かつて3歳になる娘が、眠る前に末っ子に添い寝して、寝かしている妻に、内緒話をするような小さな声で、こう言いました「ママ、憩(弟)が眠ったら私のベッドに来て、一緒に寝てくれない」。
大抵の場合、そう言いながら家内を待っている間に娘は眠ってしまい、家内も自分のベッドで気兼ねなく眠るのです。そして、そのまま朝を迎えることができたらいいのですが、夜中に娘が起きるとさぁ、大変!彼女は傍らに母親がいないと分かると、それが夜中であっても明け方であっても、シクシク泣きながら私達の部屋にやってくるのです。そして、私達のベッドにもぐりこんできます。
多くの子供にとって夜の暗闇は怖いものであり、寂しいものであります。子供が自分のベッドを抜け出て、親のベッドにもぐりこんでも夜は変わらず暗いのです、静まり返っているのです、しかし、そんな時でも彼らは知っています。自分は一人じゃない、ママがいるから、パパが一緒にいるから、もう平気。こうして子供は安らかに眠ります。
今から約3500年前にも「あなたが共にいてくれなければだめなのです」と言った人がいました。この場合、その人は子供ではなく、その年、80を超えた成人、モーセです。彼は臆病者ではなく、何百万ものイスラエルの民を導くリーダーです。その年齢と経験を考えても、熟練した指導者です。しかし、その彼が言うのです「あなたが一緒に行ってくれなければ、私達をここから行かせないでください」・・・。
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主よ、私と共に年を越してください
2020年12月27日
クリスマスも終わり、今年最後の日曜日となりました。その最後のメッセージは、私達が毎週、見てきました出エジプト記から取り次がせていただきたいと願っております。出エジプト記33章1節‐4節を拝読させていただきます。
1 さて、主はモーセに言われた、「あなたと、あなたがエジプトの国から導きのぼった民とは、ここを立ってわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にのぼりなさい。2 わたしはひとりの使をつかわしてあなたに先立たせ、カナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとを追い払うであろう。3 あなたがたは乳と蜜の流れる地にのぼりなさい。しかし、あなたがたは、かたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたのうちにあって一緒にはのぼらないであろう」。4 民はこの悪い知らせを聞いて憂い、ひとりもその飾りを身に着ける者はなかった。(出エジプト記33章1節ー4節)
飛んで12節‐17節、
12 モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。13 それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。14 主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。15 モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。16 わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。17 主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」(出エジプト記33章12節ー17節)。
かつて3歳になる娘が、眠る前に末っ子に添い寝して、寝かしている妻に、内緒話をするような小さな声で、こう言いました「ママ、憩(弟)が眠ったら私のベッドに来て、一緒に寝てくれない」。
大抵の場合、そう言いながら家内を待っている間に娘は眠ってしまい、家内も自分のベッドで気兼ねなく眠るのです。そして、そのまま朝を迎えることができたらいいのですが、夜中に娘が起きるとさぁ、大変!彼女は傍らに母親がいないと分かると、それが夜中であっても明け方であっても、シクシク泣きながら私達の部屋にやってくるのです。
そして、私達のベッドにもぐりこんできます。そうなると私のスペースは狭くなり、私は自分の枕をもって、空になった娘のベッドに行き、そこで眠ります。夜中に一体、自分は何をしているのだろうかと思いました。
多くの子供にとって夜の暗闇は怖いものであり、寂しいものであります。子供が自分のベッドを抜け出て、親のベッドにもぐりこんでも夜は変わらず暗いのです、静まり返っているのです、しかし、そんな時でも彼らは知っています。自分は一人じゃない、ママがいるから、パパが一緒にいるから、もう平気。こうして子供は安らかに眠ります。
今から約3500年前にも「あなたが共にいてくれなければだめなのです」と言った人がいました。この場合、その人は子供ではなく、その年、80を超えた成人、モーセです。彼は臆病者ではなく、何百万ものイスラエルの民を導くリーダーです。その年齢と経験を考えても、熟練した指導者です。しかし、その彼が言うのです「あなたが一緒に行ってくれなければ、私達をここから行かせないでください」。
一体、何がモーセに起きていたのでしょうか。私達は数週間前、出エジプト記32章より、モーセがシナイ山に登っている間に、イスラエルの民たちが山の麓で自分達のために金の子牛を作り、それを拝んでいたということをみました。それに対して神様は激しく憤られ、モーセ自身も義憤にかられ、せっかく神様から与えられた石の板を打ち砕いてしまったということをみました。
そして、今日の33章において神様がイスラエルの民に約束していてくれる地にのぼりなさいという命令をモーセは受けるのです。しかし、その時に神様から「あなたがたは、かたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたの内にあって一緒にはのぼらないであろう」(出エジプト記33章3節)と言われてしまうのです。すなわち、あなたたちは行きなさい。しかし、あなたたちのかたくなさゆえに、私はあなたと共には行かないというのです。
イスラエルの民たちも、この悪い知らせを聞いて悲しんだということが書かれています。そうです、「神が彼らと共に行かない」ということは、彼らにとって「悲しむべき悪い知らせ」だったのです。
このことを聞いたモーセは神様に言います(12-13)「『それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」(出エジプト記33章13節)。
モーセのこれらの言葉の背後には、あぁ、神様よ、そのお心を変えて、あなたの道を私達に示して、私達と共に行ってくださいという切実な思いがあります。すなわち「あなたが私達にあなたの道を示してくださらないのなら、私達は先に進むことすらできないのです」ということです。
ここでいう「あなたの道」とは彼とイスラエルの民がこれから進むべき道です。彼らが明日もその先も歩き続けていく道のことを言います。
モーセ達がその時にいた場所には道などありません。そこは荒野なのです。道路標識などなく、周囲360度、どちらにも開かれている荒野なのです。その状況で、明日、どの方向に向かって歩き出せばいいのか、それが分からないというのは彼にとって、とてつもない恐怖と不安であったと思います。
そして、同時のこの道は、彼らがその足をもって歩むべき道のみならず、自分がどのように生きればいいのか、何を拠り所にしていけばいいのかということをも意味していたことでしょう。
例年なら既に、2021年の予定をたてている人がいるのではないかと思います。この時期、春の旅行の予定を立て、諸々の予約を入れていた方がいるでしょう。例年なら、この時点で来年の修養会について決められていることがいくつもあります。
しかし、今年は違います。私達にとりまして、2020年が予想をはるかに超えた一年であったと同時に、この問題は改善されることがないばかりか、その状況は日毎に深刻さを増しているのです。そして、この状況を抱えたまま私達は2021年を迎えようとしているのです。
そのような意味で、私達には進むべき道が見えず、その旅路をどのように生きるのか、何を拠り所にするべきなのかと神に問うたモーセの心を共有するのです。
モーセが向かう先は何が待ち構えているのか分からない世界です。彼らに襲いかかる自然災害、思わぬ試み、敵、日々の糧の確保・・・。自分に委ねられた民をどうしたら危険から守り、養い、旅を続けることができるのだろうか。モーセは自分の限界をよく知っていましたので、神にしがみついたのです。「あなたが私の前に恵を示し、その道を示してください」と。
私達が今、置かれている状況が新年を迎えると同時に、全てリセットされることはないでしょう。この状況私達はそのまま持ち越します。それは、まだ誰も通り抜けたことのない薄暗い森の中に分け入っていくようなものです。しばらく光を見出せないようなところを私達は通るかもしれません。
しかし、もし私達にこんな確信があるのならどうでしょうか。すなわち、私の歩んでいる道に間違いはない。私が寄り頼んでいるお方に間違いはない。そのことが明確であるのなら、私達はこの状況を、このしばしの試みを通り抜けることができるに違いありません。
イエス・キリストは言われました「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。モーセが「神の道」を求めたように、私たちにも歩むべき道があると聖書は語っています。
そして、その道こそがイエス・キリストなのだというのです。イエスの道とは真理であり、そこには私達を活かす真の命があります。この道を歩み、真理を知り、命に活きる、そのことが私たちの希望なのだと聖書は私たちに今も語りかけているのです。「どんな環境に身を置いているのか」ということよりも「その時に私達はどの道を歩んでいるのか」ということが大切なのです。
もう一つのことを見てまいりましょう。モーセは言いました。『それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」(出エジプト記33章13節)。
ここでモーセは二度、「あなたの前に恵みを得させてください」と神に懇願します。モーセは道を求めました。拠り所を求めました。そして、さらに「神の恵み」を求めたのです。
かつて、こんな実験がなされたということを聞いたことがあります。実験用のネズミを二匹用意します。それぞれ別の飼育器の中でこの二匹のねずみは育てられました。環境は全く同じです。すなわち、餌も巣も全く同じです。
唯一違うのは、一方のネズミはただ餌を与えるだけで、その他のケアーは何もされないということ。しかし、もう一方のネズミには餌が与えられると同時に、飼育者がそのネズミをなでたり、話しかけたりしてケアーされるというのです。
数ヶ月の後に、この二匹のネズミを検査してみると、明らかに愛情を注がれたネズミの方の毛並みはよく、また実際にそちらの方が長生きしたというのです。
以前、読んだ本では同じ実験がサボテンにもなされ、同じような結果となったといいます。ネズミもサボテンも言葉が話せませんが、大切にされているということに彼らは反応し、それが彼らの生育に影響を与えたのです。ネズミとサボテンがそうなら私達はどうでしょうか。
モーセはこれからあなたの示される道を歩むにあたり、その恵みを私達にお与えくださいと言ったのです。私達に目をかけ、私達を日毎にケアーしてくださいとモーセは言ったのです。
それではモーセは具体的に、この神の恵みをどのように確認しようとしたのでしょうか。彼は神に願いました。「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください」(出エジプト記33章15節)。
モーセは神様に言います。私とイスラエルの民を離れてしまわないでください。あなたがご自身が、私達と共にあなたの道を行ってくださるということによって、その恵みを、その愛を私達に日毎に示してくださいと。
どの世界でも言われます。指導者は孤独である。そうです、まさしくモーセの置かれていた状況は孤独な世界です。彼は数百万のイスラエルの民の先頭に立っています。その背に負っているものの重さは、とてつもないもので、心が押しつぶされてしまうような思いで眠れぬ夜を過ごしたことも少なからずあったことでしょう。
しかし、その時に自分と共に神がおられるのなら、私はこの使命を全うできるし、民も生きながられることができるとモーセは思ったに違いありません。そして、さらに、このモーセの叫びは、リーダーと呼ばれる者達に限ったことではなくて、私達の切なる思いなのです。
そして、このモーセが願ったことが、具体的に私達の前に明らかになったのがイエス・キリストなのです。
イエス・キリストの誕生を前に、許嫁のマリヤが身ごもっていると知り、夫ヨセフは複雑な、不安な思いを抱いていたことでしょう。そのヨセフに御使いが現れ、こう言いました。マタイ1章23節、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは「神われらと共にいます」という意味である」(マタイ1章23節)。
ぬぐい切れない不安な思いの中にいるヨセフに夢の中で御使いが語りかけました「マリヤが生む子はインマヌエルと呼ばれるであろう。そう、神があなたと共にいるのだ」ということなのだ。そして、この23節の後、24節はこう記しています「ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた」(マタイ1章24節)。
前途多難という言葉は、このヨセフの状況にこそふさわしい言葉です。我が子ではない子がマリヤの胎にあるという。なんという結婚生活の始まり。しかし、ヨセフはそのマリヤを受け止めると覚悟した。
なぜ?なぜなら、その子の名はインマヌエルと呼ばれるから。自分達がこれから向き合わなければならいことが波乱万丈なものとなったとしても、神が自分と共にいるということを彼は信じたからです。
その子を育てると覚悟したヨセフにより、育まれたイエス・キリストは成長し、神の国を伝え、そして十字架にかかりました。イエスが生まれた時には、ヨセフもマリヤも知るすべもないことです。
キリストの弟子、ヨハネはそのイエスの生涯をこう言い表しました。ヨハネ第一の手紙4章10節、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネ第一の手紙4章10節)
神のみ子、イエス・キリストを神は私達の罪のあがないの供え物として、捧げてくださった。そして、ヨハネは「ここに愛がある」と言いました。イエス・キリストは私達を愛してくださるという、どうして、それが分かるのか、このお方が私達のために、一番大切なものを手離してくださったから。
私達が自分の心に手を置いて、まず感じ入ることは、私達はキリストに愛されるようなことを何もしていないということ。かえってキリストの思いに反することを言い、彼を悲しめ、生きているということ。
私達の暮らす世界では「愛するに値しない者を愛する必要はない」と言う者に文句を言う人はいないと言います。私達は思うからです「当然だよね」と。
しかし、そこが人間の愛と神の愛が決定的に違うこと。人間の愛は極めて限定的なもの。そして変わりやすいもの。条件つきのもの。しかし、キリストの愛は、私たちの過去がいかなるものであれ、今の私達の状態がキリストに敵していても、私たちを愛し貫いて下さるものなのです。
モーセは一人の人間として神よ、私と離れず、私と共に歩んでくださいと懇願しました。私に道を示し、あなたの前に恵み得させてくださいと言いました。なぜなら、もし神が彼と共にいてくださらないのなら、歩むべき道が分からず、神の恵みが、神の愛がなければ、彼は一歩たりとも前に進むことができないということを知っていたからです。
主にある皆さん、私達がこの世界で一番、恐れるべきことが何だかご存知ですか。コロナウイルスですか。いいえ。人から拒絶されることですか。見捨てられることですか。病気にかかることですか。死と向き合うことですか。愛する者を失うことですか。確かにこれらのことを思う時に、私達の心に怖れと不安がよぎります。
しかし、私達にとりまして本当に恐ろしいことは、神の道が閉ざされ、神の恵みと愛が私達に与えられることがなくなり、私達と共に歩んでくださるお方を完全に失う時です。神が私達から顔をそむける時です。その時を私達は絶望的な暗闇と呼ぶのです。
そうです、その暗闇とはイエス・キリストが十字架の上で息を引き取られた時にこの全世界を包み込んだ暗闇のようなものです。その時、イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と言われたのです。神がその御顔をイエス様からそむけられたからです。
本来、私達があの暗闇を経験しなければならない者なのです。しかし、キリストは私達に変わり、人として最も恐るべき瞬間に一人、立ってくださった。誰のために?あなたのためにです。そして、ここに真の愛があるではないかとヨハネは言ったのです。
キリストが十字架にかかり、復活なさった後、人々にその姿を現した時に言われた言葉をご存知かと思います。この言葉は全ての人間にあてられた主イエス・キリストの不動の約束です。イエス・キリストは言われたのです。「みよ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章20節)。
今日は智子姉と慶太兄が「走り抜こう」という賛美を歌ってくださいました。特に打ち合わせをしたわけではないのですが、神様は今日のメッセージにぴったりとの歌を備えてくださいました。
私達はあと数日で2020年を終えます。しかし、それが私達のゴールではありません。2020年を突き抜けて、私達は2021年に足を踏み出すのです。そして、主が私達の名前を呼んでくださる、その日までこの人生の旅路を走り抜くのです。
主はそのために私達のために道を備え、ゴールを定め、私達に日毎に恵みと愛をお与えくださる。どこに愛があるのか。神が今、この時も私達と共にいるというところに神の愛があります。だから私達はモーセのように神に願い求めます。「主よ、私達と共に年を越してください。そして、私達の息の続く限り、共に歩んでください」と。
イエス様は今日も明日も私達と共にこの人生を歩んでいてくださる。イエス様は道であり、真理であり、命です。私たちの唯一の希望であるイエス・キリスト、私達のためならその命すら惜しむことなく捧げてくださったそのご愛、このことを握りしめて2021年に踏み出そうではありませんか!お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2020年12月27日
1)出エジプト記33章1節‐4節、12節-17節を読みましょう。ここに記されていることはどういうことですか。
1)「あなたがたは、かたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたの内にあって一緒にはのぼらないであろう」(出エジプト記33章3節)という神様の言葉はイスラエルの民にどんな思いを抱かせましたか。このことは彼らにどんな覚悟が必要なことを示していますか。
3)モーセは上記の神様の言葉に対して『それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」(出エジプト記33章13節)と応答しました。モーセはなぜ「あなたの道を示してください」と願っているのでしょうか。このことは現在のあなたに何を語りかけますか。
4)モーセは、なぜ「神の前に恵みを得る」ということを願っているのでしょうか。このことが意味することは何ですか。このことは現在のあなたに何を語りかけますか。
5)モーセは「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください」(出エジプト記33章15節)と言いました。神が共にいないということは私達にとって何を意味しますか。
6)許嫁マリヤが妊娠しているということをヨセフはどのように受け止めていたでしょうか。御使いの「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは「神われらと共にいます」という意味である」(マタイ1章23節)という言葉はヨセフの心に何を語りかけたと思いますか。
7)私達が最も恐れるべきことは何ですか。イエス様は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と言われました。神から見捨てられるということは何を意味しますか。