義理によらず、恵みによって                             

V30100034義理人情というのは日本人をあらわす一つの言葉かもしれません。それこそ「清水の次郎長」とか「葛飾柴又の寅さん」の世界というものに私達、日本人は温かさとか心地よさを感じます。

しかし反面、この義理は時に色々な問題を引き起こすこともあります。たとえば日本語には「義理の柵(しがらみ)」とか「義理と人情の板ばさみ」とか「義理で顔を出す」とか「義理を忘れたのか!」というような、なんとも私達にとってありがたいとは思えない、義理という言葉によって相手を恫喝するような台詞までもがあるのです。さらに興味深いことに和英辞書で義理というものを調べますとそこにはDuty, Debt, Obligationというような言葉が出てくるのです。

なぜ義理という言葉にはこのような「柵(しがらみ)」とか「板ばさみ」とか「DUTY」とか「OBLIGATION」というような言葉が伴うのでしょうか。なぜなら「義理」という言葉の回りには常に「見返り」という言葉がちらつくからです。すなわち義理が義務となってしまう、それが「務」となってしまう時に、それは私達の重荷、そしてプレッシャーとなってしまうのです。

このことにおける人間関係の混乱と破れを私達はよく見聞きします。最初は親切と感謝に思っていたことが、いつのまにか心の伴わない義務となり、やがてそこから生じるすれ違いによって関係がギクシャクしてしまうからです。そして、私達が日本人としての心をもつ限り、この「義理」ということは、私達の信仰生活の中にも知らぬうちに入ってくるのです。

例えば、義理によって信仰をもつ(そんな人はいないことを願いますが、確かにないともいえないかもしれません)。義理によって礼拝や諸集会に出席する。義理によって教会のはたらきに関わる。知らぬ内に私達はその信仰生活や教会生活の中から本当の福音を締め出していることがないでしょうか。今日はこれらのことを心にとめながら、ローマ人への手紙5章から二つのことを見ていきたいと思います。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。

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義理によらず、恵みによって                             ローマ人への手紙5章6節-11節                           2009年8月9日

6わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。8しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。9わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。10もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。11そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

義理人情というのは日本人をあらわす一つの言葉かもしれません。それこそ「清水の次郎長」とか「葛飾柴又の寅さん」の世界というものに私達、日本人は温かさとか心地よさを感じます。

しかし反面、この義理は時に色々な問題を引き起こすこともあります。たとえば日本語には「義理の柵(しがらみ)」とか「義理と人情の板ばさみ」とか「義理で顔を出す」とか「義理を忘れたのか!」というような、なんとも私達にとってありがたいとは思えない、義理という言葉によって相手を恫喝するような台詞までもがあるのです。さらに興味深いことに和英辞書で義理というものを調べますとそこにはDuty, Debt, Obligationというような言葉が出てくるのです。

なぜ義理という言葉にはこのような「柵(しがらみ)」とか「板ばさみ」とか「DUTY」とか「OBLIGATION」というような言葉が伴うのでしょうか。なぜなら「義理」という言葉の回りには常に「見返り」という言葉がちらつくからです。すなわち義理が義務となってしまう、それが「務」となってしまう時に、それは私達の重荷、そしてプレッシャーとなってしまうのです。

このことにおける人間関係の混乱と破れを私達はよく見聞きします。最初は親切と感謝に思っていたことが、いつのまにか心の伴わない義務となり、やがてそこから生じるすれ違いによって関係がギクシャクしてしまうからです。そして、私達が日本人としての心をもつ限り、この「義理」ということは、私達の信仰生活の中にも知らぬうちに入ってくるのです。

例えば、義理によって信仰をもつ(そんな人はいないことを願いますが、確かにないともいえないかもしれません)。義理によって礼拝や諸集会に出席する。義理によって教会のはたらきに関わる。知らぬ内に私達はその信仰生活や教会生活の中から本当の福音を締め出していることがないでしょうか。今日はこれらのことを心にとめながら、ローマ人への手紙5章から二つのことを見ていきたいと思います。まず最初に私達は神の恵みによって救われたということです。

あなたは恵みによって救われた。

聖書をその最初から終わりまでトータルに眺める時に私達が気がつかされることは、神様が私達に対する「義理」によって、私達に対する愛と憐れみを示しておられるということはないということです。

すなわち私達が考えるように、5つの悪行に対して、6つの善行をした人間に恩義を感じて神様は救いの御手を、差し伸ばされるということはないのです。あるいは神の望まれるような生き方とか、自らの体を打ち叩くような過酷な修行に耐えてきたから、それに恩義を感じて、神様は私達に救いの御手を伸ばしておられるのではないのです。

ある方々にとって、それは誠に意外なことかもしれませんが、全くもってどうしようもない人間に対して神様は全く無条件にその愛と憐れみを注いで下さっている事実を私達は聖書の中に見出すのです。

旧約聖書のホセア書などを見ますと、神様はホセアという預言者にまさしく遊女のような(今日の売春婦)女ゴメルを妻として受け入れ、彼女を愛し赦し受け入れるようにと語りかけます。普通で考えますならば、不貞の中に生きている女を妻として受け入れることなどはできないのです。しかし、この経験を通して、神様はホセアに、これこそが神とイスラエルの民、すなわち私達、人間と神の関係なのだと語りかけるのです。

すなわち神様は私達に対する義理どころか、全く神を無視し、好き放題に生きて神に反している私達を受け入れ、そんな私達に対して無条件の愛を注いでいてくださるというのです。キリストの伝えた宣教者、パウロが書いたローマ書5章6節-8節を読んでみましょう。

6わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。8しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

皆さん、このローマ書をパウロは心をこめて書いたと思うのです。特に彼が「しかし、まだ罪人であった時」というくだりにきた時に、そして「わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」という言葉を自ら書きながら、パウロの眼は涙で溢れたに違いありません。なぜなら、彼がキリストに出会う前にしていたことは、実にそのキリストを信じる者を捕らえては獄にぶちこむということだったからです。彼が「罪人」と言った時に、それは誰彼のことを意味したのではなくて、自分自身のことだったからです。

先にお話しました預言者ホセアに対して神様は「行って、淫行の妻と、淫行によって生まれた子らを受け入れよ」(ホセア1章2節)と言われたのです。このホセアの妻ゴメルに対しては色々な説があるのですが、彼女は結婚してから淫行に陥ったのではなくて、結婚する時に既に淫行の女だったという学者もいます。その妻をあなたの妻として愛せよと神様はホセアに命じたのです。

そして、彼らには子が三人与えられるのですが、その内の二人の子はホセアの子なのかも定かではないと言われています。そして、遂には妻ゴメルは夫とこれらの子供を捨てて一介の遊女となり、家を去るのです。しかし、そのホセアに対して神様は再び「姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」(3:1)と命じ、ホセアは、銀15シケルと大麦1ホメル半とをもって彼女を買い戻し(おそらく彼女は自らの体を誰かに売っていたのでしょう)、ねんごろに彼女に話すのです「あなたは長く私の所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。わたしもまた、あなたにそうしよう」(3:3)。

皆さん、パウロが書いたローマ書は「私達人間が、まだ罪人であった時」にキリストは私達のために死んで下さったというのです。そして、それによって神は私達に対する愛を示されたというのです。同じように神様は既に不貞の生活をしているゴメルを妻として迎えるように、そして彼女がホセアと子供を捨てて出て行っても彼女を買い戻すようにというのです。ここに記されているのは神様の私達人間に対する到底信じがたい愛なのです。

皆さん、このような神の愛のどこに義理が入り込む余地があるでしょうか。神様の私達に対する愛は全く完全なものなのです。しかし、人は常に神から離れていく。もちろん、私達は自らの体を売るようなことをしていませんが、聖書を見ていく時に私達が本当の神様以外のものに心を寄せ、それらをあたかも神のように崇めているということは、ゴメルの不貞と同じことなのだと言うことが度々書かれているのです。

新約聖書にいたっても、このあらすじは変わることなく、イエス・キリストの譬の中においても常に人間は神から離れてしまっている、しかし、その人間を神は今も探し求めており、一人の人間が神のもとに立ち返ることを待ち望んでおられるということを記しているのです。二つめのこと、それはそんな愛を受けた私達の神様に対する応答ということです。ローマ書5章9節‐11節を読みましょう。

恵みの応答によって生きる

9わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。10もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。11そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

皆さん、このように愛されている私達は神によって義とされたというのです。聖書は義人は一人もいないと言います。しかし、そんな私達が義とされた、それはすなわち私達がイエス・キリストの死によって私達は救われたということです。そして、そればかりではなくて、私達は今や和解を得させてくださった主イエス・キリストによって神を喜ぶのです。そこには喜びがあるというのです。

皆さん、この手紙を書いたパウロという人は各地に多くの教会を建てた人であり、それらの教会を義理によって訪ねたのではなく、義理によって手紙を書いたのではなく、心から喜んで、それをしたのです。聖書を見ていく時に、パウロが義理によって伝道をしている姿を見出すことはできません。

同じように、神様と私達の関係というのを考えます時に、私達から神様への思いの中にも義理というもの、すなわち義務というものはないのです。しかし、私達の信仰生活にはいつの間にか、この義務感が入り込んでくるのです。

皆さんの中で神様に義理を売って、今の信仰生活を保っているという方いますか?否、私達は神様に対して何かをできるような者ではない、かえってその名を汚してしまうような存在でありながら、神様の愛は私達に無条件に注がれているというのです。このことを聖書は恵みと読んでいます。

私達は一方的にこの神様の恵みを受けとっているのです。そして、それに対して私達は喜んで応答するのです。それは形式ではありません。それは義理ではありません。義務ではありません。いやいやではありません。喜んでそれをするのです。

皆さん、私達はなぜイエス・キリストのためにはたらくのでしょうか。この礼拝を考える時に、なぜ、私達はそのためにある者は司会として立ち、ある者は奏楽をし、ある者は賛美をリードし、ある者は受付けに立つのでしょうか。なぜ婦人会のはたらき、執事・理事のはたらきに私達は就くのでしょうか。なぜ牧師はメッセージを語るのでしょうか。

誰かの義理としてやっているのでしょうか。おつき合いなのでしょうか。自分の栄光のためでしょうか。あの人のため、この人のためでしょうか。皆が私達を見て感嘆するためでしょうか。もしそうであるなら、私達の動機は全く間違っています。私達は神様の私達に対する恵みの応答(リスポンス)としてそれらをしているのです。そこに私達の動機がなければ、私達のはたらきを続けることはできません。嫌々、続けることはできるでしょう。しかし、感謝と喜びをもってそれを続けることなどできないのです。

私が所属していた日本ホーリネス教団に村上宣道先生がいらっしゃいます。先生のメッセージの中に「偉大なるバカたれ」というものがあります。その先生がマルコによる福音書14章3節9節のイエスの頭に高価なナルドの香油を注ぎかけた一人の女(ヨハネによる福音書でこの女はラザロとマルタの妹、マリアであると書かれています。ヨハネ12章3節)と弟子達の姿を話しています。

3イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。5この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。6するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。7貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。 8この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。9く聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

ベタ二アのマリアといいますと、私達は彼女が常にイエスの語られる言葉に耳を向けていたということを聖書のあちこちから知っています。その彼女はイエスと三年半もの間、寝食を共にした弟子達も気がつかなかったイエスの最期というものに気がついていたようです。それゆえ、彼女は香油をイエスの頭に惜しみなく注ぎかけたのです。

するとそれを見ていた人達が言ったのです「なんのために香油をこんなにむだにするのか」

この後、六日後にイエスは十字架の死を遂げられました。そのことを聖書を通して知っている私達はこの人達に驚き呆れます。しかし、どうでしょうか。私達は日々の信仰生活のために同じ事をしていないでしょうか。

私は村上先生が魂を込めて言われた言葉が胸に刻まれています「主にある兄弟姉妹、イエス様が私達のために流されたのは香油ではない。彼は私達のためにその血を流された」。

「そこを何とか、主のためにしてください」という願いは、どこか誤った言葉なのかもしれません。「仕方ありませんからします」もしかり。全て主のためにすることは、あり余ることを私達のためにしていて下さる神様、私達のために命を捨ててくださった方への感謝以外にないからです。

わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

主にある兄弟姉妹、実に私達の主への働きは神様の私達に対するあり余る恵みに対する喜びの応答なのです。お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り                                  義理によらず、恵みによって                             ローマ人への手紙5章6節-11節                           

①あなたは「義理」という言葉にどんな印象をもっていますか?「義理の柵(しがらみ)」「義理と人情の板ばさみ」「義理で顔を出す」「義理を忘れたのか!」という言葉にはどんな印象がありますか?義理が「義務」や「見返りを求める」ということになると、どんな問題が起きてきますか?あなたはこれらのことで悩んだことがありますか。

②ローマ書5章6節-8節を読んでみましょう。「善人になった後」とか「善人になる兆候があるから」というのではなくて、「まだ罪人であった時」に「わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」ということは何を意味するのでしょうか。この言葉をわが身に置き換える時にあなたの心に去来する思いはどんなものですか?

③ホセア書に記されている夫ホセアと妻ゴメルの関係こそが(一章~三章)、神様と人間の関係なのだということについてどう思いますか。もし、そうならあなたはこの神の驚くべき愛が自分に注がれていることについてどう思いますか?

④上記↑②や↑③の愛を知ったあなたが神様のために喜んで仕えていくということに違和感がありますか。それはリーズナブルなことですか?あなたは義務ではなく、喜んで神様に日々仕えていますか?

マルコによる福音書14章3節9節においてマリアはイエスの足に高価なナルドの香油を注ぎかけました。それを見ていた者達は彼女の行為に対して「なんともったいないことをするのだ!」と言いました。イエス様が私達のために流してくださったものは何ですか。あなたはこの主イエス・キリストの愛に最善を尽くして日毎に応答していますか?

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