「心:互いに愛し合うために」

教会では色々な人と接します。色々なことが教会の中から外から寄せられます。行方が分からない人を探している、ビザの問題がある、通訳できる人はいないか、なかにはお宅には餅をつく臼がありますかとか、誰か折り紙を折れませんかなどという問い合わせもあります。日系人教会は海外における日本人お助け窓口みたいな一面もあります。しかし、これらのことも教会に寄せられる問い合わせの一部分に過ぎず、教会に人々が持ち込んでくる問題の95%は人間関係です。

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これは私が今、仕えているサンディエゴ教会だけの問題ではなく、全世界のいかなる教会においても共通しているのではないかと思うのです。私たちは生きています。生きているからこじれるのです。そして、そのような方々とお話をしていると、最終的にその問題となっている相手がどうのこうのではなく、時にそれが自分の心の問題となっていくことが多々あります・・・。

マック

今日、礼拝でお話ししたメッセージです。
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「心:互いに愛し合うために」
第一テサロニケ4章9節ー12節
2008年9月7日

先週は私達の体についてお話しました。すなわち、テサロニケ第一の手紙5章23-24節に「どうか平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめてくださるように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの再臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように。あなたがたを召された方は真実であられるから、このことをしてくださるであろう」とあるように、キリストが再びこの地に来られる時に私達の「体」が守られ、きよめられ、責められることのないようにということをお話したのです。そして、今日は二つめの私達の「心」について見ていきましょう。

変な言い方かもしれませんが、私達は肉体に乗って、人生を歩んでいるのですから、そのつき合いは天に召される、その時まで続くのですから、神に喜ばれる生きた聖なる供え物として、この肉体をきよく保たなければなりません。しかし、やはり私達が心に留めなければならないことは、私達の肉体は年と共に若返り強くなることはないということです。生まれたばかりの赤子が成長し、おそらく 10代の頃に私達の肉体機能は絶頂に達し、それからは下降するばかりなのであります。これだけは私達が逆立ちしても何をしてもだめなのです。

でも心は違うと聖書はいうのです。パウロはコリント第二の手紙4章16節において、こう書き記しました「たとい私達の外なる人は滅びても、内なる人は日毎に新しくされていく」。たとえその肉体が弱っても、その心は日毎に新しくされるというのです。また肉体は心あってのものです。すなわち、たとえ肉体がよく整えられていても、その体をどのように動かすかは、私達の心にかかっているのです。

ですから、私達は先週お話しましたように、神の栄光をあらわすためにできる限り私達の肉体をメインテインすべきですが、それと同時に、いやそれ以上に、内なる私達の心というものを見つめなければなりません。

先週から開いて見ております、第一テサロニケ4章9節ー12節において、パウロはこのようなことを言いました。

9 兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、10 また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。 11 そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。12 そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。

パウロはこのところで「兄弟愛については、今さら書き送る必要はない」と書いています。すなわち彼は「互いに愛し合うということについて」はもう言う事はないというのです。なぜなら、互いに愛し合うということは、まさしく神のメイン・メッセージであり、そのことについてあなた方は神から直接教えられているし、パウロ自身もそのことについては余すところなく伝えているというのです。そして、実際にテサロニケの人々もそのことを実行しているというのです。すなわちパウロは実際に彼らが互いに愛し合うということを、その目や耳で見聞きしていたのです。

そして、このパウロが見聞きしたというのは、彼らの労わりあいであり、配慮であり、励ましあいだったことでしょう。しかし、実際にそのような言動に彼らを突き動かしているものは、全て彼らの心だったのです。私達はその心の中に愛というものがあって、それに伴う行いがでてくるのです。

有名なコリント第一の手紙13章3節は「たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」と語っています。

たとえ私達がその体をもって見るところ、賞賛されるような素晴らしいことをしていたとしても、もし私達の心に愛がなければそれは全く無だというのです。そのような意味において、心あっての体であると言う聖書の主張に私達は頷けるのです。

そして、この愛というものを私達はとても尊ぶのですが、この愛というものをいつでも自由に私達は生み出すことはできませんし、そもそも自分では愛と思っているものが、自分では何も気がつかずにいるのですが、それが全くの自己愛だったということが多々あるのです。また、分かっていながら、愛とは全く逆の憎しみとか怒りというものが、その心を満たしてしまうことがあるのです。そして、その心にあることが私達の言葉となり、私達の行いとなって人間関係を壊してしまうことがあるのです。

箴言を書いたソロモンは本当の賢者でした。彼はこの辺りをよく知っていて、こう言いました「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(箴言4章33節)。

イエスは偽善をはたらく律法学者、パリサイ人に向かい言われました「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、災いである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側もきよくなるであろう」(マタイ23章25,26節)。

これらの言葉を読む時に、私達の外側は私達の心にかかっていることが分かります。そして、その心にどれだけの愛があるかということをパウロはここで問うているのです。

しかし、実際に私達はお互いに愛し合うことに困難を覚えるものなのです。そして、このテサロニケ人の手紙が終末について記していると申し上げましたように、イエス・キリストはこの愛についてマタイ24章において終末の時代に起こるであろう兆候を幾つもあげながら、その一つとして驚くべき預言をしました。

終わりの日には愛が冷めるであろう」(24:12)。

そうです、この再臨を前にしたこの世界、キリストは私達の互いの愛が冷めるだろうと言ったのです。このことに関して言えば、あえて色々なことを話して説明することはないと思います。新聞を見ても、テレビのニュースを見ても、そのことはいつでも確認できます。いいえ、非常に辛いことですが、私達の暮らすすぐ回りの世界、いいえ、私達の身内や親戚の間や夫婦や子供の間でも、この愛が冷めているということが現実のこととしてあるかもしれません。

パウロはこのキリストの言葉を心に留めていたに違いありません。すなわち終わりの時には人の愛は冷める。だから、彼はテサロニケの人々に向けて、既に愛し合うということを伝えた、そして、それをあなたがたが実行していることを喜んでいると書いているのです。そして、パウロはそのことに関しては今の現状にとどまるのではなく、「ますますそうしてほしい」(第一テサロニケ4章10節)、「ますます互いの愛を増してほしい」と言っているのです。

そして、パウロがいうように「ますます、互いの愛を増して欲しい」ということは主の再臨を前にした私達にも語られていることなのです。そして、ますますということになると、私達は大きなチャレンジに向き合うことになるのです。

なぜなら、「ますます」というのは今の現状に止まらないで、もう一歩踏み出して、互いに愛し合って欲しいということだからです。そして、私達はこの愛に生きることができない性質をその心に持っているからです。頭ではあの人、この人にどうしたらいいのかということを知っている、しかし、私達は分かっていながら、それができないのです。金縛りにあったように体が動かないのです。

パウロという人はこの辺りをよくよく心得ていまして、有名なローマ書において言いました「わたしは自分のしていることが、分からない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」(ローマ7章15節)。

この彼の真実な告白の中には、今、お話している「愛の問題」ということがあったのではないでしょうか。すなわち、私達は主イエスから互いに愛し合いなさいと言われた教えを知っている。しかし、それをする力が自分にはないということを。

教会では色々な人と接します。色々なことが教会の中から外から寄せられます。行方が分からない人を探している、ビザの問題がある、通訳できる人はいないか、なかにはお宅には餅をつく臼がありますかとか、誰か折り紙を折れませんかなどという問い合わせもあります。日系人教会は海外における日本人お助け窓口みたいな一面もあります。しかし、これらのことも教会に寄せられる問い合わせの一部分に過ぎず、教会に人々が持ち込んでくる問題の95%は人間関係です。

これは私が今、仕えているサンディエゴ教会だけの問題ではなく、全世界のいかなる教会においても共通しているのではないかと思うのです。私たちは生きています。生きているからこじれるのです。

そして、そのような方々とお話をしていると、最終的にその問題となっている相手がどうのこうのではなく、時にそれが自分の心の問題となっていくことが多々あります。どんな問題か。それは、その相手を愛せないという問題です。そして、それはヨハネ第一の手紙に書かれているように相手に対する恐れという形で現れてきます。

人に攻撃的になる心の中には、その人に対する恐れがあります。クリスチャン生活をしていますと、このことに気がついてくるのです。最初は誰かを指差していた。裁いていた。しかし、だんだんと分かってくる。そんな人を指差す自分は何者だ。裁いている自分は何者だと。最終的にそれは自分の“我”との戦いになるということを。そして、その闘いの戦場は私達の心なのです。

あるデータによるとアメリカ合衆国では一月に数千人の牧師が辞任すると聞いたことがあります(これには退職も含まれます)。ベテランの牧師であっても、駆け出しの牧師であっても、牧師は人間を相手にする仕事です。そこに大きな戦いがあります。そして、その戦いの最大のものは、どんな教会にいて、どんな人達に囲まれているのかということではなくて、いかなる人をも受け入れ、愛することができるかということです。

そして、その戦いは相手をねじ伏せて勝利を得るというようなものではありません。最初は自分と相手との戦いのように思えるのですが、その戦いは実は自分の中にあることに気がつかされるのです。そして、それは牧師だけのチャレンジではなく、実は皆さんお一人お一人も主に仕えていこうとするならば、それは皆さんのことでもあるのです。

旧約聖書の中にヤコブという人の生涯が記されています。彼の名前には「押しのける者」という意味がありました。その名の通り、彼は自分の父や兄を騙して、長男が受けるべく神様の祝福や相続権を奪い取るような男でした。そして、それが故に兄の怒りに触れ(この兄はヤコブの双子でしたので、彼らは母の胎で10ヶ月を共に過ごしたのにもかかわらず)、彼は命の危険を感じて親兄弟が住む家から逃げるように出て行ったのです。そして、一つ所で妻をめとり家庭を築き、財を蓄えていきました。

しかし、ある日、自分を殺害しようとしたあの兄が自分の元に400人もの人を引き連れてやってくるということを彼は聞いたのです。彼が兄の元から逃げてきてから実に20年が経っていました。彼の心はすぐに恐れと不安で満ちました。

そこで、彼は(おそらく私達もそうするように)自分の頭で、その兄から逃れることを考えました。すなわち、自分の僕達を自分達の前に配置して、もし兄との間に何かあったら、兄がその僕立ちと手間取っている間に逃げようという姑息な考えでした。何度も何度もそのことをシュミレーションしたのです。しかし、彼の恐れは消えない。彼の心に平安などはこない。まだ手が震える。呼吸が激しい。心臓が鳴る。そんな心境だったと思います。

とうとうヤコブはどうしたのでしょうか。本当にせっぱつまったヤコブは家族全員、僕たち、全財産をヨルダン川の向こう岸に渡らせ、ペヌエルという地で一人残って神との一騎打ちが夜通しなされました。その時の状況が記されている創世記32章22節―32節を読んで見ましょう。

22彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 23すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。24ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。25ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。

26その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。27その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた「ヤコブです」。28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。29ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。

30そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。31こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。32そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。

これは神との激しい戦いです。ヤコブは敗北を認めずに、命がけで祝福を求めて、神に言いました。「私を祝福してくださらなければ、去らせません」と。この大胆さ、この図々しさ。彼は自分の心に神様が介入して下さらなければ、エサウとの問題を解決することができないと思ったに違いありません。その激しさ故にでしょう、ヤコブのもものつがいが外されました。しかし、この格闘は続きます。

そして、ヤコブはついにこの格闘に勝利を得たのです。よく絵画などにヤコブが御使いのような存在と実際に組討しているものがありますが、現代を生きる私達はこのヤコブの格闘を「祈りの格闘」としてとらえていいと思います。神様との直談判の祈りです。自分の心にある兄への恐れ、不信(これらは兄に対する愛の欠如からきています)に対して勝利をとることができるように。自分は今まで、20年間、この兄のことで心の中に勝利を得ることができずにいた、そんな自分に対して、今日という今日はこのことを神によって解決していただこうという強い気持ち。

イエス・キリストはその数千年後に言われました。「一番、大切なのはこれです。「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただ一人の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」第二はこれである、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」。これより大事な戒めは、他にない

ヤコブは20年、保留していて、事あるたびに思い起こしていた人生最大の課題にこの日ばかりは、取り組もうと強く思ったに違いありません。いよいよ、彼はこれより大事な戒めは他にない」、その人生の最重要課題にしがみついたのです。

皆さん、ヤコブがこの神との格闘をした場所はぺヌエルと呼ばれていました。そして、その意味は「神の顔」という意味です。すなわち、ヤコブがこの場所で「私は顔と顔をあわせて神を見た」という所から、その名は来ています。それほどまでに、その時に神はヤコブの側に近づかれたのです。

なぜですか。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。これより大事な戒めは、他にない」からです。聖書はスゴイです。イエス様がこの黄金律を言われるずっと前に、一人の人間が自分に最も近い、母の胎で共に十ヶ月を過ごした兄弟を愛することができるために神自らが、その人と格闘したのです。そして、彼はこの激しい格闘の結果、もものつがいの筋肉を傷めたのです。これは人間の体の中で一番筋力がある部分です。そこに神は触れられ、それを弱さへと変えました。ガンとして動かないヤコブの我に神が触れられたのです。神様はヤコブの自我があまりにも強烈であり、我に固執しているのを見てとってそのもものつがいを打ったのです。ヤコブは自分ではこの自我を打ち砕くことはできなかったのです。

彼のかつての名前はヤコブ、それは「押しのける者」という意味です。兄を、父を 叔父を騙した名。すなわち、極めて自己中心の人生をヤコブは送っていました。しかし、その彼の名前がこの日を境に「イスラエル」と変えなさいと神は言われたのです。イスラエルとは「神に勝たれる者」という意味です。これはヤコブの十字架体験です。なぜなら、この場所のこの経験で、ヤコブは死に、イスラエルが生まれたからです。ヤコブの肉の人生はそこで終わったのです。

皆さん、ここでヤコブは「人でありながら神に勝ったのか」と思われる方いるかもしれません。しかし、これはヤコブが神と戦って、彼の自我が神に勝利したというような意味ではありません。むしろ、ヤコブが砕かれることによって神が勝利し、神が勝利したことによって、ヤコブが霊的な勝利を得たということです。彼はもはや自分に頼まず、神に頼むことによって真の解決を得たのです。

32章の31節がそのヤコブの心の状態を簡潔に記しています。「こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた」。苦しみと絶望の夜は過ぎ去り、喜びと希望に満ちた太陽が輝く朝を迎えました。彼の内面にありました不安、恐れ、虚無と罪意識は過ぎ去り、恵みと平安、喜びに満たされるようになりました。

この出来事の後に起きたことが創世記33章1節―4節に記されています。さてヤコブは目をあげ、エサウが四百人を率いて来るのを見た。そこで彼は子供たちを分けてレアとラケルとふたりのつかえめとにわたし、つかえめとその子供たちをまっ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置いて、みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。

皆さん、彼が神と格闘した前と後で、状況は何も変わっていないのです。いいえ、あえて言うならば、あれだけ恐れていた兄エサウはますますヤコブに近づいているのです。しかし、ヤコブの心は確かに変わっていました。それまでは自分の一族の一番、後ろに隠れて何かあったら逃げようとしていた彼、まさしくそれはヤコブという名、押しのける者という名に相応しい生き方であったのが、この体験の後にはその一族の先頭に立つものとなりました。彼の我は打ち砕かれたのです。彼の恐れは取り去られたのです。

このヤコブが生きた後、2000年後にサウロという人がイエスを伝える宣教者として活躍しました。彼はかつてキリスト教徒を捕らえては獄屋に入れることを生きがいとしていた人です。しかし、イエスに出会い変えられた人で、その名もサウロからパウロへと変りました。彼も先ほど触れましたように、自分ではどうすることもできないその心について神と格闘した人です。

その彼が彼ガラテヤ2章20節でこう言っています。「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」。彼は自分という我は死に、今はキリストが私のうちに生きていると言ったのです。

ヤコブはイスラエルという名前に復活しました。このサウロはパウロという名前に変えられて復活したのです。復活の前に何があったのでしょう。十字架体験です。押しのける者と名づけられたヤコブが、かつてはキリスト者を迫害していたサウロが、あたかも別人のように変えられたこと、そして、そのために彼らが通ったこと、それはもはや私の我が生きているのではない、キリストが自分のうちに生きているということであります。

ヤコブと兄エサウは涙を流し、抱き合い、兄弟愛の表れとして口づけをしました。そして、ヤコブは兄エサウに向かいこう言っていると聖書は記しています「あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います」。

彼の過去20年の間には、兄への恐れと同時に、兄への恨みというものもあったと思います。確かに自分が兄を欺いたのは悪かった、しかし、殺意をもつことはないではないか、そんなことをするから、俺は家を離れなければならなかったのだ。しかし、そんな彼が兄の顔を見て、「神の顔を見るように思える」と言ったのです。これはヤコブがエサウに媚を売っているのではありません。ピリピ2章3節に「何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって互いに人を自分より優れた者としなさい」と書かれています。押しのける者、すなわち自分が一番と思っていた彼の心が変わることにより、彼の練りに練った作戦が変わり、彼の生き方が全く変ってしまったのです。

皆さん、神様は私達の心に触れてくださる方です。私達の心がきよめられるために、私達に近づいてくださるお方です。そして、私達もこの神にそのきよめを願い求めるなら、必ずや私達をきよめてくださるお方です。

どうか平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめてくださるように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの再臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように。」(テサロニケ第一の手紙5章23-24節)。

神様は生きておられます。この終わりの時に、その愛が冷めるだろうというイエスの言葉がそのまま現実となっているこの時代に、私達の心を主に探って頂きましょう。そして、きよめていただきましょう。そのためなら私達の神は私達と組討をして下さるお方です。今日、ヤコブのように、この場所を神との直談判の場所として、神からのお取り扱いを受けましょう。私達の心がきよめられ、主の再臨の時に、責められることのない者にしてくださいますように。お祈りしましょう。

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