釈迦がイエスに会っていたら・・・

J0227554_4私は釈迦と同じ人間として、彼が世について悩み、真理を求めようとしたということについて敬意を表します。そして、内なる求道心をもっていたにもかかわらず、彼が本当の光を見出しえなかったことを残念に思います。多くの人達が言うように、もし釈迦があと560年以上遅く生まれていたら(釈迦の誕生年月日には色々な説があるのですが、紀元前560年頃と言われています)、そして、どこかでイエス・キリストの福音に出会ったとするならば、彼は胸躍りながらイエスに従ったに違いありません。

マック

今日、礼拝げお話したメッセージです。                    最後に「本日のお持ち帰り」あります。                         よかったらどうぞ↓

釈迦がイエスに会っていたら・・・

2009年4月26日

今は知りませんが「勝ち組」「負け組」という言葉が一時、日本で使われたといいます。昨年、秋葉原で無差別に通り魔事件を起こした犯人の書き込みからも「勝ち組の奴にこの気持ちはわからない」という言葉がみつかり、犯人は自分はずっと負けっ放しだという認識を持っていたと報道されていました。

この勝ち組、負け組という言葉はマスコミが飛びつく格好の言葉となりまして、当時、例えば職業において「勝ち組の仕事はこれ」とか「負け組の仕事はあれ」といったようなことが取り上げられていました。そして、その範囲は職業に限らず、容姿学歴趣味、家柄までにおよび、そこから差別・偏見・倦怠感・憎悪というようなものが、はてには殺意というものまでが生まれてきました。

聖書はこの「勝ち負け」について何と言っているのでしょうか。最近の日本の学校でもたれる運動会の徒競走では子供達に順位をつけることなく、すなわち「勝ち負け」を区別することなく、皆を公平に扱おうとしているというのですが、聖書もそのように「勝ち負け」の区別をせずに、やんわりと皆が公平に仲良しにと言っているのでしょうか。いいえ、驚かれるかもしれませんが、聖書は明確に私達には勝ち負けがあると言っています。

例えばヨハネというイエス・キリストの弟子はこの勝敗というものにこだわりをもっていました。彼は言いました。

「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(Ⅰヨハネ5:4‐5)

ヨハネは「勝つ」ことを意識し、それを求めました。しかし、彼がいう「勝ち」とは、今日の勝ち負けの対象が職業・容姿服装学歴趣味、家柄等に対するものであるのに対して、彼はその勝ち負けを決する相手を「世」と定めていたのです。

このことは多くの私達には不思議に思えます。なぜなら、今、お話しましたように私達にとって勝敗を決する相手というのは「誰それという個人」であったり、競争相手にあたる「同業者」であったりするわけで、「世」との勝ち負けを考えている人はいないからです。

そして、この考え方というのはヨハネのオリジナルなものではなくて、実は彼の心の中に刻まれたイエス・キリストの言葉があったからなのです。

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」ヨハネ16章33節

皆さん、ここでイエスもヨハネも言っている世とは何なのか。それは私達が生きている世界です。私達は誰もこの世界から逃れる事はできません。この世こそが私達の「人生」の「舞台」なのです。そして、キリストが言われたように、というよりも断言されたように、私達はこの世では悩みがあるのです。しかし、イエス・キリストはこの世界に対して自分は既にそれに勝っていると言われたのです。

はたして私達はこの世において、どんなことに悩み苦しむのでしょうか。一言で「悩み」と言いますが、この悩みには私達が人生で経験する全ての事柄が含まれます。そして、その原因は聖書に書かれているように、この世界そのものが罪によって完全に汚れてしまっているということです。その罪に汚れている世界に対して、わたしたちは勝敗を決めるというのです。

皆さん、ご存知の釈迦という人は(ゴータマ・シッダッタGotama Siddhattha、幼少の頃に田畑の虫をついばむ鳥を見て、この世の無常を感じていたといいます。やはり、彼は凡人とは違う感覚というものをもっていたのでしょう。しかし、その思いが決定的となったのはある時、釈迦がある城の東の門にて「老人」に会い、南の門にて「病人」に会い、西の門にて「死者」に会い、生ある故に老も病もも避けられないと無常を感じた時だというのです。

無常とは何か。それは、世のすべてのものは移ろいゆくということであり、私達が「老いることがないように」、「この健康が保たれるように」、「長生きできるように」と願っても、すなわち「今のまま変わらないで」と願っても、いっさいが例外なく変化していくということです。

これらの思いをもって彼は出家し、修行をし、瞑想しました。その修行たるや座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しいものだったようですが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれています。

そのような意味では「キリストがあなたがたはこの世では悩みがある」と言われた「あなたがた」の中にこの釈迦は私達と同じようにいたのです。彼は世とは何か、自分はどのようにそれと向き合うべきなのかということを求める求道者だったのです。

そして、その彼が最終的に行き着いたものというのは、この世のものはすべて「無常」なものなのだから、すなわちその字が示すように「常なるものは無い」のだから、それをあるがままに受け入れる以外にないというものでした。なぜなら、人は世界が常に変化しつつある「無常」なものであると分かっていながら、それらを受け止められなくなり、様々な欲望がわいてくる、仏教用語ではこれを煩悩(ぼんのう)とよび、これが私達の日々の判断を誤らせているというのです

だから、しっかりとその現実を直視し、これらの変化に対する執着を捨てなさいと釈迦はいうのです。そして、この「無常」を受け容れた状態を仏教では解脱と呼んでいるのです。ですから、釈迦の思想の中にはどう逆立ちしても、この「無常に溢れた世」に勝利をとるということなどは考えられないことで、それはある意味、十分に頷けることなのです。

なぜなら、この世で生まれ、この世で病み、この世で老い、この世で死んでいくこれは釈迦のみならず、私達全ての人間が必ず直面することですから、人間がその私達の命の舞台となっているものにそれをありのまま受け入れることはできても、それに打ち勝つことなできないからです。

しかし、もし仮に、この世界に勝利するなどという大それたことを言うことができる存在がいるとしたら、その方というのはこの世以上の存在、もっといいますとこの世の法則である、生と死というものの法則から完全に解かれている存在でなければならないのです。

私は釈迦と同じ人間として、彼が世について悩み、真理を求めようとしたということについて敬意を表します。そして、内なる求道心をもっていたにもかかわらず、彼が本当の光を見出しえなかったことを残念に思います。多くの人達が言うように、もし釈迦があと560年以上遅く生まれてきたら(釈迦の誕生年月日には色々な説があるのですが、紀元前560年頃と言われています)、そして、どこかでこのイエス・キリストの福音に出会ったとするならば、彼は胸躍りながらイエスに従ったに違いありません。

そして、彼はイエスを知ることにより、二つの面において衝撃を受けたに違いありません。その一つはイエスの十字架の愛であり、もう一つはイエスの復活の希望です。これこそが釈迦が求めていた究極のものです。なぜなら、この愛と希望は常に変わるものではなく、永遠のものだからです。この愛と希望は私達が必ず経験する老いと病と死というものをも包みこむものだからです。

イエスとは誰でしょうか。キリストは言われました「わたしの国はこの世のものではない・・・。事実、わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18章36節)。彼は自身、自分はこの世の者ではないと言ったのです。すなわち、先に触れたこの世の無常の法則に支配されることのない存在でありました。

さらに、驚くべきことにこのイエス・キリストをこの地上に送られた神はこの世界についてある思いをもたれていました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネの福音書3:16-21)

神はこの世を愛されたというのです。愛というものの大きさをもし計ることができるとしますなら、その相手に対して何を犠牲にすることができるかということがあげられるでしょう。神は実に、そのひとり子、すなわち最も大切なものを与えるほどに、この世を愛されたのです。しかも、その愛の対象は愛される資格もない私達なのです。それ故にその時に私達は「神よ、なにゆえに」と思うのです。

ダビデは詩篇8篇において、その気持ちというものをこう表現しました。

「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これを心にとめられるのですか。人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」

この「なにゆえに」という驚きと「それにもかかわらず」というその神の愛に気がつかされる時、私達もパウロがローマ書8章3節において言っている言葉と共に生きることになるのです。

「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」

釈迦は老いも病も死もそのまま受け入れなさいと言ったのです。そして、それは言い方を変えれば「それらは仕方のないものとして諦めなさい」ということです。ですから私達は釈迦を理解します。なぜなら、このキリストのようなお方がいなければ、人間が行き着くところは、やはり釈迦どまりなのです。自分でどうこうすることができないものなのですから。

しかし、パウロはこれら「死も生」も主イエス・キリストにおける神の愛から、私達を引き離すことはできないと言ったのです。私達は確かに病を負い、年月と共に老い、やがて死にます。いいえ、それだけではなく、この世において私たちはまさしく釈迦が言っていることの無常、すなわち様々な試練にあいます。しかし、聖書はそんな私達を愛しておられるお方がいるというのです。そんな私たちのために命を捨てた方がいるというのです。その方の愛を思うときに、その方がこんな自分を愛しておられるということが分かる時に、パウロはこれら全てのことについて勝ち得て余りがあるといったのです。世に起こるどんな事柄もこの神の愛から自分を引き離すことはできないと言ったのです。

そして、さらにパウロはこう書き記しました。

「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえさせられ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着ることになるからであるこの朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着る時、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。 1コリント15章51節-58節

釈迦が世ということについて悩んだ究極のことは死の問題でしょう。これこそが人間の恐れと悩みの根源です。有名な話があります。死んだ愛児を抱えて半狂乱になって、さまようキサー・ゴータミという女性がいました。彼女は我が子の死を受け入れることができず、子を生き返らせることができる薬を求めて釈迦のもとにやってきました。釈迦はその母親に向かって言いました。「家々を訪ねて芥子の種をいただいてきなさい。そうしたら、薬を作ってあげましょう。ただそ今まで一度も死者を出したことのない家からその種をもらはなくてはなりません」彼女は村中を回りました。しかし、今までに死者を出したことのない家など何処にもありませんでした。この母親は死というものは全ての人間にやってくるということに気がつきます。そして、彼女は釈迦の弟子となりました。

ここには「死を免れる人は一人もいない」という事実をそのまま受け入れるという考えがあります。しかし、そこには死に勝利するという考えはありません。しかしパウロは言いました。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、お前の勝利はどこにあるのか」。神は私達の主イエスが十字架によりその愛を私達に示され、さらにその死から復活されることにより、死に対する勝利をわたしたちにも賜ったというのです。皆さん、一番最初にあげたヨハネがこだわった勝ちとはこのことなのです。

先日、興味深い問いかけを受けました。

世界で最も裕福な人の名前を五人あげなさい。                            過去5年間のミス・ユニバースの名前を五人あげなさい。                       最近の10人のノーベル賞、受賞者の名前をあげなさい。                   最近の10人のオスカー賞、最優秀俳優の名前をあげなさい。

答えられる人はいないでしょう。これらの人たちは皆、ある意味勝利者と呼ばれる人たちです。彼らは人々の羨望となるような勝利者です。しかし、その人たちをいつまでも覚えている人はいません。なぜでしょうか、なぜなら彼らは資産家、若い女性達、研究者、俳優の中では勝利者でありながら、世の勝利者ではないからです。釈迦の言葉を変えていうならば、資産も容姿も発明も映画も常に変わり行くものだからです。

キリストには財はなく、社会的地位もなく、学識もありませんでした。しかし、今日、イエス・キリストの名を知らぬ人はいません。なぜなら彼はこの世の唯一の完全な勝利者であるからです。すなわち決して変わらぬお方であるからです。そして、このことに対して、聖書は人事ではない、驚くべき、そうそれはそれはもう驚嘆すべき約束を私達に残しているのです。

「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(Ⅰヨハネ5:5)

彼を信じる者は、彼と同じように世に対する勝利者となることができるからです。そうです、先ほども読みましたように、パウロが言っている言葉が私達のものとなるのです。

「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」

もし釈迦がこのイエスと出会っていたら・・・。あなたはどう思われますか?そして、もしあなたがこのイエスと出会ったら・・・。その時にあなたは世に勝利する生涯を歩み始めるのです。

お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り                                                       

 釈迦がイエスに会っていたら・・・

2009年4月26日

①あなたは勝ち組、負け組という言葉に対してどんな印象をもちますか。

②釈迦が「老」「病」「死」という無常について悩んだことをどう思いますか。それらを「どうすることもできないこと」として受け入れることは、あなたにとって救い」となりますか?

③イエス・キリストがなされた最も偉大なことは何でしょうか。もし釈迦がキリストに出会い、その十字架と復活の意味を知ったなら釈迦はどうしたでしょうか。

④パウロはこのキリストを知る時にあらゆる境遇(生も死も)に勝ち得てあまりあるといっています(ローマ8章37節39節)。またキリストにあって私達もこの世に勝つことができるとも言っています(Ⅰヨハネ5章4節5節)。あなたはこれらのパウロの驚くべき言葉についてどう思いますか。

⑤あなたがこのイエスと出会う時に何が変わりますか?変わりましたか?

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釈迦がイエスに会っていたら・・・」への4件のフィードバック

  1. キリスト教の教えが素晴らしい事はこのブログで良く分かったよ、
    でも、他の宗教と比較するのは???
    どうかな???
    誤解を生むだけで、あまり意味が無いと思うな・・・
    サッカーチームがラグビーチームと戦うみたいな感じかな、かたっぽはサッカーをやって、かたっぽはラグビーをやって勝負にならない。
    勝ち負けを競いたいんじゃなくて、スポーツを楽しめばいいのに

  2. さんぼ
    コメントをありがとう!
    そして、読んでくれてありがとう!
    嬉しいぜぃ!
    今回も訪日したにもかかわらず、
    連絡もできずすまん。国境沿いの町
    からの風来坊なので、気ぃ~つかい
    ました(冗談)。

  3. ほぼ毎日のようにこのブログ見てるよ
    ほとんど信者だな、
    今度、日本に来る時は連絡しなさい!
    10分時間が取れたら呼びつけてくれれば、行けたら行くし、行けなかった行かないよ。サンディエゴまで来いって言われたら断るけどね。

  4. さんぼ
    毎日、読んでいてくれること嬉しいねぇ~。ついこの間までは郵便書簡で一週間かかっていたのに、こんな時代がくるとはなぁ~。
    そのうち25分で日本に行ける日がくるといいけど、それはいくいらなんでもないだろうな~。そうなったらこっちまで夕飯でも食べにきてくれよ。

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