元祖・言葉の力

baseball 昭和18年から20年までの間、それまで既にスポーツ競技として日本に定着していた野球に対して日本国陸軍が圧力をかけてきたことがありました。何に圧力をかけたのでしょうか。その中で使われている英語を彼らは敵の言葉としてとらえ、それを追放しようとしたのです。

たとえばストライクは正球、ボールは悪球、フェアは正打、ファウルは圏外、セーフは安全というように、これを言いますとこんな風になります「打者は正球、悪球の後、三回の圏外でねばり、最後には正打となり、二塁に盗塁を試み安全となりました」ともうこんな言い換えをしていたら野球など楽しくもなんともないのです 。

敵性語追放というのは常識的に考えたら説明できない現象です。英語は敵の使っている言葉である。その言葉を日本人が使うことは、その英語の一つ一つに込められている敵に属している言霊の魔力を発散させることになる。それは敵に利を与えることになる。だから使わせない。そして使わせないことは、勝利につながる。そのようなことがこの敵性語追放の背後にはあるのではないかという人達がいますが、私も確かに一理あるなと思います。

J0400937

マック

今日、お話したメッセージです。

よかったらどうぞ!

元祖・言葉の力 

イザヤ55章8節‐13節 

「言霊」(ことだま)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。言霊とは「言葉には霊的な力がある」ということで、それは事実というよりも一種の信仰と言っていいのかもしれません。私達、多くの日本人は自分が意識している、していないに関わらず、この言霊というものを心のどこかに抱えて生きていると言われています。 

言霊はこんな形で私達の中に姿をあらわします。例えば明日は遠足なので雨が降ってほしくないという時に「雨が降る」とか「雨」という言葉を使ってはならないということです(これは受験前の学生に「すべる」「落ちる」という言葉を使ってはならないということにも通じます)。なぜなら、その言葉を使うとその霊的な力よって“実際に雨を呼び起こしてしまう”、“本当に試験にすべってしまう”という思いが私達の心のどこかにあるからです。私達にも聞き慣れた「縁起の悪いことを言うな」というような言葉もこの言霊信仰からきています。 

この言霊は私達の生活の中に強く根付いていて、例えば昭和18年から20年までの間、それまで既にスポーツ競技として日本に定着していた野球に対して日本国陸軍が圧力をかけてきたことがありました。何に圧力をかけたのでしょうか。その中で使われている英語を彼らは敵の言葉としてとらえ、それを追放しようとしたのです。 

たとえばストライクは正球、ボールは悪球、フェアは正打、ファウルは圏外、セーフは安全というように、これを言いますとこんな風になります「打者は正球、悪球の後、三回の圏外でねばり、最後には正打となり、二塁に盗塁を試み安全となりました」ともうこんな言い換えをしていたら野球など楽しくもなんともないのです。 

敵性語追放というのは常識的に考えたら説明できない現象です。英語は敵の使っている言葉である。その言葉を日本人が使うことは、その英語の一つ一つに込められている敵に属している言霊の魔力を発散させることになる。それは敵に利を与えることになる。だから使わせない。そして使わせないことは、勝利につながる。そのようなことがこの敵性語追放の背後にはあるのではないかという人達がいますが、私も確かに一理あるなと思います。 

ちなみに同じ時にアメリカが何をしていたかご存知ですか。アメリカでは「彼(敵)を知り、己を知らば、百戦あやうからず」と日本語を徹底的に研究して、そのエキスパートを多数生み出しており、それによって日本語による情報を解読していたのです。戦争というものが情報戦であるとするならば、この歴然とした違いは確かにその戦果に大きな影響を与えたことでしょう。

私達が口にすることが現実となることは常識的に考えられません。「この戦争は負ける」と言った人がいたとして、実際にその戦争が負けたとしてもそれはその人の言葉のせいではなく、様々な要因があるはずです。翌日の野外イベントを楽しみにしている人達の前で「明日は雨になるだろうな」と言って、実際にそうなってもその人の責任を問うことなどできないのです。しかし、私達は時にそのような人達に対して「お前が余計なことを言ったからそうなった」というような責任まで追及することが多分にあるのです(この辺りはテレビ報道にて、同じ類の発言をした人に対する視聴者からのクレームを見聞きしても強くうなづけます)。 

そして、とても興味深いのですが、このような思いを言葉に対して抱いている世界でも稀な私達日本人は、実は聖書に記されている神とその神の言葉対して、特別に理解をもちやすいのではないかと思います。言い方を変えますならば、私達日本人は聖書の言葉に向き合う時に、特別なアドバンテージをもっているのかもしれません。なぜなら、聖書に記されている神の言葉が一度、語られると確かにそこには人知を超えた力がはたらき、実際に驚くべき事がなされるということが聖書には一貫して記されているからです。 

そのような意味においては、本家本元の言の力というのはまさしく人間の言葉ではなくて(実際に私は言霊というものを信じていませんが)、神の言葉、すなわち聖書の言葉にあるのです。創世記一章には天地創造の記事が書かれていますが、この天地万物の諸々のものが創造された時に神様はどのような方法をとったかたといいますと、「光あれ」「水の間に大空があって、水と水とを分けよ」というように、その言葉によってこれらのものは創造されたことが記録されています。神様はよっこらしょっと、自らの手で工作するようにこれらのものを造られたのではなく、その言葉が発せられると全てのことが起きたのです。このように神の言葉には事を成す力があるのです。

皆さん、私達はこの生ける神の言葉を聞くべき、毎週、この礼拝に集っているのです。教会で牧師は「古のためになる話」とか「格言」を説明しているのではなくて、まさしく私達の日々の生活に具体的に介入し、否、誰も変えることができなかった自分自身や自分が直面している問題や、自分のこれからの人生に対して力強く働く神の言葉を教会でお話しているのです。

これらのことを踏まえて、今日は聖書の言葉、すなわち神の言葉とその実際的なはたらきについて、イザヤ書から幾つかのことをみていきましょう。イザヤ55章8節‐13節を読みます。

8わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。9天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。 10天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。11このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。12あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行く。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ。 13いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない」。

サンディエゴではこれから雨が降らない日が続きます。しかし、世界の他地域においてはこのシーズンは雨季となり、毎日のように雨が降ります。昨年、ハワイに行きました時に地元の人がここでは朝夕と二回、スコールがあると言っていました。そして、その通り、規則的にスコールはやってきました。言うまでもないこの雨は私達の手の届かない天から降るのです。

同じようにここに記されている神の言葉についても8節、9節にはこう書かれているのです。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」この言葉は雨のように、私達の知恵や計画が届き得ないところから私達に下るものです。

そして、さらに神の計画と思いから降り注がれるその言葉には特別な力があります。それを私達は言霊とは呼びませんが、まさしくその言葉には力があるということが、この後に書かれています。

10天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。11このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。 

この神から出る言葉が一度、地に注がれるならばそれは空しく、また神の元に帰ることはないというのです。必ず、神の喜ぶこと、命じ送ったことを果たすというのです。新改訳聖書には「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」と書かれています。 

皆さん、私達は雨が降り、その雨が地に落ちた後にどういう働きをしているのだろうということに関心を寄せることはありません。せいぜい「あぁ~雨だわ、ジメジメしてうっとうしいわ」と思う程度かもしれません。しかし、雨はその地中にしみ込み、諸々の植物に必要な養分を与えているのです。私達はそれを目の当たりにすることはありませんが、確かに私達の見えない場所でこのようなことが日毎になされており、それによって私達は大地の糧を得ているのです。 

聖書の言葉も一度、この世界に下りますと、そのはたらきが始まります。それはすぐに私達の目に見える形ではたらくこともありますし、私達の目には見えずとも確かに地中で目まぐるしい働きをする水分のように、そのはたらきがなされているということもあります。

日本の各地でオタマジャクシや小魚が空から降ってきているようで、その奇怪な現象に皆、驚いているようですが、この神の言葉が地に注がれる時に、なされていくその出来事はそのようなもの比ではないのです。地上に落ちて干からびてしまったオタマジャクシに騒いでいる私達は、神から語られるその言葉がこの地上で成していく諸々の事柄に目を見張り、神をほめたたえるでしょう。

実際に今日開かれておりますこのイザヤ書にはその驚くべき神の言葉のはたらきが満ちているのです。この書は聖書の中において預言書と位置を占めており、そこにはこの書が書かれた時には起きていない、いや誰もそんなこと考えもしないようなことが預言され、それらは一つ一つ確かにこの地上に成就していったのです。特にこのイザヤ書がもつ預言というのはイエス・キリストが誕生する約750年前に記された書であるにもかかわらず、ここには確かにイエス・キリストに関する預言、すなわち天から降り注がれていた神の言葉が満ちているのです。いくつかを挙げてみましょう。

イザヤ7章14節ー6節                         ⑭それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。

この言葉は明らかにおとめマリアから生まれた男児、イエス・キリストを預言しております。そして、インマヌエルとは「神我らと共にいます」という意味で、まさしく神が人の世界に肉体をとってこられたというあのクリスマスの出来事を預言している神の言葉です。

イザヤ42章1節‐4節                                      ①わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。②彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、③また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。④彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。

そして、このイエス・キリストは神に喜ばれる存在であり、神の霊が彼の上には注がれ、後にイエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたようにその道を示すものとなりました。彼は荒々しい方法によってそのメッセージを伝えることもなく、ただただ真実をもって、まさしく海沿いの町々でその道を教えました。

イザヤ53章4節‐8節                               ④まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 ⑤しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。⑥われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。⑦彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。⑧彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

そして、圧巻はこのキリストの十字架でのその姿の描写であります。人の罪を背負い、口を開かずに十字架を背負い、カルバリの丘に歩んで行かれる小羊なるキリストの姿、そしてその支配は永遠に続くということがここには記されており、その言葉はむなしくならず、確かに実現したのです。それはまさしく私達が今朝も唱えました「使徒信条」における信仰の告白というものがすでにイザヤ書においてその原型をもっているという事実に基づくのです。すなわち、

我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我等の主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ(、陰府に下り)、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐し給えり、かしこより来たりて生ける者と死ねる者を審き給わん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン。 

という信仰告白の主旨は既にキリストが生まれる750年前にイザヤ書において預言されていた、この地に発動されていた神の言葉であって、それが実現したものなのです。

そして驚くべきことにこれらの「生ける神の言葉」というのは聖書の預言書に限られたものではなく、キリストが2000年前に言われた言葉「ただ聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう」という大胆不敵な言葉の中にもあらわされているのです。

すなわち、2000年も昔、あのユダヤの一地域において、少数の無力な人達によって産声をあげたクリスチャニティーが地の果てまで伝えられるなどということは、本来想像できないことだったのですが(すなわちこのキリストの言葉は大ボラのように聞こえる言葉だったのですが)、その言葉はむなしく神のもとに返らずに今日、それこそ地の果てにおいてもこのキリストの言葉のはたらきの実を見ることができるのです。このイエスの言葉の実現は無神論者であっても否定できない事実です。

そして驚くべきことは、このようなことは現代を生きる私達の個人的な生活のただ中でも起きるのです。そして、ここで私達は一つの事を胸に刻まなければならないことは、神様は「私達が喜ぶ」ことを成すというのではないということです。神様は「私達の思い」とか「私達の喜び」のためにそのことを成すのではなくて、神様はご自身の喜ぶところを成す(11)のであり、ひいてはそれが続く12にあるように、私達の喜びとなるというのです。そして、その喜びは一時的なものではなくて、とこしえのしるしとなるようなものだというのです(13)。

子供がもつ大きな関心は自分の願いが叶うかどうかということです。すなわち彼らは、明日はディズニーランドに行くから、雨が降らないようにという願いをします。もちろん、大人だって同様の願いをもちます。しかし、年齢を重ねるとそのような願いはとても狭いものであり、一時的なものであるということが分かってきます。私達はどこまでも自己中心で自分を中心に世界を見ていますから自分が「晴れ」を願っている時に、「雨」を願っている人達のことは完全に忘れています。さらに、その日にディズニーランドに行くこと自体、本当にいいことなのかすらも自分の狭い計画と理解の中では分からないものなのです。私達のものの見方は常に限界と共にあるのです。

しかし、思い起こしてください。今日の箇所でまず神様が言われていることを。わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」

このお方はこの天からの視点をもって、私達のトータルな人生を見つめ、ご自身が喜ぶことを私達の人生に成してくださる。そして、その喜びとは言うまでもない、私達にとっても大きな喜びなのです。私達が思い描いていた計画や願い以上のことをこのお方は私達のために成してくださるからです。私達はそのことに期待して神の言葉と共に生きることができるのです。

私のよく知る方に、事情があって女手一人で幼い子を育てなければならなかった女性がいました。たった一人で胸に抱く乳飲み子を思った時に、涙が出てきたそうです。これからの自分の生活はどうなるのだろうか。回りを見回しても確固たる保証はどこにもありません。

その彼女がある時、出エジプト記を読んでいました。箇所はパピルスのカゴの中に寝かされた赤子モーセが母の手から離れ、ナイル川に流されていく場面で、それを見つけたパロの娘の前にモーセの姉が飛び出していったという有名な場面です(2章)。その時にモーセの姉はこういいます「わたしが行って、へブルの女のうちから、あなたのためにこの子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」(7)。パロの娘はそれに対してこう答えます「この子を連れて行って、わたしに代わり、乳を飲ませてください。わたしはその報酬を差し上げます」(9)。

この母親はこの聖書の言葉を読んだ時に、自分が抱くわが子を自分に託された神様は確かにこの子を育ててくれるに違いないという確信が与えられたというのです。自分がすべきことは、この子の父なる神に代わり、その子を育てることなのだという強い気持ちに支配されたというのです。だから、これからの必要は神様が必ず備えてくださる。そして、その時に自分もこの子も大丈夫だと確信したというのです。

その時に聖書の言葉がその母親の心に植えられたのです。自分一人でこの子の人生を背負うのではない、神様がそのことを成してくださる、そのみ言葉の種がその母親の心の植えられて、神様は確かにその言葉を日ごとに、週毎に、月毎にそして年毎に成就してくださったのです。

最初に申し上げましたように、私は人間の言葉が言霊となって、物事を起こしていくということを信じません。そのようなことに自分の人生が振り回されてしまう、縛られてしまうことを願いません。そうではなく、その代わりに私は神の言葉を信じたく願っています。神の言葉が一度、私、あなたに語りかけられるのであるならば、それはやがて神が喜ばれる方法をもって必ず成就するということを。そして、その神の喜びは自分にとって最高の喜びであるということを。

お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り

元祖・言葉の力

イザヤ55章8節‐13節

①私達にとって言葉とは何ですか。もし私達が言葉をもっていなかったら私達はどんな生活をしているでしょうか。あなたは「言霊」(ことだま:発せられた言葉が実現していく)をどう思いますか?私達の「雨になるぞ」という言葉は、実際に雨を降らすでしょうか?「戦争に負ける」という言葉はどうですか?

②創世記一章には「光あれ」とか「水の間に大空があって、水と水とを分けよ」という言葉の通りに天地の創造がなされていった様が書かれています。なぜ創造主なる神は言葉によってその業をなされたのでしょうか?

③以下のイザヤ55章8節‐9節の言葉についてどう思いますか?「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。9天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」。 

④以下のイザヤ55章10節‐11節の言葉についてどう思いますか?「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。11このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」。 

⑤上記のイザヤ書の言葉が記しているように、以下の箇所に書かれているキリスト預言を読んでみましょう(このイザヤ書の預言はイエス・キリストが誕生する約750年前に記された書です)。イザヤ7章14節ー6節、42章1節‐4節、53章4節‐8節。あなたはこれらの預言の成就をどう思いますか? 

⑥イエスが2000年前に語られた以下の言葉が非現実的だと思わせる要因にはどんなものがありましたか。「ただ聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで私の証人となるであろう」現実に今、世界のキリスト教はどうなっていますか。

⑦あなたは神の言葉が発動する時に、事が起きることを信じますか。聖書のみことばに日毎に親しみましょう。

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