『また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである』(伝道の書4章4節)。
「すべての巧みなわざ」。この言葉に含まれることは無数にあることでしょう。今日も巧みなわざによる開発、発展、革新が日夜なされています。ソロモンはそれらを見て、悟るのです。これらは我々のねたみによって成し遂げられてきたのではなかろうかと。
どこかで誰かが何かを発明する。それを商品として販売すると、たちまちヒットする。顧客は自分の会社の製品の前を素通りし、その会社の商品の前に人だかりができる。その光景を見る同業者は心の中に何を思うのか・・・。
自分が立案したプロジェクトと同僚のプロジェクトが競合され、同僚のプロジェクトが採用される。社内での賛辞が同僚に向けられる。その光景を見る者は心の中に何を思うのでしょうか・・・。
『 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない』(出エジプト記20章17節)。
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「比較」と「妬み」で人生を終えない
2020年11月1日
今まで一つ一つ見てきた十戒もいよいよ最後となりました。この十戒は何百万人ものイスラエルの民がエジプトの奴隷生活から脱出した後、荒野にて彼らのリーダーであったモーセを通して、神様から与えられたものであります。
ついこの間まで生活に完全な制限が与えられていた奴隷であった者達に、自由が与えられました。それは私達が今も慕い求めている自由です。しかし、その自由にはリスクが伴いました。そうです、時に自由が私達を諸々の問題へと導く扉となるからです。
私達は100人の先頭に立つことの難しさを知っています。いいえ、4人、5人の家族ですらまとめるのは難しいのです。その時のモーセの肩にかかっていた人達は数百万でありました。これらの者達に一斉に自由が与えられ、荒野で共同生活をするのです。自由の名のもとに彼らが起こす問題というものは数えきれないほどあったことでしょう。
それゆえに彼らをこよなく愛する神は彼らの自由に一線を引きました。それは言うまでもなく、彼らを制限するものではなく、彼らを守り、さらには彼らが与えられている自由を喜び、楽しむためでした。彼らが本当の自由を謳歌するための一線でした。
こうして与えられたものが、これまでお話してきました十戒でした。その十戒の最初の四つは神と人との関係について語られていました。そして、残りの六つは単刀直入、とてもシンプルに、そして力強く、私達に何をすべきかを語りかけていました。「あなたの父と母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはらない」「盗んではならない」「偽証してはならない」
そして、今日の十番目の戒めです『 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない』(出エジプト記20章17節)。
この言葉を読みます時に、それが第八戒でお話しました「盗んではならない」という言葉に等しいもののように思えてきます。「むさぼる」イコール「盗む」とも受け取ることができるからです。しかし、実際にはこの十番目の戒めと八番目の戒め、いいえ、さらにはそれ以外の先の諸々の戒めとの間には大きな違いがあります。何が違うのでしょうか。
それは、これ以前の戒めは「私達がしてはならないこと」を語っているのに対して、この言葉はその時の「私達の心にある思い」について語っているということです。そうです、それは貪ろうという思い、すなわち、それは欲深く欲しがる、際限なく欲しがる私達の心の状態を表しているのです。
私達の心の貪りなる思いはどこから来るのでしょうか。その思いはあることから始まります。それは私達が心の中でなす比較です。
二つの物が並べられていると、私達は「どちらがいいだろうか」と考えます。この比較がなされ、自分が既に所持しているものや、自分が選ぶことができるものがより良いものと思われ、そのことに感謝するのなら、問題はありません。
しかし、自分が所有しているものが見劣りし、相応しくないものと思われますと、この「比較」の思いは次なるところへと私達を導きます。そう、それは私達の心を妬みという思いへと導きます。このようにして私達の心でなされた比較、そこから生じる妬みを経て、貪りなるものが起きるのです。
第十戒は言います。『 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない』(出エジプト記20章17節)。
イスラエルの民が荒野に各々の仮の宿を建てた時、彼らのすぐ傍には複数の家族がいたと思われます。そこにはそれぞれの暮らしがあり、そこにはしもべがおり、家畜がいました。そうなりますと否が応でも彼らは互いの生活の様子を見ることになり、それを比較するようになります。
もし、彼らがその時、私の妻、私のしもべ、はしためよりも、あの家の者達の方がいい。彼らが所有している家畜は私のものよりも毛並みがよく、さらには肥えているというような比較がなされますと、それは次なる妬みへと彼らを誘い、彼らは貪りなるもの、すなわち殺し、姦淫、盗み、嘘へと導かれていきます。
肉食動物は自分よりも弱い動物を食べて生きています。そのことにより食物連鎖がなされています。しかし彼らは満腹すると、それ以上、狩りをしません。腹が満たされているからです。
しかし、人間は違います。人間は満たされていても、さらに欲しくなるのです。私達の足は二本。しかし、人は手元に30足の靴を並べ、さらに欲しくなります。体は一つ、しかし金持ちは10台の高級車を所有します。
このような心を持つのが我々、人間なのですから、私達の貪りも歯止めが利かなくなります。これらの貪りが諸々の罪へと私達を誘うのです。
私達が比較をして、どちらがいいだろうかと考え、良きものを欲すること自体は必ずしも悪いことではありません。私達の心にある何かを欲する思いは神様が私達の心に予め備えてくださったものであり、それは私達を突き動かし、祝福の基となりうるものであり、それは私達に喜びや楽しみをもたらします。
しかし、その用い方を誤る時に、翻ってそれは私達にとって危険なもの、邪悪なものへと様変わりしてしまうのです。そのことが私達の人生の主導権を握るようになるのです。
ヤコブもこのことを知っていたのでしょう。彼はこう書き残しています。『ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある』(ヤコブ3章16節)。
ソロモンは多くの人達が、度々、織りなすねたみを観察して悟ったのでありましょう。こう言いました。『また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである』(伝道の書4章4節)。
「すべての巧みなわざ」。この言葉に含まれることは無数にあることでしょう。今日も巧みなわざによる開発、発展、革新が日夜なされています。ソロモンはそれらを見て、悟るのです。これらは我々のねたみによって成し遂げられてきたのではなかろうかと。
どこかで誰かが何かを発明する。それを商品として販売すると、たちまちヒットする。顧客は自分の会社の製品の前を素通りし、その会社の商品の前に人だかりができる。その光景を見る同業者は心の中に何を思うのでしょうか・・・。
自分が立案したプロジェクトと同僚のプロジェクトが比較され、同僚のプロジェクトが採用される。社内での賛辞が同僚に向けられる。その光景を見る者は心の中に何を思うのでしょうか・・・。
その時の内なる思いが、次へのモーティベーションになる。人間社会の発展の根っこには「互いへの妬み」がある。これほど私達の妬みの思いは私達に身近なものなのです。そして、この思いが一線を超える時に、諸々の問題が起きるのです。もちろんこのことを全てに当てはめることはできませんが、このことを完全に否定することはできないのではないでしょうか。
今日は一人の人に注目していきたいと願っています。その人の生き方を通して、私達は自分自身の生き方を考えたいと思います。その人の名はサウルといいます。彼はイスラエルの初代の王となった男です。
当時、イスラエルには王がいませんでした。そこで民は彼らの上に立つ王を求めたのです。それに対して神様はサウルを選ばれ、彼らに与えました。
サウルは背が高く、美しい若者であったと聖書は記しています。その彼の頭に預言者サムエルが油を注ぎ、彼はイスラエルの王となりました。当初、サウルは近隣の多民族との戦いにおいても良き結果を残し、民から王として歓迎されます。
しかし、アマレク人との戦いで神様の言葉に従わず、神の心は彼から離れ、次なる王ダビデへと神の御手は動きます。
ダビデはイスラエルの宿敵であるペリシテ人、巨人ゴリアテを打ち破り、サウルの目に留まり、彼に仕えるようになります。サウルの命令によりダビデが戦いに出れば連勝し、彼は民にも歓迎され、支持されていきます。その頃のサウルとダビデについて、サムエル記はこう記しています。
5 ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、てがらを立てたので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。6 人々が引き揚げてきた時、すなわちダビデが、かのペリシテびとを殺して帰った時、女たちはイスラエルの町々から出てきて、手鼓と祝い歌と三糸の琴をもって、歌いつ舞いつ、サウル王を迎えた。7 女たちは踊りながら互に歌いかわした、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」。8 サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。9 サウルは、この日からのちダビデをうかがった。10 次の日、神から来る悪霊がサウルにはげしく臨んで、サウルが家の中で狂いわめいたので、ダビデは、いつものように、手で琴をひいた。その時、サウルの手にやりがあったので、11 サウルは「ダビデを壁に刺し通そう」と思って、そのやりをふり上げた。しかしダビデは二度身をかわしてサウルを避けた。12 主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた。13 それゆえサウルは、ダビデを遠ざけて、千人の長としたので、ダビデは民の先に立って出入りした。14 またダビデは、すべてそのすることに、てがらを立てた。主が共におられたからである。15 サウルはダビデが大きなてがらを立てるのを見て彼を恐れたが、16 イスラエルとユダのすべての人はダビデを愛した。彼が民の先に立って出入りしたからである。(1サムエル18章5節ー16節)
イスラエルの女達は「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」と歌い、踊ったのです。おそらくその歌はイスラエルの民の間で流行歌のようになったのではないでしょうか。
当然、サウルの耳にも、この歌が聞こえてきました。そう、ここには明確な比較がなされています。この歌はサウルには千の力がある。しかし、ダビデはそれ以上、万の力があるというのです。
サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺し、この女達の歌により、サウルも自分とダビデを比較します。女達が歌っていたことは、あながち嘘ではなく、実際にダビデはサウル以上の戦績を残していたのでしょう。このことゆえにサウルの心にはダビデに対する妬みの思いが生まれ、それは日毎に彼の心を支配するようになり、やがてダビデの存在そのものが疎ましく思えてきます。
そして心に思うのです。ダビデの命を貪ろう、すなわち、この男の命を殺めてしまうと。その思いを抑えることができなくなり、サウルは何度も繰り返し、ダビデの命を狙います。
ダビデはサウルの部下です。彼の心は真っすぐで、そこに下心はなく、サウルによりどんな仕打ちを受けても、命を奪われそうになっても、神に油を注がれた王、サウルに忠実に仕えようとします。しかし、サウルの心はもはや、そのようなダビデの忠誠心を見ることも、感じることもできず、日毎にその心はダビデへの妬みと怒りに支配され、ダビデの命を取ることに全霊を注ぎ込みます。そう、貪りは最終的に相手の死を願うのです。彼のその姿は聖書に書かれているように、まさしく悪霊に取りつかれている狂気となっていました。
イスラエルには南北に90号という幹線道路が走っています。南はエジプトの紅海沿岸の街エイラット、北はベイルートとシリアの国境のあるゴラン高原にまで続く道です。10年前の冬、その道を地図を見ながら運転しておりましたらMt. Gilboaという地名を見つけました。
そう、ギルボア山です。その山はペリシテ軍との戦いにおいて、矢に打たれた傷を負いながら、追い詰められたサウルと彼の息子達が殺された山です。彼は敵であるペリシテ人に殺されるよりはと、剣の上に自らの身を投げ、最期のとどめを家臣がなし、死にました。彼の遺体はペリシテ人により奪われ、鎧をはぎ取られ、城壁に釘づけにされ、さらし者とされました。
私はそんな山の中を分け入っていきました。二月のイスラエルは肌寒く、霧が立ち込める平日に、その山に来る者はおらず、私は車を止め、しばらくその山の中に独り、身を置きました。
人っ子一人いないその山の中で、敵に追われながら、息も絶え絶え、木々の間を通り抜けていくサウルの息遣いが聞こえてくるようでした。
その時に私は思いました。人生に「IF、もしも」はないと言われますが、もしサウルがダビデへの妬みを心に収め、神様が自分から取り去るものを真摯に受け止め、神がダビデに与えられているものを尊重し、ダビデを信頼していたのなら、サウルの人生は違ったものとなっていたのではないか。
確かに彼は神が決められたように王座をダビデに譲ったことでしょう。しかし、彼が悔い改め、ダビデをリスペクトしていたのなら、彼には別の生き方、また神の顧みがあったのではなかろうか。
しかし、彼はその道を選びませんでした。彼は自分とダビデを比較し、嫉妬し、その嫉妬によるところの怒りと憎しみはサウルの人生と、その人格をも支配し、最期に彼は息子共々、殺され、ダビデは生き、イスラエルは栄えたのです。
「断捨離」という言葉が定着しました。身の回りのものを整理して、片づけることです。そのことにより居住環境が整い、それは私達の心をも整えるということで、今日、多くの人達が関心を寄せ、書籍もたくさん出版されています。
この「断捨離」は身の回りの物を整理する、不必要なものは処分するということですが、もし私達の心にも断捨離なるものがあるのなら、私達の心からまず、取り除けるべきものは、この不健全な「比較」と「妬み」ではないでしょうか。
私達の両足に足かせが繋がれているのなら、私達は何が何でもその足かせを取り外そうとするでしょう。比較と妬みは私達の足かせのようなものです。私達の両肩に常に荷が背負われているのなら、私達は何が何でもその荷を肩から取り下ろそうとするでしょう。比較と妬みは私達の荷のようなものです。これらは神様が私達に与えてくださっている自由を生きる妨げとなります。
「妬み」は特別な力を持って、私達の前に立ちはだかります。ソロモンは書いています。『憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう』(箴言27章4節)
私達人間が織りなす人間ドラマにおいて「比較」「妬み」は不可欠なエッセンスです。このエッセンスは映画、小説、ドラマには不可欠な題材であり、それは何もフィクションの世界だけではなく、政治において、会社において、友人関係において、今も存在しています。これらは老人施設にも幼稚園にも存在しているのです。
ある者は妬みを動機として、それに突き動かされて生きます。その人達はこの強力な動機と共に諸々の事業を次々と成功させていくかもしれません。時代の寵児と呼ばれるかもしれない。
しかし、思うのです、そこに内なる心の平安はあるのだろうかと。いいえ、おそらく、その時に心にあるものは不安であり、恐れなのではないか。そして、そうこうしているうちにその人は「比較」と「妬み」と共に人生を終えていくのです・・・。
サウルには他にも生きる道がありました。もし彼が自らの妬みを抑えることができたのなら、彼はこの平安を持ちえたかもしれません。
他人事ではない、私達はどうしたらいいのでしょうか。かつてイエス・キリストは言われました。「空の鳥を見るがよい」(マタイ6章26節)「野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい」(マタイ6章28節)
この言葉は私達に語りかけます。あなたが目を注いでいる人々の姿や生活から目を離し、野の花に、空の鳥に目を注ぎなさい。そのあなたの視線をそこから離して、私があなたに見てほしいと願っているものをよくよく見てごらんなさい。
あなたは彼らが食べている者、彼らが着ているものだけを見ている。そうしている限り、あなたの心に私が与える平安が訪れることはないだろう。見るべきものを変えなさい。顔をあげなさい。天でなされている神の御わざを見なさい。大地になされている神のみわざを見なさい。
わたしは野の母、空の鳥と同じように、あなたをも祝福しようとしているのだ。あなたはその祝福を受けるべきだ。その神の御手を見続ける限り、あなたの心が曇ってしまったり、揺さぶられることはない。それこそが私があなたに与えたいと願っている、世が与えることのない平安なのだ。
あなたはあなたが欲しているものによってその平安を得ようとする。しかし、私は初めに結論を言うから、それをしかと心に刻むように。あなたが貪り欲するものによってあなたは決して心の平安を得ることはできない。ゴールのないレースに、私があなたに与えている限りある人生の時間を費やしてはならない。比較と妬みで私が与えたあなたの大切な人生を終えてはならない。
私の愛と恵みは既にあなたに十分に注がれている。あなたは他者と比較し、そのことで舞い上がったり、落ち込むべきではない。ましてや誰かを妬んだり、それゆえに人のものを貪り、人生を棒に振ってはならない。わたしはあなたをそのように作っていない。わたしの御心にかなわないことの中に、あなたを本当に幸いにするものはないのだ。
主にある兄弟姉妹、今、皆さんの目はどこに向いていますか。主が指さすものを一心に見ていますか。それを見つつ、この人生を生きていますか。パウロは言いました。『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない』(ガラテヤ5章1節)
私達は比較と妬みというくびきにつながれてはなりません。キリストは私達に真の自由を得させるために、その命を引き換えに私達を解放してくださったのです。
今日で十戒のメッセージを終えます。この10週において、私達の人生がこの 10の戒めと共に生きるのなら、私達の人生の旅路は守られ、それのみか必ず神様の祝福を受けるということがお分かりいただけたかと思います。
これらの十戒は、神が私達を愛しておられるゆえに授けてくださったものです。全き愛によって与えられているもの、そこには嘘偽りはなく、ただ私達の幸いだけを望む父なる神の思いがここには込められています。この神の愛の内にとどまって生きることを、神は何よりも喜んでくださるのです。
皆さん、お一人お一人の人生にこの神の恵みが今から、永久にありますように。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2020年11月1日
1)そもそもなぜ神様はイスラエルの民に十戒を与えたのでしょうか。あなたはこの十戒に神の愛を感じ取りますか。
2)十番目の戒め、『 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない』(出エジプト記20章17節)はこの前の「あなたの父と母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはらない」「盗んではならない」「偽証してはならない」と何が違いますか。
3)上記の十番目の戒めからうかがい知れる荒野でのイスラエルの民の私生活はどのようなものだったと想像できますか。今日、このような貪りはどこで見受けられますか。
4)貪りなるものが起きる前に私達の心には「比較」と「妬み」の思いがわきます。この心に思い当たることがありますか。このことゆえに起きるどのような出来事を最近、見ましたか。
5)「比較」と「妬み」によって導かれる、支配される人生というものがあると思いますか。あなたはそのような人生を願っているでしょうか。
6)伝道の書4章4節は何を語っているのでしょうか。このことは当たっていると思いますか。
7)1サムエル18:5‐16からサウルの心にはどんな思いがあったことが分かりますか?
8)「空の鳥を見るがよい」(マタイ6章26節)「野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい」(マタイ6章28節)は私達にどんな生き方を示しているのでしょうか。あなたはこれまで何を見て、何を思って生きてきましたか。私達が目にとめるべきことは何ですか。
9)イエス・キリストが私達にくださっているものは何ですか(ガラテヤ5章1節)
