英語には「DRIVEN」という言葉がありますが、それは私達の心の中にあって、私達を突き動かすものを意味します。私達は日常の生活において様々な言動をしていますが、実はこれらの背後にはそれらのことを駆り立てている何かが私達の心にはあります。そして、その何かが時に私達の罪意識となることがあるのです。あの時、あんなこと、こんなことをしてしまった、そのことに対する罪責の念というのは生涯消えません。そして、その心にある過去の罪が、今だもって現在の自分の意思と決断に大きな影響を与えているということがあるのです。
マック
今日、礼拝でお話ししたメッセージです。
胸をはって生きていけますか? 2010年1月24日 エペソ6章10節-16節
私達は「試み多きこの世に立つ」というテーマからエペソ書より見ています。このタイトルにあるように、私達の日々の生活には多くの試みが襲ってきます。その中でそれらに向き合っていくということは大変なことです。ですから、私達はこの新しい年のはじめ、まず自ら神の武具を身につけて歩んでいきましょうということをテーマとして礼拝メッセージをお届けしています。
先々週は「真理の帯」というところから、なぜ「帯」が一番最初にきているのかということをお話ししました。そして、その理由として要となるところをまずしっかりとすることが第一に大切だということをお話したのです。そして、今日はその先のこと、すなわち、その真理の帯を締めた後に、このエペソ書はなんと書いているのか、その箇所を読んでみましょう。
10最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15平和の福音の備えを足にはき、 16その上に、信仰のたてを手に取りなさい。
エペソ書はここで「正義の胸当て」をつけるようにと私達に語りかけています。防弾チョッキというものがありますが、それは胸を中心とした上半身につけるものであり、手足にはつけません。言うまでもなく、胸とは心臓のあるところであり、そこにダメージを受けますと、致命的なものとなるからです。実際の防弾チョッキの材質を私は知りませんが、このところではその胸当ては「正義」だというのです。でもどうして、この「胸当て」は「正義」でなければならないのでしょうか。
そもそも「正義」とは何でしょうか。それは文字通り、正しいことであります。しかしながら、この正しいということについて少し説明しなければなりません。すなわち、ここで言っている正義とは「俺は正しい、お前は正しくない」というようなものではないということです。「俺は正しい、しかし、家内よ、子供よ、部下よ、あなたが言っていることは全くもって正しくない」とか、「我が国は正義に根ざしているけれど、あなたの国は全くの悪に包まれている」ということではありません。
それではここでいう義とは何なのでしょうか。そのことはこの「義」という漢字、すなわち「羊」と「我」という字が見事に説明しています。おそらく、この漢字が出来上がってきたその始まりには、ほぼ確実に聖書の物語があったと想像できます。
なぜなら、聖書において「羊」という動物はイエス・キリストを指し示す言葉として、イエス・キリストが生まれる前から預言として使われているからです。そして実際にイエス・キリストご自身も自らを「小羊」と呼んでいるからです。すなわち義とは「イエス・キリスト」と「我、すなわち私」との関係を意味するということです。
少しこのことについて説明させていただきますと、聖書は「義人はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)といいます。これはたとい私達が「あの人はいい人だ。人格者だ。あの人の過ちを見たことはない」と評価する人がいたとしても、その心の動機までも全て知られるお方を前に自信をもって立ちうる人はいないということです。仮に過去一週間、私達がしたこと言ったこと、それに加えて、あの時、この時、心の中で思っていたことを全て、これからこのスクリーンに映し出しても何ら差し支えないという方はいないのではないかと思うのです。しかしながら、神様は全知全能なお方ですから、そのこと全てを熟知しておられる、そのお方を前に誰も自分には罪、過ちがないとは言えないことでしょう。
聖書は神は愛であり、義であるといいます。この特性は神の本質であり、もし神が愛だけであるならば、そこには悪に対する裁きはありません。反対に神が義だけであるならば、私達は今、お話しましたように誰一人として神の前に立つことなどできず、裁かれる以外に道のない者となるのです。
しかしながら、神様はそんな私達のために一人子イエスをこの地上にお送りくださり、そのイエスが、私達の罪の身代わりとなって十字架において死んでくださったことにより、神の義は全うされ、同時にキリストが私達のために死なれたということによって、私達に対する完全な神の愛が明らかにされたのです。このことが羊、すなわちイエス・キリストと我、すなわち私の関係なのです。ですから、このイエスの十字架こそが私達の「義の胸当て」であり、その胸当て着ている者はキリストの十字架によって罪が赦されているということを意味するものなのです。
それではこの十字架の胸当てによって、私達はどのように守られるのか、具体的なことをいくつか見ていきましょう。そのために今日は詩篇32篇1節ー11節を見ていきたく願っております。
1そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。 2主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。3わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。 4あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって枯れるように、枯れ果てた。5わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。6このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも、その身に及ぶことはない。7あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。9あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。10悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。11正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
このところからまず最初に「胸をはって生きる」、私達は罪責感と共に生きる必要はないということを見ていきたいと思います。
胸をはって生きる(罪責感と共に生きる必要はない)
1そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。 2主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。3わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。 4あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって枯れるように、枯れ果てた(詩篇32篇1節ー4節)。
この詩篇32篇の記者はダビデといわれていますが、彼はここで「自分の罪を言い表さなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、私の骨はふるび衰えた」というような叫びをしています。その彼の罪とは何だったのか。おそらく、サムエル記(下11章)に記されています、ダビデが自分の部下の妻と関係をもち、その女性に自分の子を身ごもらせ、そのことを隠すために部下を間接的に殺害したという出来事があったのではなかろうかと言われています。その罪が昼も夜も重く彼の上に重くのしかかってきたというのです。すなわち、それは彼がその罪の意識に責められて毎日を生きていたということです。
英語には「DRIVEN」という言葉がありますが、それは私達の心の中にあって、私達を突き動かすものを意味します。私達は日常の生活において様々な言動をしていますが、実はこれらの背後にはそれらのことを駆り立てている何かが私達の心にはあります。そして、その何かが時に私達の罪意識となることがあるのです。あの時、あんなこと、こんなことをしてしまった、そのことに対する罪責の念というのは生涯消えません。そして、その心にある過去の罪が、今だもって現在の自分の意思と決断に大きな影響を与えているということがあるのです。
この「罪責感」というものをコンピューターで調べますと、この言葉が「裁判の判例」によく使われている言葉であることに気がつきました。裁判とは何かしらの問題を裁く場ですから、その場所でよく取り上げられる言葉が、すなわち「罪責の思い」なのです。言い方を変えれば、この罪責の思いが色々な形となって、実際に人の法に触れる事件に関連してくるということです。
皆さん、いかがですか。私達は過去のあのこと、このことに囚われて生きていませんか。何か大切な決断をする時に、自分ではこうすべきだ、こうしたいと願っていながら、その時にその思いをかき消す内なる罪責感というものがありませんか。それによって何をするにも恐れが伴い、前に踏み出すことができないということはありませんか。
自分の過去の罪責の思いから、自分は幸せにはなれないのだ、否、幸せになってはいけないのだという、まさに暗示のようなものによって自分を縛り、自分を悲惨な状況に追い込む言動ばかりを繰り返す、そのことによって、自分で自分を罰しているというようなこと、そのような人生を送っている方はいませんか。
私達の周りには破壊的な行動に出る人がいます。そんなことをしたら明らかに体によくないとか、それでは人生破滅だという言動を繰り返します。アルコール、ドラッグ、性的な問題行動、その多くは本人も気がついていないかもしれませんし、全てがそうだとは言い切れませんが、自分で自分の心と体を痛みつけることによって、自分を罰していることはないでしょうか。
そして、それは自分だけの問題ではなく、いつでも問題の原因は自分にあると、人の問題までも自分で背負いこんでしまう人がいます。そうすることによって、無意識に自分の罪を償っているのです。このような意味で私達は過去の囚人、すなわち罪の奴隷となってしまうことがあるのです。
実際にイエス・キリストは「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」と言われました(ヨハネ8章34節)。パウロはそのことを自身を例に挙げてこう告白しました「私は自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである・・・。・・・そこでこの事をしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である」(ローマ7章15節、17節)。
しかし、そんな私達に聖書は約束するのです。「御子イエスの血が、すべての罪から私をきよめるのである。・・・もし私たちが自分の罪を告白するならが、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる」(ヨハネの手紙第一1章7,9節)
私達がこのイエスの十字架の愛を知る時に、私達は「義の胸当て」をつけることができるようになるのです。その時に私達を苦しめている罪は全て赦され、私達はもはや自分の過去の罪に責めさいなまされることがなくなるのです。皆さん、これまでの自分の人生、何があなたの言動をDRIVENしてきましたか?突き動かしてきましたか。新しい年、義の胸当てをつけて、胸をはって歩みだす、そんな生涯をはじめませんか?二つめのことを見ていきましょう。それは「胸をなでおろして生きる」ということです。詩篇32篇7節-10節を読みましょう。
胸をなで下ろして生きる(正しさを証明する必要はない)
7あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。9あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。10悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる(詩篇32篇7節ー10節)。
皆さん、私達は自分の正しさを主張し、相手にそれを認めさせるというようなことをすることがあります。すなわち、自分の内に自分の定規(スケール)があって、見るもの聞くもの全てをその定規で測量して、それが正しい、正しくない、受け入れられる、受け入れられないと判断して、それらが胸に据えかねると自分の正しさを証明することに躍起になるのです。そんなことを互いに私達はしていますから、争いが絶えることはありません。
そして、それはとてつもないエネルギーを要することであり、まさしくそれは悟りのない馬や騾馬のようであって、自分の思いだけによって突き動かされて、全てを自分の力に任せて解決しようとするような生き方です。
先ほどもお話ししましたように、聖書は完全に正しい人はいない、誰一人として完璧な人はいないといっています。ユダヤ人の間では「全員一致で決められた議題には気をつけなさい」という諺があるといいます。聖書が言っているように「鼻から息する者に頼るな」ということをよく知っているゆえに、そのような知恵を彼らは授かっています。
伝道の書を書いたソロモンはこんな警告を書き記しました「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか」(伝道の書7章16節)
「試み多きこの世に立つ」というメッセージ・シリーズをお話しするにあたり、私は「生きることは戦いです」と繰り返し述べています。その気持ちは今でも変わりません。毎日が戦いです。隙あらば甘い言葉ですりよってくる人達がいます。経済の厳しさ、突如の病等、色々なことが私達の日常には起きてきます。そして、そのような世界に生きていますと、私達は常に自分の義というものを主張するようになります。
そして、それがエスカレートしますと、私達は自分こそが絶対に正しいのだという思いに捕らわれることがあります。その時には他の人の意見は耳に入りません。そして、あたかも自分が裁判官かのように、自分の基準こそが正しいというように、私達は上段から刀を降り下げることがあります。
また、いつも自分が攻撃をされているように錯覚する人がいます(これは先にお話した自分の心にある罪を指摘されてしまうのではないかという恐れからくる思いです)。それゆえに、私達は過剰にこのようなことに反応して、自分の正しさを主張します。その主張は相手を怒鳴りつけることから、蹴っ飛ばす、毒を盛る、ミサイルを撃ち込むということまで幅広くあります。そして、それらに共通することは、自分で相手に対して自分の考える義を証明しようとする行為です。ソロモンはそれは危険だぞ、そうなると自分が滅びるぞと言っているのです。
このように見てきますとこのソロモンの言葉を通して、彼が何を伝えようとしているかということが私達には分かってきます。そうです、義に過ぎるな、賢すぎるな、どうしてそのことで自分を滅ぼしていいだろうか、だから、そうではなく、あなたは義なる神様にその義を任せるべきだということをソロモンは私達に語りかけているのです。
今日、何度もお話ししていますように、私達が義の胸当てを着るということは、私達がキリストの十字架によって罪を赦されたことを意味することです。そして、その時に私達は神様だけが自分を正当にジャッジできるお方なのだということを知ります。それゆえに、私達は自ら義を証明する必要はなくなるのです。ですから、この義の胸当てを着ているということは「私は物事の正しさを全能なる神様に委ねている者です」ということを表明しているのです。
私はボクシングをしたことはありませんが、見ていて大変なスタミナが必要だということがわかります。なぜなら、ボクサーは相手にパンチを浴びせつつ、その拳で自らを守るために常に、そのガードを(手を)下げることをしないのですから。相手を打つことも大変ですが、手を上げ続けるということも大変なスタミナを要することに違いありません。
私達が自分で義を立てるということはそのようなことなのかもしれません。それは常に敵に囲まれていて、ガードを下げることのできないボクサーのようです。そりゃそうです、義の胸当てがないのですから、自分を守るのは自分以外にいないのですから。しかし、もし私達が自分の義を主張するために、四六時中、心をガードしているならば私達はやがて倒れてしまうでしょう。
だからダビデは詩篇32篇7節ー8節に記しているのです。7あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう(詩篇32篇7節-8節)。この言葉は、あなたの義を知らなければ私は自らその義を証明しようとして躍起になって生きていたことでしょう。あなたはそのような私にとって隠れ場、私を守ってその悩みを免除してくださるお方、あなたはその時々に私に私が進むべき道を示し、諭してくださるお方ですということなのです。
自分の正しさを主張することに疲れている方いませんか。生涯、それは続けていくべきことでしょうか。義の胸当てをつける時に、私達はもうそんなことをする必要はなくなるのです。私達は隠れ場なるお方の中に生きることができるのですから。そのお方が私達のために義を示してくださるのですから。悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる(詩篇32篇10節)と神様は約束していてくださるのですから。
最後のことをみましょう。それは「胸をときめかせて生きる」ということ、すなわち義の胸当てを着て喜びに生きるということです。
胸をときめかせ生きる(義とされている喜びに生きる)
今まで見てきましたこの詩篇32篇ですが、その一番最後の11節にはこのように書かれています。「11正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ」です。
いつもお話しますが、クリスチャンになるということは、喜びと楽しみと決別しなければならないと考えておられる方がいます。しかし、そんなことは聖書のどこにも書かれていません。それどころか神を知り、神と共に歩むことによって本当に喜びと楽しみと共に生涯を歩むことができるというのがクリスチャニティーです。
もちろん世にも喜びと楽しみがあります。しかし、神と共に生きるということは、それらとは違う喜びであり、楽しみなのです。今日、ずっとお話してきましたように、私達の罪責感とは私達の喜びや楽しを奪っていきます。責められたり、非難されたりすることを望む人はいません。しかしながら、罪責感とはそんな自分を責めるもう一人の自分が四六時中自分の心の中にいるということですから、私達の喜びや楽しみはいとも簡単に失われていくのです。また常に自分の義を立てようとする時に、私達はどんなに膨大なエネルギーがそこに注がれていることでしょうか。四六時中、ファイティング・ポーズで生きる、そこには喜びも楽しみもなく、息ぬく時がありません。
しかし、私達が義の胸当てをつける時に私達の心には内なる平安、内なる喜び、内なる楽しみがわいてきます。自らの罪の責めに悩むことなく、変わらない神の愛に育まれ、本当に自由にされて生きていく、最終的な裁きは自らのうちになく、全てを最善にしてくださるお方にそれらを委ねていく生涯、こんな幸いな人生はないと思うのですがいかがでしょうか。
「それいただきたいのですが」という方いませんか。「おいくらですか」とか、「今、どれくらいのウエィティング・リストがありますか」と思われるかたもいるかもしれません。どの質問にも答えはありません、なぜなら、私達が願うならば、今日からその喜びと楽しみはあなたのものとなるからです。義の胸当てをつけて、この新しい一年を歩み始めようではありませんか。お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り 2010年1月24日
1)あなたは「正義」という言葉に対してどんなイメージがありますか。この言葉にあなたは良いイメージをもちますか、それとも悪いイメージをもちますか。なぜでしょうか?
2)「義」という言葉を分解すると「羊」と「我」という言葉になります。このところから義ということに対して、どんな聖書的な定義がなされますか(ヒント:聖書の中で「羊」にはどんな意味がありますか?)
3)詩篇32篇1節ー11節を読みましょう。ここから著者、ダビデのどんな心情をうかがい知ることができますか?
4)私達が罪責感をもつ時に、それは自分自身に対してどんな影響を与えますか?あなたの言動を突き動かしているものが、過去の罪に対する罪責の思いだということがありませんか?イエス様が言われた「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8章34節)という言葉は具体的にどのようなことを意味するのでしょうか。
5)「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか」(伝道の書7章16節)という言葉について、あなたはどう思われますか?あなたは自分の義をたてるために生きたことがありますか(生きていますか)。その時の自分の心はどんな状態でしょうか。そこに平安はありますか?
6)主に世の中がいう喜びと楽しみとはどのようなことを指すのでしょうか?詩篇32章11節に書かれている「正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ」という言葉はどんな楽しみと喜びを意味していますか?