明日がくるかどうか私達には分かりません。しかし、私達は明日がくることを信じて明日のためにシャツにアイロンをかけ、車のオイルを変えるのです。私達は郵便ポストに手紙をいれれば、必ず郵送されると信じて投函するのです。自らを無神論者という人達ほどに信仰からほど遠い人はいないように思えますが、神がいないということは誰も証明できませんから、彼らは神がいないということを信じている熱心な信仰者です。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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この世を生きる最大の秘訣 2010年2月7日 エペソ6章10節-20節
10最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15平和の福音の備えを足にはき、 16その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
先週、私達は「平和の靴」をはくということを見ました。言うまでもありません、靴をはいたら私達は動き出します。前に進み出します。しかし、私達が動きだせば悪の力も執拗に攻撃してきます。ですから、その攻撃に対して私達は自らを守るものを必要とします。そして、その時に必要となってくるものが「信仰の盾」なのだとパウロはここに書いているのです。
当時、パウロは盾というものをローマの兵士達を見て知っていたと思われます。彼らは大きな盾をもっていたようです。その盾をもって自らを守るという姿がパウロの脳裏にはあったのでしょう。当然、今日、私達はこのようなローマ兵が盾をもって歩いている姿を見ることはありませんが、時々ニュースで激しいデモの前に立ちはだかる機動隊が盾をもってその身を守っている姿を見ることはあります。人々が火炎瓶や石を機動隊に投げつけますが、それらのものも盾がある限り、直接、人間に当たることはありません。確かにそのような光景を見ていますと、彼らの盾は大切な役目を果たしています。
同じようにパウロは私達も「盾」を持っている限り、自らを守ることができると言ったのです。そして彼はその盾を「信仰の盾」と呼び、それによって、悪しき者が放つ「火の矢」から身を守れるのだというのです。
皆さん、この火の矢はどこに目掛けてとんでくるのでしょうか。それはあらゆる角度から巧みに私達に向かって飛んでくるものでしょうから「どこに」ということを挙げましたらきりがないと思います。しかし、その中で明らかなことはその矢は「神様が私達に願っておられること」を阻害するために飛んでくるに違いないということです。それでは神様が私達に願っていることとは何でしょうか。そのことがⅡテサロニケ5章に記されています「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことについて感謝しなさい。これがキリスト、イエスにあって神があなたがたに求めておられることである」(Ⅱテサロニケ5章16節ー8節)。 今日は特にこの三つに対して執拗に攻撃をしかけてくるであろう、その戦いについて見ていきましょう。
すなわち、悪しき者の矢は私達の喜び、祈り、感謝を奪うべく日々、放たれきます。敵が私達の何に目掛けて矢を放っているかということを知ることはとても大切なことです。もし、私達の生活の中から喜びと祈りと感謝が失われているとするならば、私達はそうとうにこの矢によってダメージを受けているということになるでしょう。そこで。まず最初に失望:私達の喜びを奪うものということを見ていきたく思います。
失望:私達の喜びを奪うもの
ルカ24章にはイエス様が十字架にかけられて、死んで葬られた後に肩を落としてエマオという村に向かって歩いている二人の弟子の姿が記されています。その弟子たちに復活のイエスが近づかれて共に歩んだという記事です。その時に彼らは共に歩んでいるのがイエスであるということに気がづかずに本人に向かってこう言いました「(ナザレのイエスは)神と全ての民衆との前で業にも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。私達はイスラエルを救うのはこの人であろうと望みをかけていました」(ルカ24章19節-20節)。
彼らはここで自分達のもっていた「望み・希望」は過去のものとなったのだというのです。すなわち、明らかにこの弟子たちは失望していたのです。彼らはイエスこそが自分たちを救ってくださるお方にちがいないという望みをかけていたのです。しかしながら、イエスは殺されてしまったので、もう私達には望みがないというのです。そのような意味で彼らの心には火の矢が突き刺さっていたのでしょう。
皆さん、私達もこのエマオの途上の二人のような経験をすることがあります。すなわち、私達も「この人こそ、あの計画こそ、この場所こそ、あの仕事こそ」とあるものに望みをかけて生きているにもかかわらず、その「この人、あの計画、この場所、あの仕事」が失われたり、それに裏切られたりすることがあります。特に信頼を寄せている人にかけていた希望が失われた時の悲しみは大きなものです。それは私達にとって大きな失望となるのです。
私自身も自分が失望する人間であることを認めます。火の矢が私の心に突き刺さり、それにより失望感に襲われることがあります。その時に私は身動きできなくなりますし、その破れ口をついて次なる矢が解き放たれてきます。その矢を聖書は「火の矢」だというのですから、その火が私の心に広がり炎上し、失望からさらなる心のダメージへと傷口が広がっていくことがあるということを認めます。
パウロも私達と同じ人間、そのような体験をしたことがあったのでしょう。それゆえに彼は言うのです「あなたは信仰の盾をもて」と。今、申し上げたような状態にある自分を奮い立たせてもう一度、この信仰の盾を高く挙げなさいというのです。そして、彼がこのように「信仰の盾」と言うのには根拠がありました。彼はそのことをローマ5章1節-5節に記しています。
「このように、私達は信仰によって義とされたのだから、私達の主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。私達は、さらに彼により、今立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを私達は知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、私達に賜っている聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからである」
この聖書箇所を注意深く読みますと、そこには「信仰によって」という言葉が二度出てきます。英語の聖書には「Through Faith,そして By Faith」と書かれています。そして、それと同時に三度「希望」という言葉が出てきます。すなわち、どういうことかと言いますとパウロは「希望」というものは「信仰」によって生まれるものなのだとここで言っているのです。
そして、パウロはその信仰により「患難」さえも喜んでいるというのです。私達にとって「患難と試練」はどうひっくり返っても「患難と試練」なのですが、信仰をもって、この「患難と試練」を受け止めるのなら、それは「希望」となる、いいえ驚くべきことにそれが「喜び」とさえなると彼はいうのです。そして、希望は失望に終わることがないというのです。
それゆえに、先ほど失望に包まれていた二人のキリストの弟子達に対してイエスはこう言ったのです。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者達が説いた全てのこをとを信じられない者たちよ、キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光にはいるはずではなかったのか」(ルカ24章25,26節)。皆さん、希望とは「この人、あの計画、この場所、あの仕事」を手に入れましたから希望がありますということではないのです。本当の希望とはそれらのものが失われた時に、あなたの心にあるものなのです。信仰こそが私達の失望を希望に変えるものです。
二つめのことをみていきましょう。それは私達から疑惑、すなわち祈りを奪うものということです。
疑惑:私達から祈りを奪うもの
ヤコブ1章2節-8節を読みましょう。
2わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。3あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。4だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。5あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。6ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。7そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。8そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない
読んでお分かりになりましたように、ここにも先のローマ書五章にパウロが記しているようなこと、すなわち「患難を喜び、希望をもっている」と同じようなことが書かれています。すなわち2節にありますようにこの書を書いたヤコブは「あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」と記しているのです。これらを読む時に、私達は「試練を喜ぶ」ということはパウロという何か際立った人だけが達しえた境地なのではなく、誰でもキリストにあるならば私達の想像を超えた喜びをもつことができるのだと聖書は私達に語りかけているのです。
さて、ここには二回「願い求める」という言葉が書かれていますが、願い求めるということは、言い方を変えますならば「神に祈る」と言うことができる言葉だと思います。また同じく二回「疑う」ということも書かれています。すなわち、ここに記されていることは「神に祈る」ということと「疑う」ということなのです。
私は疑いをもち、祈りができなくなることを認めます。「こんなこと、祈ったってだめだ。もう、何年も祈っているのに何もきかれない」という内なる囁きが聞こえています。火の矢が心に突き刺さっているのです。それが炎上しますと、私の心の中に火は燃え広がり「諦め」とか「落胆」「愚痴」が生まれてきます。このヤコブ書に書かれているように、私の心は二つに割れ、その言葉と行動に安定感と一貫性がなくなってきます。
もし、私達が祈らなくなったらサタンは喜ぶことでしょう。神様と私達との関係が音信普通となっており、神と共にある生き方ができなくなるのですから。もし私達の家族の間に会話が全くなくなれば、その家族はとても危険な状態に陥ることでしょう。会話によって私達は相手の気持ちを知り、そこから「相手に対する労わりの思い」とか「自分に対する相手からの励まし」を受けることができるのですから。同じように祈りを神様との会話と考えますならば、私達が疑いにより祈りをやめてしまうことは私達にとって致命的となります。
このことはまた後日、お話しますが、実は私達が見ていますこのエペソ書6章の神の武具に関する聖書記事の最後に、パウロは「祈る」ことについて触れているのです。すなわち「絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目を覚ましてうむことがなく、全ての聖徒のために祈り続けなさい」(エペソ6章18節)と記されているのです。このことは明らかに祈ることをやめてはならない。疑いによって、祈ることを諦めてはならないと私達に語りかけているのです。
パウロはⅡコリント4章18節においてこう言っています。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」皆さん、目に見えるものは一時的であるということ、そう思われますか?私達はどんなに相思相愛の人と共に暮らしても、いつか私達の前からその人がいなくなる日がくるのです(私達の方からいなくなるのかもしれませんが)。私は神様ではないので、生活の中で断言することを控えるように心がけていますが、このことに対しては断言することができます。すなわちパウロが言っているように「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くということです」。
そして信仰とは見えるものを見ていくことではないのです。「目に見えないものに目を注いでいく」ということなのです。17世紀のイギリスのフラーという牧師は「信仰とは、耳で見ることである」と書いています。この言葉を読んだ時に私は心が震えました。耳で見るとはどういうことか、それは祈りです。祈りによって私達は神様の語りかけをきくのです。神様の語りかけとは何か、聖書の言葉を通して私達に語りかけられる言葉を聞くことです。
私達と神様を結ぶものは「信仰」です。どんなに高価な電気器具であってもそのプラグをコンセントに差し込まなければその電気器具は使えません。そこに電流が流れなければ何の役にも立たないのです。疑惑という矢によって悪魔は私達の祈りを止めさせようとします。しかし、私達は信仰によって神との祈りを保ち続けるのです。三つ目のこと不満:私達から感謝を奪うものをお話しましょう。
不満:私達から感謝を奪うもの
神様は私達に感謝することを願っております。しかし、この感謝ほどに私達から失われやすいものはありません。ヨナ書という不思議な書の中にはその名のごとくヨナという預言者が出てきます。神様は罪の中に生きるニネベという町に住む人々を救うために彼を用いようとするのです。しかし、彼はその使命から逃げようとする物語です。ある日、そんな彼に神様は「とうごまの木」を生えさせ、それによって灼熱の暑さから彼を守ろうとしました。彼はこのことを非常に喜んだと聖書はしるしています。しかし、その翌日神様は夜明けに虫を送り、それによってその木は枯れてしまったというのです。昼となりまた灼熱の太陽があがり、暑い風が吹き始めるとヨナは「生きるより死ぬ方が私にはましだ。わたしは怒りのあまり狂い死にそうだ」と言うのです。しかし、神様はその時に大切なメッセージを語りかけるのです。「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは12万人あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜のいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ書4章)
イスラエルの王であったダビデは部下の妻を奪い、その妻に子をもうけさせました。彼のもとを訪ねた預言者ナタンはダビデにこんな強烈な譬をもって迫りました。1「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。2 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、3 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。 4 時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」(サムエル記下12章4節)。言うまでもない富んでいる人とはダビデであり、貧しい人は彼の部下です。ダビデには富と栄誉が与えられ、また聖書に名前が記されているだけでも八名の妻がいました。その彼が部下の最愛のたった一人の妻を奪ったのです。
皆さん、ここで疑問がわいてきます。ヨナはどうごまの木を見て知っていましたし、ダビデも自分の八名の妻達を見て知っていたに違いありません。どちらも彼らの目に見えていたことであり、これらの出来事と信仰とは何か関係があるのかということです。
しかし、実はこれらのことにも信仰が関係しているのです。すなわち、もし彼らが本当に信仰をもって自分の置かれている場所を受け止めていたなら、ヨナは怒る必要はありませんでしたし、ダビデは過ちを犯すことはなかったはずなのです。
すなわち、こういうことです。とうごまの木はそもそも誰がヨナに与えてくださったものかということです。そのとうごまの木によって自分がしばし喜んだということ、その喜びは誰によってもたらせられたのかということです。そして、たとえそのお気に入りのとうごまの木が枯れたとしても、そこにも神さまは意味を与えているに違いないと信仰によってそれを感謝して受け止めるならば、彼は怒り荒れ狂う必要はなかったのです(実際にこの枯れたとうごまにより、神様は大切なメッセージをヨナに残しています)。
ダビデに関してはヨナタンは先ほどの譬の後にこうもつけ加えて言っているのです「イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしたあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救い出し、あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたの懐に与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」(サムエル下12章7節-8節)
ダビデはイスラエルの王であり、それゆえに彼は妻のみならず、多くのものを手に治めていました。確かにそれらの多くは手で触れ、目で見えるものであったに違いありません。しかし、そこにも信仰が必要だったのです。すなわち、それらのものは一つ残らず神様が彼に与えられたものなのです。
皆さん、私達の所持しているものは自分が得たものでしょうか。いいえ、それらは全て神様が私達にくださったものです。食卓に並ぶ料理を前に私達はなぜ感謝をするのでしょうか。神様が与えてくださったものだからです。私達の命にしても、私達の家族にしても、友人にしても、私達の全ての財産も神様が私達に与えてくださったものです。言うまでもない彼らには、それらには「神様の贈り物」というタグはついてはいませんが。しかし、私達は信仰によってそのことをしかと心に受け止めるのです。そして、そうしますならば私達の心には感謝があふれてくるのです。
不満ほどに私達の心で燃え広がるものはありません。否、それは伝染していきます。不思議なことに不満ばかりを言っている人の周りには、同じように不満をもちやすい人達が集まります。彼らは互いに不満だけを言い、そこから一歩も動こうとはしません。そして、そうこうするうちに、その不満が次なる不満に延焼し、あらたなる不満が生まれてきます。こうなるともうサタンの思うがつぼ。このような人はほおっておいても、自らどんどん不満を生み出すようになります。自らサタンの喜ぶことを自給自活しているのですから、サタンも安心して見ていられる人に成長するのです。
皆さん、いかなる人も信仰をもって生きているということをご存知でしょうか。明日がくるかどうか私達には分かりません。しかし、私達は明日がくることを信じて明日のためにシャツにアイロンをかけ、車のオイルを変えるのです。私達は郵便ポストに手紙をいれれば、必ず郵送されると信じて投函するのです。自らを無神論者という人達ほどに信仰からほど遠い人はいないように思えますが、神がいないということは誰も証明できませんから、彼らは神がいないということを信じている熱心な信仰者です。
どうせ信じるなら私達は神を信じようではありませんか。その神に祈り続けようではありませんか。そのことによって私達に人知を超えた喜びと感謝が与えられるのですから。
お祈りしましょう。
本日のおもちかえり この世を生きる最大の秘訣 エペソ6章10節-20節 (特に16節)
もしサタンがあなたに向けて「火の矢」を放ってくるとしたら、どこを狙ってその矢は飛んでくると思いますか?その矢には火がついているということは、どんなダメージにつながりますか?
Ⅰテサロニケ5章16節-18に「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことについて感謝しなさい。これがキリスト、イエスにあって神があなたがたに求めておられることである」とあるように、火の矢があなたの「喜び」「祈り」「感謝」を目がけて飛んできているということをあなたは日常生活の中で実感しますか?どのような時にそれを実感しますか?
なぜ、私達はこの火の矢を「信仰の盾」によって守ることができるのでしょうか?
失望:私達の喜びを奪うものに対して: ローマ5章1節-5節を読んでみましょう。そこには「信仰」と「希望」に対してどんな関係が記されていますか?
疑惑:私達から祈りを奪うものに対して:ヤコブ1章2節-8節を読みましょう。そこには「願うこと:祈り」と「疑う」に対してどんな関係が記されていますか?
不満:私達から感謝を奪うものに対して:サムエル下12章を読んでみましょう。そこには「不満」が何からくることが書かれていますか。あなたは「不足」を数える傾向がありますか?それとも「既に与えられているもの」を数えますか?神様があなたに日々、与えて下さっていることを思い起こしましょう。