Soli Deo Gloria ! 神にのみ栄光あれ

これまで教会で、このような失敗や挫折、悲しい経験をされた方達と多くお会いしてきました。言うまでもなく私もそのうちの一人です。それらを通して今、思うのです。

単純に比較はできませんが「失敗」とか「挫折」、また「悲しみを伴った経験」というのは「成功」と「達成」、「嬉しい経験」よりも、ずっと多くのことに用いられるということを。

「成功、達成、嬉しい経験」とはアルバムの中に収められるもの、しかし、「失敗、挫折、悲しみを伴った経験」はアルバムを飛び出して、人を生かし、人を慰め、人を勇気づけ、時にそれが人の命を救うものなのです。

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Soli Deo Gloria(神にのみ栄光あれ!)

2019年9月29日

私達は「こうして教会は」というシリーズで毎週の礼拝メッセージを聞いております。先週は「健康な教会であるために」というタイトルのもと、教会は「キリストのからだ」なのだということをお話ししました。そして、私達一人一人はそのキリストのからだに属する肢体(器官)なのだとお話ししました。

この譬えはとても分かりやすく私達と教会の関係を示しています。なぜなら私達が健康であるためには、それぞれの体の器官がしっかりとその機能を果たしていなければならないことを私達は身をもって知っているからです。神経に損傷を受けていたり、肺に問題があり、その機能が健全でなければ体全体の健康に影響がでてきますでしょう。

同じように私達の教会が健康であるためには、そのキリストのからだなる教会に属している私達一人一人が自らの役割を自覚し、体全体のためにそのはたらきをすることが不可欠なのです。今日は、このことについてさらに掘り下げてお話しをさせていただけたらと願っております。

聖書を読んでいますと気がつかされることがあります。そこには多くの人間の人生が記録されていますが、彼らの生きざまを知る時にこう思うのです。

それは彼らが汗を流して働き、食べ、子孫を残し、余暇を楽しむだけのために命を神から受けていたのではないということです。

そして、それは彼らに限らず、神様は私達の人生を通してこの世界に何かの違いをもたらそうと考えておられるのです。そして、その違いとは、私達を通して、この地上に神の栄光が現わされるということなのです

ヨハン・セバスチャン・バッハという偉大な音楽家がいます。彼は人類史に残る多くの曲を残しました。その才能は稀有のもので、まさしくそれは神が彼に与えたものでありました。

バッハはそのことをよく自覚しており、曲ができあがると、その自筆の楽譜の最後にはいつもSDGという言葉を書き残しました(英子さん、ここにはイラストがきます)。そう、その意味はラテン語で Soli Deo Gloria、神のみに栄光あれ!です。

バッハの場合、彼は音楽を通して神の栄光をあらわしました。私達も彼と同じように私達を通して神の栄光をあらわすことができるのです。そして、そのことゆえにこの世界に違いをもたらすことができるのです。

このようなことを聞くと私たちは驚きます「私がこの世界に何かの違いをもたらせるの?」。そんなこと夢にも思っていなかった。「私はもう年だから、若いから、体が弱いから・・・」と思われる方がいるかもしれません。

ごもっともな疑問であり、考えです。私もそう思います。しかし、聖書は確かにそんな私達を通して神の栄光があらわされると言います。それでは私達はどのようにして神の栄光を表すことができるのでしょうか。

今日は3つのことをお話ししたいと思います。一つ目、それは神はあなたの賜物によってその栄光をあらわし、この世界に違いをもたらそうとしています。

あなたの賜物によって 

賜物という言い方は難しいかもしれません。しかし、それは賜っているもの、すなわち、私たちに与えられているギフト、贈物ということです。バッハにとってそれは音楽でした。あなたにもそのギフトが与えられています。

アメリカでは何かに飛びぬけている子供を指してGifted Childと呼びます。思うにこのような呼びかけはあまり日本では聞いたことがありません。「特定の子だけをそんな風に呼ぶのはいかがなものか」と保護者からクレームがくることに配慮しているのかもしれません。

私も日本人ですから、このような言葉を聞くと少し違和感を感じていました。しかし、この国の状況をよく観察していると、その子自身も周りの子達も親達も、このことを自然にそのまま受け入れているということがよく分かってきました。

そのように呼ばれない子供はそのことで卑屈になる必要はないし、そう呼ばれる子も、そのことを隠す必要もない。なぜならそれは神がその子に特別な贈り物を与えているということと、そう呼ばれない子達にも神様は別のギフトを与えてくださっているということが前提としてあるからではないでしょうか。

時々、思うことがあります。神様からこのギフトをいただいているのに、それに気がつかなかったゆえに、そのことを誰も指摘せず、それを伸ばすことを誰も励ましてくれなかったために、せっかく与えられている神の賜物が陽の目を浴びることなく、生涯、それは未使用のまま、人生を終えていった人、その人の数はいったいどれくらいになるのだろうかと。まさしくこのことを私達は「宝の持ち腐れ」と呼ぶのです。

先週も触れましたが、パウロはこの賜物についてローマ12章6節―8節においてはっきりとこう言っています「このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである」。

彼は「私達には賜物があるのだろうか」という疑問をここに書いているのではなく、「わたしたちはそれぞれ異なった賜物をもっているので」と断言しています。そうです、私達は誰しも何かしらのギフトが神様から与えられているのです。どうぞ、このことをしっかりとお心にお留ください。

そして、先週もお話ししましたように彼はここで教会で用いられる賜物のうち、教える賜物、奉仕する賜物、勧める賜物、寄付する賜物について触れているのです。言うまでもなく、これ以外にも教会で輝く賜物はたくさんあるのです。

そして、このことは決して真新しいことではないのです。古くは出エジプト記31章1節-5節もこの賜物について触れています。

主はモーセに言われた、見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざしで召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう

これは明らかに、神様がある特定の人達に上手に宝石や木を彫刻するギフトを与えておられたことを示しています。

そして申命記8章18節などを見ますと、こんな御言葉すら発見できるのです「あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」。

ここには「神があなたに富を得る力を与えられるからである」と書かれています。これは現代的に解釈するならば、ビジネスを成長させてる賜物と言ってもいいのかもしれません。与えられたギフトによってビジネスを広げていく。そして、それによって富を得ていくということ。それも神から与えられたギフトだというのです。

この国に住んでいて、時に驚かされることはその寄付金の多さです。アメリカでは年間、約2500億ドルの寄付金が様々な団体や個人に捧げられるといいます。それに対して日本の総寄付金額は年間50億ドルで、アメリカの寄付金は日本の50倍以上になります。

もちろん、この国では寄付をする者達に対して税金が優遇されるというようなシステムがしっかりしているということもあるのですが、それらを差し引いてもその寄付の多さは際立っています。

特に際立っているのは自分の卒業した母校に対する寄付金の多さです。もし、この寄付金がなければ、アメリカの大学は今のような学校運営はできないでしょう。

私はこれらの背景には、自分が得ることができた利益は、あくまでも自分が神から与えられた賜物を用いた結果であり、それゆえにそれは社会に還元されるものなのだというような意識が根底にあるのではないかと思うのです。

そして、それはまさしく聖書が言っていることなのです。聖書において賜物が触れられてる時にはほぼ必ず、それらは自分のためだけに用いるのではなく、誰かのために用いるのとして書かれているのです。

そして、それは今、お話したような寄付ということだけではなく、私達自身が神から与えられているいかなるギフトも本来、神と人のために用いられるべきものなのです。それを惜しみなく互いのために役立てるのです。

パウロはコリント第一の手紙12章4節から7節において「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである

このことはペテロもはっきりと書いています。「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである」とあります。このようにして初代の教会は健全に成長していったのです。

いわゆるメガチャーチと呼ばれる大きな教会では、何万人といる教会のメンバーの中で車を買い換える人が、それを教会に寄付します。そうしますと自動車を修理することができる人がその賜物を用いて、それを修理して、それを教会メンバーの中で経済的に車を購入することができない人に提供するのです。

そして、その車をいただいた人達も、誰かのために彼らの賜物を用いるのです。実際にこのようなことができる教会というのは相当、大きくなければならないと思いますが、私たちの教会でも私達の一つ一つの賜物を結集してできることがたくさんあるのではないでしょうか。

二つ目のこと、それは神はあなたの個性を用いて神の栄光をあらわすということです。

あなたの個性によって

私たちは誰もが個性というものを持っています。皆さんは自分がどれほどユニークな存在であるがご存知ですか?少し気の遠くなるようなことをお話ししましょう。

私達の体の中にある“私”というものを作りあげるDNA遺伝子の組み合わせは10の24億乗あるそうです。

10の2乗というのは10×10、すなわち100のことで、10の三乗とは10×10×10、すなわち1000のことです。

10の24億乗というのは、10に10を24億回、かけることです。それがどんな数字か私達には皆目見当がつきませんが、その0(ゼロ)を一センチごとに並べていくと、なんとその長さは23680キロ(14800マイル)の長さになるというのです。

14800マイルとはサンディエゴから日本へ往復して、さらにもう一度、日本に行く距離です。それだけの0(ゼロ)が並ぶということです。その確率の中、私達は今、ここにいます。

この数は、あなたのような人をこの地球上に見つけることは決してないということを示しています。そして、それは過去の歴史においてもそうですし、これからの未来においてもあなたと同じ人間がこの地球に誕生することはないのです。

この教会に集まっている人を見回してみても、皆、バラエティに富んでいます。物静かな人もいます。活動的な人もいます。論理的な人もいれば、感受性豊かな人もいます。人前で話すのが好きな人、絶対にイヤだという人。私たちは皆、それぞれが違うのです。

聖書は神があらゆるタイプの人を用いて下さるという数多くの例を示しています。ペテロは楽天家でした。パウロは情熱家でした。ルカは冷静でした。旧約のヨセフは沈思黙考する人でした。ヤコブは策略家でした。エレミヤは繊細な人でした。様々な個性をもった人たちがそれぞれの仕方で神に仕え、神の栄光をあらわしていきました。神様は彼らの個性を用いられたのです。

先にお話ししました「賜物」とこの「個性」は区別されるものです。「賜物」は神様からあなたへの贈り物です。その賜物に自分なりの磨きをかけていくと、それがあなたの「個性」となります。それが私達のスタイルとなるのです。

神様はあなたの個性を用いられます。しかし、時に個性には粗削りな部分もあるのです。「自分勝手」と「積極的」というのは非常に近いのです。「無関心」と「冷静」も近いのです。ゆえに神様はその個性をもって神の栄光をあらわすことができるように、時に私達の個性を磨いて下さるのです。

さぁ、主の前にあなたの無二の個性を輝かせてください。失敗を恐れずに、それを用いてください。その過程で気がつかされることがあれば、主の御手の中でさらに磨きをかけてください。主はあなたに期待しておられます。

最後のことをお話しします。それは神はあなたの経験を用いて神の栄光をあらわすということです。

あなたの経験によって

私達が各々与えられている人生で経験することは皆、異なります。夫婦であっても、親子であっても、兄弟姉妹であっても皆、違います。ましてや今、ここに集っている私達は皆、それぞれが色々な人生の経験をしています。

私達の教会にかつて来られていた岩本さんはこの夏、ブラインドでありながら太平洋を横断しました。私の知る限り、この中に太平洋をヨットで横断した人はいないと思います。目が見えないという状態で太平洋を横断するということ、視力がある私達にとりましてそれは想像もできない世界です。

しかし、彼はその経験を通して、この世界に発信するメッセージをつかんだのです。横断してから岩本さんはあちこちから講演の依頼が来ているようですが、彼の経験は多くの人達に励ましを与えていくことでしょう。

パウロはコリント第二の手紙1章4節―5節においてこんなことを記しています 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである」

このような心情を明かしたパウロはその言葉の実践について、すぐその後にこう書き記しています。この後、すぐの8節―10節を読んでみましょう。

兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。

ここにはパウロが経験した患難が書かれています。そして、その自分が経験した患難を慰めて下さった神の慰めをもって、彼はコリントの人々に彼が経験した慰めと希望を語っているのです。そう、彼は生死を分けるような経験をしたからこそ、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせる神を頼みとするに至ったという力強い証をここでしているのです。

それは彼が自身の机上の研究から得たものではなく、彼の実体験に基づいているのです。そして、その実体験から生まれた証言以上に強いものはないのです。

ルカによる福音書22章32節においてイエスが弟子ペテロに言われた言葉を渡したちは忘れてはなりません「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

シモンとはペテロのこと、そのペテロがこの後にどうなるかということをイエスは知っていました。すなわち、ペテロはイエスの弟子であることを自らの身を守るために3度も否定するのです。すなわち、ペテロはイエスを裏切るのです。

しかし、イエスはそのような、もう自己嫌悪に陥ってしまうような、大きな挫折を経験したペテロのために「私はあなたのことを覚え、祈っているぞ。あなたがこれから経験することは確かにあなたをどん底に突き落とすだろう。でも、お前がそこから立ち直った時、その時はお前が、兄弟達を力づけるのだぞ。お前の経験は必ず多くの者達を励まし、お前がそうであったように、お前の経験は人を再び立たしめるものとなるのだから」と言われるのです。

イエスは知っていました。苦く辛い経験は、それだけで終わらないということを。それが何にも代えがたい力となる日がやがてくるということを。

誰でも失敗や挫折、悲しい経験を求め、喜ぶ人はいません。しかし、これらのことは必ず私達の人生に起きてきます。私達はこれらのことを素通りすることはできないのです。

ある人はその失敗や挫折をいつまでも引きずります。あるいはあれはあいつのせいだったといつまでも被害者に留まります。そして、そのまま、その日から時間が止まってしまったかのようにして人生を終える人はたくさんいます。

主にある皆さん、そこです。その失敗や挫折、悲しみをそのまま「負の遺産」として机の上に並べて、それを眺めながら余生を生きるのか、それとも、それらのことすらも神は用いられるのだと信じて前を向いて生きるのか、それが私達の人生を決めるとは思われないでしょうか。

これまで教会で、このような失敗や挫折、悲しい経験をされた方達と多くお会いしてきました。言うまでもなく私もそのうちの一人です。それらを通して今、思うのです。

単純に比較はできませんが「失敗」とか「挫折」、また「悲しみを伴った経験」というのは「成功」と「達成」、「嬉しい経験」よりも、ずっと多くのことに用いられるということを。

「成功、達成、嬉しい経験」とはアルバムの中に収められるもの、しかし、「失敗、挫折、悲しみを伴った経験」はアルバムを飛び出して、人を生かし、人を慰め、人を勇気づけ、時にそれが人の命を救うものなのです。

主にある皆さん、時来たらば、これらのことをもって主の栄光をあらわしませんか。

以前にもお話ししたことがあります。米田豊という先生がいました。この先生は戦後、東京聖書学院の教授として重責を担われ、東京にある西落合教会という教会の牧師として生涯を歩みました。先生が書かれた「新約・旧約聖書講解」という名註解書を私は今でも用いています。

その先生がまだ存命の時に、まだ幼い私は母に連れられて聖書学院の敷地内にあるご自宅に何度か行かせていただきました。子供心に忘れられない思い出は先生の家の玄関のげた箱の上には、どこかで拾ってきたのでしょう、大きな流木が置かれており、その流木の枝には、これまたどこかで拾ってきたのでしょうか、何百もの缶ジュースのフタがいくつもオブジェとしてかかかっていたのです。

朝の散歩時に先生が道に落ちている缶のフタを嬉しそうに集めている姿を思うととても親近感を覚えました。私も同じことをしていたからです。ですから、私は先生の家に行くのが大好きでした。先生はいつも穏やかな笑みをたたえ、私の頭の上に手を置いて優しく祈ってくれました。

その時はもちろん知りませんでした。この先生がそれ以前に通られた苦難の生涯を。先生は8人もいらした子供のうち自分よりも先に6人を亡くした生涯を送り、昭和のヨブと人は先生を呼びました。

ある時、ある牧師のお子さんがまだ、幼ない我が子を亡くしました。周りのいかなる人の慰めも力がありませんでした。これはその人達が悪いのではなく、慰めなというのは、時にそのような性質をもっているものであるということです。

しかし、この米田先生が一言も言葉を言わず、ただその先生の方に手を置いたそうです。それだけで、そうそれだけでその牧師は言い知れぬ大きな慰めと励ましをいただいたというのです。

私達の経験は皆、それぞれ違います。ひとりの人が人間が通らなければならない経験を全てすることはできません。ですから一人の人がその経験をもって、全ての人を励まし、慰めることなどは到底できないのです。

しかし、私達の周りには私達の経験によって、引き上げられる方達がいます。そのことが人生の分岐点になるというような方達がいるのです。そして、もし、私達の経験が誰かのために用いられるのなら、その瞬間こそ、私達が「Soli De Gloria! 神にのみ栄光あれ!」と叫ぶ瞬間なのです・・・。

神様は「あなたの賜物」を通してあなたを用います。神様はまたこの賜物から形成される「あなたの練られた個性」を通してあなたを用います。そして神様は「あなたの体験」を通してあなたを用います。これらのことは確実です。

主にある皆さん、これらのことゆえに私達の人生は素晴らしいのです!生きるに値する人生なのです。もし、私達がその人生の最後に深い確信と共に「Soli Deo Gloria 神にのみ栄光あれ!」という言葉と共に閉じることができたら、「誰が何と言おうと私達の人生は最高のものであった」と言えないでしょうか。このような人生を歩みたいとは思われませんでしょうか?お祈りしましょう。

天のお父様、今日はあなたが私たちを用いられる方法についてみてきました。私たちの賜物、個性、そして経験、これらを通してあなたは私たちを用いて下さることを感謝します。主よ、私達はあなたの御手の中にある土の器です。どうぞ、あなたがこれからも私達を練りきよめて、このキリストのからだなる教会において私達を大いに用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。

本日のおもちかえり
2019年9月29日

1)神様はあなたの人生を通してこの世界に何かの違いをもたらそう、この地上に神の栄光が現わそうとされているということを知る時に、あなたは何を思いますか。

 

2)ヨハン・セバスチャン・バッハは自筆の楽譜の最後に「SDG( Soli Deo Gloria)、神のみに栄光あれ!」と書きました。彼はどんな気持ちでこの言葉を書き残したと思いますか。あなたはどんな時にSoli Deo Gloria と言えますか。

 

3)あなたは神様が与えて下さっている賜物(ギフト)が何だかご存知ですか。それを神様のために用いていますか。

 

4)ペテロもヨハネもパウロも異なる個性を持っていました。彼らの個性はどんなものだったでしょうか。それぞれの個性を神様はどのように用いられましたか?

 

5)あなたは自分の個性をご存知ですか。それに磨きをかけていますか?その個性によって神の御名が崇められていますか。

 

6)ルカによる福音書22章32節を読みましょう。イエス様はペテロの失敗をどのように用いようとされていますか。

 

7)あなたの人生経験はどのように用いられますか。私達にとって「負の経験」と思われるようなものを神様はどのようにして用いてくださいますか。

 

8)あなたは人生を閉じる時にどんな思いをもってその最後を締めくくりたいと思いますか。

 

9)なぜ神の栄光をあらわす生き方は素晴らしいのでしょうか?それは自分の栄光を求める生き方と何が違いますか?

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