人生を50年も生きていますと、私にはいくつもの叶えられなかった祈りがあったことに気がつかされます。そして、それらを振り返ります時に、それらのことについて今、私は思いがけない、自分でも驚く思いを持っていることに気がつきます。何だか分かりますか?
「あぁーあの祈りがあのまま叶えられなくてよかったなー」という安堵の思いです。あの時にあの祈りが叶えられていたらと思うと、今頃・・・。
「求めよ、そうすれば与えられるであろう」(マタイ7章7節)という言葉に従い、ある方は、我が子を願っている学校に進学することを祈っているかもしれません。しかし、その願っている学校に行く事はできずに、その子が全く願っていないような進路に歩み出すなんてことが人生にはあります。
祈っても、私達の祈りが聞かれない時があるということは、どういうことなのでしょうか。私達日本人には「本音と建前」というものがありますが、今日は建前ではなく、本音の部分からこの祈りについて見ていきたく願っています。
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聞かれない祈りについて
2021年4月18日
私達は先週、1テサロニケ5章16節から18節の御言葉から「いつも喜んでいなさい」という御言葉をみました。その箇所を拝読させていただきます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(Ⅰテサロニケ5章16節‐18節)。
今日はここに記されています「絶えず祈りなさい」ということを見ていきたいと思います。皆さんは最近、何について祈っているでしょうか。何ヶ月も何年も祈っている課題があるでしょうか。それらの祈りは聞かれているでしょうか。私達が祈りの中で神様に願うことについて、聖書はこのような約束をしています。
「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイ7章7,8節)。
この聖書の言葉を握り締めて日々、私達は祈ります。そして、このみ言葉の約束の通り、私達は確かに「見いだし、門を開けてもらえた」という経験を何度もしているはずです。しかし、時に、そのように思えないこともあるのです。
ある方は、我が子が願っている学校に入学することを祈っているかもしれません。しかし、その願っている学校に行く事はできずに、その子が全く願っていないような進路に歩み出すなんてことが人生にはあります。
いったいマタイ七章のイエス様の言葉はどうなってしまったのでしょうか。祈っても、私達の祈りが聞かれない時があるということは、どういうことなのでしょうか。私達日本人には「本音と建前」というものがありますが、今日は建前ではなく、本音の部分からこの祈りについて見ていきたく願っています。
祈りがきかれないということ、そのことに対して、今日は主イエスが弟子達に「このように祈りなさい」と教えてくださった「主の祈り」の前半部分からいくつかのことを見ていきましょう。
9だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。10御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。(マタイ6章9節ー10節)。
まず、最初に「私達は誰に祈っているのか」ということを確認したいと思います。
誰に祈っているのですか?:『天にいます我らの父よ』(9)
イエス・キリストの弟子達が「どのように祈ったらいいのですか」と尋ねた時に、イエス様は彼らに「主の祈り」を教えました。その主の祈りはどんな言葉で始まっていますか。それは一つの投げかけの言葉で始まっています。すなわち「天にまします我らの父よ」という言葉と共に、この祈りは始まります。そして、この最初の言葉はとても大切なことを私達に語りかけています。
すなわち、私達は「あなたの願いは引き受けました」という「便利屋さん」に向かって、祈っているのではなく、ホテルのコンシェルジェに何かを頼んでいるのでもないということです。これらの人達にとって、私達は顧客なのです。代価を支払うことによって彼らはできる限りのことをしてくれるのです。
例えば、私達がホテルのコンシェルジュに「この町で最高にゴージャスなレストランにディナーの予約を入れておいてくれ」とチップを渡して頼めば、そのコンシェルジュは、私達に「なぜですか?」とは聞きません。「承知しました」とその願いをきいてくれるでしょう。しかし、私達が今、祈りを捧げようとしている方というのは「天にまします我らの父」なのです。私達は我らの父の顧客なのではなく、子なのです。
最近は登っていませんが、かつて隣町の「コウエル山」によく登りました。その山は片道45分くらいで登頂できる山で、山頂に立てばダウンタウンのビル群まで見渡すことができます。山に登りますと風景が変わります。そこから見渡す景色は、私が普段、せせこましく蟻のように動き回っている世界です。しかし、山頂ではその景色が私の手の中に収まってしまいます。このことは近所の手軽に登れる山に登った時に私が感じることです。
それなら「天から眺める景色」はいかなるものなのでしょうか。そこから見える景色は明らかに私達が見ている景色とは異なることでしょう。主にある皆さん、私達が「天にますます我らの父よ」と呼びかける時、私達は天地万物を造られたお方に祈っているのです。そして、その父は私達には見えないもの、知りえないことを全て見、全て知っているお方なのです。
「天にまします我らの父よ」と私達が主の祈りを祈り始める時、誰よりも私達のことを思っておられる我らの父が、私達の心の動機までも知るこのお方が、私達の思いとは全く異なった視点で、その祈りに応えてくださるということを私達は心に刻もうではありませんか。
二つ目のことをお話しましょう。それは「いいえ、私はあなたを愛しています」ということです。
いいえ、私はあなたを愛しています:「御名が崇められますように」(9):
「天にまします我らの父よ」という言葉の後に、主の祈りは「御名が崇められますように」という言葉が続きます。この言葉は「どんな時も私達が神を崇めることができるように」という言葉です。
そして、神こそが私達の父であるならば、その御名が崇められるということは、その子である私達にとって、それは大きな喜びであり、同時に神あっての私達の存在ということにまで、その思いがいたりますのなら、このことは全ての人間が生きる究極的な目的となる言葉であります。
しかし、時に私達の祈りと願いが、父なる神を崇めることができないような願いであることがあります。そして、ここで注意したいことは、私達の祈りが父なる神を崇めることになるのか、ならないのかという判断は私達の側にあるのではなく、それは全知全能なるお方の側にあるということです。ですから、時に私達の父なる神様は私達の祈りをそのままお聞きにならないことがあります。
以前、息子がまだ幼い時、インターネットにある某大手オークションサイトにて、世界中のマニアから出品されているおもちゃのレゴに夢中になっている時がありました。コンピューター画面が変わる度に、彼の目の前には魅力的な、おびただしい数のレゴがあらわれていきます。彼はそれらを眺めているうちに、すっかり心を奪われてしまったらしく、寝ても覚めても、レゴのことを考え、口にするようになりました。
私はそんな彼を見ていて、もはや「彼がネットをコントロールしているのではなく、ネットの中のレゴが彼を支配している状態」を認め、即、オークションサイトを見てはいけないと彼に言いました。彼の心から「このレゴも、あのレゴも欲しい」という思いがとめどもなく出てきて、大切なことがないがしろにされる可能性を感じたからです。
私は神ではないですから、彼のその行動によって、自分に汚名がつくとは考えません。しかし「神の御名が崇められますように」ということは、私達の言動を通して神の名が崇められるようにということです。ですから、主にある皆さん、このことに照らし合わせて、私達の祈りを神様は聞かれているということに心を留めようではありませんか。このことを念頭に私達は祈ろうではありませんか。
私達が愛する者と関わりをもつ時に、その応答はいつも「イエス」ではありません。「ノー」の時もあります。そして、そのノーには原因があるのです。もし、それが神を崇めるものでないなら、ましてやそれが愛する我が子であるのなら、父なる神様は私達にノーという応答をなされることがあるということ、このことを心に留めようではありませんか。
三つ目のこと、それは「分かった、でも待ってごらん」という応答です。
分かった、でも待ってごらん:「御国がきますように」(10)
こう祈るべきと教えられた主の祈りの中で、イエス様は続いて「御国がきますように」と祈りなさいと言われました。この一言には聖書を貫くとても大切な意味がこめられています。
すなわち、御国、すなわち神の国というものがルカ17章21節に「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」とあるように、それは既に私達のもとにあるものであると同時に、ペテロ第二の手紙3章12節、13節に「極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」とあるように、やがてそれは完成されたものとしてくるとも書かれているのです。
そして、この主の祈りの「御国がきますように」という言葉も、文字通りやがてそれが来るようにという言葉なのです。そして、その日ということに対して、ペテロ第二手紙3章10節は「主の日は盗人のように襲って来る」と記しているように、「その時」は父なる神以外、誰も知らないのです。
すなわち、この「御国がきますように」という祈りの中には、私達はその御国がいつくるのかは分かりませんが、あなたが最もよいと思われる時に、そのあなたの支配する御国がきますようにという祈りがこめられているのです。
聖書、伝道の書の3章1節には「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」と書かれており、続く節には人がその人生において経験する諸々の出来事について記されています。そして、そこにはそれらの諸々のことが起きる「時」は神の御手にあるということが暗示されています。
旧約聖書の一番最後に記されているマラキ書から新約聖書のマタイ伝の間には400年の年月があったといいます。400年と私達は一言で言いますが、その期間というものは私達にとりまして、なんと長いことでしょうか。それは人の世代が4代も5代も形成される長さです。
その長い間について、聖書は沈黙を保っています。そこでは様々なことが起きたでしょう。それらの400年を経て、記された新約聖書の福音書などを見ますと、それまでの時代を「暗闇」とか「暗黒」という言葉で記していますから、人間的な醜悪がその間にははびこっていたのでしょう。そのような中で人々はメシア(救い主)を求めるようになっていったのです。
そのような長い年月を経て、新約聖書はイエス・キリストの誕生について「時が満ちた」(マルコ1章15節)と記しているのです。この満ちるという言葉は、「後にも先にもその時以外にない」という時のことであり、その時の前後が少しでもずれると最善のものとはならないという時のことです。
そして、その時を「いつ」にするのかということは、全て父なる神様の御手にあるのです。それゆえ、この時を支配しておられる神様は私達の祈りについても時に、こう言われることがあるのです「あなたの祈りは分かった。でも、もう少し待ってごらん」。
私達が願っている方向は間違っていない。しかし、今はまだその時ではない。子供が運転をしたいと願うことは間違っていない。きっと彼、彼女にとって大きな助けとなるだろう。しかし、今ではない。免許が取れる年齢に近づく時に、親は「その時」ということに対して悩むのではないでしょうか。結婚にしてもそうです。「結婚することは間違っていない」しかし、今が、その時なのか。
繰り返し申し上げますが、ブライダル・サービスの窓口に「結婚式を挙げたいのです」と申込書と代金全額を支払うカップルに、担当者が「あなたたちにとって、今が本当に最もいい時なのですか」とはいいません。担当者は代金さえ支払えば、カレンダーに私達の結婚式の予定を書き込んでくれます。しかし、そのカップルの両親なら「今がその時なのか」と問いかけることがあります。なぜ?親は誰よりも我が子を本気で思い、その幸せを願う人だからです。
イエスの友、ラザロが病気だという知らせをイエスが受けた時、そこに居合わせた人達は「今すぐイエスは彼のもとに行った方がよかろう」と思いました。しかし、イエスは、その時を行く時とはせず、皆が「もう、遅すぎる」と思った時に、ラザロのもとにいかれたのです。そして、それによってイエスは父なる神の栄光をあらわしました。
それ以外にもキリストは常に「時」というものを意識して生きました。あのカナの婚礼の時にイエスは母マリアに言いました「わたしの時は、まだきていません」(ヨハネ2章4節)。エルサレムにおいてイエスを捕えようとした人達がいました。しかし、誰一人イエスに手をかける者がいませんでした。ヨハネはその理由を「イエスの時が、まだきていなかったからである」(ヨハネ7章30節)と言っています。いよいよイエスが捕えられて十字架にかかる直前になりイエスは言われました「人の子が栄光を受ける時がきた」(ヨハネ12章23節)。
イエス様の誕生は時が熟して起り、イエス様の十字架はその時がきて起こったのです。そして「その時」は全て父なる神の御手の中にありました。その時は父なる神が見て、最善の時だったのです。
「マイクロウェーブで食品を温める時に、その時間の終わりを告げるブザーがなる五秒前にドアを開けてしまう人が多い」と聞いたことがあります。その時は笑っていましたが、時々、全く同じことをしている自分を私は知っています。
私達は「時」というものを自分で支配しようとします。その時が来なければ、自分でこじあけようとします。しかし、この朝、確認しましょう。父なる神様は誰よりも私達を愛しているゆえに「分かった、でも待ってごらん」と語りかけるお方であることを。最後のことをお話しましょう。それは「いいえ、さらに良いことがあるから」ということです。
いいえ、さらに良いことがあるから:「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(10)
イエス様は父なる神と人間の関係において、引き続いてこう祈るように教えられました「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」。
その願いは自分には正しいものと思われ、神の前にも良きものと思われる。しかし、それが神の前にベストではなく、父なる神様はもっと最善なる天のみこころを、この地に生きる私達に備えてくださる時に、神様は「いいえ、さらによいことがあるから」と私達に語りかけます。
シアトルにシーホークスというプロ・フットボールチームがあります。そのチームにかつて、チームで絶大な人気があった重戦車と呼ばれたシャーマン・スミス(Sherman Smith)というランニングバックがいました。そのシャーマンは1983年、突然、自分の意志に反してサンディエゴ・チャージャーズにトレードされます。一夜にして彼の環境は変わり、彼はチャージャーズですぐにかかとの怪我をしてしまい、数週間しかチャージャーズではプレイできずに、その年に引退します。どんなにか苦悶の日々を過ごしたことか、想像できます。
彼は熱心なクリスチャンだったので、苦しいリハビリテーションをしながら、なぜ主が願っていなかった、このサンディエゴに送ったのか、ましてやなぜ、新地で早々に怪我をしてしまったのかと祈ったというのです。
そんな祈りとリハビリを繰り返していた時、シャーマンは皆から、パーティー男と呼ばれ、薬物に溺れていたチャージャーズの一人のチームメートをイエス・キリストのもとへと導きました。このパーティー男の名前はマイルス・マクパーソン(Miles McPherson)といい、彼は今、サンディエゴにある私達も知っているRock Churchの主任牧師となり、現在ロックチャーチには毎週一万を超える会衆が集まり、地域社会に仕えています。
なぜ、シャーマンは願ってもいなかったのに、結果的には怪我をするために来たかのようにサンディエゴにトレードされたのでしょうか。お分かりですね、神のみ心が天に行われるとおり、地にも成されたのです。彼のトレードの収穫の実を彼は以後、今日にいたるまで見続けているのです。
イザヤ55章8節-13節に記されている驚くべき主の約束を読みましょう。
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、 あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶことをなし、わたしが命じ送った事を果たす。あなたがは喜びをもって出てきて、安らかに導かれていく。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ。いとすぎは、いばらに代わって生え、ミルトスの木は、おどろに代わって生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない」(イザヤ55章8節-13節)。
父なる神様の思いは、シャーマン選手のそれよりも高かったのです。それはシャーマン選手の思い描く道とは異なっていたのです。シャーマン選手は一時、その思いや道が自分の願うものではなかったゆえに、思い悩んだに違いないのです。しかし、彼の道はこのイザヤ書の最後に書かれているように「いとすぎが、いばらに代わって生え、ミルトスの木が、おどろに代わって生える」というように導かれていったのです。
ミルトスとは、香りよき花を咲かせる青々とした木です。いとすぎも香りよく、あのノアの箱舟を造るために用いられた木です。どちらも当時の人にとって、望ましい木々でした。反対にその名前からして「おどろおどろしい」のですが、おどろとは茨の種類で、それらは棘があり、決して喜ばしいものではありません。
父なる神の思いと道が成る時、茨がこれらの木々と変わるというのです。茨の道と思われていたものが、青々とした木々、そこから花咲く道と変わるというのです。そして、このことは主の記念となり、とこしえのしるしとなるというのです。
シャーマン選手がプロフットボール選手として残した成績を細かくいつまでも覚えている人は、おそらくあまりいないでしょう。しかし、彼がリハビリ中にサンディエゴでマイルス選手になした事は、主の記念となり、とこしえのしるしとなっているのです。
もし、私達が祈っているにもかかわらず、願ってもない方向に導かれるようなことがあるならば、私達はそこで自暴自棄や疑心暗鬼になるところから私達が守られますように。結論は早急に出すべきではありません。その時に、神様は私達にさらに優ったものを備えていてくださるに違いありません。思いもしなかった実を、神様は私達を通して実らせてくださるに違いありません。
人生を50年も生きていますと、私にはいくつもの叶えられなかった祈りがあったことに気がつかされます。そして、それらを振り返ります時に、それらのことについて今、私は自分でも驚く思いを持っていることに気がつきます。何だか分かりますか?「あぁーあの祈りがあのまま叶えられなくてよかったなー」という思いです。あの時にあの祈りが叶えられていたらと思うと・・・。そう、このことは「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、 あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」という主の言葉の前に私を立ち返させるのです。
だから、今日も明日も私達はこの父なる神に絶えず祈るのです。そのような意味において、聖書が約束しているように、私達は探せば必ず見出すのです。門を叩けば必ずあけられるのです。このお方は私達を愛し、本当に私達に必要なものを、本当に必要な時に与えてくださいます。それは私達の想像を超えた、私達が思い描く以上のものなのです。ですから、皆さん、私達は絶えず祈ろうではありませんか。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2021年4月18日
1)「求めよ、そうすれば与えられるであろう」(マタイ7章7節)に従い、私達は祈ります。しかし、実際に祈りが聞かれないことを私達は経験します。そのことをあなたはどのように受け止めていますか。
2)「天にまします我らの父」に向かって祈るのと「ホテルのコンシェルジェ」にお願いをすることの違いは何ですか。「天にまします我らの父」はどんなお方ですか。
3)あなたは自分が祈っていることによって「御名が崇められるだろうか」と考えたことがありますか。私達を通して主の御名が崇められるということはどういうことですか。
4)「御国がきますように」という主の祈りは、御国が来る「時」を主にお委ねしていることを暗示しています。私達は「今すぐ」ではなく、「主の時」を念頭に置いて祈っているでしょうか。
5)「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という祈りは何を意味していますか。「主のみこころが成される」ということ、「私の思いが成されること」は何が違いますか。最終的にどちらが私達にとって最善となるのでしょうか。
6)もし、あなたがこれまで祈ってきたことが全て叶えられていたら、今のあなたはどんな人間になっていると思いますか。それはあなたにとって望ましいことですか?
7)イザヤ55章8節-13節を読みましょう。ここからあなたはどんなメッセージを受けとりますか。