迫害がもたらす祝福

皆さんの中で、イエス・キリストを知らなければ、もっと自由に生きられたのにと感じたことがある人はいないでしょうか。キリストへの信仰ゆえに悔しい思いをさせられている、辛い思いをさせられている、悲しい思いをさせられている、それでもなぜに耐えて、耐えて、耐えて、信じて、信じて、信じて、愛を貫かなければならないのか、希望を持ち続けなければならないのか、なぜここでちゃぶ台をひっくり返したり、拳を振り上げたり、諦めたり、自分の思うところを全て吐き出すことができないのか。キリストのために、その義のために、私達はこのようなところを通ることがあるのです。今日の言葉はそんな私達にも語りかけられているといえないでしょうか。

マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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迫害がもたらす祝福

マタイ5章10節‐12節

2009年11月15日

義のために迫害されてきた人達は幸いである。天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対して偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。喜び、喜べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

これまでイエス・キリストの山上の教えから見てまいりました「幸いな人シリーズ」も今日で終わりとなります。その最後は「義のために迫害されてきた人達は幸いである」という言葉です。そこで、まず皆さんに単刀直入にお聞きしたいのですが、これまでに迫害を受けた方いるでしょうか。あるいは迫害を今、受けているという方いますか?

迫害とは「あなたがこうしようと決めたことに対する誰かの強固な反対」ということではありません。「テレビゲームが買いたいのに、家族全員から反対されている」ということは迫害ではありません。「プロジェクトのために提案をしたのに、同僚皆から受け入れられません」というのは迫害ではありません。ここでいうところの迫害とは「義のために、主イエスのために」受ける反対と攻撃、そしてそこから生じる痛みと損失のことです。

もし私達がここに書かれている意味において迫害を受けた人々について、その歴史資料を探せば、その数はたやすく膨大なものになることでしょう。紀元100年前後、ローマ帝国によるクリスチャンへの迫害は激しいものとなりました。彼らは獅子の餌食となり、その体には全身、樹脂が塗られ、火がつけられ、生きたまま燃やされ、彼らは皇帝の庭園の照明として使われました。彼らはこれらのことを自分が犯した罪・過ちのゆえに受けたのではなくて、イエスの名のもとに受けたのです。そして、この迫害はその時代だけのものではなくて、キリスト教の歴史はまさしく迫害の歴史でもあり、皆さんもご存知のように日本国においても実際にキリシタンに対する迫害がありましたし、第二次世界大戦中にも治安維持法によって、牧師達がその信仰ゆえに投獄されたのです。

このような意味において、皆さんの中に迫害を受けたことがある方、いますか?

その信仰によって家に爆弾を仕掛けられたという方、投獄されたという方いますか?そのように考えます時に、大統領が聖書の上に手を置いて宣誓が執り行われ、その選挙においても保守派キリスト教徒云々と、クリスチャンが国の行く末についても大きな影響力をもっている米国に住む私達が置かれている状況というのは極めて恵まれているといえるでしょう。

とこのような話になりますと、ここで今日の聖書の言葉は私達には無関係のように思われてくるのです。そして、行き着くことは、かつてこんなにひどい拷問を受けた、いやこっちはもっと残酷だった、でも彼らはその信仰を曲げなかった、すごい、見上げたものだという信仰武勇伝で今日のメッセージは終わってしまうのです。

しかし、どうでしょうか、このようにこの言葉を受け止めていくとしたら。すなわち、私達はクリスチャンとして今、イエス様がおっしゃった「我は道なり」という道を歩んでいくという決心のもとに生きています。そして、実際に真剣にその道を歩もうとするならば、私達は必ず幾多ものチャレンジや戦いに直面するようになります(言い方を変えれば、信仰をもってこの世俗世界を生きていながら、何のチャレンジも戦いもありませんという方がいますならば、何かおかしいとも言えます)。

皆さんの中で、イエス様を知らなければ、もっと自由に思うがままに生きられたのにと感じたことがある人はいないでしょうか。キリストへの信仰ゆえに悔しい思いをさせられている、辛い思いをさせられている、悲しい思いをさせられている、それでもなぜに耐えて、耐えて、耐えて、信じて、信じて、信じて、愛を貫かなければならないのか、希望を持ち続けなければならないのか、なぜここでちゃぶ台をひっくり返したり、拳を振り上げたり、諦めたり、自分の思うところを全て吐き出すことができないのか。キリストのために、その義のために、私達はこのようなところを通ることがあるのです。今日の言葉はこのような私達にも語りかけられているといえないでしょうか。

私の母はまだ私が7、8歳の頃、北関東の小さな教会で伝道をしていました。アメリカでチャーチといいますと、一目でそれが教会と分かる建物を多くの教会は所有しています。しかし、母が仕えていたその教会の外見はまず教会には見えない。全く見えない。なぜなら、その教会は当時、私が通っていた小学校の前身となった築100年の寺小屋であり、縁の下に潜り込むと墓石がゴロゴロしていました。形から入る日本人にとって、また教会とは白亜の建物で、ステンドガラスがあってと、憧れの結婚式場としてのイメージをもっている人達にとって、その教会の外見は門をくぐる以前の問題を投げかけていました。

建物はその当時からのもの故に、隙間からは冷たい外の風が入ってきて室内はシンシンと冷えます。朝、起きたら枕元のコップの水がカチカチに氷となっていることもありました。それでもその教会での牧会はコツコツと進められました。水曜日の晩には祈祷会があります。ヤカン・ストーブを炊き、集会はもたれますが、いつも来られるのは一人のおばあちゃん。来る年も来る年も、それは変わりません。8畳ほどの会堂で、ヤカンの湯気と共に二人が背中を丸めて祈る姿が脳裏に焼きついています。

それでも幸いなことに私達は剣を突きつけられたり、家に放火されることはありませんでした。しかし、幼いながらに、この静かな変化のない現実は自分達が町全体から完全に無視されているような、多くの人達の眼中に自分達は全くないのだという、寂しい思いとしてその心に突き刺さりました。無関心というものも十分に迫害になりうるということを今になって思います。

これらのように私達の信仰ゆえに今日の世界において、受ける試みというものを考えます時に、また、聖書が終わりの時の兆候として書き記していますように、もしかしたら、この合衆国においても近い将来、キリスト教徒への迫害が珍しいものでなくなる時がくるかもしれないということも踏まえて、今日は私達が受ける迫害の理由について、三つのことをお話したく願っています。まず最初に「神を深く知るために」、二つ目に「後に続く者達のために」、三つ目に「報いを受けるために」。

神を深く知るために

先日、ある牧師のメッセージを聞いていましたら、おもしろいことを言っていました。ある方がキリスト教について知りたく牧師に聞いたというのです「クリスチャンになると何かいいことがありますか?」牧師は応えました。「何もありませんよ」。その意表をつく、潔さにその人はなんと求道しクリスチャンになったというのです(人がクリスチャンになる理由などどいうもの、私達は型にはめてはなりません)。なぜなら、今の世界、どこを見てもうまい話ばかりで、その方はそれらに胡散臭さを感じていたので「何もない」と言われると、かえってそこに新鮮な凛とした真理を感じたようです。

しかしながら、この牧師の「何もない」というのは、文字通り、クリスチャンになっても何もない、何も起こらないということではなくて、いわゆる、私達が普通に考えるような「病気をしなくなるとか、お金で困らなくなるとか、することなすこと全てうまくいく」というような意味において、それらのことはないと言ったのです。

後になって「聞いていませんでした」と言われないように、誤解されないように予め申し上げますが、クリスチャンであっても老い、病にかかり、やがて死にます。人生における色々な試みにも遭います。もっといいますと、先ほどお話しましたように、イエスを知っている、信じているゆえに、損をしたり、傷ついたり、孤独になったり、中傷されたり、見捨てられたり、時には命すら失うこともあります。

しかし、同時に一つのことが約束されています。たとえ私達がそのようなところを通っても、否、そのような所を通る時にこそ、イエスを近く、そして深く知ることができるということです。

私達は春の希望と華やかさを語ることができます。新芽が出て、あちこちで花が咲き始めます。しかし、本当に春を語るためには、その前の冬を知らなければ、その深さを語ることはできません。パッと開いた大輪の花の美しさを語るのはたやすいことです。しかし、その美しさだけを語るということは、表面的なことでで、そこには深さがありません。本当にその一輪の花が咲いたという奥深さについて語るのなら、その花の木が雪に埋もれた厳しい冬について語らなければなりません。

伝道の書を書いたソロモンは「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる」(伝道の書7章2節、3節:新改訳)と、なんとも無神経とも思われる言葉を書き記しました。

しかし、実際のところ彼が祝宴ではなく、喪中の家に行けと行っていることは、そこにこそ人間が知るべき深い真理があるのだということを意味しています。この言葉こそ、先にみてまいりました山上の教えの「悲しんでいる人たちは、幸いである。彼らは慰められるであろう」の布石となるような言葉ではないかと思えます。

それゆえに、このようなことを記している聖書は、私達にとっての苦しみは無益ではないというメッセージで満ちています。いや、それどころか、無益に思えるその苦しみの中にこそ、実は神の恵みが満ち溢れており、そのことこそが私達とイエスとの関係を深めるというのです。そして、信仰者にとって一番、大きなことは、試練の時こそ、迫害を受けているような時にこそ、神様が私達と共におられるということを知りうる大きなチャンスとなるのです。

かつてイスラエルの民は彼らの神ゆえに、エジプトの軍勢に追われる者として、毎日を荒野で過ごしました。当然、彼らは追われる者として、その場に定住していたのではなくて、夜が明ければさらに安全な場所に移動するという過酷な状況にいたのです。まさしく、生きた心地のしない毎日を彼らは送っていたのですが、聖書は神様が昼は雲の柱、夜は火の柱で彼を守ったと記しています。彼らが全く問題のない定住生活をしていたとするならば、彼らはこの神様の臨在、すなわち神様はいつも自分と共にいてくださるのだということを知ることがなかったでしょう。

ダニエル書には、シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人が、神に対する忠誠を曲げなかったために、平常より七倍も熱くした炉の中へ投げ込まれた時のことを書いています。その様を見ていた人は驚き怪しんで言いました「わたしの見るのに、四人の者が縄目なしに、火の中を歩いているが、なんの害も受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」(ダニエル3章25節)。火に投げ込まれたのは確かに三人だったのです。しかし、そこにもう一人の人がおられた。その第四の者は神の子のようだというのです。この三人が絶対絶命の時に神様はその姿をあらわしてまでもその近くにおられることをお示しになされました。

ダビデは神ゆえに多くの試みをその生涯に受けてきました。その彼は詩篇23篇で言っています「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23篇4節)。信仰者であっても死の陰の谷は通ります。しかし、ダビデは災いを恐れません。なぜなら、そのような時、主が彼と片時も離れずに共にいるからです。

パウロは第二コリントでなんと書いていますか(12章10節)「だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にころ、わたしは強いからである」主イエスのために、苦しむ、弱さを感じる、迫害を受ける、行き詰まる。しかし、その時こそ、実はキリストを最も近く感じる時であり、その時こそ、キリストの力が一番、現される時なのです。その時こそ私達とイエスとの関係を深くするチャンスです。クリスチャンの苦闘とクリスチャンの栄光は、共に両立するものなのです。二つ目のことです。それは「次世代のために」ということです。

次世代のために

私達は自分だけに精一杯であまりこのことに気がつかないのですが、迫害を受けるということ、キリストの御名のゆえに不当な取り扱いを受ける者達の歩みは、後に続く者の歩みを容易にするという真理があります。

今日、私達がこの国に自由に生活することができることは、これまでにこの国に生きた無数の方々のまさしく汗と血と涙があるのです。以前、アメリカ市民になることは軽々しく考えるべきことではないとお話してくださった牧師がいます。そうです、この国にとってかつての敵国であった日本人が、この国において市民権を得ることができるまでには、長い年月の日系人先達者たちの血と涙の歩みがあったのです。

私達が自由に信仰を表明することができるということと、あのローマの時代に獅子に食いちぎられて死んでいった人達とは無関係でしょうか。いいえ、私達のサンディエゴ教会が今日、この地にあることは、あのエペソやローマのコロシアムで猛獣に引き裂かれた殉教者達の血と無関係ではありません。彼らは確かに私達の今のために道を切り拓いていったのです。

私は神様の不思議な摂理のもと、親と同じ牧師をしています。これは全く神のあわれみ以外にありません。先ほど、お話した小さな教会での牧会。人間的に見たらとてもシンドク思えるものです。しかし、幼いながらに私の魂に刻まれているのは、そのような状況の中でも、母は祈りと感謝を絶やさずに、その状況でできることを精一杯して過ごしたということです。その時の彼女が背中で見せてくれたものは確かに私の心にあります。

時変わり、私が神学校を卒業して初めて使わされた任地。そこで、大きな試練に遭いました。その時に母は電話で言いました「こんな時こそ、あなたがクリスチャンとしてどう生きるのかということが問われているんだよ」。それはきっと彼女が自分自身に何十年も語りかけてきた言葉なのでしょう。その同じ思いを初めて彼女は私に語りました。皆さん、私達がもし迫害を受けるなら、試練を受けるなら、その時にこの人はどうするのだろうかと見ている人達がいるのです。

しんどさ、苦しさの中で、あなたの背中を見ている子供達がいる。あなたの夫や妻が見ている。父母が見ている。会社の同僚が見ている。そして、その生き様はそれを見ていた人達の心に残る。そして、今度はそれを見た人達の心の中で、その人のものとなっていく。こうして、私達の生き方は次の時代に引き継がれていき、そのようにして神の国は拡大していくのです。

ですから、我々もまた堅く立って、キリストのあかしを立てることにより、後に続く者のために道を整えなければなりません。私達は先に歩んだ信仰の先輩達からバトンを託されているのです。キリストのために戦う人々が残す踏み慣らされた道は、後に続く者達の歩みをさらに進めるのです。

こう考えますと、迫害を受けるということは、私達がとても意義深い事柄に関係をもつということなのかもしれません。それは極めて特別なチャンスに遭遇すること、重大なことが起こっている場面に居合わせることであり、信仰の目をもって大胆に言えば、その迫害すらも感謝に価するものとなりうるものなのです。最後です。それは報いを受けるためにということです。

報いを受けるために

報いというと安っぽい、駆け引きを感じてしまいます。しかし、ここでいう報いはそのようなものではありません。この報いはあることを想像するだけで容易に私達にも理解できることです。それは、とてもシンプルなことなのです。

皆さん、もし私達の子供達が、私達の名のゆえに、汚名を浴びていたり、試みにあっていたとしたら、しかしながら、その子はそのような中でもじっと耐え、あなたのために健気に生きようとしているのを、もしあなたが見たとしたら、あなたはその子のために何をしようとしますか。あなたの心はある強い感情で突き動かされませんか?

答えは必要ないでしょう。私達、一同、同じ事を考えているに違いありません。だから、パウロは自分と神の関係について確信をもってこう記したのです。その確信は、自分は神の子であり、神こそは私を愛する父なのだというところからきているのです。

わたしは思う。今のこと時の苦しみは、やがて私達に現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8章18節)

このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに私達に得させるからである」(コリント第二の手紙4章17節)

私達は必ず父なる神から桁違いの報いを受けます。否、もうそのことを保証する保障金は支払われているのです。神の報いはもう既に私達に主イエスをお与えくださったこと、その主が十字架においてその愛を示してくださったその真実さの中に十二分に示されています。それは私達に与えられる報いの約束手形のようなものなのです。

かつてスミルナという地域に年老いたポリカルプという司教がいました。彼は迫害の時代に生きた人であり、ある日群集が彼を捕まえ、ローマの長官の法廷に引きずり出し、カイザルの像に犠牲を捧げるか、死を選ぶかの選択を迫りました。その時に彼はこう応えました。

「私がこれまで生きてきた86年もの間、私はキリストに仕えましたが、キリストは一度もわたしを不当に取り扱われませんでした。どうしてわたしは、わたしを救って下さったわたしの王の名を汚すことができましょうか」。

お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り

マタイ5章10節‐12節

1)あなたはこれまでに迫害を受けたことがありますか。現在、迫害を受けているという方いますか?このところで記されている「迫害」とはどんなものですか?

 

2)もし「迫害」という言葉が、その信仰ゆえに命を失った殉教者達のためだけに用いられるのなら、このマタイの言葉はあなたと関係のないものとなりますか?どのような状況において、この言葉はあなたと関係がありますか。

3)伝道の書7章2節、3節の言葉は一読すると不謹慎な言葉のように思えます。しかし、そこには深い意味が込められています。この言葉にはどんな真理が隠されていますか?クリスチャンは試練からどんな益を見出すことができるのでしょうか。

4)あなたは「迫害・試練」が自分だけのものではなくて、それは次世代に残せる宝と変わるという事実について考えたことがありますか。今日、私達の教会がこのサンディエゴに存在しているということと、かつてローマのコロシアムで獣と戦わされて殉教していったクリスチャンの死とは無関係ですか?

5)もしあなたの子供が、あなたゆえに、汚名を浴びていたり、試みにあっていたとしたら、しかしながら、その子はそのような中でもじっと耐え、あなたのために健気に生きようとしているのを、もしあなたが見たとしたら、あなたはその子のために何をしようとしますか。あなたの心はある強い感情で突き動かされませんか?その思いと父なる神様の私達に対する思いとは無関係ですか?

6)パウロが記している「わたしは思う。今のこと時の苦しみは、やがて私達に現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8章18節)「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに私達に得させるからである」(コリント第二の手紙4章17節)というみ言葉は、あなたにどんな希望を与えてくれますか。

7)クリスチャンにとってピンチはチャンスとなるということはどういうことですか。あなたは迫害の中にもこのような神様の恵みが注がれていることを発見しましたか?

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