クリスマスの主役は2000年来変わらずに「飼葉桶に寝かされているイエス・キリスト」です。主役と言いましても、その時のイエス様は一言も言葉を発することができない乳飲み子です。彼は話すことも、立ち上がり、歩くこともできないのです。
この乳飲み子から、2020年、コロナ下に置かれた私達が受け止めることができるメッセージがあるのでしょうか。
今でこそ私達は年齢を重ねましたが、かつては誰しもが乳飲み子でした。私も皆さんもかつては母の腕に抱かれた乳飲み子だったのです。その名の通り、私達は抱かれ、乳を口に含ませてもらうことにより生きながらえ、成長してきたのです。
特別な理由や有名人でない限り、成人した私達の周りに人だかりができることはありません。しかし、無名の乳飲み子の周りに人だかりができることを私達は見ることがあります。そう、皆がその乳飲み子のもとにやってきて、すやすや眠る子を眺めるのです。その子は言葉を話せない、自分で立ち上がることもできないのに、その回りに人を集める力をもっています。
私達はその安らかな寝顔にひきつけられているのかもしれません。乳飲み子はなぜスヤスヤと眠ることができるのでしょう・・・。
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「乳飲み子」として生まれる意味
2020年12月13日
今年も私達はクリスマスを迎えます。このシーズン、教会ではクリスマスのメッセージが語られます。手元にあるのは一冊のバイブル、その中からクリスマスに関して記録されている聖書の言葉をお話しします。
半年毎に新しいモデルが発売されている携帯電話なら、その度ごとに新しい機能について説明すればいいでしょう。しかし、毎年、聖書の内容がつけ加えられことはなく、牧師は同じ素材からメッセージを備えます。
今年もその素材を前に何を語らせていただくべきか祈っていた時に、一つのことに気がつきました。それは聖書の言葉が変わることはありませんが、私達が生きている生活の環境は毎年、変化しているということです。そして、その変化する環境に身を置き、そのことが私達の考えや思いに影響を与え、私達の立ち位置が動くような時、変わらない聖書の言葉は、それまで照らされることがなかった私達の心を照らし始めるのではないかということです。
言うまでもなく私達は今、コロナ・パンデミックの中、生活をしています。このような環境・状況を私達はこれまで経験したことがありません。そのコロナ下にある私達に語りかけるクリスマスのメッセージは何なのだろうかということを思いめぐらしていました時、気がつかされたことは、私達がコロナ下にあるということは、私達は今「自分ではコントロールできない状況に身を置いている」ということでした。
この地球には77億人もの人がおり、このウイルスの影響は大小の差こそあれ、そのほとんどの人におよび、人間はこの一年、あらゆる知恵を出し合い、このコロナをコントロールすべく最大限の努力をしてきました。しかし、その力は収まるどころか、ますます私達の対策をすり抜けて、大きな脅威となっているのです。
クリスマスの主役は2000年来変わらずに「飼葉桶に寝かされているイエス・キリスト」です。主役と言いましても、その時のイエス様は一言も言葉を発することができない乳飲み子です。彼は話すことも、立ち上がり、歩くこともできないのです。この乳飲み子から、2020年、コロナ下に置かれた私達が受け止めることができるメッセージがあるのでしょうか。
今でこそ私達は年齢を重ねましたが、かつては誰しもが乳飲み子でした。私も皆さんもかつては母の腕に抱かれた乳飲み子だったのです。その名の通り、私達は抱かれ、乳を口に含ませてもらうことにより生きながらえ、成長してきたのです。
特別な理由や有名人でない限り、成人した私達の周りに人だかりができることはありません。しかし、無名の乳飲み子の周りに人だかりができることを私達は見ることがあります。そう、皆がその乳飲み子のもとにやってきて、すやすや眠る子を眺めるのです。その子は言葉を話せない、自分で立ち上がることもできないのに、その回りに人を集める力をもっています。私達はその安らかな寝顔にひきつけられているのかもしれません。
私が空港の待合室で居眠りしている時、私の寝顔を見るために立ち止る人はおらず、人だかりができ、私の寝顔を見て「かわいいね」とか「癒されるね」という人は決しておらず、せいぜい、「このおじさん、よく眠っているけど、飛行機に乗り遅れなければいいね」と内心、心配してくれる人がいるぐらいなのです。
乳飲み子が母の胸に抱かれている時、その子は全てを母親に依存しています。その子が生きるか、命を失うか、そのことを握っているのはその子ではなく、その子の親であり、保護者と呼ばれる人達なのです。
乳飲み子は自分を抱いていてくれる人が「明日もミルクを与えてくれるだろうか」とか、「おしめを変えてくれるだろうか」、「この人は私の人生を滅茶苦茶にしないだろうか」と心配することなく、全てを委ねて眠ります。彼らの命は自分以外の者に全く依存しているのです。彼らの今日も明日も完全に他者に委ねられているのです。
この場合、委ねられている側の者達もなかなか大変です。その子のために身の回りのことを全てしなければならないからです。そうです、まさしく全てです。食べる事、着せること、脱がせること、洗うこと、寝かせること、朝から晩までその子が生きるために必要なすべての事です。
そして、その状況はしばらく続きます。今でも思い起こすこと、それはこの国の法律ゆえに、子供達をカーシートに座らせ、ベルトをし、目的地に着きますと、またベルトを外し、カーシートから出し、ストローラを広げ、そこに入れ、またベルトをするということをいつも繰り返したことです。このケアーが必要な子が三人、同時期にいますと車の乗り降りだけで、それは、それは大変なことです。
ですから今でも子供達がカーシートに座らなくていいという日を迎えた時の解放感を覚えています。それは人生の大切なことを一つ成し遂げ、卒業証書をいただいたような時となりました。今、そのただ中にいるお父さん、お母さん、もう少しで卒業式がやってきます、今しばらくの皆さんのご愛を応援します。
このように私達が今日こうしてあるのは、誰かが自分では生きていくことができない私達を諦めずに面倒を見てくれたからです。もし「もうやってられない、やーめた!」と、その人達が私達に対するケアーを放棄していたならば、今、私達はここにはいないのです。
イエス・キリストが肉体をもって赤子として生まれたこと、これを神学的に「受肉」、肉体を受けるといいますが、イエス・キリストが30歳の成人としてこの世界に来られたのではなくて乳飲み子として、この世界に来てくださったということは、とてつもなくスゴイことです。
なぜスゴイのか、クリスマスの出来事とは神の子であるキリストが人の姿となり生まれた、すなわち、ご自身の明日の命を全く、100パーセント、人の手に委ねられたことだからです。
しかも、その委ねられた先のイエス・キリストの親となる夫婦はまだ年若く、当時の時代背景を思えば、彼らはまだティーンネージャーだったことでしょう。母マリアは、親戚や近所から疑惑の目で見られるようなタイミングでイエスを宿し、安心して出産できる場所すらなく、やっと見つかった場所は、受け入れ難い最悪の場所で、誕生すればしたで、すぐにその命に刃が向けられているという状況、落ち着く間もなく、他国に逃亡するような有様でした。
私はこのイエス・キリストが置かれた状況というものをこの度、しばし黙想して過ごしました。そして、思わされたことはイエス・キリストの誕生は確かに二人の若き夫婦に委ねられたのですが、その背後にあって、この二人を見守る父なる神の存在がこの無言のメッセージの中にはあるということでした。
すなわち、イエス様が誰かに身を委ねて生きなければならない乳幼児であったということは、その全てを見守っていらっしゃる父なる神への完全なる信頼がイエス様にはおありになったということであります。
そして、聖書を読んでいて気がつかされることは、イエス様が実際に父なる神に委ねて生きたということは、その誕生の時だけのことでHなかったということです。すなわちその後、親兄弟と共に暮らし、社会の厳しい現実の中で汗水流して働き、公にその宣教活動を始め、自分には枕する場所もないと言われた時、群衆を前に彼らに与える食べ物が何もないというような時、すなわちその全生涯におよんだということであります。
後にイエス様に一番、近く接していた12弟子の一人であったペテロはペテロ第一の手紙2章22節―23節で、間近にその言動を見続けたイエス様の姿をこう証言しています。
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをする方に一切を委ねておられた」(ペテロ第一の手紙2章22節―23節)。
この言葉は罵られた時、苦しめられた時、おびやかされた時というような特別な状況の時にイエス様は神様に一切を委ねておられたと記しています。
私達が不当な取り扱いを受けたり、罵られたり、苦しめられる時に、私達は自らの正当性を主張します。ある意味、私達が一番、興奮し、状況、如何では最も動揺し、感情的になる瞬間です。私達は何があっても自分の正当性を主張し、そのために証拠をかき集めて、自らの正しさを主張します。その時というのは最も「この事を人に任せていられるか、委ねていられるか」という状況となります。
裁判は「自分が被るかもしれない損失のためだけにするのではなくて、自分の名誉のためにする」と聞いたことがありますが、主イエス・キリストはご自身の潔白、正当性という、私達にとって一番大切なものを一切、神様に委ねたのです。
もう一歩、踏み込んで言いますのなら、イエス様は彼をののしる者、苦しめる者、おびやかす者に対して、彼らが絶句して何も言い返すことができない言葉を持っておられました。しかし、イエス様はそれを用いなかったのです。彼らを完璧に打ちのめすものを持ちつつも、その裁きを父なる神に委ねられたのです。そして、その結果、イエス様は十字架にかけられたのです。
イエス・キリストは飼葉桶の上に身を委ねることからその生涯を始め、その最後は十字架という木の上に、同じように身を委ねることにより終わりました。
手足を釘づけにされた十字架は天と地に垂直にたてられました。その十字架の上でイエス様は七つの言葉を言われましたが、その最後の言葉、すなわち神の一人子、イエス・キリストがこの地上で最後に言われたことは『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』(ルカによる福音書23章46節)という「委ねます」という言葉でありました。
この最後の言葉がイエス・キリストというお方の人生、全てを要約した言葉となりました。そうです、イエス様の生涯はその誕生から死にいたるまで全てを父なる神様に委ねて歩まれた生涯だったのです。
私達は思います。何もイエス様は赤子としてこの地上でお生まれになる必要はなかったのではないかと。その活動を始めたのはおよそ30歳前後のことですし、実際に聖書に記されているイエス・キリストの言動もほとんどがその齢以降のことなのですから、30歳を越えた成人としてエルサレムなり、ガリラヤにふらっと姿を現してもよかったのではないかと。そして、福音書に記されていることを語り、奇跡をされたらいいのではないかと。
しかし、あえてイエス・キリストは人として通るべき行程を省略せず、その始まりから全ての人が通る道を歩まれ、その毎日を、すなわち主にお委ねする日々を30年間、続けたのです。
すなわち、このことはこういうことです。私達が今、手に取り読んでいる聖書を通して知ることができるイエス・キリストの言動の背後には、それらの言葉を語らしめ、生き様を私達に見せてくださった、父なる神に寄り頼んだイエス様の30年の生活があったということです。
そして、主に寄り頼んで暮らしてこられた、これら30年を経て語られた言葉の力の前に私達は圧倒されるのです。そのような意味でイエス様の30年に無駄なものは何一つありませんでした。
かつてイエス様は、子供が持っていたパン五つと魚二匹から男だけで5000人、すなわち女性と子供を含めれば、万を超える群衆を養った時、十分に食べて満腹した彼らを見て、弟子達に言いました「少しでもむだにならないように、パン屑のあまりを集めなさい」(ヨハネ6章12節)。
イエス様はその時、「残ったパンくずを無駄にするな」と言われました。この言葉から想像できることは、普段、残ったパン屑は捨てられてしまうようなものだったということです。そのパン屑を屑としてしか見ない者達がいたということです。しかし、イエス様の目にそれは屑ではなかったのです。
私達は人生で色々なことを経験してきました。そこには多くの喜ばしいこと、成果を得ることができたことがあり、同時に悲しいこと、全く評価ができないと思われる失敗もたくさんありました。それらを思い起こすのなら、私達に良いと思われる経験は「パン」で、そうとは思われない経験は私達にとって「パン屑」のように思えるかもしれません。
しかし、主はそれらを無駄にするなと私達に語りかけます。辛い思い出もあるでしょう、しかし、もしそのような日々であっても、それが主を見上げ、主に寄り頼んで生きてきた日々であるのなら、それは無駄なものではなく、価値あるものです。
インスタントという言葉は私達の生活に定着しています。「インスタントラーメン」という呼び名が指し示すことは、食べるという目的にいたるプロセスをスキップして早く食べられるという意味があります。
ラーメンを本当に作ろうと思えば、スープのだし造りから、小麦粉を練るところから始めるでしょう。それらの手間暇をすべてスキップして、お湯を注げば食べることができるのがインスタントラーメンです。神様はイエス・キリストの生涯をインスタントなものとはされませんでした。そして、それは私達の人生も同じなのです。
ある方は思うかもしれない、この一年に自分が失ったものを。この一年を人生にアルバムから取り外し、パン屑のように処分したいと思われる方がいるかもしれません。しかし、クリスマスのメッセージは私達に語りかけます。教えてくれます。今こそ、この時、私に委ねることを学びなさい。あなたの人生の前に立ちはだかるものを、私は瞬時に取り繕い完成させるのではなく、私に寄り頼んで生きる者達と共に、懇(ねんご)ろに、それに手を加えて完成に導いていくのだということを知りなさい。
大人たちが電車に乗り遅れてしまうと髪を振り乱してプラットホームを走っている時も、乳児が心身ともに一切を母の腕に委ねているゆえに平安に眠っていられるように、笑っていられるように、私達の状況と環境に支配されない喜びや感謝、祈りは父なる神に私達を委ねことなくして起こりえないことなのです。
私達はこれまで何度クリスマスのストーリーを聞いたことでしょうか。私達は「客間には彼らのいる余地がなかった」という聖書の言葉をよく知っています。
このことゆえに宿屋の主人はヨセフとマリアに部屋を与えることができず、彼らは馬小屋へと回されたのです。よく、この「客間」は「私達の心」に置き換えられて語られます。そうです、私達の心にイエス・キリストを迎え入れるスペースがないということです。
この時期、例年なら私のカレンダーには色々な予定が入っています。「To do List」には多くの「すべき事」が並べられています。クリスマスに関する諸々の集会、食事会、あの買い物、このイベント、それらに追われるうちに新年がやってきます。恥ずかしながら、牧師でありながら、その忙しなさは「私の心にイエス様を入れるスペースがありません」というようなことになりかねないのです。
しかし、転じて2020年、昨年までしていた多くのことがなくなりました。サンディエゴではロックダウンが発令され、私達は自由に出歩けなくなりました。人を訪ねることができなくなりました。そのことを私達は嘆きますが、見方を変えれば、それは今年のクリスマス、私達の心のスペースに空きが生まれたことを意味しないでしょうか。
私達は自らコントロールできない力を前に思いめぐらします。私にとって本当に価値のあることは何だろうか。私がイエス・キリストを締め出してまで奔走していたことは何だったのだろうか。イエス様を心にお迎えし、イエス様を前にして、これらのことを思いめぐらす時が与えられていることは幸いです。
主にある皆さん、もし、この2020年、私達がこのことを思い、イエス・キリストがそうであったように、主にお委ねすることに心を向けようと人生を仕切りなおすことができるのなら、私達はそこから、今後の人生に大きな影響をおよぼす、どんなに大きな収穫を得ることでしょうか。
あと二週間弱で新しい年がやってきます。皆さんの心の中に気にかかることがありますか。新しい一年も、私達の前には色々なカードが置かれるでしょう。それをひっくり返しながら「俺はついている!」と歓声をあげ、次に置かれたカードを見て「俺は最悪だ!」と、ギャンブルのような一年を過ごすのでしょうか。
詩篇37篇5節、6節は今も私達に語りかけます。『あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる』
私は全能者に祈り、願います。今も、そしてこれからも私の面前で起きることがいかなることであっても、私の道を主に委ね、主に信頼し、主の腕に抱かれているところからくる、人知をはるかに超えた平安を、この人生を通して私に教えてくださいと。飼葉桶に寝かされたキリストは今も私達に、私達に必要な、そして最も大切なメッセージを語りかけているのです。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2020年12月13日
1)2000年来、クリスマスに関する聖書の言葉は変わりません。しかし、私達の生活環境は常に変化します。2020年、私達はクリスマスをどのように受け止めていますか。
2)飼い葉桶に寝かされているイエス・キリストは話すことなく、立ち上がることもありません。この乳飲み子イエスから私達が受けるメッセージは何でしょうか。
3)神様はなぜメシアの誕生を出産から始めたのでしょうか。なぜ30歳となった成人イエスをこの世に遣わされなかったのでしょうか。その30年にはどんな意味がありますか。
4)ペテロ第一の手紙2章22節―23節を読みましょう。イエス様はここで何を父なる神様に委ねていましたか。あなたが神様に委ねることで、一番、困難を感じることは何ですか。
5)『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』(ルカによる福音書23章46節)という言葉と共にイエス様は息を引き取りました。飼葉桶で始まり、十字架で終わったイエス様の生涯はどんな生涯だったでしょうか。
6)かつてイエス様は「少しでもむだにならないように、パン屑のあまりを集めなさい」(ヨハネ6章12節)と言われました。あなたの人生に「むだなパン屑」はありましたか。いつ「むだなパン屑」と思われたものが「有益なパン」と変わりますか。
『あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる』(詩篇37篇5節‐6節)の御言葉をもって、これからの人生の仕切り直しをすることができたらいいですね。