司馬遼太郎という人が「竜馬がゆく」という本を書いています。司馬さんはクリスチャンではありませんが、その司馬さんですら、竜馬という人物の生涯の歩みを全て書き終わった後に、この竜馬という人間の背後にある存在というものを意識して、その「竜馬が行く」一番最後のページにこのような言葉を書き記したのです。その最後の言葉が私は大好きです。
「天に意思がある。としか、この若者の場合、思えない。天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。」 ~ 司馬遼太郎、『竜馬がゆく(八)』(374項)
慶応3年11月15日。坂本竜馬、京都近江屋にて7人の刺客に襲われ闘死。その年33歳。
あなたにも天から与えられた使命があります。それがバイブルのメッセージです。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ↓
2つの命を大切に!
2007年8月26日
9つの生を大切にという新しいシリーズが始まりました。最初の今日は「生」ということを見ていきたいと願っています。「生」とは言うまでもなく「生きる」ということであり、生きるということは私達の命があってのことです。私達はこの命があるので、キッチンで料理を作れるし、オフィスで仕事を進めることもできますし、命あるゆえに、私達は今朝、この礼拝に出席しているのです。
実は聖書はこの命には「今、生きている」というその命以外に、もう一つ別の命もあるのだということをはっきりと区別しているのです。私達の手元にある新約聖書はもともとはギリシア語で書かれているのですが、すなわち、そのギリシア語において「命」という言葉には「プシュケー」と「ゾーエ」という二つの言葉が区別されて使われているのです。
つまり「肉体の命」を「プシュケー」と呼び、「霊的な命」というものを「ゾーエ」と言う言葉で表しているのです。そこで、今日はこの二つの「命」について、3つのことをお話したいと思います。まず、最初に「肉体としての命」、そして二つ目に「キリストにある命」、最後に「永遠の命」ということです。
肉体としての命(プシュケー)
まず、最初に「肉体としての命」ということを見ていきましょう。私達はあまり考えもしないことですが、私達には無料で与えられているものがたくさんあります。自動車のガソリンが高騰しているといえども、私達は酸素のためにお金を払ってはいません。ミネラル・ウォーターのためにお金は払いますが、降ってくる雨に対して支払いをしている人はいません。だいいち、どこに支払えばいいのか分かりません。
このように私達の周りには多くの「与えられている」ものがあるのですが、その中でも最も大切なものは「私達の命」なのだと聖書は私達に語りかけるのです。よく思春期の子供の反抗に対して「誰がお腹痛めてお前を産んだんだ」というような親の決まり文句がありますが、そして、それは明らかに事実なのでありますが、まことにそう思われている方には申し訳ないのですが、この人間の誕生とて、親が全ての誕生の根源にあるということではないのです。カタログ販売というものがありますが、私達の親が「我が子はどれがいいか」とカタログから選んで子が誕生してきたわけではないのです。
旧約聖書に書かれていますヨブという人は自分の10人の子供や蓄えてきた全ての財産を失った人でありましたが、その時にこう言いました「私は裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:20)。
敬愛しますある先生が「神様に与えられている使命が続く限り生きるのです」と言われていましたが、本当にそうだなと思いました。私達の命は神によって与えられているのです。そして、もし、この私達の命を取り去ることができる権威がある方がいるとしたら、その権威は何人にも与えられておらず、ただ、その命を与えて下さった方だけに許された権威だということになります。いいえこの場合、「取り去る」というよりも「お預かりしていたものをお返しする」と言ったらいいでしょうか。
司馬遼太郎という人が「竜馬がゆく」という本を書いていますが、司馬さんはクリスチャンではありませんが、その司馬さんですら、竜馬という人物の生涯の歩みを全て書き終わった後に、この竜馬という人間の背後にある存在というものを意識て、その「竜馬がゆく」一番最後のページにこのような言葉を書き記したのです。その最後の一行が私は大好きです。「天に意思がある。としか、この若者の場合、思えない。天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。」 ~ 司馬遼太郎、『竜馬がゆく(八)』(374項)
聖書はこのような使命ということについて、それは竜馬に限らず、あなたも私もそのような使命を与えられているのだというのです。
モーセの後を引き継いだイスラエルのリーダーであった人にヨシュアという人がいます。若き時にその秀でた勇気と力によって、数々の戦いを勝ち抜いてきた人です。しかし、その彼も歳を取るということを免れることはできませんでした。そんなヨシュアに対して、神様が言われた言葉がヨシュア13:1に書かれています。
さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」(ヨシュア13:1)。
よくご高齢の伝道者が、一つの集会を終える時に、「もうこれで皆さんの前に立つのも今日が最後だと思います」といわれる先生がいます。でも、不思議なもので、その先生は翌年も力いっぱい主の御用に当たっている。そして、また同じことを言っている。その先生に神様が与えられた使命がまだ終わっていないからです。
私達は神から承った私達の体内を脈打つこの命を、この地上で生かすのです。それは、神から与えられたものであり、その与えて下さった方が「もう、いいよ、よくがんばったね。私のもとに来なさい」と言われるその時まで、私達は精一杯、この地上での生を生きるのです。
キリストにある命(ゾーエ)
二つ目のことを考えてみましょう。それは「キリストにある命」ということです。私達は今、心臓が動いているということによって証明することができる生、すなわち命についてみてきました。しかし、聖書の中にはこの心臓が動いています、だから生きています、命があります、ということの他にまた別の命があるのです。
どういうことかと言いますと、私達の心臓が動いており、食事を食べて、体を動かしていても、私達の命が失われていることがあるよと聖書は言うのです。その辺りのことをヨハネというキリストの弟子は「ヨハネによる黙示録3章1節」でサルデスという教会に宛てて書いた手紙の中でこう言っているのです。
「サルデスにある教会の御使いに、こう書き送りなさい。「神の七つの霊と七つの星を持つ方が、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは生きているというのは名だけで、実は死んでいる」
人間として口惜しいけれど、聖書が言っているこの言葉は真理ではないでしょうか。心電図をあてれば心臓はうごき、脈も正常に動いている。しかし、その魂が死んでしまうことが私達にはあります。
先ほど、申し上げましたようにこの命のことを聖書は「ゾーエ」というギリシア語で呼んでおり、これは明らかに先にあげた「プシュケー」とは異なるものです。イエス・キリストもこのことを踏まえて、ゾーエという言葉と共にこんなことを言われました。
あなたがたは命を得るために私のもとにこようともしない(ヨハネ5:40)。
神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである(ヨハネ6:33)。
イエスは、また人々に語ってこう言われた「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」 (ヨハネ8:12)
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。ヨハネはこう言ったのです(ヨハネ10:10)。
しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである(ヨハネ20:31)。
明らかにこれらのイエスの言葉を聞く者達、すなわち私達自身も命あって、この言葉を聞いたり、読んだりしているのです。ですから「命を得る」とか「命を与える」と言われても私達は「いいえ、イエス様、私はもう既にその命をいただいています」と普通なら言うのです。しかし、キリストの言葉は確かに心臓が動いている私達に語られているのです。すなわち、それは私達の考えるプシュケーの命ではなく、ゾーエの命なのです。
イエスは言われました「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」〈マタイ4:4〉。この言葉は、私達だけが自分の肉体を養うものだけで生きることができるものではないのだ。私が与える神の言葉によって、あなたの霊の命は養われるのだというのです。
聖書がいうバランスのとれた人間というのは、ビタミンや食の栄養が取れた人間、時間管理が巧みで仕事をプライベートを両立している人なのではないのです。肉体の命と霊の命を神にあって、養っていただく時に私達本来の人間の姿が明らかになるのです。
そして、私達は肉体の命よりも、こちらの命を第一に求めるべきだと聖書は言うのです。イエスは言われました「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)。私達の肉は常に紙一重のところを保たれています。そして、この肉は本当に弱い。どんなに強靭に体を鍛えている人でも3階の部屋から落ちればケガをするのです。見た目がよくても、体内で何かの病気に冒されているかもしれない。そして、肉の思いは、私達の決意や意思によって、易々とコントロールできるものではありません。 私達を本当に生かすものは、私達の肉ではなく、神から与えられる霊なのだというのです。
永遠の命〈ゾーエ〉
3つめのこと。それは、これらゾーエの命について聖書はもう一つの大切な意味をそこに含ませているということ、すなわち、それは、これらの命は永遠の命であるということです。
聖書の伝道の書(Ecclesiastes)3章11節に「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」という言葉があります。これは人間と動物が区別される大きなことです。家で飼っているインコが永遠について思いめぐらしている。ブンブンとうるさい蠅が永遠を考えながら飛行しているとは思えない。しかし、人間は決して見えないのに、「永遠」と言う事柄を考える。だから「永遠の愛」とか「永遠の絆」などという言葉を用いる。合理的な世の中になっているのに、なんでそんな思いが人間にはインプットされているのか。それは神がそうされたと聖書は言うのです。
聖書においては、先に挙げた心臓が動いていますという命だけでは、それは命の半分を言っているのであって、もっと大切な命があるというのが聖書のメッセージなのです。例えばイエスはこのような言葉を繰り返し語りました。「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(ヨハネ6章27節)。
先ほど「与えられている使命が続く限り生きる」とお話しました。与えられているということは、その与えてくださる方がいるということであり、そのお方こそが神様なのです。私達は心臓がとまったらその時点で命が失われたと言います。実際に、その時に私達の体は埋葬されるために手続きがなされます。確かに肉体は死にました。しかし、私達はその瞬間から永遠の命を得るというのが聖書の約束なのです。
今日の落穂にも書きました。オペラ歌手が歌う「千の風になって」がミリオンセラーになりました。これは異例のことだと言われています。なぜ、人々がこの歌に惹かれるのか。言うまでもない「墓の前で泣かないで、私はそこにはいない」というメッセージが私達の心を鷲づかみにするのです。この歌を歌っている秋川さんという方がインタビューに答えていました。この歌が驚異的に売れた背景には、その数だけの愛する者を失った人達の悲しみがある。そして、何度も「前向き」という言葉をこの歌を説明するために使っていました。
確かにこの歌を説明するには今日、盛んに使われている「前向き=POSITIVE」という言葉はふさわしいのでしょう。しかし、私は彼の話を聞いていて「人の死ということに対して「前向き」という言葉はあまりにも安っぽいのではないか」と思いました。確かにこの歌は後を振り返り泣くのではなくて、前を向いていこうよというメッセージをもっているのですが、それでは「前を向いて何を見ればいいのか」ということに対して私達は答えを持ち合わせていないのです。
森繁さんというゴスペル歌手は歌います。おばあちゃんに「何で死ななけりゃいけないの」と聞けば「仕方ないからね」おじいちゃんに「何で死ななけりゃいけないの」と聞けば「順繰りだからね」という答え。仕方ないということは、順繰りだからねということは、本当は死にたくないということでしょ。
人はその日が来ないように、トレッドミールに乗る。その日を少しでも先延ばしにするためにビタミンを多くとる。私達のあらゆる努力の背後には、この得たいのしれない死が潜んでいる。多くの人が肉体の命を保つために心を配り、その後の命についても希望があったらいいと願っているのです。それなら、なぜ、数千年来、私達に確固たる約束を示している聖書の言葉を受け入れないのでしょうか。
死ということは、握っていたいものがどうしようもないから手放さなければならないというものではない。病院の待合室で番号札を持って順番を待っていて、順番が来たからさようならというものではないと聖書は言うのです。
イエスは言われたのです「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(ヨハネ6章27節)。
私達はプシュケーの命だけをどうにかこうにか保つことだけでは限界があるように造られているのです。そうではない、私達は神の言葉によって、ゾーエなる命が養われなければなりません。そこに私達が求めて止まない全てがあります。そして、そのゾーエの命は私達に永遠を約束しているのです。
お祈りしましょう。
日本では「オーラの泉」っていう番組が、深夜から土曜のゴールデンタイムになった。江原さんという人と美輪さんがゲストの前世だとか、守護霊、死んだお母さんのメッセージなどを伝える番組なんだけど、この、大倉の礼拝メッセージと同じ事を言ってるよ、神とか霊とか、目に見えないものがあるんだという事、生きるのに何が大切なのか、興味深く、見てる。
「竜馬が行く」 大倉に「いいから読め」って言われて読んだ、この本から何かが変わって今に続いてる気がする、気が付けば、竜馬より長生きしてるな・・・
さんぼ
ほんと「竜馬がゆく」から、おいら達の歩みは何か変わったな・・・。この本との出会いがなかったら、自分はあの時、アメリカに行かなかったかもしれないし、竜馬は確かにさんぼのニュージーランド行きにも何か影響を与えたんじゃないかな。他にも〇介のスリランカ行きとか(覚えている?)、とにかく竜馬はおいら達のヒーローだったね、あの頃。
さんぼのブログにあるように「偶然はない」と思うよ。全ては必然だとわしも信じている。そして、目には見えない不思議な導きによって、今は「オーラの泉」ではないけれど、ジーザスにある「命の泉」に生かされて人生を楽しむことを実感しているよ。
「かわいている者には、いのちの泉から価なしに飲ませよう」 (ヨハネ黙示録21章6節)。
俺のNZ行きは、竜馬の影響もあるだろうけど、大倉がアメリカへ行ったのが一番大きく影響してるよ、あの時、始めて海外っていうのを意識したから・・・ヨースケは、2年ぐらい前かな・・・藤沢市のダッシュ藤沢っていう市がだしてるスポーツ関係の小雑誌があるんだけど、その中で、秩父宮のスポーツジムの代表みたいなのでインタビューが載ってたよ、頑張ってるよね!!!
さんぼ
確か横浜だったと思うんだけれど、高二の時に竜馬の生涯を綴った映画、「RONIN」を観に行ったのを覚えているかい?
確かあの中で竜馬演ずる武田鉄矢が、当時の土佐藩の中では身分制度があり、身分の低い者はどう考えても将軍にはなれないけど、かのメリケン国では、農民の子(エイブラハム・リンカーンのこと)が大統領になれるんだぞーというような台詞があって、「ありゃーこりゃーおもしろそうな国だなー」と思ったことを覚えているよ。
さんぼをはじめ、多くの仲間が成田まで見送りに来てくれた1987年の夏、あの時から俺たちの目が世界へと開かれたのかな。
補足:全くさんぼとの往復書簡となっていますが、このさんぼとは藤沢から原付バイクで竜馬を慕って高知まで旅をしました。
あの「たけちー!!何故、死んだー!?」と泣き叫ぶシーンは俳優・武田鉄矢のクライマックスだと思うね、俺は。
たしん
おいおい、たしん、お主も観ていたんかい!?武市半平太のことだろ!いやー、たしんのディテールには驚いた!
いやさー実はこの間、この映画のパンフレットがでてきたのよ。懐かしくなってしまいました。
ちなみに桂小五郎に川谷拓三、高杉晋作に吉田卓郎、そして、海援隊の長岡謙吉には竹中直人がでていたよ。