私達は今、コロナ下にあり、オンラインでの礼拝を捧げており、礼拝後にはズームによる「コーヒーアワー」と呼ぶ時間も設けています。
しかし、コロナが始まった時から折に触れてお話ししておりますように、これらは私達の本来の姿ではありません。イスラエルの民がシナイ山の麓で、共に神様の前に立ったように、初代の教会の者達が一つ所に集まり、主を拝し、互いの交わりを深めていったように、本来、私達もキリストの体なる教会にて、共に主の前に出て、主に礼拝を捧げ、また主にある交わりにあずかるべきなのです。
ですから皆さん、どうぞ今から心に刻んで、心備えをしておいてください。我々がコロナ感染の危機から解放された時には再び、主の宮に集まるということを!。
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皆と、そして一人で主の前に立つ
2020年11月8日
私達は4月から出エジプト記を礼拝でみてきており、その中で荒野に暮らすイスラエルの民に神様が与えられた十戒を10週かけてみてまいりました。そして、今日から再び、彼らの荒野での日々に起きたことに着目していきたいと願っております。出エジプト記24章1節から8節までを拝読させていただきます。
1 また、モーセに言われた、「あなたはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共に、主のもとにのぼってきなさい。そしてあなたがたは遠く離れて礼拝しなさい。2 ただモーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」。3 モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。4 そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの十二部族に従って十二の柱を建て、5 イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。6 その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。7 そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。9 こうしてモーセはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。12 ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」。13 そこでモーセは従者ヨシュアと共に立ちあがり、モーセは神の山に登った。14 彼は長老たちに言った、「わたしたちがあなたがたの所に帰って来るまで、ここで待っていなさい。見よ、アロンとホルとが、あなたがたと共にいるから、事ある者は、だれでも彼らの所へ行きなさい」。15 こうしてモーセは山に登ったが、雲は山をおおっていた。16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。17 主の栄光は山の頂で、燃える火のようにイスラエルの人々の目に見えたが、18 モーセは雲の中にはいって、山に登った。そしてモーセは四十日四十夜、山にいた(出エジプト記24章1節ー18節)。
今日の聖書箇所はモーセが神様からの律法と戒めを受けるために、シナイ山に登ったという箇所です。この箇所を見ますと、モーセは民の中からアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にシナイ山に登ったということが分かります。
アロンはモーセの兄で、大祭司でした。ナダブとアビフはアロンの息子たちで、彼らも祭司でした。また、イスラエルの長老 70人は、かつてモーセの舅エテロのアドバイスにより、立てられた民のリーダー達なのでしょう。
彼らがシナイ山に登るにあたり、まずモーセは山のふもとに祭壇を築き、そこにイスラエルの12部族に従い、12の柱を立て、主に燔祭を捧げ、また酬恩祭として雄牛を捧げました。燔祭は神に対する全き献身を意味するもの、酬恩祭は神との平和の交わりを更新することを意味しました。
また、その時にモーセはその血の半分を取って、祭壇に注ぎかけ、契約の書をとってこれを民に読み聞かせ、民は「主が仰せられたことを皆、従順に従います」と言いました。これらのことは、モーセと一行がシナイ山に登る前に、山の麓で、全てのイスラエルの民を前に神と民との間になされた契約で、私達は今日、それをシナイ契約と呼んでいます。
そして、その所でモーセは民にその血の半分を注ぎかけて言いました「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基づいて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。
この出来事は私達にイエス・キリストが最後の晩餐の席で言われた十字架による新しい契約を思い起こさせます。27また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。28これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイ26章27節ー28節)。
イスラエルの民の上に犠牲の動物の血が注がれたように、私達は主イエス・キリストの血潮により贖われた者であり、イスラエルの民一同が介する山の麓でそのことが成されたように、私達一同が集う教会こそが、私達がキリストの血により贖われた宣言を聞く場所、そのことを思い起こして聖餐を執り行う場所なのです。
これらのことが山の麓で行われてから後、モーセは73名の者達と共にシナイ山をのぼって行ったと聖書は記しています。
そして、その山の中腹で、サファイアの敷石のような物の上におられる神を彼らは共に見ました。普通なら神を見ると人は打たれて死んでしまうのですが、出エジプト記は神が彼らに手をかけることがなかったので、彼らは神を見て、飲み食いしたと記しています。
この74名の者達は全てのイスラエルの民と共に山の麓でシナイ契約にあずかり、山の中腹で神を仰ぎ、共に食事を分け合ったのです。
聖書を注意深く読んでいますと、互いに和平となるような契約を結んだ者達は、その後に食事を共にしたということが分かります。あたかも和解の契約と食事は一つのパッケージであるかのように聖書には記録されているのです。
創世記26章にはイサクとアビメレクとの間に和解の契約がなされたことが記され、またその時に彼らは共に飲み食いしたと記録されています(創世記26章26節‐31節)。
また創世記31章にはヤコブとラバンの間に和解の契約が結ばれ、やはり、その時にも互いに食事をとったことが書かれています(創世記31章38節‐55節)。
そして、このことはイエス・キリストとその弟子達の間でも成されたことでありました。これらのことは私達に新約聖書に記されている諸々のことを思い起こさせます。
主イエスの十字架を前にイエス様は。ご自身が強く願っていた最後の晩餐を弟子たちと共にとりました。そして、その十字架によりイエス・キリストは人間と和解の契約を結びました。
今日、見ておりますシナイ契約の後に食事がとられたように、イエス・キリストは復活後にエマオに向かう二人の弟子と食事をとります(ルカ24章30節‐31節)。さらにはイエスを知らないと否んだペテロと、また他の弟子達ともガリラヤ湖畔で食事を共にとります(ヨハネ21章12節‐14節)。
これらの弟子達が保身に走り、イエス様を裏切った後に、十字架と復活を経て、イエス様は彼らとキリストにある新しい契約における、和解の食事を共にしたのです。
そして、このことはイエスが天に帰られた後にもキリストを信じた者達が継承をしていったのです。私達はその姿を初代の教会の中に見ることができるのです。
そうです、イエスなき後にこの地上に誕生した教会では、シナイ山を前にしたイスラエルの民達が一同、主の前に立ち、契約の血にあずかったように、そこに集う者達は主の聖餐を囲み、互いに仕えあい、支え合い、祈り、交わりをし、主との新しい契約を喜び、食事を共にしたのです。それが最初の教会の姿であり、その様は使徒行伝に記されているとおりです。
42そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。(使徒行伝2章42節ー47節)
彼らは一同、共におり、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていました。彼らは日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていたのです。
私達は今、コロナ下にあり、やむを得ずオンラインでの礼拝を捧げておりますし、礼拝後にはズームによる「コーヒーアワー」と呼ぶ時間も設けています。
しかし、コロナが始まった時から折に触れてお話ししておりますように、これらは私達の本来の姿ではありません。あのイスラエルの民がシナイ山の麓で、共に神様の前に立ち、血がその上に注がれたように、初代の教会の者達が一つ所に集まり、主を拝し、互いの交わりを深めていったように、私達もキリストの体なる教会にて、共に主の前に出て、主に礼拝を捧げ、また主にある交わりにあずかるべきなのです。
その私達のあるべき姿を記しているのがこの使徒行伝2章なのです。ここに記されていることはお互いの顔をモニター越しに見て、スピーカーから聞こえてくる声によって、主を拝し、主にある交わりをもつということではないのです。
ですから皆さん、どうぞ今から心に刻んで、心備えをしておいてください。我々がコロナ感染の危険から解放された時には再び、主の宮に集まるということを。初めの教会の者達は絶えず宮もうでをしていたのであり、そのことは、今日に置き換えるのなら、彼らが絶えず教会にて共に主に礼拝を捧げていたということであり、私達もそれに従う者であるということを。
さらにシナイ山で起きたことについて、続きをみてみましょう。ここまで、お話ししましたように山の麓にいた時には多くのイスラエルの民がモーセと共にいました。
その中からモーセを含む74名の者が山に登り、共に食事を取り、モーセは共にいた長老達をそこに残し、従者ヨシュアと共に山に登ります。ヨシュアは後にモーセの次のイスラエルのリーダーになる特別な人であり、神様もモーセも彼に大切なことを見せ、聞かせたかったのでありましょう。
二人は山の中腹まできました。その時、雲が山をおおっており、主の栄光が山にとどまっていたと15、16節には書かれています。
そのような山の中にモーセとヨシュアは6日間共にいました。そして、7日目に神様はモーセだけを呼ばれ、彼はヨシュアをそこに残し、一人山を登ったのです。
それは24章1節で神様がモーセに予め示していたことでした「ただ、モーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」。
この言葉の通り、いよいよモーセはヨシュアをも後に残し、一人で登り、主の前に立ったのです。そして、そのところで実に彼は、この後の出エジプト25章から31章に記録されている神のメッセージを一人で受け取ったのです。彼はそのために一人で、40日40夜、シナイ山に留まったのです。
皆さん、最近一人になりましたか。ここでいう「一人」というのは「一人暮らしをしている」とか「孤立している」ということではありません。それは、一人で主の前に立ちましたかということです。
思えばモーセが神と一人で向き合ったのは、この時だけではありません。彼がその召命を受けた時、彼は一人、ホレブの山におりました。その所でモーセは燃え尽きることのない柴の中から神の御声を聴き、イスラエルの先頭に立つ者としての召命を受けたのです。
イエス様の12弟子のリーダー的存在であったペテロは自分の将来についてイエス様に指摘された時に、すかさず彼はイエス様に聞き返しました「主よ、この人はどうなのですか?」イエス様は言われました「あなたには何のかかわりがあるか。あなたは私に従ってきなさい」。
私達はいつも自分以外の人のことを気にします。それは大切なことではありますし、教会は互いのことに気をかけて、支え合う場所でありますが、同時に私達には一人で主の前に立たなければならない者でもあるのです。時に主は私達に「あの人、この人ではない、あなたは一人で私の前に出なさい」と私達に語りかける主であることを心にとめましょう。
昨年の今頃、今の私達の姿を想像していた人は誰もいません。戦争でもなく、災害でもなく、ウイルスにより私達が教会に行けなくなるといようなことを私達は考えたこともありませんでした。今でもこれは夢かと思うことがあります。しかし、これは紛れもなく現実です。
私達が教会に行くことにより、私達自身も、また私達と接する人達の健康に、さらには命にも影響を与えるという状況に今も私達は置かれており、私達は今日もこのように各自、それぞれの場所で礼拝にあずかっています。
しかし、聖書に記されている人間達がそうしてきたように、私達もキリストの体なる教会で再び、共に主の前に立ち、主を礼拝することでしょう。それを私達は心から待ち望んでいます。
そして、同時に私達は一人で、その時はヨシュアのような腹心の仲間をも伴わずに、主の前に自らを置き、自分に語りかけておられる主の言葉を聞くことが必要です。その所で主は親しく私達に語りかけてくださることでしょう。
コロナ下に置かれている私達は今、互いの交わり、フェローシップがもてない状況にありますが、その分、一人で主の前に立つ時間が与えられています。それはすなわち、見方を変えれば、これまであれこれと忙しく、自分を神様の前に置いて、じっくりと自分に向き合うことができなかったけれど、今はそのような時を持つことができるということです。
そう考えます時に、今という時は私達にとってとても意義のある時となります。私と神様との関係を築きなおす機会です。そして、そのような時間を十分に持った私達が再び、主にある仲間達との交わりの中に戻されていく時に、私達は今まで以上に互いを理解し、受け入れ、彼らの心を引き上げることができるような者へと整えられていると信じるのです。主にある兄弟姉妹、今という特別な時を大切に用いましょう。
私達は待ち望みます。主の前に一同、集い、再び主を礼拝する日がくることを!私達は期待します。日々、主の前に一人出て、主に用いられやすい器として整えられ、再び、かつての場所で、この器を主が豊かに用いてくださることを!お祈りしましょう。
おもちかえり
2020年11月8日
1)出エジプト記24章1節‐18節を読みましょう。人々はシナイ山の麓で何をしましたか。誰が山にのぼり、彼らは中腹で何をしましたか。最後に誰が神様の前に出ましたか。
2)山の麓にいた民に対して神様からの契約が交わされ、彼らは契約の血を注ぎかけられました。このこととマタイ26章27節‐28節に書かれていることはどのような関連がありますか。
3)74名の者は山の中腹で神を見、共に食事をしました。共に食事をするということは聖書の中でどのような意味を持っていますか(創世記26章26節‐31節、31章38節‐55節)。
4)イエス様も食事を取られたということが聖書には度々、記されており、ルカ24章30節‐31節、ヨハネ21章12節‐14節では弟子達と食事を共にしました。この食事は何を意味していましたか。
5)使徒行伝2章42節-47節を読みましょう。ここには私達の教会がならうべき最初の教会の姿があります。なぜ教会に集うことは大切なのでしょうか。
6)「ただ、モーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」(出エジプト記24章1節)という言葉に従い、モーセは一人、神の前に出ました。なぜ一人で主の前に出ることは大切なのですか。
7)いつの日か、私達が再び、集うことができる日に備えて、私達が今、パンデミック下で、できる備えは何でしょうか。