涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。 詩篇126篇5節‐6節
マック
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あなたの涙の祈りは無駄にはならない。 2010年12月12日
エレミヤ31章1節-3節
先日、ある場所で欠伸をしました。そうしましたら、目の前にいた人も欠伸をしました。不思議です。なぜ、欠伸は感染するのでしょうか。欠伸をするということは、その瞬間、大きく息を吸い込むことになるので、その人の周辺の酸素が一気に少なくなり、周りにいる人が酸欠となるので、その人達も大きな一呼吸が必要となり欠伸をするのだと神妙に説明してくれた友人がいました。そんなありがたい話をしてくれた友人がいたことを感謝しています。
欠伸をしますと涙が出てきます。欠伸でなくとも悲しい時にも人は涙を流します。私達の体において自分の意志で制御できないことは、全て自律神経というものが司っているそうですが、その働きによってこの涙は流れるそうです。ですから、私達は涙をこらえることができないのです。
私達の体は悲しい出来事によって大きなストレスに見舞われます。そこで体はその危険を避けようと、ストレスを和らげリラックスを促す物質を涙にのせて流し出すといいます。ですから私達は泣いてすっきりすることがあるのです。涙は私達の体を守るために、体をいたわるために流れているのです。神様はなんと素晴らしい機能を私達の体に組み入れてくださっているのでしょうか。この仕組みは私達が涙をこらえる必要はないということを裏付けるものです。泣きたい時はおもいきり泣いたらいいのです。
時代は変われど人は皆、涙を流してきました。私達が今日、見ていきたいと願っておりますエレミヤという人も「涙の預言者」と呼ばれている人です。エレミヤはなぜ涙を流したのでしょうか。今日は彼の涙の人生から大切なことをみていきたいと願っています。まず最初にエレミヤに課せられた役割ということです。
エレミヤに課せられた役割
聖書の中には多くの預言者が出てきます。例えばエレミヤ以外にもイザヤ、ホセア、アモス、ヨナ、エリア、エリシャなど旧約聖書を代表する預言者たちは皆、同じ働きをしたのではなくて、その時代に必要な役割と使命を神様から与えられていたのです。
当時、エレミヤがその身を置いていた国は小さな国、南ユダ王国でした。かつてのその半身、北イスラエル王国は既にその時、アッスリアによって滅ぼされており、この南ユダ王国も隣国から狙われ、息絶え絶えというような状況にいました。
もし、一国を診断する医者というものがいたとしますならば、南ユダ王国の状態は既に重体。もはや回復の見込がない末期の状態ですという診断がなされたことでしょう。エレミヤ13章23節にはこの南ユダに対する神様の言葉として「エチオピア人はその皮膚を変えることができようか。ヒョウはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる」とあり17章1節には「ユダの罪は、鉄の筆、金剛石のとがりをもって記され、彼らの心の碑と、祭壇の角に彫りつけられている」というのですから、もはや救いようのない状態です。
神から選ばれた選民として歩んでいた彼らですが、恩を仇で返すかのように彼らは神にそむく民、そむく子となっていました。「おとめはその飾り物を忘れることができようか。花嫁はその帯を忘れることができようか。ところが、わたしの民の、わたしを忘れた日は数えがたい」(エレミヤ3章12節‐14節)。彼らの生活は乱れに乱れ「彼らは姦淫を行い、遊女の家に群れ集まった。彼らは肥え太った丈夫な雄馬のように、おのおの、いなないて隣の妻を慕う」という有様(5,7,8)。また「不義をもってその家を建て、不法をもってその高殿を造り、隣り人を雇って何をも与えず、その賃金を払わない」というような傍若無人な横暴も日常的なものとしてあったようです(22章13節)。
エレミヤはこのような時代に神の言葉を預言する者としてあらわれたのです。ちなみに聖書の「預言」という言葉は「予言」とは異なるものです。予言は自らが発する言葉ですが、預言とは神様から言葉を預かってそれを語るもので、聖書中の預言者は皆、神様からの言葉を預かり語った人達でした。
このような困難な時にエレミヤが神様から預かった言葉とは、南ユダ王国の人々に救いの知らせを伝えるというようなものではなく、敵国に降伏することが神の御旨であると伝えることであったのです。その伝える相手も先にお話しましたように、全く悪に染まった人達で、その罪が心の碑と祭壇に彫りつけられているというのですから、大変なことです。
まさしく逃げ出したくなるような使命です。はたしてこのような困難な任務のために選ばれたエレミヤとはどんな人なのでしょうか。皆さんが神様だったらどんな人選を行いますか。エリアのような炎の固まりのような人を選びますか。あるいは豪胆な、ちょっとやそっとじゃ挫けそうもないアモスのような人を選びますか。威風堂々たるイザヤのごとき人が必要でしょうか。
エレミヤの人となり
神様に選ばれたエレミヤはその年、まだ20歳ほどの若さ、くじけやく涙もろい人でした。彼はその任務を受けるにあたりこう言いました「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」(エレミヤ1章6節)。そして、その苦しさのあまり「わが母よ、あなたは、なぜ、わたしを産んだのか」と自分の生をのろってみたり(15章10節)、「主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました」などと神を恨んでみたり(20章7節)、「主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになる」ので「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語ることはしない」(20章8節、9節)、と失望するような人でした。
このような彼の弱気な姿を見ます時に、私達はこのような困難な使命を成し遂げるのためには、きわめて不適当な器ではなかろうかと思います。もし私達が人選を許されるならば、決して選ぶことのない人ではないかと思います。しかし、神様はしばしば、このような不適当に思われる人を思いがけないご用のためにお用いになることがあるのです。
なぜなら神様がお用いになるのは、人間生来の才能や特性ではなく、試練や苦難の中で造られる「神の人」だからです。「聖書と祈りと苦難とが神の人を造る」とルターは言いましたが私達の深さ、広さ、高さはその人の味わった苦しみの深さ、広さ、高さに比例するのです。神の栄えある僕で、この苦難の学校の生徒でなかった者は誰一人いないのです。
エレミヤが通ったこと
もう一度、エレミヤが神様から託されたメッセージを確認します。エレミヤはこのようなメッセージを同胞の南ユダの民に伝えたのです。「主はこう仰せられる。『この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。』そのいのちは彼の分捕り物として彼のものになり、彼は生きる。』 主はこう仰せられる。『この町は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」(エレミヤ38章2節-3節)
エレミヤは南ユダ王国がバビロンによって侵略されるということ、それゆえにバビロンの虜になって生き延びなさいというメッセ-ジを取次いだのです。無駄な抵抗や戦をやめ、敵の奴隷になった者が生き延びることができる。そうでなければ虐殺しか待っていない。こんな内容を語る預言者を一体誰が受け入れるでしょうか。
当然、このような言葉を聞きたい人はいません。彼は敵に降参せよと勧めているのですから。裏切り者、売国奴と思われたのも不思議ではありません。ですからエルサレムの高官たちはこう言いました「この人を殺してください。このような言葉をのべて、この町に残っている兵士の手と、すべての民の手を弱くしているからです。この人は民の安泰を求めないで、その災いを求めているのです」(エレミヤ38章4節)。
同胞の民たちについてエレミヤはこう嘆いています「全国の人はわたしと争い、わたしを攻める。わたしは人に貸したこともなく、人に借りたこともないのに。皆わたしをのろう」(エレミヤ15章10節)。
「わたしはほふられに行く、おとなしい小羊のようで、彼らがわたしを害しようと、はかりごとをめぐらしているのを知らなかった。彼らは言う、「さぁ、木とその実を共に滅ぼそう。生ける者の地から彼を絶って、その名を人に忘れさせよう」(エレミヤ11章19節)。
世間の人のみならず彼の郷里アナトテの人々もエレミヤに向かい言いました「主の名によって預言してはならない。それをするならば、あなたは我々の手にかかって死ぬであろう」(11章21節)。そればかりではありません「あなたの兄弟たち、あなたの父の家のものさえ、あなたを欺き、大声をあげて、あなたを追っている。彼らが親しげにあなたに語ることがあっても、彼らを信じてはならない」(12章6節)。その家族親類さえも彼を見捨てたのです。
このような状況に置かれていたエレミヤはまさしく孤独でした。高山の頂はいつも寂しいといいますが、彼は全くの孤独の中に生きていたのです。このような時に重荷を分かち合う伴侶や子供がいればどれだけ慰められたであろう。しかし、神様は彼に言われていました「あなたはこの所で妻をめとってはならない。また息子娘を持ってはならない」(エレミヤ16章2節)。
このような犠牲をはらって神様から託された言葉を民に語っているエレミヤですから、少しはその成果があればと思いますが、そのような結果はともないませんでした。「わたしは一日中、物笑いとなり、人は皆、わたしをあざけります。それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、「暴虐、滅亡」と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。・・・主のことは重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」(エレミヤ20章7節‐9節)。
エレミヤはこのような試練・困難、辱めを受けながらの預言活動を40年以上にわたってしましたが、それは民に受け入れられず、彼が書いた書物は焼かれ、彼自身も投獄されました(エレミヤ37章16節)。まさしく彼は苦難と涙の中でその預言者としての生涯を全うしました。
他者のために流す涙
そのような生涯を送った彼ですから、人は彼のことを涙の預言者と呼ぶのです。皆さんも今、お話したことを聞くにつれ、そうだ、当然、彼は涙の預言者と呼ばれてしかるべき人だと思ったに違いありません。それでは、この人の目から流された涙はどんな涙だったのでしょうか。もちろん、そこには自分自身に対する自己憐憫というものもあったでしょう、しかし、彼の涙は自分の現状を嘆き悲しむというところから、一つの方向だけに向かうようになります。エレミヤ8章18節から9章1節を読みます。
「わが嘆きはいやしがたく、わが心はうちに悩む。・・・「刈入れの時は過ぎ、夏もはや終った、しかし我々はまだ救われない」。わが民の娘の傷によって、わが心は痛む。わたしは嘆き、うろたえる。ギレアデに乳香(にゅうこう)があるではないか。その所に医者がいるではないか。それにどうしてわが民の娘は癒されることがないのか。ああ、わたしの頭が水となり、わたしの目が涙の泉となればよいのに。そうすれば、わたしは民の娘の殺された者のために昼も夜も嘆くことができる」
エレミヤが流した涙は「わが民の娘の傷によって、わが心は痛む。嘆き、うろたえる。なぜ彼らは癒されることがないのか」という同胞の民のために流した涙なのです。彼は頑なで何度話しても聞くことがない者達への憐れみの涙を流し続けたのです。
この時から700年後のイエス・キリストの時代。イエス様がピリポ・カイザリアの地方に行かれた時、弟子達に「人々は人の子を誰と言っているか」とお尋ねになったことがありました。そして、それに対して弟子達が「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、他の人達は、エリヤだといい、またエレミヤあるいは預言者のひとりだと言っている者もあります」と応えたということが記されています(マタイ16章13節、14節)。
なぜ、人々はイエスを見てエレミヤだと思ったのでしょうか。それはこの涙の預言者と同じものをイエス・キリストも持っていたからに違いありません。エレミヤの涙と同じ涙を流された方がイエス・キリストなのです。
主イエス・キリストは、ある時、ユダヤ人への思いを抑えきれずにこう言われました「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、私はおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう」(マタイ23章37節)どれだけ彼らのために神はその愛を注ぎ、彼らの過ちを許したであろうか。それはわが子を守るべくそのひなを翼の下に集めるめんどりのようだというのです。
またルカはこのような出来事も記録しています。「いよいよ都の近くにきて、それが見えた時、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら・・・しかし、それは今おまえの目に隠されている」(ルカ19章41節、2節)。。
このようにエレミヤの同胞の民達へと流された涙はイエスのエルサレムへの涙へと引き継がれていくのです。どちらにも共通していることは、二方とも自分のためにその生涯を歩んだのではなく、また自分のために泣いたのではなく、自分以外の人のためにその生涯を使い、自分以外の人達のために涙を流したのです。そして、このことは私達も共有することなのです。もし、皆さんの中で誰かのためにその人生を用い、その人のために涙を流して祈っている人がいるとしますならば、その方はエレミヤとイエス様と同じ所に立っていることを知ってください。そして、その涙が無駄になることはないということを知っていただきたいのです。
エレミヤの死後、エレミヤの預言は成就し南ユダはバビロンに捕らわれ、後のこの捕らわれたユダヤ人達はその70年後にペルシャ王クロスによって解放されました。まさしく、彼らはエレミヤの預言どおり、捕らわれることによって救われたのです。そして、それゆえにユダヤ民族の歴史は途切れてしまうのではなく続き、それゆえにその歴史の先にイエス・キリストが誕生し、その救いのみ業がなされていったのです。そうです、エレミヤの涙は無駄ではなかったのです。
イエス様の涙はどうでしょうか。イエス様が十字架にかかり、殺されることにより、その涙は無駄になってしまったのではないかと思われました。しかし、このイエス様の涙も無駄ではありませんでした。どこにその証拠がありますか?私達一人一人がその証拠です。イエス様の流された涙によって、私達は今、永遠の希望をいただき、ここに集ってきているのですから。
それでは皆さん、私達が他者のために流す涙はどうでしょうか。私達が誰かのために流す涙は無駄なのでしょうか。いいえ、それが無駄になることはありません。キリスト教の世界には「涙の子は滅びない」という有名な言葉があり、その一つの出来事としてこんな話があります。
紀元300年代、ロ-マ帝国にアウグスチヌスという人がいました。「告白」という有名な書を書いた人で、今日、信仰者でなくともその名前がよく知られる、古代キリスト教を代表する神学者です。そんな彼でしたが、若い日には自堕落な、目を覆いたくなるような日々を過ごしていました。彼は17歳から家を出て放蕩し、色欲におぼれ、色々な女性関係を重ね、ある女性と同棲し若くして子供をもうけました。その著書の中で彼は当時のことを振り返り「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と記しています。さらに母モニカの素朴なキリスト教信仰に反発し、マニ教と呼ばれていた異端宗教へと進んでしまいます。その息子の荒廃した生き方に心を痛め、日々涙を流し彼のために祈っていたモニカに対して司教のアンブロシウスは「あなたは本当に真実に生きています。このような涙の子は滅び得ないのです」と彼女を励ましました。この一言を母モニカは心の支えとしたのです。
アウグスチヌスはやがてこのアンブロシウスに出会い深い感化を受け、今までの放蕩三昧な生活を悔い改めるようになります。そんなある日、ミラノの自宅で隣家の子供達が遊んでいる声を聞きます。その子供達の声の中に「取って読め」という言葉を聞き、近くにあった聖書を開きますとローマ13章が開かれました。
「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特にこの事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは闇のわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ13章11節-13節)。
彼はこの御言葉によってついにイエス・キリストを信じて救われました。後に彼は自分の身に起きた事柄に対して母モニカが成してくれていたことを思いこう告白しました「母にできる唯一のことは私のために祈ることでした」。その言葉は彼の母は祈ることしかできなかった無力の人であったというのではなく、いつも母は彼のために涙と共に祈ってくれていた、祈り続けていてくれたということに対して深く感謝しているのです。
母モニカがわが子のために涙を流しながら祈った祈りは彼女が56歳で天に変える一年前に応えられたのです。わが子がアンブロシウスによって洗礼を受けた時、母モニカは、息子にこう言ったといいます「私がこの世に少しでも永らえたいと思った望みは一つだけでした。それは、死ぬ前にクリスチャンになったあなたを見ることでした」。このような母に対してアウグスティヌスは「自分を二度産んでくれた人」と評し感謝の意を表明したのです。
今日は預言者エレミヤの生涯を見てきました。彼は自分のためではなく、ユダの民のために負いきれないほどの試練を受けました。そして、そのために多くの涙を流しました。まさしく涙が枯れてしまうほどに彼は泣いたのです。そして、そのようなことは私達にもあります。自分のためではなく、あの人、この人のために様々な痛みを負う人生、そして祈り。あなたにはこのような人がいますか。その人のことを思って祈っていると涙が流れてきてしまうという人がいますか。それはモニカのように息子のことかもしれない。娘のことかもしれない。夫、妻のことかもしれない、父母のことかもしれない。教会の兄弟姉妹のことかもしれない、もし私達にそのような人がいるのなら、私達も彼、彼女のために祈り続けましょう。エレミヤが、イエス様が、モニカがそうであったように、涙の祈りが私達の幕と綱を広げることを信じて、私達は今日も明日も祈り続けようではありませんか。お祈りしましょう。
本日のお持ちかえり 2010年12月12日
1)エレミヤは今から約2700年ほど前に生きた預言者です。彼は危急存亡の只中にいた南ユダ王国に向かって、敵国に降伏するようにという神様から預かった言葉を、以下に記録されているようなイスラエルの民達に語らなければなりませんでした(エレミヤ3章12節‐14節、5章7節‐8節、13章23節、17章1節、22章13節)もし、あなたがエレミヤならこの使命をどのように受け止めますか。
2)エレミヤの人となりについて聖書はこのように記録しています(エレミヤ1章6節、15章10節、20章7節-9節)。なぜ、神様は上記 1)で見たような大変な状況の中、エレミヤのような人を選んだと思いますか。
3)エレミヤが受けねばならなかった試練をみてみましょう(エレミヤ11章19節、21節、12章6節、15章10節、16章2節、20章7節‐9節、38章2節-4節)もし、あなたがエレミヤだったら、どんな気持ちでその預言者としての使命を続けるでしょうか。
4)エレミヤ8章18節から9章1節を読みましょう。ここでエレミヤは誰のことを思い、心を痛んでいますか。同じようにマタイ23章37節、ルカ19章41節、2節においてイエス・キリストは誰のために痛み、涙を流していますか。
5)あなたは今、誰かのために祈っていますか?エレミヤやイエス様のように涙をもって、祈り続けましょう。