要はしっかりしていますか?   

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扇子の要は肝心要です。その要が揺るんだり、壊れたりしますと全てがバラバラになってしまうからです。私達にもこの要があります。その要がしっかりしているかどうか、これはとても大切なことです。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。                                   よかったらどうぞ。

要はしっかりしていますか?                                   2010年1月10日                             エペソ6章10節-20節

10最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15平和の福音の備えを足にはき、 16その上に、信仰の盾を手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。

私達は既に2010年を10日歩み始めています。そして、そんな、新年早々に今日開かれていますエペソ書の言葉はとても物々しい言葉で始まります「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」。

このところには「悪魔」とか「世の主権者」とか「悪の霊」というような言葉が並びます。聖書はこれらの悪の力とか悪の霊というものの存在を否定しておらず、それゆえに、それらに向き合うことは、まさしく私達にとっての戦いなのだといいます。ですから、私達は文字通り、これらの言葉を受け入れるべきです。

しかしながら、私達はまずこの「霊の戦い」ということに対して最初に確認しなければならないことが二つあります。それは、この霊の戦いを強調しすぎることに注意しなければならないということです。このことを強調しますと、私達は全ての問題を悪霊の関わるものとして、自分の罪の問題を全て悪霊のせいにしてしまうことになります。そして、もう一つはその逆で強調しすぎないことにも注意しなければならないということです。実際にイエス様ご自身も悪霊を追い出し、その試みに合われたということ、そして、同じ悪の力が私達をも狙っているということを私達は常に知り、またそれに対抗する術を身につけていなければなりません。

なぜでしょうか。それは、この悪の霊が日々、何をしているのかということがここに書かれているからです。すなわち、彼らは「常に策略を練っている」というのです。

策略が練られています。

この策略という言葉は英語の聖書ではSCHEMESと記されています。そして、その言葉には陰謀とか企み(たくら)というものが含まれています。中国の兵法の中には、相手を打ち負かす手段として、相手を傲慢にさせるというものがあります。すなわち、まず相手が自分自身に対して自分は「抜きん出ているのだ」ということをあえて知らしめる、そして、そこそこ鼻が高くなってきた時に、一気に攻めるというのです。なんと人間というものを知り尽くした作戦でしょうか。人ですらそんな作戦を練るのですから、この悪の力が私達を陥れようと練りに練った策略はとても綿密なものであり、強力なものです。

策略とは数多く撃てば、どれかは当たるという無鉄砲なものではなく、そこにはしっかりと考え抜かれた段取りがあります。すなわち「相手がこう出たらこうする」とか、「ああなったらこうする」というところまで考えることですから、この悪の力の策略の前で私達は本当に無力です。

時にそれは甘い体験や成功というような、私達にとって望ましく思えることに隠れてやってきます。それは意外性を伴うことが多いので、もしかしたら一番、親しい人から忍び込んでくるかもしれませんし、そのために思いがけない人達が動員されるかもしれません。とにもかくにも、私達はまともにそれらの策略に立ち向かうことはできません。

ですからパウロはここで、これらの悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさいというのです。今年度の私達の教会の標語は「自分の足で立つ」ということです。私達が悪魔の策略に合うと私達は立ち上がれないほどのダメージを受けるのです。まさしくボクシングでいうところのノックアウトです。しかし、その策略に対して、やられっぱなしではなく、それに対抗すべく立ち続けるために、神の武具で身を固めなさいというのです。

最近、つくづく思うのですが「一年」という年月はいい意味、悪い意味で、私達の生活、もしくは私達の人格さえも変えてしまうのには十分な年月です。この一年、もし私達がこの悪の策略、戦術にはまってしまうとするならば、私達の一年後がどうなってしまうのか、そのことを思う時に恐れを感じます。ですから、戦地にいで行く兵士達がジーンズとTシャツでは出兵しないように、私達もこの新しい年、無防備でこの一年を歩むのではなく、しっかりと神様が与えてくださる武具を身にまといこの一年を歩み始めていこうではありませんか。

このエペソ書に記されている武具は一つ、二つで有効かといいますと、そうではなく、全てが揃って本当に力があるものですから、どうぞ、皆さん、礼拝をミスせず、しっかりとこの武具を身にまとって2010年を歩んでください。今日はまずその第一のものとして「真理の帯」というものについて幾つかのことを見ていきたく願っています。まず最初に「帯は腰に巻くものです」ということについてお話しましょう。

帯は腰に巻くものです

なぜ、パウロはここでまず「真理の帯」について語っているのでしょうか。なぜ、その後にくる「正義の胸当」とか「信仰の盾」が最初ではないのでしょうか。理由は簡単です。帯はどこに巻くのですか。腰です。

腰とは月に要と書きます。私は20歳の頃、夏の間、日本でアルバイトをしていました。バブルの時代、限りない発注が来ていた時代ですのでその工場は24時間、動いていました。私はその工場のラインに入り、エアコンを組み立てていました。若さに任せ、エアコンをコンベアーに載せたり、おろしたりしていました。ある日、腰をかがめ、エアコンを持ち上げる時に、なんとも表現しがたいのですが、腰骨がスルッとずれてしまったような感覚に襲われ、その瞬間、立てなくなりヘナヘナと床に座り込んでしまいました。そうです、聞いてはいたギックリ腰です。何か体の芯というものがずれてしまったようで、全身に力が入らなくなるのです。安静にして数週間で直りましたが、その後、これは癖となり、何度もこの腰痛は私を苦しめることになりました。その時に、腰痛になると本当に何もできなくなるということを知りました。まさしく腰は要であるということを知りました。

要ということで、もう一つ分かりやすい日本的な譬をお話しましょう。扇子というものがあります。扇子は、その中骨が1本や2本折れてもなんとか使うことができます。また、張られている紙が少々やぶれても使えることは使えます。しかしながら、この骨子をまとめている「要」と呼ばれる部分が壊れてしまうと、扇子は全てバラバラになって、もう使いものにはなりません。まさしく、そこは「肝心要」の場所なのです。

皆さん、クリスチャン信仰をもつということは、この要の存在を知り、その部分をしっかりと保つということです。これがなければ、全てはバラバラになってしまう、他の全ての力が失われるということを知っているということが大切です。

先日、元旦に「激論2010 ニッポン大転換!?」という番組を放映していました。日本の経済や外交について政治家や識者達が議論をしていたのですが、その最後の質問が「私達が心豊かに暮らすには」というもので、それに対して八名の出席者達がそれぞれボードにその思いを書きました。その中で現宮崎県知事である東国原秀夫さんが「価値変革」と、また著名な建築家の安藤忠雄さんが「価値観を変える」と書いていました。

それを見聞きしていて、「あ~ここまで来ているんだ」という印象を受けました。すなわち、信仰のない人でも、もはや私達は価値観を変えなければならないということに気がついているということです。

もちろん、彼らが言っている価値観というものが何であるか私には分かりません。しかし、彼らが言いたいことは、今まで「個々が寄って立っていたもの」を見直し、新しく「寄って立つべきもの」を見出すということなのです。言い方を変えますならば、これまで多くの人たちが寄って立っていたものが、もはや通用しない時代となったということを彼らは言いたかったのかもしれません。そして、それは、あなたの帯をもう一度、見直せということなのかもしれません。

二つ目のことを観ていきましょう。それは「帯は真理です」ということです。

帯は真理です。

さて、パウロが言うところの、その要に巻く帯とは一体、何なのか。そこが弱ると全てが壊れてしまうというようなところに私達は何を巻いているのか。ある人はお金という帯を巻いているかもしれない。知識という帯を巻いている人もいるかもしれない。プライドというものも、腕力や容姿というものですら自分の帯となりうるでしょう。しかし、それらはどうでしょうか。まさしくあのイエス様が譬としてお話になられた砂の上に建てられた家のようです。すなわち、人生の風、雨、が降るとそれらは吹き飛んでいくものです。

私の帯は夫です、妻です、子供たちです、あの人、この人ですという方もいるかもしれません。しかし、どうでしょうか。自分自身、もし自分が誰かの帯だと思われていたらなどと考えみますと、確かに頼りとされるということは、嬉しいことなのですが、しかし、正直なところは、困ってしまいます。なぜなら、人はいつどうなるか分からないからです。健康や年老いていくということを考える時に、何よりも自分自身も揺れ動く感情をもって、過ち、欠けの多い人間に過ぎないということを思う時に、聖書がいうところの「鼻で息する者に頼るな」という言葉に頷く者なのです。

パウロは常々、そのことを知っていました。そんな彼はこの肝心要の帯を真理と呼びました。真理とは何か。イエス・キリストはかつて言われました。「私は道であり、真理であり、命です」と。そうです、その真理とはイエス・キリストだというのです。もし、私達がこのイエスを腰に巻くのなら、すなわちイエスと共に生きる生涯を歩むのなら、私達の全体は保たれるというのです。

先ほど、討論番組において「新しい価値観」を構築するということについてお話しました。その言葉には明らかに価値観というものには「古いもの」と「新しいもの」があるという考えがあります。ですから、仮に何か新しい価値観を見つけたとしても、それは来年にはまた新しい価値観を見つけなければならないということです。

でも、価値観というのはその言葉のとおり「何に本当の価値を置いていくか」ということなのですから、それががいつもコロコロ変わっているようでは、本当の価値観ということはできないのではないでしょうか。それに対してイエス・キリストの言葉はこの2000年間、訂正されたり、削除されたり、加筆されたりしません。新しい時代だから変えましたということはないのです。なぜだと思われますか。なぜなら、イエスは時代が変わっても決して変わることのない、全ての民族が共有する普遍的な問題に対して解決をお与えになっているからです。

すなわち、こういうことです。この討論番組を初めから終わりまで観たのですが、お一人お一人がごもっともなことを話しておられるのですが、どの話もどうもしっくりいかないのです。どういうことかといいますと、どんなグッドアイデアを聞いても心の中で「そうは言っても」という思いがわいてくるのです。なぜなら、そこで討論される事柄は、たとえそれが経済問題、外交問題、あるいは教育の問題であったにしても、それらは全て人間に関わることであるということであり、そうであるならば、人の心の奥底にあるものまで掘り下げて、そこから考えようというものでなければ、本当の光は見えてこないからです。そして、その人間の底を見つめる時に、私達が必ず対峙しなければならないことになるのが、罪の問題なのです。そこから人間というものを考え、そのような人間が諸々の政策や改革にあたっているのだというところまで考えないと、私達の行くては見えてこないのです。

聖書は分厚い書です。そして、この書はその最初から最後までこの人の罪について書いています。その問題こそが人間の抱える問題の全ての根源です。そして、そこに光をあて、その解決を与えてくださったのがキリストなのであり、それゆえに、そのキリストを帯として私達は生きていくべきだとパウロは言うのです。

最後です「この帯と自由」ということについてお話しましょう。

帯によって自由に動けます。

日本で旅館に泊まりますと、浴衣などが備えつけてあります。これが昔ながらの古い旅館になりますと、そこには卓球台が備えられています。そこで浴衣を着て、スリッパをはいて、卓球なぞを始め、だんだんと興奮してきますと、浴衣がはだけてきます。そして帯が緩んできて、卓球に集中できなくなります。そこで、タイムをかけて、私達は浴衣を調えて、帯をきつく腰に巻くのです。そうすることによって、再び自由に動くことができ、卓球に集中できます。

柔道を考えてみてください。激しい組み合いがなされると柔道着が崩れてきます。そうしますと審判は一度ストップをかけ、身を整え、しっかりと帯をするようにと促します。そうしなければ自由に戦えないからです。

皆さん、よく信仰なぞをもつと不自由になるという人がいます。しかし、私はなんとまぁ、逆のことを言っているぞと思います。イエス・キリストという帯で自分の要をしめることによって、どんなに身も心も軽くなることでしょうか。それによって、どんなに解放されていることでしょうか。キリストという帯を腰に巻くことによって、フットワークが軽くなることを日々、感じています。

私達は気がついているでしょうか。すなわち「これこそ自分の帯だ!」と思っているものが、実は自分を自由にするものであるどころか、自分を縛っているということを。自分がお金、プライド、姿形、あの人、この人、実は自分を確固たるものにしてくれているものと思っていたものが、実は自分を支配している、コントロールしているということに気がついているでしょうか。いいえ、言い方を変えましょう。これらの帯には容易に人の欲、すなわち罪というものが加わります。そして、悪の力はそのことを知っていますから、このような帯に対しては容易に攻撃をしかけることができるのです。そして、そうなりますと本来、私達を立たせる、私達を守り支えるはずの帯に縛られるというような、まさしく本末転倒が起きてくるのです。

パウロはこのことをよくよく理解しており、ローマ6章17節、18節において今までお話してきたことを、こんなに明確に書いているのです。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(新共同訳)。

私達がどんな帯を巻くかによって私達は決まります。そして、その帯自体が私達の欲と罪によって出来ているとするならば、私達は完全に罪の奴隷となります。しかし、今は伝えられた教えの規範、すなわち真理なる帯によって、私達は罪から解放されているというのです。

私の子供たちはよくチャンバラごっこをします。多くの私達の幼少時代がそうであったように、外に出ると彼らには特別なセンサーが備わっているのか棒ばかり見つけて、それを拾ってきます。そして、その棒が玄関先にいっぱいになります(父親はしめしめ、これで暖炉にくべるちょうどいい種火ができたと喜びますが口には出しません)。

彼らはその棒で戦うのです。そして、その時に必ずすることがあります。彼らは棒を腰のベルトに差し込んで嬉しそうに両腕を振って歩くのです。すなわち、帯はからだを締めるためだけにあるのではないのです。その帯を中心に、それによって支えられるものがあるのです。警察官を見てください。一つ一つ、取って見せてくださいと好奇心がわいてくるほどに、多くのものが腰まわりについているではありませんか。そのベルトがなければ、彼らは両手をフリーにして、自由に仕事などできないのです。彼らの安全が保障されることはないのです。それは私達とて同じなのです。その真理の帯が動かないから、私達はその帯を中心に自由に考え、自由に生きることができるのです。

皆さん、私達が今年度、標語として立てている「自分の足で立つ」ということは、自分で考え、自分で決断することができることを意味します。これは当たり前のことなのですが、この当たり前のことができないのが私達なのです。なぜなら、そのためにはこの真理の帯が必要だからです。この真理の帯という確固たるものがあるからこそ、私達は自分の決断の時に、それをパウロの先の言葉で言いますならば、真理なるイエスという規範に照らし合わせていけばいいのです。イエスならどうしたろうかということに照らし合わせていけばいいのです。

皆さんの中には自他共に「大黒柱」と呼ばれている方々がいることでしょう。その柱がある限り、家や会社は倒れないだろうという希望が込められた言葉です。そして、その柱に期待されていることは、当然、倒れないことなのです。そして、立ち続けるためにはしっかりと要を支えなければなりません。そして、その要を支えるために私達にはしっかりとした帯が要なのです。

そして、これらのことこそが、悪の力が一番、願っていないことなのです。もし私達が誰かを攻撃するのであるならば、私達は肝心要の場所を攻めます。そこを崩せば、全てがバラバラとなってしまうところです。そんな悪の霊にとって、帯が真理で巻かれ、私達がそこに立って、自由にキリストの名のもとに決断をしていく時、それは脅威となるのです。

あなたはどんな帯を巻いていますか?イエス・キリストという帯を締めなおして、自由闊達に、この新しい年、2010年を歩んでいきませんか?先に言いましたように、一年は私達を変えるためには十分な時間なのですから。

本日のお持ち帰り                                   エペソ6章10節-20節

1)あなたは悪魔が自分に対して練られた悪の策略を建て、それを実行しようとしているということを知ったらどうしますか?それに対して、あなたはどのように自らを防御しますか?エペソ6章10節20節は何と言っていますか?あなたが特に心に残る神の武具がありますか?

2)なぜ「正義の胸当て」とか「信仰の盾」の前に「真理の帯」が記されているのでしょうか。帯はどこに巻きますか?私達にとって腰とはどんな役目を果たすものですか?

3)今日の世の中、人はどんな価値観を持って生活していますか?あなたはどんな価値観をもって生きていますか?あなたは次世代の子供たちにどんな価値観をもって生きてほしいと願いますか?揺らぐことのない価値観というものはどんなものでしょうか。

4)ここで腰にまく帯は何と呼ばれていますか?「真理」とは誰のことを指していますか(ヨハネ14章6節)私達が腰に帯(ベルト)を巻くことによって得ることができるものは何ですか?

5)ローマ6章17節から18節には「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(新共同訳)と記されています。ここに記されている「教えの規範」とは何を意味するのでしょうか。

6)私達が本当に自由に生きることができるために、帯は必要です。なぜですか?あなたはこの帯を必要としていますか?

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