身の回りに起きるあのこと、このこと、その出来事を通して神はあなたに語りかけているということをご存知ですか。
本日礼拝でお話した「日英礼拝メッセージ原稿」、および「本日のおもちかえり」です↓。
本日の礼拝プログラムはこちらから。
マック
ヨナ書:体験を通して語られる神
2012年11月11日
「ピノッキオの冒険」という児童文学をご存知かと思います。ゼペットというおじいさんが愛情をこめて、丸太の木からピノッキオという人形を作りました。ピノッキオは朗らかな性格なのですが、いつも誘惑に惑わされて、おじいさんのアドバイスを聞くことがありません。何度か自分の生き方を悔いて、心をあらためようとするのですが、なかなかうまくいきません。そんな中、彼は巨大な魚に飲み込まれてしまい、最終的に心を入れ替えて人間になるという話です。どこかで聞いた話です。そうです、この物語は今日、皆さんとみていきますヨナの物語をモチーフにしているようです。
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ピノッキオの冒険がよく知られているように、ヨナの物語もよく知られています。ヨナ物語を読む多くの人達はヨナは架空の人間で、彼が繰り広げた出来事もピノッキオと同じようにおとぎ話なのだと思います。しかし、ヨナは聖書中に実際に記録されている実在した人物でありまして、列王記下14章23節から25節にはこう記されています 『23ユダの王ヨアシの子アマジヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシの子ヤラべアムがサマリヤで王となって四十一年の間、世を治めた。24彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムの罪を離れなかった。25彼はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領域を回復した。イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである』 この列王記の記録によりますと、そこには彼が生きた時代の王の名前とその政権の長さ、ヨナの出身地、その父の名前までもが明確に示されています。この記述はヨナが確かに実在した人物だということを示しています。 それではまず、このヨナ書に記されている要約をお話しましょう。ヨナは神様から自国イスラエルの敵であるアッシリアの首都ニネベに行って「ニネベの人達の罪のために、この町は滅ぼされる」ということを伝えるようにと言われます。あえて言うまでもなくこのアッシリアも歴史上、実在した国でニネベがその首都であったということも史実です。 しかしながらヨナは敵国アッシリアに行くのを嫌がり、船に乗って反対の方向にあるタルシシ、これは今日のスペインの方角だと言われていますが、そちらに向かって逃げ出します。しかし『時に主は大風を海の上に起されたので』(ヨナ1章4節)、船は沈みかけ、船員達の命が危険にさらされます。このことに対して、彼らはこの嵐はいったい誰のせいかと皆がクジを引きます。そうしましたところ、ヨナにこのクジがあたり、彼は暴風吹き荒れる海に投げいれられます。その海原に投げられたヨナに対して『主は大いなる魚を備えて、ヨナを飲ませられた』(ヨナ1章17節)と聖書は記しています。ヨナは結局、三日三晩、その魚の腹の中にいましたが神様が魚に命じられ、魚はヨナを海岸に生きたままはきだしました。 人間は誰でも「死ぬ」という宿命を負っています。この死はいつの日にか誰にでもやってきます。もちろん私自身もいつかその日を迎えます。その最後について私は知る術もありませんが、個人的にこんな死に方だけはしたくないということの一つに、動物に食べられながら死んでいくのだけは出来たら避けたいなと思います。ライオンや虎にガリガリかじられながら「こいつ今、俺の足を食べているよ。次はどこなんだ」なんてことを見ながら命を引き取ることだけは勘弁してほしいと思います。ヨナも魚に食べられたのです。さいわいなことにヨナは「かじられた」のではなく「飲まれた」のです。骨までしゃぶられたら肉体自体、跡形もなくなってしまいますが、「飲まれる」こと自体には体の損傷はなく、彼は再び陸に吐き出されたのです。 この魚にのまれるということはピッノキオ物語にもありまして、ヨナが大魚にのまれてその腹の中に三日三晩いたということになりますと私達は「ほれみろ、やっぱりヨナ書はおとぎ話だ」と思うのです。そう考えることを私も非難しません。常識で考えましたら、そう考えるのが当たり前だからです。よく日本のニュースではその時の出来事や政治の動向について街角の人へのインタビューを放映していますが、もし、「ヨナが魚の中に三日三晩いたということをどう思いますか」というようなインタビューを街角ですれば、大抵の人は「楽しい作り話ですね」とか「子供が喜びそうですね」「そんなことはありえません」と答えることでしょう。しかし、もし、その街頭にイエス・キリストがいてマイクを向けられたらどう答えるでしょうか。実はイエス様もこのヨナが魚に飲まれたということについて既にコメントを言っているのです。マタイ12章39節-41節にはこう書かれています。 39すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。40すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。41ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる(マタイ12章39節-41節)。 ここでイエス・キリストはヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたということを否定していません。いいえ、否定をしているのではなくて、そのことが実際にあったということで、ご自身が同じように三日三晩、墓の中にいることになるだろうということを話しています。私達がヨナの物語を信じる根拠は魚の腹の中に「酸素はどれくらいあったのか」とか「それはサメだったのか鯨だったのか」ということに解答が得られるから、得られないからではなくイエス様が実際に起きたご自身の復活と並べて、このヨナのことを現実に起きたこととして受け止めていらっしゃるからです。ヨナ書は魚の中で「わたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲を捧げ、わたしの誓いをはたす。救いは主にある」(ヨナ2章9節)と悔い改めとあらたなる決意を祈っているヨナの言葉を記しています。ゆえに魚から吐き出されたヨナはかつて逃げて行かなかったアッシリアの首都ニネベに行き「40日を経たらニネベは滅びる」と神様の言葉を告げました。そうしましたら、彼らは王から僕にいたるまで、皆、断食をして悔い改めたというのです。このことにより神様はニネベを滅ぼさずに彼らを救ったのです。しかし、ヨナはこの神様の寛大な対応を非常に不快に感じ、激しく怒り、神様に向かって言います 『主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。3それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです』(ヨナ4章2節、3節)。 そして、彼は事の成り行きを見届けようと自らのために小屋を建てます。そのヨナに対して『時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた』(ヨナ4章6節)とヨナ書は記しています。ヨナはこの木を非常に喜びますが『7神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。8やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照した』(ヨナ4章7節、8節)ので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願ってこう言いました『生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ』(ヨナ4章8節)、『わたしは怒りのあまり狂い死にそうです』(ヨナ4章9節)。 このヨナに対して神様は言います「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」ヨナは答えます「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」そして、このヨナ書はこのような神様の言葉で閉じられるのです『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。11ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか』(ヨナ4章10節-11節)。私達は礼拝メッセージの中で繰り返し繰り返し、イスラエルと共におられる神様を見てきました。先週、エドムというイスラエルの兄弟のような民族についてお話しましたが、やはりその中心にはイスラエルがおり、それは旧約聖書全体に言えることで、旧約聖書は主にイスラエルを通してなされる神の救済史が記されています。そう考えますとイスラエル人、すなわちユダヤ人でない私達のような異邦人はそれを不公平だと思ったり不服に感じるのです。しかし、このようにイスラエルを中心として世界と他民族を見ているような旧約聖書の中でこのヨナ書は将来につながる驚くべきメッセージを語っているのです。それはイスラエルの選民思想、特権意識に新しい光をあてていることであり、この神様の最後の言葉は他民族に神のあわれみと愛が届くということは、ユダヤ人にとってはショッキングなことであり、また考えられないことだったのです。この点においてヨナ書は旧約聖書の中で異色かつ、これから続いていく新約の時代を照らす希望の光となっているのです。このヨナ書については色々なテーマを取り上げてお話できるかと思います。しかし、今日はそれを一つにしぼってお話しましょう。それはメッセージタイトルにありますように「体験を通して語られる神」ということです。私達はこれまで預言者達がイスラエルに向けて語ってきた預言をみてまいりました。今日、お話しますヨナ書もその預言書の一つとされています。これまで何度も預言とはその字のごとく“神様の言葉を預かった預言者達”がその言葉に足すことも減らすこともせず、民達にそのまま伝えてきた言葉なのだということをお話してきました。ゆえに彼らはよく「主はこう言われる」と言って、その言葉を語りました。同じようにヨナも預言者として確かに神様から言葉を預かるのです。ヨナ書の冒頭はこのように始まります。1主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、2「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。3しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った(ヨナ1章1節‐3節)。 しかし、このヨナ書が他の預言書と異なるのは、先にお話したとおり、その中心メッセージが「神様から預かった言葉」であるよりも、それを受けた「ヨナがどのように生きたか」ということ、それらのことに対して彼の身に神様は何をなされたかということ、その彼の実生活に実際に起きたヨブの体験そのものが神様からのメッセージとなっているのです。ヨナは自他共に認める預言者なのです。ですから神様の御声を聞けば、それをそのまま示された時に、示された場所で語ることが彼がすべきことです。しかし、彼はそれが嫌で示された場所に向かわず全く別の方向へと向かうべく舟にのったのです。明らかにそれは神様がヨナに対して願っていることとは違いました。それは、神様が人を創られた時に人間に与えた一つのことゆえにおきました。そうです、それは私達全ての人間に与えられている自由な意志です。神様はその御心に人が従うか従わないかということの最終的な決断を人間の側に与えておられるのです。ヨナはその自由意志を行使して預言者でありながら、その神の言葉に従わなかったのです。ヨナはまず神様の言葉が示すニネベとは別の方向に向かったのです。そこで『時に主は大風を海の上に起されたので』(ヨナ1章4節)、海に投げ込まれた彼に対して『主は大いなる魚を備えて、ヨナを飲ませられた』(ヨナ1章17節)のです。その魚の腹の中という全く想定外の場所でヨナはそれまでの歩みを悔い改めたのです。ヨナは陸に吐き出されてから当初、言われていたようにニネベで神の言葉を語りました。やっと彼本来の使命をそこで果たしたのです。しかし、ニネベの人達の回心を見て、彼はそれを不快に思いニネベの動向を見極めようと小屋を建てます。 『時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた』(ヨナ4章6節)のです。ヨナはそれを喜びます。しかし、神様は夜明けに虫を備えて、そのとうごまを枯らし、神様は暑い東風をもって再びヨナを猛暑の只中に置きます。『7神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。8やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照した』(ヨナ4章7節、8節)。このとうごまが枯れたのを見てヨナは激怒し、命をも取ってくれと開き直ります。まさしく醜態です。しかし、その時に私達はこれまでの長い旧約の時代から新約の時代への架け橋となるような主の言葉が導きだされたのです。 その言葉に従わない預言者に対して神はどうされたか。神様は彼に言葉を語るのではなく、彼の環境を用いて彼に語りかけました。このことで私達が理解しておかなければならないことは、私達の身の回りに起きます出来事全ては神様が故意にしているということではありません。空に向けて投げたボールは必ず落ちてくるように、この世界の法則ゆえにその多くの自然現象は起きることですし、からだに悪いものを摂取し続ければ、体の健康は当然の結果として損なわれるものです。私達の身のまわりにある多くのものはこのような「原因」と「結果」によるものがということを私達は知らなければなりません。しかし、同時に私達は神様がヨナに対してなされたように神様が私達に大切なことに気がつかせるためにある出来事を起こしたり、また何かしらの原因と結果によって起こる出来事をも用いて私達に語りかけていることをしっかりと心に知るべきでありましょう。神の言葉に背を向けたヨナは「ヨッパに下り」(1章3節)、「船の奥に下り」(1章5節)、そのことにより「海に下り」(1章15節)、「魚の中に下って」(1章15節)いきました。神の言葉に背を向けた彼の向かった先を聖書がことごとく「くだった」と示していることは興味深いことです。そして、下って、下って、下って、彼が行き着いた場所というのが真っ暗な魚の腹の中だったのです。あのイエス様が語られた放蕩息子の譬話も同じことを言っています(ルカ15章11節-32節)。「11また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した」(ルカ15章11節-13節)。この譬え話は淡々と語られています。しかし、この弟が父がまだ生きている間にその遺産相続を願い求めたということに対して、父とこの息子は多くのことを語りあったことでしょう。そして、父からこの息子に語られた言葉は「息子よ、待っていなさい。それはやがてあなたのものとなるのだから」というようなものであったということを私達は想像します。しかし、結果としてこの息子はそのことに聞き従わず、ある程度の財産をもって家を出て行くのですが、放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たしてしまうのです。さぁ、何も手元にない。この息子はどうなったのか。14何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。15そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。16彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。17そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』(ルカ15章14節-19節)。財産を失った彼にはひどい飢饉が襲いました。食べることも窮した彼は豚を飼う者となりました。彼の生活は豚と共にありました。豚に餌を与え、豚の汚物を掃除し、もしかしたらその豚と共に彼は寝泊りしていたのかもしれません。ある時、豚がブーブー言いながらうまそうにイナゴ豆を食べているのを見ました。彼に食べ物をくれる人は誰もおらず、彼はその豚を見ながら、その豚が食べているイナゴ豆に手を出して、自分の空腹を満たしたいと思いました。もしかしたら、実際にイナゴ豆に手を出し、それを口に近づけたかもしれません・・・。と、その時です、彼は本心に立ち返ったのです。そして、言ったのです『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』(ルカ15章14節-19節)。彼は父の言葉に背を向け、父の言葉が届かない場へと自らを導きました。それは彼の決断であり、ヨナのごとくその歩みは堕ちて、堕ちて、堕ちていくような様です。しかし、その故郷から遠く離れた場所で彼が経験したこと、すなわち彼が見たこと、聞いたこと、手にとったこと、嗅いだ匂い、その経験が彼に父のもとへ帰ろうという思いへと導いたのです。イエス様はかつて、世の終りの前兆について問われた時に「自分の名前を名乗って出てくる偽キリストがあらわれるだろう。戦争と戦争のうわさを聞くだろう。国は国に敵対して立ち上がり、あちこちに地震や飢饉が起こるだろう」等、その時に起こることを具体的なに話されてからこう言われました。28いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。29そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。30よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。31天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない(マルコ13章28節-31節)イエス様はここで「これらの出来事を見過ごすことがないように。これらの出来事が起きたら何が近いのかを考える者となりなさい」と言っているのです。あなたの世界で起きてくるこれらの事象が何を意味しているのかを考えなさいというのです。私達は聖書信仰にたちます。聖書信仰とは聖書のみ言葉を私達の生きる指針とするということです。まさしくその神の言葉は「天地が滅びても、滅びることのない言葉です」この御言葉に対する私達の信仰は不動のものです。私達はその御言葉によって日々の生活の生き方を示され、教えられていくのです。しかし、同時に私達は私達の身の回りで起きる出来事と体験から神様のメッセージを聞くのです。ヨナはエルサレムの神殿で神の御声を聞いたのではなく、大魚の胃袋の中で祈り、悔い改めたのです。喜んでいたトウゴマの木が枯れた時に、彼は怒り、命までとってくれと言いました。しかし、憤りと共にその自らの生死について語っているその状況の只中でそれまでのイスラエルに対する神様の御心に新しい光が照らされる、そんな特筆すべき言葉が語られたのです。放蕩息子は悪臭漂う豚小屋で自らもそんな悪臭を放つ者となり、気がついたのです『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている』と。神様は私達の体験する出来事の中にメッセージを込めておられるのです。神様は待たれます。その状況、その環境の中で本人が気がつくまで神様は待ちます。愛とは強制ではなく自発的なものだからです。イエスの愛弟子ペテロはこう書き記しました。 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12愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、
13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである(ペテロ第一の手紙4章12節-13節)。
ペテロは「わたしたちの上に降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむな」といいました。なぜなら、その中にも神様のメッセージが込められているからです。
私はよく聖書の言葉を自ら開くことがないだろうと思われる方達のことを思い、こう祈るのです「どうぞ○○さんが今日、見ること、聞くこと、その生活の中に起きる出来事の中であなたが彼に、彼女に語りかけてください」。主はみ言葉を通して語られると同時に、その日の出来事を通して私達に主の御心を示してくださるお方だからです。
どうか皆さん、皆さんが日々、生活する出来事を何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことがありませんように。主は私達の目の前に起きていることを通して、その御心を教えてくださるお方です。私達がその主からのメッセージを聞き取ることができ、それを聞いたのならヨナのように、放蕩息子のように、そのところから踵を返して主に立ち返ることができますように。お祈りしましょう。
Book of Jonah: God speaks
to us
through our experience
November 11, 2012
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“Adventures of Pinocchio” is a well-known children’s story. Geppetto, The story line sounds familiar. I believe this story takes hint In summary, the story of Jonah goes like this: Jonah was told my But, Jonah was afraid to go to enemy country of Assyria, and Every human is predestined to die. This death will come to In the Adventure of Pinocchio, Pinocchio was also swallowed up Here, Jesus Christ did not deny that Jonah was in the belly of a
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12Dear friends, do not be surprised at the painful
trial you are suffering, as though something strange were happening to you. 13But rejoice that you participate in the sufferings
of Christ, so that you may be overjoyed when his glory is revealed. (I Peter
4:12-13)
Peter
told us not to be alarmed when fire of suffering falls upon us, as though
something strange has happened. Why? Because there is a message from God in
such an experience.
We
think about people who would not open Bible and pray: “Please God talk to that
person through the things the person sees, hears, and experience today.” God speaks
to us not only through words, but also through things happening daily to reveal
his love to us.
Please
do not be alarmed about what you encounter as if it is strange and unexpected. God
reveals his love to us through things we experience and see with our own naked
eyes. We hope that we can listen to such message. And, when we do, let’s hope
that we can go back to God just like Jonah did and the prodigal son did.
Let
us pray.
Translated by Dr. Yasuhisa
Hosomatsu
本日のおもちかえり
2012年11月11日
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1)列王記下14章23節-25節を読みましょう。この記録からヨナが実在した人物であることがなぜ分かりますか。
2)ヨナ書にはヨナが魚に飲まれ、三日三晩、その魚の腹の中におり、最後に魚は彼を吐き出したと書かれています。このようなことを聞くとあなたはヨナ書をおとぎ話のように受け止めませんか。イエス様のヨナに対するマタイ12章39節-41節から私達はヨナが魚に飲まれたという話をどう受け止めますか。
3)ヨナ書4章10節ー11節から神様の異邦人に対するどんな思いを私達は知ることができますか。
4)預言者とはその呼び名が示すように文字通り神様の言葉を預かり、それを語る者達のことをいいます。しかしながらヨナは神の言葉を預かりながらも、それを語ることを拒みます。私達は聖書の御言葉を個人的にどのように受け止め、どのようにそれに生きているでしょうか。
5)神様の言葉に従わなかったヨナは「ヨッパに下り」(1章3節)、「船の奥に下り」(1章5節)、そのことにより「海に下り」(1章15節)、「魚の中に下って」(1章15節)いきました。この「くだり」ということは何を暗示しているのでしょうか。
6)以下、ヨナの身に起きたことの主権は神様にありました『時に主は大風を海の上に起されたので』(ヨナ1章4節)、『主は大いなる魚を備えて、ヨナを飲ませられた』(ヨナ1章17節)『時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた』(ヨナ4章6節)『7神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。8やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照した』(ヨナ4章7節、8節)。これらのことは何を意味していますか。あなたは身の回りに起きる出来事から神様のメッセージを受け止めたことがありますか。 |