです!」。
一体、この惨劇は何なのだろう。これをどう受けとめればいいのだろう。今日は本当は2週間前にメッセージ箇所を決めて準備をしていました。でも、この出来事があり、メッセージを代えざろうえない。この惨劇に対して、教会でバイブルから神の声を聞かねばならないと思い備えました。
知りたいのです。私たちに希望はあるのかということを。
私たちの前に開かれているテキストはイエスが十字架に掛けられた箇所です。おそらく、信仰があるなしに限らず誰もが、イエスは十字架に掛けられたということを知っていることでしょう。イエス・キリスト、若干33歳、彼が十字架にかけられました。なぜ、十字架に掛けられたのか。私たちは、それが人の罪だと言うことを教えられてきました。そして多くの方は、それは自分の罪の為として生きています。
私がまだ、小学生だったころ、こんな質問を母にしました。「イエス様は十字架にかけられ、死んで葬られてしまったけれど3日目に甦ったというなら、イエス様は数時間の痛みと辱めも、しばしの辛抱と簡単に耐えることが出来たのではないの」。
しかし、それも今、何と愚かな思いだったかと分かりました。イエス様が十字架にかかる前に、自分の弟子を伴いゲッセマネの園で祈ったことがルカ22章に記されています。イエスはこう祈られました。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯を私から取り除けてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」その時、御使いが天からあらわれてイエスを力づけました。イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られました。その汗が血のしたたりのように地に落ち、そして、言われたのです。「私は悲しみのあまり死にそうである」。
イエスにとって、十字架は苦しみと悲しみの極みであったのです。そして、このお方は十字架の上で、こう祈られたのです。「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」。
十字架刑はおそらく、人の考える刑罰の内もっとも残虐なものです。手のひらではなく、手の甲に釘が打たれ、そして、足の甲にも容赦なく打たれるのです。骨が砕かれる。十字架は高く立てられる。全体重が手と足にかかり、そこは熱をもち、激しい痛みが続く。罵る群集の罵倒が注がれる・・・。
この十字架の出来事を福音書と呼ばれる全ての記者はそれぞれの視点で捕えています。そして、その中に共通していることがあります。それは、兵卒がイエスにブドウ酒を差し出したということです。ローマの卑劣な兵卒ですら、このイエスに同情したのでしょう、このブドウ酒は痛みを和らげる作用があったのです。しかし、イエスはそれをなめただけで飲もうとはされませんでした。あたかも、苦しみを避けることなく、それを一身に自分の上に受けるかのごとくに。
聖書の中の創世記には、世の始まりが書かれており、人間の始まりも書かれています。神はアダムとイブを造られました。彼らは人類の祖であります。彼らと彼らの子達を見るだけで、人の姿というものが分かります。彼らの息子、アベルとカインは人類2代目にして早くも互いに殺しあいました。兄は憤りをもって弟を殺したのです。私たちの祖は、10代目、20代目ではなく2代目にして人を殺しました。それからの人の歴史は、その血を継ぐように、殺戮を繰り返してきたのです。そして、その殺戮が最も悲惨な方法でこの国にも起きたのです。
聖書はイエスの十字架は人の罪のためだといいます。イエスは自分の名誉のため、悲劇のヒーローになるためではない、人の罪のためにイエスは十字架にかかられたと。その罪による罰をその人に負わすことをしないために、ご自身がそれを全て自分に負われたと。
イエスの本当の苦しみと痛みとは肉体的な痛みなのではありません。私たち、人類の全てが犯した罪に対する罰がカルバリに立つ十字架のイエスの上に下ったところからくる痛みなのです。
もし、イエスがあのゲッセマネの園で十字架を拒否したら、私たちの救いはありません。もし、イエスが十字架上で、その苦しみのあまり、人々がイエスに「あんたが神のキリストなら自分自身を救うがよい」という言葉にならい、イエスがかって言ったように天の軍勢を12軍団以上も遣わしていただき彼を救っていたら、もし彼がブドウを飲み、その痛みを和らげたのであるなら、私たちに救いはありません。
彼は私たちのために、この十字架を背負われました。
ある女性が自分も神をも呪ったといいます。自分の愛する子を失い、自分自身も耐えられない肉体的な精神的な苦痛を負って生きていることに対して。こんな苦しみと悲しみを与える神を、天から引きずり下ろして、その頬を打ちたたき、できることなら、自分の子が受けたのと同じ傷を負わせて殺してしまいたい。
それを黙って聞いていた友人が彼女に言いました。「イエス様は、もう既に頬を打ちたたかれ、手足を刺され、あなたのために十字架に架かられました」
皆さん、メディアは色々なことを伝えてきます。今は、今回の事件に関わった犯人を探すのに、一生懸命です。ある特定の固有名詞も公表されつつあります。しかし、今日、私たちは今回のこの悲劇を通して、人の罪に目を向けようではありませんか。イエスを神の御座から引きずり下ろし、十字架にまで架けた私たちの罪を。
今回のメディアの中で心に残る映像がありました。2機目の飛行機がビルにぶつかる瞬間を下からカメラはとらえていました。激突したビルから、噴煙があがったその映像にはビルの側にある教会の十字架が、これも下から映っていました。あたかも、その十字架の背後で繰り広げられる惨劇に対して、「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです。その彼らのために、私は私の命を捧げました」と語りかけるように。
1923年、関東大震災が襲いました。マグネチュード7.9、死者数14万人、その時に一つの歌が生れました。聖歌の397番にある「とおきくにや」です。繰り返し歌う言葉は、「慰めもて汝がために なぐさめもてわがために 揺れ動く地に立ちてなお十字架はかがやけり」。いかなることが起きようとも、イエスの十字架は消えることはない。イエスにある慰めが消える事はないのです。
ブュシュ大統領は演説を行いました。全国民にこのために祈ってくれと言える国の最高指導者は幸いです。その中に神と言う言葉を言える者は幸いです。彼は詩篇23篇を引用しました。「たとい、死の陰の谷を歩とも災いを恐れません。あなたが共におられるからです」。私たちを愛して十字架に架かられた主が、たとい死の影を歩むような時も、共にいてくださるのです。
皆さんの中にも、この悲劇に関わった知り合いがいる方がいるかもしれません。多くの愛する者を亡くした者たちのために、祈りましょう。この国のリーダーの為に祈りましょう。子供たちの未来のために祈りましょう。そして、このテロをなした者たちの為に祈りましょう。私たちの唯一の希望、イエスの十字架は堅く立っています。
祈りましょう。天のお父様、あなたを仰ぎます。あなたの子たちの多くが、その命を失いました。人の心にある憎しみや怒りという罪がその根底にあります。あなたは、私たちのために十字架にお架かりくださいました。なぜ、群集があなたを地上の王にしようとしても、あなたの目が常にカルバリの丘に向けられていたかということが、このことを通して私たちに深く示されています。主よ、憐れんでください。人の心にある憎しみを赦してください。
この悲劇のうちに亡くなられた方々の上に、今だにあの、マンハッタンで愛する者の写真を持ち立ち尽くしている方々の上に、主の慰めと希望をお与え下さい。この国のリーダーの上に上からの知恵と力を、そして、今だ世界を震撼させている者たちの上にあなたの諭しがありますように。イエスの御名によりお祈りします。アーメン。