想像

若い頃は、「人生色々」ということが分からずに、とかく「黒か白」に物事を振り分けて熱く生きていたような感じがします。しかし、年を重ねるにつれ、数えきれない失敗や、自分の思う通りにいかないことを色々と経験したり(仕事や子育ては最たるものでしょ)、色々な人が歩んでいる道に自分の人生を交差させていただいたり、年老いていく方々の後姿を見るにつけ、「皆、人には見えない、言えない色々なことをしょっているのだ。それで今あるのだ」ということを教えていただくようになりました。

「色々」とは「その人がそうしなければならなかった事情」とか、「そこまで導かれてきた悲しい決断」とか、「誰にも話せなかったくやしさ」というようなこと・・・。

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ある日、ジーザスの元に姦淫をしている現場を捕まえられた女が連れてこられました(ヨハネ8章1節‐11節)。当時のユダヤ律法ではこのような女は石で打たれ殺されても仕方がないとされていました。その時、そこにいた人々は(おそらくは多くの男達)、ジーザスがこの女にどのように向き合うのかということを固唾を飲んで見ていました。

しかし、ジーザスは彼らがまるでそこにいないかのように、指で地面に何かを書いていました。それでも、彼らがあまりにも問い続けるので、身を起して一言、こう言いました。

あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ8章7節)。

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そうすると、これを聞いた者達は、年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、ジーザスと女だけになりました。

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年寄りから始めて・・・・。

石を投げることはたやすいことです。でも、石を投げる時、その女にも「色々なことがあった」ということを想像することは忘れてしまっています。人生、すべからず1+1=2ではないのに。ジーザスの言動には、いつもそんな考え方が見え隠れしています。

「年寄りから始めて・・・」というところに、年齢を重ねていくことの深さがあるように思います。年をとるということは濃厚な人生経験の中で見えないものを想像する力を培うことなのかもしれません。そう考えると私達が経験する失敗・挫折・寄り道・哀しみも輝いてくるから不思議なのです。

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マック

この聖書の箇所を全文読みたい方はこちら↓

ヨハネ8章1節‐11節

イエスはオリブ山に行かれた。 朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。


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