“その日”が変えたこと

Picture_178_2 以前も紹介しましたが、私達は恐れを恐怖症とよび、英語圏では「Phobia」という言葉をつけて、その恐れに呼び名をつけています。私のオフィスのドアに今、現存する500余りのこの人間の恐怖症の一覧があります。

500もあるのですから、その恐怖症の中には当然、皆さんの中でももっておられるでしょう「蛇」や「虫」や「ばい菌」、そして「歯医者」等への恐怖症があり、果ては「口の中の上あごにピーナッツバターが引っつくことに対する恐怖」というものが「Arachibutyrophobia」という単語としてしっかりあります。

「歯医者」から「口にひっつくピーナッツバター」の間にある500もの恐怖症。その中には私達が想像できるものは、ほとんど含まれています。

しかし、その中に私は何度、探しても見いだすことができないものを発見しました。なんだと思いますか。それは「赤ちゃん・ベイビィー」です。「出産」と「子供」に対する恐怖症はありました。しかし「New Born Baby」はそこにはないのです!

For His Glory !

マック

今日お話した礼拝メッセージです。

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“その日”が変えたこと

ルカ2章8節-13節

2008年12月21日

創世記はその冒頭、神がこの世界を創造されたと書いています。すなわち私達を取り巻く環境、そして動植物を神は創造されました。すなわち「光あれ」「水の間に大空があって、水を水とを分けよ」「地は青草と、種をもつ草と、種類に従って種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」というような言葉によってこの世界は造られたというのです。

しかし、そこには創造者と被造物という関係はありましたが、あくまでもそれらは土や水、また動植物でした。そこで、神はその創造の最後に人を造られました。その人の創造に関してだけ、それまでは「光あれ、水と水とを分けよ、地の上にはえさえよ」と命令をしていた神が、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」とそこに命令というよりも、他の創造物とは異なり、人を自分と同じかたちにしよう(それは外観ではなく)、すなわち、それは人間に動物以上の関係、すなわち創造者と被造物ということ以上の関係を築きうる者、すなわち神と親愛を分かち合うことが出来うる者として、人を造ることにしようというその意志がうかがわれるのです。

ですから、このアダムとイブはロボットのように神の意思によって動く者として作られたのではなく、彼らには自由意志というものが与えられ、多くの皆さんがご存知のように置かれていた最高の環境、エデンの園でいかなる木々の実を食べることが許されていました。しかし、神はその中で善悪を知る木からは決して取って食べてはならないと言ったのです。

しかし、結論から言いますと、最初の人、アダムとイブは、その与えられた自由意志によって、この禁じられていた禁断の実を食べ、神の前に罪を犯しました。神は先にそれを食べると善悪を知るようになると言いました。それを食べる前までは、その世界に善こそあれ、悪はなかったのです。彼らがその実を食べた時に、悪がこの世界に入り、神の言われたとおり、彼らは善悪を知るものとなりました。

実を食べたこの男女がまずしたことはその身をいちじくの葉で隠すことでした。日本人としてとても興味あることですが、罪と恥というものは、どこかで結びついているのでしょう。そして、彼らは園の木の間に身を隠しました。神はそんな彼らに問いかけるのです。「あなたはどこにいるのか」彼らは答えます。「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」

人はこの出来事からまるで時間が止まってしまったかのように、その後、恐れというものを抱えて生きるようになりました。善と悪というものを知った人間は、特に神に対する恐れというものを常に心に持つようになりました。

旧約聖書を読みますときに、人々が神を恐れている様というものをあちこちで見ることができます。しかし、偉大なる神はそのような人間に何度も何度も近づかれました。時には雷の中から、時にはつむじ風の中から神は人に近づかれました。しかし、人は常に神を恐れました。

今日、世界の原始的な宗教の中には恐れというものが未だに健在しています。その神の怒りをなだめるために、人間を殺しそれを犠牲として捧げる民族まで、この世界には存在しました(今日もどこか未開の地にこのような部族がいるかもしれません)。また、それらは「たたり」とか「呪い」「裁き」というような言葉によって、人々を震え上がらせています。中にはこの「恐れ」によって、人々から金銭を巻き上げたり、その人の自由を奪い監禁したりします。そこにはあのエデンの園で起きた事柄を引きずる人間の心の残像があるのです。その刻まれた残像は容易には取り去ることができないのです。

フィリップ・ヤンシーはこれらのことをとても分かりやすい譬で語っています。その一文を引用しましょう。

私は塩水を入れた水槽を管理していて、クリスマスについて学んだことがあった。水槽の管理は楽ではない。移動可能な化学実験室を使い、硝酸カリウム肥料の度合いや、アンモニアの含有量を監視しなければならなかった。ビタミンや抗生物質、サルファ剤や十分な酸素をポンプで送り込んで岩ゴケが育つようにした。水はグラスファイバーや炭で濾過して紫外線にさらした。私が費やした労力全部を考えると、魚たちは少なくとも感謝してくれたと皆さんは思われるだろう。だが、そんなことはなかった。水槽の上に私の影がかかる度に、彼らは一番近くにある貝殻の中に隠れようともぐっていった。彼らが私に見せた唯一の感情は恐れだった。私がスケジュール通り日に三度、水槽のふたを開けて食べ物を落としてやる時も、魚達はその都度、私が彼らに苦痛を与えようとしているしるしだと確信しているように反応した。私は彼らに、自分が本当は心配しているのだと説得することができなかった。

魚にとって私は神だった。私はあまりにも大きく、私の行動を理解することはとてもできなかった。魚達を憐れむ気持ちから出た私の行為を、彼らは残酷なものとみた。魚の病を癒そうとした私の試みも破壊的なものとみなされた。(「だれも書かなかったイエス」 フィリップ・ヤンシー The Jesus I never Knew   Philip Yancey

皆さん、ヤンシーはとても分かりやすく神と私達の間にある隔たりについて書いています。その隔たりは大きく、たとえ神が私達に善をなそうとしても、私達はそれすらも恐れるような存在だと言うのです。

どうしたら、そんな私達の恐れを解き放つことができるのでしょうか。方法は一つしかありません。それは、先のヤンシーの言葉で言いますなら、魚達に静かに忍び寄るのではなく、その水槽の中に自らを置く以外にないのです。ヨハネはそのことについて簡潔に記しています「そして言葉は肉体となり、私達の内に宿った」(ヨハネ1章14節)。

私達が恐れに支配されていたということは、このクリスマスの出来事の中で   に語りかけた神の使者、み使い達の語りかけによって分かります。このみ使いはあのザカリアに言いました「恐れるな!」(ルカ1章13節)、マリアに言いました「恐れるな!」(ルカ1章30節)、また羊飼いに言いました「恐れるな!」(ルカ2章10節)。イエスは度々、人に会う時に「恐れるな」という言葉を言っています。御使いとイエスの口から、大切なメッセージが語られる前に思わず「恐れるな」という言葉が出てしまったということ。人間ではなく天的な存在の目に、人はその容姿がどうとかこうとか、何を着飾っているとかというよりも、その表情、いやその存在全体から垣間見られるものは、恐れであったに違いありません。

そして、それは私達も同じなのではないでしょうか。皆さん、時に人は暴力的になります。暴力は今や、手を挙げるということだけではなく、言葉による暴力が私達の間に満ちています。その時にこの加害者は何も恐れていない傍若無人な人間に見えますが、実はその心は癒されない恐れに支配されています。恐れを処理できないゆえに、破壊的な行動に向かうのです。私達が互いを信頼できずにいる時、互いの傷を攻撃しあう時、私達は相手の心というよりも、私達の心の中にある恐れを認めざるをえないのです。そして、その恐れの根源をたどっていく時に、私達は神から離れている、いや離れざるをえない、あのエデンの園の木々の間に身を隠していたアダムとイブの姿と自分の姿というものを重ねあわせることになるのです。

以前も紹介しましたが、私達は恐れを恐怖症とよび、英語圏では「Phobia」という言葉をつけて、その恐れに呼び名をつけています。私のオフィスのドアに今、現存する500余りのこの人間の恐怖症の一覧があります。500もあるのですから、その恐怖症の中には当然、皆さんの中でももっておられるでしょう、蛇や虫やばい菌、そして歯医者等の恐怖症があり、果ては「口の中の上あごにピーナッツバターが引っつくことに対する恐怖」というものが「Arachibutyrophobia」という単語としてしっかりあります。

皆さん、「歯医者」から「口にひっつくピーナッツバター」の間にある500もの恐怖症。その中には私達が想像できるものは、ほとんど含まれています(どうぞ、いつでもご覧下さい)。しかし、その中に私は何度、探しても見いだすことができないものを発見しました。なんだと思いますか。それは「赤ちゃん・ベイビィー」です。「出産」と「子供」に対する恐怖症はありました。しかし「New Born Baby」はそこにはないのです!

誰もがまず思い起こすクリスマスの光景は何でしょうか。その光景はクリスチャンであっても、そうでなくても共通するものです。すなわち、それは生まれたばかりのイエス・キリストが飼葉桶の中に寝かされている、あの光景です。

ヨハネはヨハネ第一の手紙の中でこう記しています「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」(Ⅰヨハネ4章18節)

イエスは当然、その飼葉の中で説教を語りません。しかし、その小さな体から静かに、しかし力強く、私達の心に響いてくる言葉があります。それは「恐れるな」という言葉です。そして、その赤子を通して、私達は私達のためにその子を与えて下さった父なる神様の愛を知るのです。その時に、その赤子の存在は、あのエデンの園から脈々と人間の間に湧き上がってきた、私達の心に沸き起こってきた恐れに対する終止符を宣言するものとなるのです。

皆さん、思い起こしてください。あの創世記において、木々の間に隠れるアダムとイブに神が問われた問いかけを。神は言われました「あなたはどこにいるのか」

しかし、今や、神はこういわれるのです。「私はここにいる」。もう恐れ隠れることはない。私はあなたのただ中にいる。あなた方が全く恐れる必要のない赤子の姿をとって、私はあなたの只中にいる。だから恐れるな。

皆さん、この飼葉桶の中に寝かされている赤子を思い起こしましょう。神様は人が恐れを感じることがない、赤子としてイエスをこの地上に生まれさせました。神様はあなた方に恐れを起こさせる存在ではない、その証拠として、神にとって一番、大切なイエスを私達の間に誕生させてくださいました。私達の恐れが消え去るために、神は最も大切なものを失う方法を選ばれたのです。

今日の聖書箇所のルカ伝において恐れている羊飼いに向かってみ使いは言ったのです「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉桶の中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられたしるしである」(ルカ2章9節ー12節)。

み使いは言ったのです「それが、あなたがたに与えられたしるしである」。そこに寝かされているだけの幼子が私達に与えられているしるしだという。なんのしるしか。私達はもはや恐れの中に生きる必要がないというしるしなのです。

今日、私達は「宗教」という言葉に対して色々な思いをいだきます。その言葉からオウム真理教の教祖やオサマ・ビンラディンの顔が浮かんだり、「プロポジョン8」とか「街角で話しかけてくる変わった人」というような印象を持たれる方がいるかもしれません。

私のパソコンには「Its not a religion. Its a relationship」というステッカーがはられています。時々、これを開いてカフェで仕事をしていると、親指を立てていく人がいます。このメッセージは明らかにクリスチャニティーはローマ法王や新聞に書かれているキリスト教右派とかバプテストとかメソジストを意味するのではなくて、それは関係なのだということをアピールしているのです。

それでは誰との関係なのでしょうか?「クリスチャニティー」、「キリスト教」、それらの呼び名からも分かるように、クライスト、キリスト、すなわちイエス・キリストと私達の関係のことをいうのです。そして、何を隠そう、このクリスマスこそ、その私達と神との関係が新しく始まった瞬間なのです。

世界中には多くの宗教があります。宗教の存在しない部族はありません。人は心のどこかに何か拝まなければという気持ちがインプットされています。神様は人を造られた故に、その人の心の中に創造者に対する思いが組み入れられていることはある意味当然なのです。

でも、私達人間はその確かに実在する心の中の思いをどこに向けていいのか分からずに「巨大な石」から「イワシの頭」、果ては「大魔神と呼ばれたプロ野球選手の腕のブロンズ像」までに手を合わせるのです。私達日本人は、これらの行為を宗教的な行為といいます。

しかし、これらの行為には欠けているものがあります。それは石にしても、イワシの頭にしても、大魔神の腕にしても、それらから私達が受け止めることができる具体的なメッセージというものは何もないのです。すなわち、それらの物と自分との間に個人的な関係は全くないのです。そして、決定的なのはそれらのものを信心することにより、その心から恐れが消えることはないのです。

神はいる。どこかにいる。でも、それでは私達と神との関係が分からない。神がどんなお方なのかが分からない。分からないから自分で彫った彫り物や木や石に私達は手を合わせるのです。しかし、心の恐れは消えない。それでは、私達はまだ、あのアダムとイブがエデンの園の木々に隠れたままなのです。

しかし、聖書は明確に神と私達の関係というものについて触れているのです。それはとても明確で具体的なものなのです。どれくらい具体的なのか、どれくらい明確なのか、それはかつて私達もそうであり、私達が日常、どこでも見かける赤子と同じ姿として神の子イエス・キリストがマリアとヨセフという男女の手に抱かれたほどに具体的なのです。そして、私達はこのイエスを知る時に、その心から恐れが取り去られていくことを、神は愛なりということを知るのです。

皆さん、み使いは羊飼いにこう言ったのです「恐れるな。みよ、すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える」。「すべての民」の中に、私達はいるのです。とてつもない大きな喜びがあなたにもわたしの心にも今、伝えられているのです。そして、「恐れるな」というメッセージが私達の心に今、語られているのです。

お祈りしましょう。

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“その日”が変えたこと」への3件のフィードバック

  1. クリスマスの今日、このメッセージを読んだんだけど、凄く分かりやすかった。
    このメッセージが素直に自分の中に入ってくるって事は、俺もそうとうクリスチャニティーになってきたかな・・・
    でも、正月には寒川神社にお参りに行くけどね(笑)

  2. さんぼ
    嬉しいなぁ~!さんぼの心の中にバイブルの言葉が残る度に、こちらでは小躍りしています。

  3. It’s not a religion. It’s a relationship
    これは「目からウロコ」だったな・・・
    宗教っていうヒビキだけで遠ざけていたからね

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