労働が空しくならないために 

朽ちる食物のためではなく、

永遠の命

に至る

朽ちない食物

のために

働く

良い。

ヨハネ6章27節

J0438842

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。

よろしかったらどうぞ↓

労働が空しくならないために                                                  2009年2月8日

働くということについてお話をするとおそらくその課題は幾十にもなると思います。特に今日のような厳しい経済状況の中にある時に「働く」ということは、まず雇用状況ということを中心に語られることでしょうし、あるいは給与のことや待遇とか昇給ということについて働くということが語られることもあるでしょう。

現代はそれこそ「仕事があるだけで幸い」という厳しい世の中ですから、そのような風潮は減ってきているのではないかと想像しますが、ついこの間まで働くことの虚しさということを若い世代の人達が感じ取って、仕事は最低限のことをして、後は自分が好きなことに時間を費やすというようなライフスタイルを選ぶようなことがありました。

そして、それは若者だけではなく職について30年というような人達であっても、その仕事をいつも楽しみ、やりがいをもって取り組んできたかというと、決してそうではなかったこと、あるいはずっ~とそうではなかったというような方もいらっしゃるのではないかと想像するのです。

そもそも労働というのは一部例外を除いて、私達にとってその人生の多くの時間を費やすものであり、そのような意味においてこの働くということは、私たちが見ております「私達の物語」においても多くのページを割く、とても大切なものなのではないかと思います。今日はその人生に大きな意味を占める労働ということについて聖書から見ていきたく願っています。

働くということ

まず労働の始まりということについて創世記3章17節‐19節にはこう記されています。

17更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。18地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。19あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。 

この出来事は神によって造られた最初の人、アダムとイブが禁じられていた実を食べてしまい、罪の中に置かれた後に彼らの労働というものがどのようなものになるかということが書かれているのです。すなわち労働というものが必ずしも常に自分の思ったような報いを伴うようなものではなくなるということです。豊かな産物を願ったのに、食べられないどころか、作物を作るのに邪魔になるようなものが生産される現実というものについてここには書かれています。

そして、それは今日、職業人として生きる私たちにもよく理解できることなのです。すなわち一生懸命、働いてきたのにある日、非情にも突然解雇される現実。自分が積み上げた功績が、全て誰かの功績となってしまう現実。実力ではなくコネとか、納得のいかない査定によって仕事が評価されること。自分達の失敗ではなく、世界経済、例えば円高とか株価暴落による業績不振と解雇。これらの私達の厳しい現実を創世記は「苦しんで地から食物をとる。種を蒔いても願った収穫はなく、かえって災いとなるようなものが芽を出す」というような簡潔な言葉で見事に言い表しています。

今日はさらに労働に従事している者達には思わず唸ってしまうような言葉を伝道の書から共に読んでみたく願っています(この場合の労働とは「働く」という漢字が「人が動く」という意味で成り立っているように、どこかの会社を経営しているとか、仕事に就いているということだけにとどまらずに、私達が頭と体を動かす諸々の仕事がこの労働には含まれています)聖書にはこんなに具体的な現実というものが書かれているのかということに驚かれるかと思います。

伝道の書2章4節-11節                                                                                            わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、5園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、6池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。7わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。8わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。9こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。10なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。11そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。

この伝道の書はイスラエル三代目の王であったソロモンによって書かれたものですか、ソロモンはここで労苦による報いというものを書いています。そうです、それは事実です。確かに労苦によって私達はそれに見合った報いを受けています。それがなければ私達の社会は成り立ちません。

実際にこのソロモンも自らの労(彼の場合、それは大きな事業)に対して莫大な報いを受けたというのです。しかし、彼がそれらすべての労苦によって得たものを見渡した時、それを得るために成した自分の労苦を顧みた時に、それらは皆、空であったと驚くべきことを書いています。

ですから私達はまず最初に労働と虚無ということについて心に刻みこまなければならないのです。たとえその仕事が成功しても、そこから虚無が消えることはないぞとソロモンは私達後世の者達に語りかけているのです。彼は労働と虚無は実は常に隣り合わにあるのだということを私達に語りかけているのです。また彼はこんなことも書いています。

伝道の書2章18節-23節                                                                                        18わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。19そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。20それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。21今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。22そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。23そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。 

自分が得た業績というものを誰が引き継いでいくか分からない空しさ。自分が命をかけて、汗水垂らして築き上げたものが、後を引き継ぐいい加減な人によって全て台無しにされてしまうことの空しさです。自分の人生をかけた研究や開発というものが、自分の知らない者によって横取りにされてしまう。いや、それのみならずそれが悪用されてしまうような現実をここでソロモンは嘆いているのです。

あなたが汗水垂らしてローンを組んで購入したマイホーム、眠らず休まずに立ち上げたあの会社は50年後にどうなっているのかとソロモンは語りかけるのです。

ソロモンは労働というものをそこまで考えていたのです。彼はまたこうも書きました。

伝道の書9章11節-12節                       11わたしはまた日の下を見たが、必ずしも速い者が競走に勝つのではなく、強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく、さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。しかし時と災難はすべての人に臨む。12人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。

伝道の書10章8節-9節                       

8穴を掘る者はみずからこれに陥り、石がきをこわす者は、へびにかまれる。9石を切り出す者はそれがために傷をうけ、木を割る者はそれがために危険にさらされる。 

今度は仕事における努力が報われるということはないという虚しさをソロモンはここで書いています。能力があり、努力した者が必ずしも報われることがないという現実を彼は嘆いています。それどころか、そのような人達が人の妬みとか策略により捕らわれてしまうかもしれません。10の功績を会社にしながら、1つの過ちで会社を追われてしまうことがあるかもしれません。また働くということに伴う危険をいつも私達は抱えながら生きています。まじめに働いていながら災いにあうかもしれません。今日でいう災いには仕事によるストレス、それにともなう病気や怪我、過労死、または今、私達が直面しているアメリカ経済の混乱というもの、これは多くの誠実な人達にとっては突然、襲われたハリケーンのようなものです。

もうここまで考えたら働くことも、何をすることも嫌になってしまいます。しかし、私達はそれでも働くことをやめるわけにはいかないのです。これからも多くの時間をこの労働に費やして生きていかなければなりません。皆さん、これが働くということの現実です。あぁ~今日のメッセージはなんと暗いのでしょうか!

このままこのメッセージを終えればおそらく後味の悪いものとなるでしょう。しかし、ご安心ください。このままの状態で皆さんをそれぞれご家庭や職場にお帰ししてはならないと思っております。聖書は私達を絶望的にさせるほどに労働の虚しさについて触れつつも、その空しさからの回復、すなわち働くことの生きがいということについても触れているのです。先ほどから読んでいます伝道の書は暗い暗い空しさのことばかり書いているように思えますが、雨雲の間から差し込む日の光のように労働における喜び、楽しみ、やりがいということについても触れているのです。

伝道の書5章18節-20節                       18見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。19また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である。20このような人は自分の生きる日のことを多く思わない。神は喜びをもって彼の心を満たされるからである。

皆さん、「楽しみ」ということについて、また3月8日にお話しますが、神は労苦によって私達に楽しみを与えるというのです。19節には興味深いことが書かれています「神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる」。これは驚くべき言葉です。聖書は私達が神様から「楽しむ力」というものを与えられない限り、本当に労働を楽しむことができないと言っているのです。楽しむなんて、簡単なこと。自分でいつでもできると私達は考えます。しかし、聖書はそうではない、私達は神から楽しむ力を与えられないと本当の楽しみを体験できいないほどに不自由な者なのだと言っているのです。そう言われれば思い当たることはありませんか。

仕事帰り、同僚とはしご酒、上司の批判をしている間はつかの間の楽しみ、しかし帰りの終電の中でフッと心をよぎる虚しさ・・・。目標にしていた業績を得たというのに、楽しみはその時だけで、すぐにさらに高い目標設定とライバルとの果てしなき戦い・・・。私達の労働をやりがいあるものとするには神の力が必要であるということをまず私達は認めましょう。果てしない労働によって得た莫大な富を持つ人が人生を楽しんでいるとは限らないのです。

しかし、神は私達「労苦によって楽しむ力」というものを与えてくださるというのです。労働にやりがいが生まれ、そこに喜びが与えられる、楽しみが与えられるために神様が与えてくださっている力、その一、それは「私達が残るもののために働く」ということです。

残るもののために働く

先ほどもお話しました労働の空しさの一つは、私たちがその労苦によって得たものをその手に携えていくことができないということです。汗水流して築き上げてきたものが、株価の変動とか金利の変化によって、無常にも失われていくということです。全く「あぶく銭」とはよく言ったものです。この現実がある限り、私達は労働の空しさから解放されることはありません。ですからそんな私達にキリストは言われたのです。

聖書はヨハネ6章27節

朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くが良い。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれを委ねられたのである。

このキリストの言葉、特に「永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」というような言葉を読みますと、それは牧師とか宣教師だけに与えられている特権と思われる方がいるかもしれません。しかし、私達の仕事がいかなるものであってもそれを永遠の命に至る朽ちない食物に変えることができるのをご存知でしょうか。

もう一度、思い起こしましょう。労働の虚しさを嘆いたソロモンの言葉を。ソロモンは言ったのです。労働の莫大な報酬を手に入れても空しいと。果たして彼が得た報酬は何か。それは先に読みましたように「家、ぶどう畑、園と庭、全て実のなる木、池、木のおい茂る林、男女の奴隷、牛や羊の財産、銀と金、国々の財宝、歌うたう男、歌うたう女、そばめ」でありました。そして、彼は自らを「こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった」と書いています。彼は多くの私達が夢みている山頂からこの言葉を言っているのです。

しかし、彼はそれでも空しいと言いました。なぜか、キリストの言葉がそれを言い現しています。それらは全て「朽ちる食物」だからです。皆さん、私達はこの朝、すごいことを聖書から聞いているのだと思います。なぜなら、多くの人達はこの事実を知ることなく、その生涯、朽ちる食物のために貴重な人生を費やしているからです。しかし、私達は幸いなことに、ソロモンをして言わしめた「風をとらえるようなこの朽ちる食物」を追い求める生活から今朝、方向を変えることができるかもしれない、そのことを知ろうとしているのですから。

それでは、「朽ちることない食物」とは何なのでしょうか。パウロがコロサイ書でこんなことを書いています。

コロサイ3章22節-25節

22僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。24あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。25不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。

パウロはここで働くということを書いています。そして、その中で私達がどんな仕事をするにすても、それを人に対してするのではなく、主に対してするようにとここで勧めているのです。そうして、そうすることによって、私達は御国を継ぐことを報いとして受けるであろうというのです。この「神の国を継ぐことができる」という報い、これこそがソロモンが言っている「朽る食物」に対する「朽ちない食物」なのです。

そして、このことはパウロが考えて言っているのではなくて、イエス・キリストご自身が言っていることをパウロは受けて言っているのです。すなわち、キリストはこう言いました。

マタイ25章31節-40                       31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、33羊を右に、やぎを左におくであろう。34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。35あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。37そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。38いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。39また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。40すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

マタイ10章42節

わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない

皆さん、聖書は浮世離れした書ではないことが今日、分かったと思います。そして、驚くべき発見をしたと思います。私達はしばしば、キリスト者とは無報酬でも、自分を犠牲にして何でもする人達と思われることがあります。しかし、それはとんでもない誤った話なのです。なぜなら、ここでパウロもキリストも明らかに「私達が受ける報い」について触れていますでしょう。

そして、その報いは朽ちてしまうものではないのです。支払いができないから、当社の株で、商品券でお支払いしますというようなものではない。確実にその報い、すなわち「朽ちることがない報い」を私達は神から受け取ると聖書は約束しているのです。

今日、どれだけの人たちが働くということで苦しんでいますか。そこに喜びを見いだせずにいますか。働くことの意味を見出せずに悩んでいますか。確かにあの創世記にあるように、労働には理不尽な現実がつきまといます。それに決して心満たされることはない「尽きる食物」を盲目的に追い求めるという私達の姿勢が加わり、さながら働くということが深い暗闇に閉ざされているようです。

しかし、キリストはその労働の中に私達の意表をつくような方法によって、その労働に喜びを取り戻す秘訣を書いているのです。すなわち、その秘訣とは私達がその仕事が何であっても、主に対してその仕事をするように働くということです。

皆さん、この秘訣の普遍的なこと。この秘訣はいかなる職種にも適応できるのです。大統領の執務室でなされる仕事から、家庭で家族のためにベッドメイキングをする働きまで、それは適応できるものなのです。そして、そのことは確実にカウントされ、私達に報いとして与えられるのです。

皆さん、なぜあのマザーテレサは、あの絶望的な環境で、驚くべき危険な仕事を喜んで自主的に成し遂げることができたのでしょうか。答えは彼女が言っているようにいたってシンプルです。彼女が目の前にいるいと小さき人の中にキリストを見いだすことをその働きの中心としたからです。そして彼女は実は無欲な人だったのではなく、この世が与えるものとは桁違いの富というもが確実に彼女に与えられるという確信を持っていたからです。

神の王国について何も知らない人達が、彼女が亡くなられた後に残された唯一の財産、すなわち一着のサリー、サンダル、そして洗濯する時に使っていたバケツを見て、その生涯を哀れみ、疑心暗鬼で見るそんな時、彼女は天国で微笑んで、こう言っているに違いありません。

「悪いけど、あなたはお気づきではないでしょうけど、私はしっかりと神様からの報いをいただこうとそちらで働いていたのですよ。そして、今、そのことが全く正しかったとうことを私はここで見聞きしているのですよ」

皆さん、あなたの労働はどうですか。仕事に喜びがありますか。生きがいがありますか。人生の三分の一を私達はその動労にあてるのです。賢い生き方とは何でしょうか。その三分の一を喜び、楽しんで過ごすことです。秘訣はどこにあるますか。一切の秘訣は今日、お話したとおり、イエス・キリストの内にすべてがあるのです。皆さんの日々の労働が豊かに祝福されたものとなりますように。価値ある報酬が皆さんの人生に蓄えられていきますようにと心からお祈りします。お祈りしましょう。

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労働が空しくならないために 」への3件のフィードバック

  1. Cottonさん
    一日一日、働くことの意味と喜びを究めていきたいですね。お祈りしています。
    さんぼ
    職場の昼休みに読んでくれてありがとう。こんなに嬉しいことはないぞ。厳しい時代だけど、さんぼなら大丈夫だ。

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