「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)
確かシカゴのオヘア空港だったと思うのですが、ゲートでサンディエゴ行きの飛行機への搭乗を待っていたことがありました。私が座っていたベンチの背後には食事がとれるようなテーブルがあり、そこでは4,5人の男達が大声で会話をしていました。彼らの会話には多くのカース(Curse:口汚い、罵りの言葉)が盛り込まれていました。そういう言葉を大声で、しかも誰にも聞こえるような場所でしゃべっている男達を驚き怪しむと共に、だんたんと彼らの言葉を聞いていることが不快になってきました。
彼らが口を開く時、そこには神とジーザス・クライストを罵る言葉が含まれていました。それは聞いているだけで、心がざわついてくるような言葉でした。困ったもんだなと思っていた、その時、私の側に座っていた女性がその男達の方に振り向き、強い言葉で言ったのです「子供も聞いているのだから、そのような会話はやめてもらえませんか!」。
確かにそのゲートには子供達もおり、彼らの会話はゲートにいる人達に聞こえるものでした。彼女の言葉は彼らと同じくらい、大きなものでしたので、周りの人にも聞こえたと思います。それを言われた男達、今度はバツが悪そうに、静かになりました。
私はその女性がしたことは正しいと思います。なぜなら、その言葉は私達の心に入り、私達の心を傷つけるからです。なぜ、傷つけるのか。私達は皆、神の子だからです。神の子でありながら、その父なる神についてひどい言葉を聞かされることは私達にとって屈辱なのです・・・。
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全ての名にまさる名
2020年8月30日
多くの私達の名前は親、親族、もしくは親しくしている人がつけてくれたのではないかと思います。それがいかなる名前であっても、名づける人は真剣にその名前を考えたことでしょう。
皆さんは自分の名前の由来を聞いたことがありますか。母親の陣痛が起きて、病院に行く途中にあったカフェの名前が「さくら」だったから、これはちょうどいい、この子の名前も「さくら」にしようということで、名づけられた方はおそらくいないと思います。出産の朝、ラジオから流れていた吉田拓郎の歌から、拓郎という名前を手っ取り早くつけられたという方もおそらくいないと思います。
私が子供の頃、ゴダイゴという日本の音楽バンドが「Beautiful Name」という歌を歌っていました。彼らはその歌の中で「全ての子供は美しい名前を持っている」と歌っていました。本当にそうだと思います。自分には四つの異なる名前があり、使い分けているという人はいません。私達の名前は親が悩み考えて、「あれか、これか」という名前の中から最終的に選んだ一つなのです。
その名前には親が子供に込めた思いがあり、その名前はその人を呼ぶために便利であるということ以上の意味をもつものです。私達は名前を聞いただけで笑みがこぼれる名前を知っていますし、その名前を聞くと心が騒いてしまうというような名前があることも知っています。
今日は十戒の内の三つめの戒め、「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないではおかないであろう」(出エジプト記20章7節)を見ていきたいと思います。
この言葉をユダヤ人達は曲解して受け取りました。彼らはこの三戒を「主の名前を決して呼んではならない」というように解釈し、いつの間にか、神の名を口にすることすらしなくなりました。しかし、それは明らかに誤りであり、この戒めは「神の名を呼んではならない」と言っているのではなく「神の名をみだりに唱えてはならない」と言っているのです。
さて、それでは注目すべきは「みだりに」という言葉です。この「みだりに」には「分別なく、正当な理由や資格なく行う」という意味があります。例えば「みだりに出歩くな」と私達が言う時に、理由もないのに、用もないのに、出歩くなということを意味します。そして、このことは言い方を変えれば「自分勝手に出歩くな」ということです。「自分中心でことを起こすな」ということです。
これらを踏まえてこの第三戒を理解しますのなら、それは自分勝手に、自分の都合だけで神の名を呼んではならないということです。腹立たしい時、物事がうまくいかない時、それは私達の心の問題であり、神の名を持ち出すような状況ではないのに、そのような時に自分のフラストレーションを発散させるために、軽々しくその名を呼んではならないということです。私達がみだりに名を呼ぶということは、その相手のことをぞんざいに扱っているということになるのです。
私たちの言葉にはイントネーションがあります。同じ名前を呼ぶにしても、その呼び方により全然、受ける側の印象が変わります。「まこと」と優しく言うのと、「まこと!」というのと、「まーことー」(失望がこもったような)では、その印象が全く違います。このことにより語り手の心が表れるのです。私達が尊敬する人の名を呼ぶ時に、その言葉にはおのずと敬意が込められるでしょう。みだりにその名前を呼ぶことは決してないでしょう。
「子供が学校の授業を嫌いになる方法」ということを聞いたことがあります。我が子が学校の授業を嫌いになることを願う親はいないと思いますが、もし、家庭で子供の担任教師の名前が挙げられ、批判や中傷がいつも食卓でなされるのなら、その子はその先生を嫌いになり、さらにはその先生が教えている科目も嫌いになることでしょう。私達が苦手な学科は、すなわち私達が苦手な教師の学科であったということは、あながち間違ってはいないのではないでしょうか。
そして、その反対もしかり、その先生の名前が評価と賞賛と共に日常的に話されているのなら、その子供はその先生も、その先生が教える学科をも好きになるに違いありません。
英語にはイエス・キリストや神という呼び名を用いて、自分のいらだちや不満を言い表す表現があります。これらの言葉が口から語られるたびごとに、その本人も、それを間近に聞いている者達の心からも本来の神の姿は失われていくのです。
もし、家庭で神の名をみだりに唱えているなら、それを聞く者達は、その神は素晴らしいお方である、愛と恵みに満ちているお方であるということを知る機会を失うことでしょう。いつもみだりに神の名が持ち出されている、そんな言葉を聞いている子供達は、同じ言葉を使い始め、やがてそれは彼らの口から日常的に語られるようになるでしょう。
確かシカゴのオヘア空港だったと思うのですが、ゲートでサンディエゴ行きの飛行機への搭乗を待っていたことがありました。私が座っていたベンチの背後には食事がとれるようなテーブルがあり、そこでは4,5人の男達が大声で会話をしていました。
彼らの会話には多くのカース(Curse:口汚い、罵りの言葉)が盛り込まれていました。そういう言葉を大声で、しかも誰にも聞こえるような場所でしゃべっている男達を驚き怪しむと共に、だんたんと彼らの言葉を聞いていることが不快になってきました。
彼らが口を開く時、そこには神とジーザス・クライストを罵る言葉が含まれていました。それは聞いているだけで、心がざわついてくるような言葉でした。困ったもんだなと思っていた、その時、私の側に座っていた女性がその男達の方に振り向き、強い言葉で言ったのです「子供も聞いているのだから、そのような会話はやめてもらえませんか!」。
確かにそのゲートには子供達もおり、彼らの会話はゲートにいる人達に聞こえるものでした。彼女の言葉は彼らと同じくらい、大きなものでしたので、周りの人にも聞こえたと思います。それを言われた男達、今度はバツが悪そうに、静かになりました。
私はその女性がしたことは正しいと思います。なぜなら、その言葉は私達の心に入り、私達の心を傷つけるからです。なぜ、傷つけるのか。私達は皆、神の子だからです。神の子でありながら、その父なる神についてひどい言葉を聞かされることは私達にとって屈辱なのです。
私達の存在の始まりはその父なる神です。その神を呪うようなことを自ら言うのであるのなら、それは自分の存在に対するリスペクトも失います。そう、それは自傷行為をしているようなものです。
本来、神とは私達人間にとりまして圧倒的に至高の存在です。人は見ていなくとも、知らずとも、神は全てを見、全てを知っておられるお方。その存在故に私達の今がある、私達の存在を完全に依存しているお方です。そのお方を自分の立ち位置まで引き下げ、否、それ以上に貶める、侮辱するということは、私達の唯一の希望をゴミ箱に捨てているようなものなのです。
この言葉が自分の心に与える影響、それを聞く者達に与える影響はどんなに大きいことでしょうか。そして、やがてそんな言葉を繰り返し聞かされ続けることにより、心は無感覚になり、やがて私達の口からもその言葉が出てきます。父なる神により生を受けた、その父なる神を呪うのですから、それが私達の生き方に与える影響はどんなに大きなことでしょう。
そして、このような言葉を言い続けている、そんなところから、主なる神は素晴らしいお方、きよいお方、愛と恵に満ちたお方であるというところに引き上げられるということにはまずありえないのです。言うまでもなく、そのようにみだりに神の名を言っていながら、神と共に生きることはできません。
これが神の名をみだりに唱える時に起こることです。お分かりいただけたと思うのですが、それは決して小さなこと、些細なことではないのです。
伝道の書5章2節には「神の前で、軽々しく口を開き、また言葉を出そうと心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ」という御言葉があります。
この書を書いたイスラエルの王、ソロモンはあたかもこう言っているようです。「神はあなたたちを見下ろすことができる天にいる。あなたたちは見下ろされる地に生きている。故に、神に向かい軽々しく口を開くな。かえってあなたちは、この聖なるお方の前では口数を減らしなさい」
以前、日本のサッカー代表チームに岡田監督という方がいました。サッカーをよく知っており、良き結果を残した監督でしたが、この岡田監督が素晴らしい采配をして、強豪相手にゲームに勝ちましたら「神様、仏様、岡田様」というような言葉が巷に広がりました。そう、神と仏と岡田さんを同列に並べているのです。このようなことは他国でもないとは言えないと思いますが、このような現象はかなり日本独特なものではないかと思われます。
世界を見渡せば、このような言葉に驚いて、椅子からずり落ちそうになる人達がたくさんいると思います。彼らにとって、神と人を同列に置くということは、ありえないことだからです。
しかし実際に日本ではこのような事はよく見聞きします。際だって活躍しているスポーツ選手は「神」と呼ばれ、驚くべき対応をしている人は「神対応」をしていると言われます。
このように神が人間と同レベルで置かれてしまう時に「神」という言葉から、その本来の意味は失われてしまっており、本来の意味において「神」と呼ぶことはとても難しいものとなります。その程度の神からどうして圧倒的な、偉大な神へと心をすぐに切り変えることができましょうか。
随分前に、私は「パッション オブ クライスト」を母と映画館に観に行きました。その上映が始まる前は、どの映画が始まる前もそうであるように、私の後ろに座った数人の若い女の子たちはポップコーンとコークを飲みながら、ペチャクチャしゃべっていました。しかし、映画が始まると後ろから飲み食いする音はなくなり、彼女たちの泣き声が聞こえ始めました。
映画はそれが終わった後に、一緒に観た人と、この映画はああだったこうだったと主人公に対する感想を言い合ったりします。しかし、この映画が終わった後、映画館を出て、車に乗り、家に帰るまで私達は口を開きませんでした。
なぜなら、その映画の主人公はロスアンゼルスをカーチェイスする派手なアクション俳優ではなく、また今が旬な俳優が演じるロマンスではなかったからです。
私達の前に終始、映し出されていたお方は、もちろんそれは俳優が演じたものではありますが、ののしられ、激しく打たれても、敵のためにその赦しを祈る、つまり、私たち人間には到底、もちえないお心をもったお方の姿だったからです。
その映画に映されたお方の姿は人間が持ち合わせることができない姿でした。そこには罪なきお方が私たちの罪を背負われる姿がありました。その前で私たちは言葉を失ったのです。軽々しく、みだりに名を呼べるようなお方ではなかったのです・・・。
名前には力があることを皆さんはご存知でしょうか。以前、私達の教会に来て下さった、かつてやくざだった鈴木啓之先生がかつてアメリカに伝道に来ようとした時に、その過去の経歴故にアメリカ入国が許されませんでした。日本のアメリカ大使館に行っても、窓口では冷たくあしらわれるだけでした。
しかし、ある時、合衆国のエンブレムのついた手紙がワシントンから日本の先生の元に送られてきました。それは先生に米国大統領の朝食祈祷会に出席するようにという招待状でした。つまり、それは当時のクリントン大統領からの手紙だったのです。先生はその手紙をもって再度、大使館に行きました。
「また来たか」というような窓口の職員の冷たい対応に対して、その手紙を提示したところ、職員は裏の部屋にいそいそと引き下がり、今度は丁重に先生の渡米に必要な手続きをして下さったというのです。そこには大統領の名前があったからです。人間である大統領にすら、そのような権威と力があるなら、イエス・キリストの名前はどうでしょうか。
ヨハネ15章16節でイエス・キリストは言いました「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えてくださるためである」。
ここを見る時にイエスの名というものは、私たちの名前とは違うことに気がつきます。イエスの名によって父なる神に願う時に、それらは与えられる。私たちが祈りをする時に、最後にどう祈りますか。「イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン」というのです。ジョン・カルバンの名でもなく、ビリーグラハムの名でもなく、私達はイエスの名によって神に祈るのです。
同じくヨハネ20章30節でその著者ヨハネは自分が書いたヨハネ伝の結論として、こう記しました。「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」
イエスの名によって私たちは命を得ると聖書は約束しているのです。この命とは私たちが使う“命あっての自分”とか“自分の命”というような命とは異なります。心臓は確かに普通に動いていても、死に渡されているように人間は生きることもできます。
しかし、イエスの名によって与えられる命とは、生きている意味と目的を知って生きる命であり、そして、それはたとえ肉の命が失われても永遠に生きる命が与えられるということです。これらお金では買うことのできない真の命もイエスの名によって私たちに与えられるのです。
使徒行伝10章43節でイエスの12弟子の一人であったペテロは言いました「預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪の赦しが受けられると、あかしをしています」人の罪の赦しは、誰かの名によってなされることではありません。「大丈夫、私の名によって、あなたの罪は赦されるから」と私たちに言うことはできないのです。
もちろん、罪の刑期を減らす「恩赦」というものが私達の世界にはありますが、ここで言っている罪とは、そのような人間の法によって赦される罪ではなく、その罪が完全に神の前にあっても赦されるということなのです。
そして、このことに関していえば、いかなる人の名前も何の効力もありません。しかし、イエスの名前だけが、この罪の赦しに有効だと聖書は言うのです。イエスを信じる者は、いかなる人もことごとく、その名によって罪の完全な赦しが得られるのです。
使徒行伝16章18節のいて使徒パウロは占いの霊につかれた女に向かって言いました。「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。
パウロがイエス・キリストの名によって霊に女から出て行けと命じると、その瞬間に霊は女から出て行ったのです。私達の目には見えない悪霊の世界においてもキリストの名は轟いているのです。絶大な力があるのです。人々が恐れる世のいかなる悪の霊もこのお方の名が持つ力を知り、その前には全く無力なのです。
なぜキリストの名には力があるのでしょうか。エペソ人への手紙1章19節―21節は私達に語りかけます。「また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るようにと祈っている。神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自身の右に座せしめ、彼をすべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである」。
そうです、イエス・キリストの御名は全ての支配、権威、権力、権勢の上に置かれています。いいえ、その名はこの世ばかりではなく、来るべき世においても唱えられる名、あらゆる名の上に置かれた名なのです。私達がこの名を心を込めて、呼ぶときに、その名は私達の思いを天に結びつけるものとなるのです。主にある皆さん、どうして、そのようなイエス様の名をみだりに唱えることができましょうか。
私達が「イエス様」と呼ぶとき、「神様」と呼ぶとき、「聖霊様」と呼ぶとき、そこに私達の真心があり、親愛なる思いがあり、最高の敬意があるべきなのです。
ピリピ書2章6節―11節、6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 (ピリピ2章6節―11節)
主にある皆さん、私達には全ての名にまさる名が神から与えられているです。私達はその名を呼ぶことが許されているのです。今日も、明日もこの力あるイエスの名を心を込めて呼ぼうではありませんか。
「イエス・キリストは主である」と心からの告白をして、栄光を父なる神に帰す、そんな生涯を送ろうではありませんか。この名を知り、この名によって神に祈ることができる、私達に与えられている特権はなんと大いなるものなのでしょうか!お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2020年8月30日
1)あなたは自分の名前の由来を知っていますか。あなたは誰かの名を決めたことがありますか。どんな思いでその名をつけましたか。名前が意味することは何でしょうか。それは他者と区別するためだけのものでしょうか。
2)十戒の三つめの戒め、「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)をあなたはどう理解していますか。なぜ神様はこのことを私達に望まれていると思いますか。
3)英語には神やイエス・キリストの名を呼ぶカースがあります。この言葉を使うことによって私達が受ける心身の影響はどのようなものですか。この言葉を発する時に他者にも影響がありますか。
4)伝道の書5章2節には「神の前で、軽々しく口を開き、また言葉を出そうと心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ」と書かれています。この言葉は神様のどのような御性質を表していますか。
5)神の御名には力があります。ヨハネ15章16節、ヨハネ20章30節、使徒行伝10章43節、使徒行伝16章18節には神の名がどのような力をもっていることが言い表されていますか。
6)エペソ人への手紙1章19節―21節は私達に何を語りかけますか。
7)ピリピ書2章6節―11節には神がイエス・キリストを高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わったと書かれています。そのイエス・キリストに対して私達はどうのように生きるのですか→10節、11節。