ブラット・ピットとモーガン・フリーマンが好演している「セブン」という映画がありますが、そこにはダンテの神曲に書かれている「七つの大罪」、すなわち「傲慢、怠惰、暴食、色欲、強欲、妬み、怒り」という罪を一つ一つ連続的に犯していく狂気的な人間の姿が描かれています。そして、その最後は犯人が彼を追いかけていた主人公の刑事(ブラッド)を妬み、その妻を殺害し、その怒りを抑えられないブラットが犯人を殺害して終わります。この映画はどんよりとした雨のシーンから始まり、いつもどこかに暗さと言い知れぬ恐怖感が伴います。
でも本当の恐怖は、フッと我にかえりその七つの大罪が多かれ少なかれ、自分の心にもあるじゃないかと気がつく時なのです。

私達の心には巨岩があります。その岩を私達は「妬み」と呼びます・・・。
マック
今日お話したメッセージです。
メッセージの中で語られているニックの生き様と共にどうぞ!
心にある巨岩を取り除く
2008年6月8日
ローマ13章12節ー14節
聖書の中には色々な人間がでてきます。どの人もかつてこの地上に私達と同じように生きていった人達です。彼らは特別な人ではなく、私達と同じ肉体をもち私達と同じようなことを考えてその人生を歩みました。
ですから聖書を読んでいても、彼らの言動は全て私達も共有できるものであります。それゆえ、今日も今、2008年を生きる私達の心にあるものをお話したいと思います。それは「妬み」ということです。
この妬みについて色々なことを調べつつ、自らの心を探っていますと、あることに気がついてきます。それは、この妬みというのはどの人にも少なからずあるものであり、この妬みというものはとてつもない力を持っているということです。
ある修道院に仕えている若い司祭の気持ちを何とか揺さぶろうと悪魔が会合しました。どうしたら彼を動揺させることができるか、話し合った末、経験のある悪魔が言いました。「そんなの簡単だ、お前と同期のあいつはアレキサンドリアの修道院の司祭となったらしいぞと彼の耳元で囁けばいい」。当時、アレキサンドリアには最も大きな修道院がありました。
ある会社員が同期で入社した仲間の昇進を聞きました。それを聞いたとたん彼の心の中には雨雲が覆いました。彼と自分はなんら変わらない。お酒の席で酔った勢い、同僚にこぼしました「奴よりもせめて10円でいいから給料を多くもらってればいいんだ」。
ブラット・ピットという俳優が主演している「セブン」という映画がありますが、そこにはダンテの神曲に書かれている「七つの大罪」、すなわち「傲慢、怠惰、暴食、色欲、強欲、妬み、怒り」という罪を一つ一つ連続的に犯していく狂気的な人間の姿を描いています。映画の中ではこれらの順番どおりに殺人事件が起きていき、その最後には、その犯人が彼を追いかけていた主人公の刑事を妬み、そしてその妻を殺害し、その怒りを抑えられないその刑事が犯人を殺害して終わります。この映画はどんよりとした雨のシーンから始まり、いつもどこかに暗さと言い知れぬ恐怖感が伴います。
ダンテがなぜこの七つの大罪の中に「妬み」を入れたかということは、決してあてずっぽうなことではなく、聖書を見て行きます時に確かにそこには妬みによる罪が記されているのです。
例えば今日、読んでいただきましたローマ書13章12節‐14節を見ますと、こんなことが書かれています「夜はふけ、日が近づいている。それだから、私達は闇のわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」
また、マルコ7章21節‐3節にはこう書かれています「人から出てくるもの、それが人を汚すのである。すなわち内部から、人の心の中から悪い悪、欺き、好色、妬み、そしり、高慢、愚痴、これらの悪はすべて内部から出てきて、人を汚すのである」
箴言27章4節には「憤りはむごく、怒りは激しい。しかしねたみの前には誰が立ちえよう」と書かれています。憤りも怒りもむごく激しい、しかしねたみほどではない、ねたみを前にしたら誰もそこには立ち得ないものだというのです。
そして、実際に私達が自分の心に手を当ててみますと、この妬みというものがあり、それによってヘドロが水中から湧き上がってくるように、諸々の問題が起きていることに気がつくのです。
アウグスチヌスは「告白」という本の中で「子供の妬み」について驚くべき事実についてふれています。
私は幼子が妬んでいるのを見て知っています。まだものも言えない年頃でしたが、青白い顔に、きつい目つきをして、乳兄弟を睨みつけていました。これは誰知らぬ者もない事実です。
ものも言えない子供の目にすでに兄弟を妬んでいる思いが見てとれる。私達はこの「妬み」を背負って生きているのです。
今、日本ではいじめの問題がよく取り上げられます。そして、そのいじめが学校のみならず、職場でもあるといいます。いい大人がとも思うのですが「甘えの構造」という名著を書いた土井健郎(どい たけお)という精神科医はこのいじめの原因には「妬み」があると指摘しており、このいじめがなくならないのは子供達も先生たちも親達もこの「妬みの問題」を処置できないからではないかと言います。この妬みを考えることが、いじめ問題を解く一番のカギではないかというのですが、私もそう思います。
よく消防隊員が火災現場でホースから吹き出る水で、家々の消火活動にあたっています。その光景を私達は普通に見ていますが、あのホースの出口には物凄い水圧がかかっており、普通の人では抱えられないと聞いたことがあります。一度、あのホースを手放してしまったらそれは暴れまわる大蛇のようで、周りにあるものをことごとく破壊してしまうというのです。私達の妬みも時にそのように暴れまわるのです。
妬みは本当の自分の姿を失わせ、その感情にはとてつもない力がありますので、時に自分や人の心を、そしてその人生を滅茶苦茶に破壊することがあります。そして、厄介なのは本人は自分の心にある嫉妬心に気がついていないことが多いのです。
今日から始まりました礼拝メッセージシリーズですが、それは「鎖を断ち切れ」というものです。私達は「嫉妬」という見えない鎖に捕らわれています。あたかもそれは私達の心に巨大な岩があり、それゆえ私達が全く自由に身動きできない状態となっているとも言えるかもしれません。
聖書には初めに神に作られた男女、アダムとイブが出てきます。神は彼らが暮らす「園のどの木の実も食べていい」と言いますが、しかし「一本の木の実だけは食べるな、食べたら死ぬことになる」と言います。しかし、その彼らに蛇が近づき(この蛇は悪魔を象徴していると言われますが)、こう囁くのです「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。こうして、彼らは禁断の実を食べ、その時から人間は死を宿命として背負い、常に何かに恐れ、恥を背負い、罪に生きる者となったと聖書は言うのです。そして、この蛇と彼らのかけひきを見る時に、私達はそこにアダムとイブの神に対する妬みというものも読みとることができるのです。人は神すら妬むのです。
この二人の間に生まれたアベルとカインは兄の弟に対する妬みという思いが熟し弟を殺害しました。人類二代目です。そして、悲しいかな私達は彼らの末裔なのです。
聖書中に記されているヨセフの兄弟達は妬みから自分の弟を奴隷として売り払い、イスラエル初代王のサウルは明らかに、自分に仕えている僕ダビデに対する妬みによって、自分を見失い、妬みと怒りが混ざり合い、まさしく狂気の世界を生きるようになりました。人こそ害していませんが、新約聖書に記されているマルタとマリアという姉妹は自宅のキッチンで妹マリアを妬んだのです。イエスの譬に出てくる放蕩息子の兄は弟を妬み、ぶどう園の譬に出てくる労働者も同じ労働者を妬みました。
そして、イエスの誕生時にはヘロデという王がイエスの誕生を恐れ、二歳以下の男の子を皆殺しにしたと聖書は記しています。このヘロデの恐れは妬みのともなうものであったと考えられます。また、イエスが成人となり、福音を伝え初め、その名が知られていくようになるとユダヤの支配階級および宗教家達と衝突しました。そして、これらの人間の心に燃える妬みの思いが当時、十字架刑の決定権を持っていた総督ピラトの心を動かし、彼らはイエスを十字架へと追いやったのです。マタイ27章18節にはその時の人間の心がはっきりと書かれています。
「彼らがイエスを引き渡したのは、妬みのためであることが、ピラトにはよく分かっていたからである」。
「伝道の書」を書きましたイスラエル第三代目の王ソロモンなどは、妬みの本質をよく見極めておりこう書き記しました「わたしは全ての労苦と、全ての巧みなわざを見たが、これは人が互いに妬みあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである」
彼は人間の経済発展、おそらくその分野は教育・医学・哲学・いいえ宗教にまでおよんで、それらの多くは私達の心にある「妬み」という燃料が燃えることによって発展しているのだというのです。そんなはずはないと思われるかもしれませんが、先週成し遂げた自分の仕事の動機は何だったのか、なぜ自分はあの買い物をしたのだろうか、なぜ自分はあそこに行ったのだろうか等、私達の心に手を置いてみると思い当たるふしが必ずあるはずです。
そして、こんな箴言の言葉を聞きますと「なんだ、妬みもなかなか人間社会に貢献しているじゃないか」と思う方がいると思いますが、何せその動機が「妬み」であるがゆえに、そこから噴出する問題は止むことなく、私達は日々、発展という歯車に巻き込まれながら、そして、そこから沸々と噴出する毒に悩まされています。
もし、私達の勉強の動機や仕事の原動力が、妬みによるならば、確かにそこにはとてつもないエネルギーがあり、何かを成し遂げるかもしれませんが、しかし、その成し遂げた自分というのは本来、本当の自分ではなく、ただその時に自分の目に映ったライバルへの敵対心とか、誰彼への復讐心ということのためだけに注がれた人生の貴重な時間ということであり、ソロモンはそのことを「風を捕えるようであり、空で虚しい」と言ったのです。ですから私達は成し遂げたことは数多くあるのに、何か物足りない、あぁなんと虚しいのだろうと生きることがあるのです。
それでは皆さん、私達はどうしたらこの妬みから解放されるのでしょうか。本当にこの嫉妬に向き合った人なら分かると思います。これは「私達には手に負えない」ものだということを。でも一つだけこの妬みの鎖から解放される方法があります。そのことをお話しましょう。
実はこれまで触れてきました聖書に記されている人々の妬みの心。そして、私達の心の中にある妬みには全て共通することがあるのですが、ご存知でしょうか。このことを先に触れた土井健朗(たけお)さんは鋭く指摘しているのですが、それは、この妬み心は実は私達が心の中で「It is not fair、不公平だ!」と叫んでいることなのだというのです。
アダムとイブは自分達だって神のようになれるのに、それを黙っていて、食べてはならないだなんて不公平じゃないか思ったに違いない。カインは思ったに違いない。俺だって捧げ物をしているのに弟の捧げ物だけが祝福されるなんて不公平だ!ヨセフの兄は「俺たちだって親父の子なのに、親父はヨセフに特別に目をかけている、不公平だ」、サウルは「私こそがイスラエルの王である、苦労して国民を統治している、俺あってのダビデなのにダビデばかり賞賛を受けるなんて不公平だ」、マルタは「私は一生懸命に接待の準備をしているのに、妹のマリアはイエスの下でその話を聞いているのは不公平だ」イエスの譬の労働者達は「俺たちは一日中、汗水流して働いていたのに、あいつらときたら、不公平だ!」放蕩息子の兄は「俺は親父のために一生懸命働いてきたのに、町で遊びほうけて帰ってきた弟が、俺も受けたこともない歓待を受けている、これは不公平だ」ヘロデは「俺こそがユダヤを統治しているのに新しい王が生まれ、そいつが俺の代わりの王になるなんて不公平だ」多くのユダヤのリーダーや宗教家達は「俺たちも宗教家としての働きをまじめにしているのに群集はイエスの後ばかり追いかけていく、不公平だ」と。
皆さん、私達が心に妬みをもつ時にはどうですか。この不公平ということが脳裏に浮かびませんか。そして、この不公平だという言葉は誰に向かって言っているのでしょうか。そのことを突き詰めていくますと、このことを私達はほとんど気がつきもしませんが、実は私達は無意識に天に向かって、すなわち神に向かって「これは不公平じゃないか」と叫んでいるのではないでしょうか。
この辺りのことがクリアーになってきますと、私達が妬みから解放される方法が見えてきます。それは、私達の夫、妻や子供、親兄弟や雇用者から慰めていただくということではなく、神の愛と恵みは彼や彼らと同じように自分にも、いや誰にでも十分に公平に注がれているのだということに私達の心の目が開かれていくということです。このことに気がつき、このことの中に私達が憩い、喜びを見出すまで、私達の妬みは今日も明日も吹き出てきます。
先日、20代半ばのオーストラリア人のニックという人のビデオを見ました
彼には生まれつき両手がなく、足も骨盤から下がありません。それでも一生懸命に自分の力で日常生活を送っています。自分で髭はそりますし、コンピューターも自分でタイプします。しばらく彼の顔を見ていたのですが、その表情にはいつもどこか平安と喜びがあり、またその目は輝いているのです。
私達ももちろん彼自身も明らかに、彼とそれ以外の人達の身体的な違いが一目で分かります。まず背たけからしても、彼の視線はいつも回りの人の腰のあたりにありますし、何かをする時もやはり普通の人よりも時間がかかりますし、やはり誰かの助けが必要になります。
そんな彼がロサンゼルスのある著名な牧師と対談をしているのですが、その中でこんなことを言うのです。「自分の苦しみと誰かの苦しみを比較してはいけない」。その時、彼は著名な経験豊かな牧師と対談をしていたのですが、その牧師は思わず彼のその言葉に鋭く反応して「ちょっと待って、今、言ったこともう一度、言ってくれないか」と尋ねるのです。彼はもう一度言ったのです「自分の苦しみと誰かの苦しみを比較してはならない」。
その彼の姿を見ながら私は思いました。彼はちょうどこのメッセージを備えている最中でしたから彼はその人生で「God you are not fair!」と思わなかったのだろうかと思いました。しかし、どう考えても彼の顔の輝きがそのことを否定している。ただ彼の顔は喜びで満ちている。人は楽しんでいるふりはできますが、喜ぶふりはできないものです。
彼は自分のことを語りだしました。彼は牧師の子供として育ちました。牧師の子供であるがゆえに日曜学校に毎日曜日に出席する。でも、それが苦しかった。聖書のエレミヤ29章11節にはこう書いてある「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」
でも8歳の時にニックは思ったそうです、「神は全ての人間を素晴らしく作られたという。でも、どうして僕の体はこんななの。この僕の体のどこに希望があり、将来があるの。誰も僕に全ては大丈夫なんて言ってくれないし、そんなことを言う人間がいたとしても僕は絶対に信じない。僕はその時死のうとした。僕の結婚式の後のパーティーアで僕はフィアンセとダンスを踊ることもできない、もし子が与えられて、その子が悲しんでいる時に、僕はその子を腕に抱くこともできない」
彼が誰かを妬むならその要因はいくらでも見つかり、その妬みは生涯なくならなくてもおかしくないでしょうし、私達も彼に関しては、あの体だもの健常者を妬んでも仕方がないだろうとすら思ってします。
しかし、彼はその人生の中で二つのことを知ったというのです。こういうことを聞きますと、イエス自身が「なくてならないものは多くはない、いや一つである」と言われたように、人生で知るべきことはそんなに多くはないようです。
彼は言いました。一つ目、自分は愛されている。
そして、二つ目、Everything is going to be ok.
彼は言ったのです。私は愛されている。自分の人生で最大のことはイエスが自らを十字架にかけるほどに自分を愛していてくれるということ。そして、そのイエスが自分と共にいてくれるから、自分は大丈夫だということ。とてもシンプル。
確かに私達の人生には彼の肉体の障害というような不公平に思われることがある。皆さんの人生にもあるでしょう。でも、キリストが私達のために十字架にかかられたということ、このことは全く全ての人にフェアであり、この地上に生を受けたもの全てにそのキリストの愛は注がれている。この歴史上、自分のために命を捨てた方がいるという事実、そのイエスが今も私と共にいるのだからEverything is going to be okなのです。
このビデオを見て、私は彼のその生涯に一つのことを発見しました。それは、「彼は人を妬んでいる余裕がないほどに神に愛されているということを知っている」ということです。
ヨハネ第一の手紙3章16節、「主は、私達のために命を捨ててくださった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」とあります。ニックはその愛を知った、自分は愛されていることを知ったというのです。妬みは私達の内に満たされないものがある時に起きてきます。しかし、その満たされない部分に妬みが入り込む隙間がないほどに、私達には神の愛が満ち満ちているのです。
また、この教会の牧師は言っていると言われるかもしれませんが、今日も言いましょう。「人生は一度。今はリハーサルではなく本番」。時間の経過と共に終わりがくる。そして、その人生をどう歩むか、その決定権は自分にある。そのことにまで神は介入しません。神は私達を操作可能なロボットとして作られたのではなく、私達を自由意志をもつものとして造られたのですから。
ですから、妬みでドロドロとした生涯を送るのか、「それが動機でこれだけの数字を残すことが出来た、見てみろ俺のなしたこと」として一度限りの生涯を使うのか。それともキリストの愛に包まれ、本当の喜びと共に人生を送るのか。その決断はそんなに難しくないように思われるのですが、いかがでしょうか。
もう既に今も注がれている主イエス・キリストの溢れんばかりの愛に私達一人一人が気づき、それを己がものとして受け入れることができますように。
お祈りしましょう。
こんにちは。ご無沙汰しております。
NICK,彼のことは以前私もクリスチャンチャンネルで見かけたことがあり知ってはいました。でも、初めて彼の証を聴きました。神様によって力強く生きているNICK!!本当にこれこそミラクルですね。
人それぞれいろいろな試練にあっているでしょうが・・・なんだか、私が今抱えている試練、神様に本当に!本当に任せなくては道は開けない・・・いやぁ、去年の今頃と全く同じ試練の道なのですが・・きっと私は旦那とのことで信仰を高め、神様にもっと近づくことができるのかなぁ。と思いました。確かに周りを妬む・・・そう思いたくないけど・・妬んでいるよなぁ・・・と確信しましたし・・。今日久しぶりに先生のブログを覗いてみたのも神様の導きですね。 感謝です!アーメン!
Fuさん
ご無沙汰しております。
お元気ですか。
ニックはカリフォルニアもあちこちと回っているようですね。いつかお会いできる事を楽しみにしています。
Fuさんにお会いした事はないと思うのですが(あるかな?)、祈っていますよ。試練の中にも神様の恵みは必ず注がれていると信じています。
すみません。お返事が遅くなってしまって・・先生には全くお会いしたことはないのですよ!!以前に先生と奥様のテレビ鑑賞の話題ので私がコメントをさせていただいただけです。(同じ世代である私達(私の友人兼牧師夫婦)と凄く似ていると思ったので。多分先生は一学年上だとお答えしてくださったような・・・)
お祈りしてくださり本当にありがとうごさいます。あれから先生をはじめ、お祈りしてくださる方が増えて、支えられ守られ夫婦の仲も落ち着いています。やはり・・・信仰ですなっ!!
先生ご夫婦にも是非お会いしたいですねっ。
FU-さん
そうですかー。いやーきっといつかどこかでお会いできるでしょう。場所は違いますが、天を仰いで元気よくいきましょ!