今から10年ほど前に赤瀬川原平という方が書かれた「老人力」(筑摩書房)という本がベストセラーになりました。それ以来「鈍感力」とか「質問力」「段取り力」「要約力」というように「力シリーズ」が様々な著者達によって次々と出版されました。そういう意味では赤瀬川さんの「老人力」はそれらの先駆けとなったと言ってもいいと思います。
赤瀬川さんは、高齢になる時に「えーと、えーと…」と話したい言葉が出てこなかったり、「ほれ、あれ」で会話のほとんどが占められてしまうという現実に対して、それらを「嘆くべき老化」としてとらえるのではなく「老人力がついてきた」ととらえるようになったというのです。すなわち「老人力」とは年を重ねることによって生じる心と体の変化というものを「労人力」として喜ぼう、楽しもうではないかということなのです。
私たちも老いによって生じる現実的な心身の変化を受け止めつつも、それを否定的なものとして見るのではなく、神様はいよいよその人生の晩年に素晴らしい聖書的労人力を与えてくださっているのだということを、今日は確認して行きたく願っているのです。
マック
今日の礼拝メッセージです。
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最後に本日のお持ち帰りつき。
聖書的老人力に生きる!
今から10年ほど前に赤瀬川源平という方が書かれた「老人力」(筑摩書房)という本がベストセラーになりました。それ以来「鈍感力」とか「質問力」「段取り力」「要約力」というように「力シリーズ」が様々な著者達によって次々と出版されました。そういう意味では赤瀬川さんの「老人力」はそれらの先駆けとなったと言ってもいいと思います。
赤瀬川さんは、高齢になる時に「えーと、えーと…」と話したい言葉が出てこなかったり、「ほれ、あれ」で会話のほとんどが占められてしまうという現実に対して、それらを「嘆くべき老化」としてとらえるのではなく「老人力がついてきた」ととらえるようになったというのです。すなわち「老人力」とは年を重ねることによって生じる心と体の変化というものを「労人力」として喜ぼう、楽しもうではないかということなのです。
私たちもこの朝、老いによって生じる起こる現実的な変化を受け止めつつも、それを否定的なものとして見るのではなく、神様はいよいよその人生の晩年に素晴らしい聖書的労人力を与えてくださっているのだということを今日は確認して行きたく願っているのです。
それらを見ていく前にまず伝道の書から人間が年をとるということについて、その現実ということについて確認してまいりましょう。
1あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、2また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。
この聖書の言葉をよく私達は知ってます。しかし、その後を注意深く読まれた方いますか?ここには古今東西、変わる事のない現実というものが記されています。その現実を見ていきましょう。
3その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、
「その日になると」とは、老年になるとの意味です。「家を守る者は震え」とは手足の震え、「力ある人はかがみ」とは背骨が曲がり、「ひきこなす女はすくないために休み」とはもはや穀物をひきこなす力も失われ、「窓からのぞく者の目はかすみ」とは、当然、視力の衰えが出てくるということです。
4町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くされる。
「町の門は閉ざされる」とは一人歩きが不自由となり、出て行くと帰ってこれなくなるために、町の門は閉ざされ、「人は鳥の声によって起き上がり」とは老人の早起きをあらわし、「歌の娘たちは皆、低くされる」とは聴力が衰えて娘たちの美しい歌声もかすかに聞こえるだけという状態になるというのです。
5彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり、あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩きまわる。
そして息切れをするような坂道を登るのが大変になり、普通に道に置かれているものすら転倒の原因となるために恐れ、あめんどうの花は真っ白であるゆえに、その頭髪は代わり、いなごが体を引きずって歩く様になるということです。
6その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。
体の各器官が衰えた後に何ものにも変えがたい高価な命の器が壊れて、生命そのものが終わることを意味します。
7ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。8伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。
そして、肉体は「塵」で造られたものとして、「塵」に帰し、神によって吹き込まれた霊魂は、これを下さった神のところに帰っていきます。人の一生はヤコブの言うように「しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません」(ヤコブ4章14節)
この伝道の書を書きましたソロモン王は驚くべきほどの財産を所有していました。しかし、その財によって年をとるということを免れることはできませんでした。老いというのは必ずきます。肉体的なことを考えますならば、私達がますます強く、若くなっていくことはないのです。
王貞治は今年の世界大会に現役として出ることはできなかったのです。今、大活躍しているイチローもあと30年、プロとして野球を続けることは不可能でしょう。ですから、今、見てまいりました伝道の書の言葉は、どれも現実的なことであり、それらは私達が避けることができるものではなく、やがて受け止めなければならないものなのです。
そして、そのような状態になる時に私達は肉体の変化とともに、一節にあるように「わたしには何の楽しみもない」というような、ある意味、その人生そのものを否定してしまうような心の変化というものを経験します。ソロモンはそのことに気がついており、そのような変化により「わたしには何の楽しみもない」と言う前に、「あなたを造られたお方、あなたをこよなく愛しておられるお方を知っておきなさい」というのです。
皆さん、私達はなにゆえ、その晩年、仕事を成し遂げ、育児を成し遂げ、いわゆる一番、人生において一番、リラックスできる時に「楽しみを失うのでしょうか」それにはいくつかの原因があるように思われます。まず最初に今、お話しました肉体的な弱さを抱えるということをみていきましょう。そして、その中に私達の創造主のを見出しましょう。
肉体的な弱さを抱える
それまで通路にあるわずかな段差などは気にならなかった。しかし、いつからか段差につま先がひっかかるようになるようになった。それに躓くようになったというようなことを聞きます。そして、そのことはある特定の人間に起こることではなくて、それは列王記上1章1節に「ダビデは年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかった」とあるように、ダビデにもその他の聖書中の人物にも起きたのです。
若い時は体力に任せて、色々な無理をします。年を取ると無理がきかなくなります。それはとても寂しく思えることかもしれません。しかし、言い方を変えれば、そのことは主にわが身を委ねる機会が増えるということです。これは若い者達にはもち得ないものです。20代の人間が例外を除いて、今日もわが身を委ねて歩みましょうとはあまり祈らないものです。今日も一日一日、体に不調をもつことなく、何事もなく過ごすことができた感謝はあまり生まれてきません。
しかし、高齢になるとこの感謝の思いは日毎になされるようになります。現実的に肉体に弱さを感じる時に、その日一日を主に全く委ねる祈りがささげられるのではないでしょうか。そして、実はそれこそが聖書が言うところの最も信仰心に溢れた人の姿なのです。
パウロはコリント第二の手紙4章7節においてこう書きました。「しかし、わたしたちはこの宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。
私達は神の前には弱い土の器に過ぎません。しかし、その中には宝があるというのです。それには測り知れない神の力があるというのです。人はその器が、そもそも脆く壊れやすいものであるゆえに、その器が何か素晴らしいことをした時には、それは器の力ではなく、その内にあるものの力だということを知るのです。
この器は私達自身ということができるでしょう。それを肉体ととることもできるでしょう。まさしく私達の肉体は土から作られたものです。そして、その器はもともと弱いものですし、何十年も使ってきたということにもなれば、色々なところに不具合がでてくるでしょう。最初はそれなりの厚みがあったものが、擦りヘってきたり、ところどころ穴が開いていたり、ヒビが割れてしまうこともあるでしょう。しかし、薄くなった表面から、そのヒビ割れから、その隙間からこそ眩いばかりの内なる宝は輝くのです。
私は、もう既に召されましたが高齢になられたある婦人と出会ったことがあります。その人は年齢ゆえに歩くことにも困難をおぼえていました。ですから、一歩を歩くのにも大変な労力がいります。当然、普通の人達の歩行速度と比べることなできません。あるとき、その婦人が歩きながら何かを言っていることがその口元から分かりました。彼女は小さな小さな声でしたら、一歩、足を前に出す度に「感謝」と言っていたのです。彼女はその時、誰よりも神の栄光を現していました。
物事に対して興味を失う
年をとるともの事に対する興味を失います。若い時はやることなすことが未経験のことでした。しかし、年をとるとその数は減っていくことになります。その時に私達はソロモンが書き記していることを知るようになるのです。
「今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである」伝道の書3章15節。
時々、高齢の方たちから聞くことがあります。「もう、な~んにもいらない。どこに行ってもどこも同じ」と。そうです、若い時には色々なものを買い求めるでしょう。この間、コンピューターを買ったと思ったら、新しいバージョンになったからと買い換える人がいます。しかし、高齢になっても旺盛な購買力をもっている人には出会いません。またロッキー山脈も日本アルプスもも同じ山なのです。
どこに行ってもそれらは同じに思えます。
こんなことも聞きました。孫はかわいい。でもそれも孫まで。ひ孫になると何だかどの子がどの親の子なのか分からなくなる。名前も覚えられなくなるし、なんだかわけがわからなくなる。皆さん、私達はこの現実を理解しましょう。
こうなるとソロモンが言った「楽しみなどない」という心境になってくるのです。
それではどうしたらいいのか。聖書的労人力です。聖書がかねてから言っているように私達は目に見えないものを求めるのです。コンピューターも山々も孫さえも、目に見えるものです。手に触れることができるものです。しかし、私達は心のどこかで知っているのです。それらは目に見えるがゆえに、いつまでも持っていることができないものなのだと。目に見えている限り、それらは必ず失われていくものなのだと。
コリント第二の手紙4章16節-18節
だから、私達は落胆しない。たとい私達の外なる人は滅びても、内なる人は日毎に新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに私達に得させるからである。私達は見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。
パウロは今までお話したことをよく理解していたのでしょう。だから言ったのです。私達は落胆しないと。肩を落さないと。なぜなら、もし私達が見えないもの、すなわち神の愛と恵みと永遠の希望に目を注いでいくのなら、私達はそこに喜びを見いだすからです。そのことをパウロは「重い栄光」と呼んだのです。高齢になること、それは人生の集大成です。いよいよ、この目には見えないずしりと重い栄光に生きる時です。
過去に生きる
私達が年をとり、体が不自由になりますと、先にお話したように新しいことに対する興味が失われ、その代わりに昔のことがよく思い起こされるといいます。このようなことは若い者達にはあまりありません。
でも、年をとると「あの時、この時」が思い起こされる。もちろん、その人生の幸いな一時を思い起こすことはいいことです。もし、それが現在の比較対照となり、いつまでも昔は良かったと言っているのであれば問題です。ましてやその過去への思いが、どうすることもできない後悔とか、あの人、この人に対する怒りというものであるならば、私達の心はいつも苦い思いで満ちてしまうことでしょう。
そこで聖書的老人力です。聖書に書かれていることは今日の希望、そして明日の希望です。過去に対する後悔と憎しみではありません。
イザヤは書きました。「あなたがたは先のことを思い出してはならない。また、古(いにしえ)のことを考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる」イザヤ43章19節-20節
パウロは言いました。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」2コリント5章17節。
今も読みました「だから、私達は落胆しない。たとい私達の外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」。
そして哀歌3章22節から23節にはこう書かれています。「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。それは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」
私達が聖書を読む時に、そこに過去を振り返り、その古のことを後悔するようにというようなことを見出すことはありません。そうではなく過去に対する感謝はしつつも、常にその視線は明日を見ているのです。
私達は自分の体に新しいことなど起きていないと思いがちです。しかし、私たちの細胞は一部の細胞(脳細胞)を除き、およそ200日で、ほとんどその全てが新しくされていることをご存知でしょうか。そのような意味では200日前のあなたと今のあなたは同じではないのです。
地球がどれだけの速さで動いているかご存知でしょうか。秒速約30kmで 地球は動いているのです。そのような意味において、私達はいつも同じ場所にはいないのです。私達は絶えず新しい所に移動しながら生きているのです。
これら私達が意識しない、理解していないことろにおいて神は新しいことをなさっています。そして、それらは私達の霊的な日々の生活においてもなされていることなのです。
私達は朝起きるとその爽やかな空気を全身に感じることがあります。なぜ、朝の空気はフレッシュなのか。あるい人は、それはあたかも昨日までのことが全てリセットされた、私達の前に白紙として備えられているようだと言いましたが、そのような気持ちにさせてくださるのは私達の創造主なる神なのです。
「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。それは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」
皆さん、聖書的老人力の極みはこれです。過去を振り返り、今を嘆くのではなく、過去を振り返り、後悔するのではなく、朝ごとに注がれる神のいつくしみとあわれみに、その神の真実さに生かされていくのです。
お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り
聖書的老人力に生きる!
①伝道の書12章1節‐2節を読みましょう。あなたの日々の生活に「楽しみ」はありますか。もし、あるならなぜでしょうか。もし、ないならなぜでしょうか。
②あなたは老齢による肉体的弱さを感じていますか。コリント第二の手紙4章7節を読みましょう。土の器(体)がひび割れる時に内なる宝の輝きが外に向かって輝くということについてどう思われますか。あなたは「若い時」と「年齢を重ねた今」と、どちらの時代に日々、多くの感謝を捧げていますか。
③あなたは人や物事に対して関心や興味を失っていると思いますか。そのような思いはどこからきているのでしょうか。目に見えるものはやがてどうなりますか。コリント第二の手紙4章16節-18節を読む時に心に残る言葉は何でしょうか。
④あなたは過去・現在・未来、いつの時代のことをよく思っていますか。イザヤ43章19節-20節、2コリント5章17節、2コリント4章16節、哀歌3章22節‐23節を読みましょう。私達は過去に生きるのでしょうか。それとも今と未来に生きるのでしょうか。聖書は何と言っていますか?
⑤あなたにとって年をとるということは、どういうことですか。