父親(男達に贈る言葉

父の日ということで「父親達(男達)に送る言葉」というタイトルで聖書のマルコによる福音書9章15節‐29節から話をした。

群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。              

      
                                     
このところには今日でいいますところの「てんかん」のような病気で悩み苦しんでいた子供とその父親の姿が描かれています。今日はこのところから3つのことをお話します。①父(男)にはできないことがある②父(男)には叫びがある③全ての父(男)には立ち返ることができる本当の父がいるということです。

つづき↓

父(男)にはできないことがある
我が子が床に倒れて、そこであわを吹き、歯をくいしばって、体をこわばらせている姿を見ても、何も感じることなく、眺めている父親はいません(もちろん、母親も)。そして、このような時ほど父親として無力さを感じることはありません。私はこのようなてんかんで苦しんでいる人を間近に見たことがありません。でも聞くところによると、このような状態の人達は舌を噛み切ってしまうことがあるので、口の中に何でも何かを入れなくてはならないということを聞いたことがあります。もし、私がその場に居合わせたら、私に出来ることには限界があります。

この父親はその子を連れてイエスのもとにやってきました。そして、イエスにこう言いました「先生、口をきけなくする霊につかれている私の息子を、こちらに連れて参りました。霊がこの息子にとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯を食いしばり、体をこわばらせてしまいます。それでお弟子達に、この霊を追い出して下さるように願いましたが、できませんでした」。父は言ったのです「あなたの弟子達に、この霊を追い出して下さるようにお願いしました」。なぜか、言うまでもないこの父にはそれができなかったからです。

子供がまだ幼い時に、彼らはパパならなんでもできると思っています。パパが一番、力持ちだと思っています。しかし、そうではないということに気がつく日がきます。いいえ、その日はそう遠くはありません。父として「そんなのいやだ、寂しい」などと言ってはいられません。なぜなら、父は完璧ではないからです。父にできることもあれば、父にはできないこともあるのです。

ここに記されている父親は苦しんでいる息子のために自分ではどうすることもできませんでした。だからイエスの弟子たちに願ったのです。しかし、彼らも何もすることができなかったと聖書は記録しています。

彼らができなかった問題とは何だったのか。言うまでもない、それはこの息子の病気を癒すことです。しかし、今日の話は子供の肉体の問題を取り扱っていますが、その背後には霊的な問題がひそんでいることが書かれています。誤解していただきたくないのは、ここで父親や男達が全て魔術払いにはなれないと言っているのではありません。ここで私が今朝、取り上げている父が直面している問題とは霊的な問なのです。スピリチュアルな問題なのです。もっと言いますと心を取り扱う問題だということです。たとえ父親であっても、その父親が会社の重役であっても、無敵の格闘家であっても霊的な世界、心の問題に対しては全く無力だということです。

多くの男性はそれがいかなる世界であっても、その世界での成功というものを思い描くでしょう。若い時、自分が会社に入社したら、ああして、こうしてと夢を描く。でも、徐々に気がついていきます。なかなか思い通りにいかない。どの世界にも共通することです。自分の計画通りに物事が進まない。それには色々な理由がありますが、一番、大きな理由は技術とか戦略の問題ではなくて、人間同士の問題ではないでしょうか。賛成されると思っていたことが、実は猛烈な反対に出会った。信用していたのに、裏切られた。期待していたのに、部下が思うように期待にこたえていない。

どんな世界にも自分以外の人間がいる。その人達の心を私達が変えることはできません。多くの父親は自分が願うように子供が育って欲しいと思うでしょう。しかし、自分の願うように子供が育ったという話を聞くことはあまりありません。子は度々、親を泣かせるものです。結婚生活においても「お前となら」と伴侶を決めたことでしょう。しかし、一番、身近なパートナーの心を知らずに夫婦としての年月だけが増えていくことがあるのです。

いいえ、これは人の心だけではありません。そこには自分自身の心が含まれます。自分の心はどうなのか。なぜ自分はこんなことを考えているのか。なぜ、こんなことをしてしまうのか。自分の心を知り、心をコントロールすることすら難しい私達にどうして自分以外の人の心を変えることができるでしょうか。

今、お話したことは全て心の問題です。霊的な問題です。家族の心の問題、同僚との心の問題。そして、自分の心の問題。私達はこれらのことに対して力が足りないのです。

父(男)には叫びがある
二つめのこと。それは父(男)の叫びです。20節以降をご覧下さい。そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。

今、男性と女性を区別する言い方に対して、世の中は敏感になっています。でも、私達は明らかに男性として、女性としてこのように成長していきなさいということを教えこられてきたのではないでしょうか。
誰でも小さい頃に「男の子なんだから」とか「女の子なんだから」ということを言われたことがあるのではないでしょうか。私達は確かに「男とはかくあるべし」「女とはかくあるべし」という考え方に影響を受けています。そして、そのような固定概念の一つに「男は強くなければならない」というものがあります。

映画のヒーローを思い起こしてください。今も多くの英雄は腕力があり、知恵があり、いかなる危機も自分の力で勇気をもって乗り越えていくのです。ターミネーターもインディアナ・ジョーンズも皆、私達が一般的にいう「男らしさ」と売りにしているのです。でも、問題は彼らが映画の中のヒーローだということです。かつての「ターミネーター」も今は「知事」として苦労しています。

これは私の個人的な思いになりますので、賛否両論あると思いますが、私は男は映画が描写するように強くないと思います。確かに女性よりも腕力はあるかもしれません。しかし、多くの男は「強くあるべき」という見方の中で、悩んでいるのではないかと思います。映画のタフガイの姿の中に、本当はそうではないのに、そうありたい、そうでなければならないというような、男の願望が込められているのではないでしょうか。

そして、そういうことに気がついた米国の男達が1990年にプロミスキーパーズという団体を立ち上げました。男としての日々の戦いを、そして男が日常、感じている悩みやチャレンジを互いに語り合って、励ましあって、祈りあっていこうではないかという団体で毎年、米国各地で大会をもっており、1997年にワシントンDCでもたれた大会には50万人もの男性が集まりました。

彼らは互いのグループで主に5つのことを中心に話し合います。①お金②性的誘惑③プライド④コントロール⑤自分の父親「お金」は自分の力を見せつけるためには一見、一番手っ取り早いものです。故に男にはこの誘惑が常に伴います。「性的誘惑」:いつの時代もこの誘惑は男達を虜にしてきました。性は神様が与えてくださった祝福でありますが、この用い方により全てが崩壊する危険性も持ち合わせています。私達はプライドというもので身を包まなければ、戦っていけないコンクリート・ジャングルの中にいます。「コントロール」:とかく色々な場面で自分が主となりがちな男ですから、他人には厳しく、自分のすることに対して制約をつけない傾向があります。アルコール中毒、ギャンブル中毒にしても、その割合は断然男性が多いのです。そして、最後に興味深いことに、自分と同じ男性である父親と自分がどう関わりをもってきたかということが、男達の今を良くも悪くも左右することがあるのです。

今日の箇所の父親は叫んだのです「わたしどもをあわれんでお助けください」。今日も男は叫ぶのです。できることなら誰か私を助けてくれないか。そして、この箇所をよく見る時に気がつかされることは、彼は私をあわれんでくださいと言ったのではないのです。「わたしども」と言ったのです。男は、父は(何度も言いますが女性も母もですが)、自分のことだけで叫んでいるのではないのです。背負っているものがあるのです。私をだけではなく、私とこの息子を助けて欲しいという叫びが私達にはあるのです。従業員や部下の家族の生活というものを背負っている人がいるでしょう。妻や娘や息子や年老いた父母を背負っている人がいるでしょう。その荷は決して軽くはないのです。私達は言葉に出さずとも叫んでいないでしょうか「私達を助けてください」。

全ての父(男)には本当の父がいる
3つめのこと。それは「全ての父には本当の父がいる」ということです。アメリカにいると「メンター」と言う言葉をよく聞きます。自分の悩みを聞き、適切なアドバイスをしてくれる人を指します。会社の重役達も自分のメンターを雇い、その人に何千ドルものお金を払っていると先日もマスコミが取り上げていました。私達には私達のメンターになってくれる人、コーチとなってくれる人、話し相手になってくれる人が必要なのです。

どちらかというと女性は会話というものを良く楽しんでいるように思われます。例えば東京から大阪まで女友達で新幹線に隣り合わせて行くならば、多くの女性達はおそらくその車内で会話を楽しむのではないでしょうか。しかし男はどうでしょうか。例え私達が男同士で隣り合わせても駅弁を買ったり、スポーツ新聞を買ったりして、各々自分の好きな事を始めることがよくあります。話してもよくて小田原で、名古屋まで会話を続けている人というのは少ないのではないでしょうか。これはあくまでも私の偏見なのですが。

男はなかなか自分の心を開き、その悩みを打ち明けることができません。なぜ、プロミス・キーパーズの男達は先にお話した5つのことを互いに分かち合うのでしょうか。理由は簡単、男同士であのような5つのことを分かちあうことは皆無だからです。ビジネス取引きの話はします。パドレスの試合結果については話します。美味しいラーメン屋については話します。しかし、①お金②性的誘惑③プライド④コントロール⑤自分の父親について話すことはないのです。ですから、これらのことを男達は心に秘めて、時に道を踏み外すことが多いのです。

今もお話しましたが、興味深いことにプロミス・キーパーズの5つの中に「父について話す」ということがあります。なぜ、彼らが5つのトピックの中に父親について互いに分かち合うことを入れているのか。なぜなら、父こそが私達の一番、身近なモデルだからです。その父の姿を見て私達は男性というものを学び、そのように生きるようになるのです。

中には父親と共に住んだことがないという人もいるでしょう。アメリカにおいても日本においても、その数は年々増加するばかりです。かくいう私もその一人です。私達男は「父の姿」ということに対して、ますます暗中模索の中に投げ込まれるのです。

私達には立ち返る父が必要です。クリスチャニティーとは「道徳の一種」とか「儀式」ではなくて、私達が父なる神と共に生きることを意味するのです。そのお方の前で、私達は自分を防御する必要はないのです。私達が負うべきものは多いのです。その荷をもって父が、男が頼りがいのある父なる神のもとに帰るのです。そして、その父なる神に何でも私達の喜びも悩みも打ち明けるのです。私達の父はそれを願っているのです。

出エジプト記33章11節には「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた」というような御言葉があります。これは1993年のプロミス・キーパーズのテーマになった言葉です。私達が友と語るように父なる神様は私達に親しく語って下さるお方なのです。

父(男)にはできないことがあります。それによって、壁にぶつかります。私達は多くのものを背負っています。まさしく「私を助けてください」ではなく「私達を助けてください」と私達は心の中で叫びます。「敷居をまたげば、男には7人の敵が居る」という言葉があります。私達の周りには、多くの誘惑があります。時に私達を引きずり下ろそうとするような力もあるでしょう。

これらの中で、男たちは父なる神のもとに立ち返ることができるのです。本当に強い男は信仰を持っている。いいや、強い男になろうとするならば、いつかこの信仰にたどり着く。レイモンド・チャンドラーは「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく価値がない」という有名な言葉を残しました。多くの男たちが心惹かれる言葉です。しかし、本当の強さは、本当の優しさは父なる神の一人子、イエス・キリストの内に隠されているのです。

父の日を迎えるにあたって、父親達が男性達がますます主の元に近づくことができるように。その時に、私達は本当の父親、そして男性へと成長していくことができるのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村 ↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

父親(男達に贈る言葉」への2件のフィードバック

  1. 世の男お方たちは、ほんとに、大変ですね。ある意味、女のほうが、弱み(?)を見せやすく、楽?なのかもしれません。
    このメッセージをたくさんの男の方々に届きますように。ものずごく、力強い励ましになると思います。

  2. fkm1225さん
    私達にはモデルが必要です。そして、申し分なく、そのモデルになりうるお方はジーザス以外にありません。男として、夫として、父として、息子として、バイブルは大切なメッセージを私達に語っています。
    男の人生を最高に謳歌していくために・・・。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください