人が作った神々の姿

『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない』(出エジプト記20章4節、5節)

私達が目で見て、手で触れることができる神々は、ある朝、私達の前に出現するものではありません。それは人間の手によって作られるものです。それを作ることは骨の折れることですから、その製作者は水を飲み、食事をとり、疲れを感じながらそれを作ります。作るのは人間ですから、その日の朝、夫婦喧嘩をして、荒々しい心でつぶやきながらカンナをたたくというような時もあることでしょう。

彼らは木を育てるところから始め、その木を切り取り、その一部を薪として身を温め、それでパンや肉を焼いて食べて、残った木で神々を作り、そして、その神々に向かって言います。「あなたはわが神だ、わたしを救え」。預言者イザヤは彼が目撃した事実について、このように語り、最後にこう締めくくります。「あなたは木の端くれの前にひれ伏すのか」と・・・。

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人が作った神々の姿
2020年8月23日

私達は先週、十戒の一戒「あなたはわたしの他に、なにものをも神としてはならない」を見ました。この十戒は神様から私達に与えられている愛の言葉で、私達は嫌々、仕方なくそれを守るのではなくて、その言葉に応答して、喜んでそれに従う、そのことにより私達は守られ、多くの祝福を受けることができると先週はお話ししました。今日はその二つ目の戒めを見ていきたいと思います。

かつて人間は自然の中に間借りするように暮らしていました。しかし今、私達は人間が作りました建造物の中に身を置き、人が作ったものに取り囲まれて暮らしています。すなわち、こちらから近づくことがなければ、直に自然に触れることがないような環境に私達は今、生きています。

かつて人間が自然、すなわち神の諸々の被造物と共に生きていた時、その中で彼らは自分を超越した存在というものを身近に感じ、やがてそれを崇拝するようになりました。こうして宗教が人間の間に生まれてきました。

時に彼らの崇拝の対象は太陽であったり、月であったり、大木であったり、巨大な岩でした。時にはフクロウや蛇も崇拝の対象となり、やがて彼らは自らの願う神々を各々、作り始めました。世界各地でかつての人間の住居跡や墓が発掘されますと、その所ではそんな人が作った神々が見つかります。神々は人間と共に土の中に埋もれていたのです。

それは人が刻んだり、ねったり、描いたりしたものであり、人はそれを自らの前に置き、崇拝の対象としました。モーセの時代には、既にこのような神々が無数に人によって生産されていました。そのような状況の中、神はその十の戒の二つ目にこのような戒めを加えたのです。

4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう(出エジプト記20章4節―6節)

 この二戒が言わんとしていることは私達は自ら神々を造ってはならない、それを拝んではならないということです。

聖書はこの神々を「偶像」と呼びます。この偶像に関する記述は聖書の中に数多くあり、出エジプト記にもイスラエルの民がこの二戒を破り、偶像に向かっていく姿が描かれています。

そもそも私達が自ら製作し、崇拝している偶像というものはどのようなものなのでしょうか。そのことをよく観察し、的確にそれを説明した人に預言者イザヤがいます。彼は偶像とはこのようなものだと言いました。

10だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。11見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて共に恥じる。12鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚(つち)をもってこれを造り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。13木の細工人は線を引き、鉛筆で描き、かんなで削り、コンパスで描き、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。14彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。15こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。16その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。17そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。18これらの人は知ることがなく、また悟ることがない。その目はふさがれて見ることができず、その心は鈍くなって悟ることができない。19その心のうちに思うことをせず、また知識がなく、悟りがないために、「わたしはその半ばを火に燃やし、またその炭火の上でパンを焼き、肉をあぶって食べ、その残りの木をもって憎むべきものを造るのか。木のはしくれの前にひれ伏すのか」と言う者もない(イザヤ44章10節―19節)。

 偶像はある朝、私達の前に出現するものではありません。それは人間の手によって作られるものです。それを作ることは骨の折れることですから、その製作者は水を飲み、食事をとり、疲れを感じながらそれを作ります。作るのは人間ですから、その日の朝、夫婦喧嘩をして、荒々しい心でつぶやきながらカンナをたたくというような時もあったことでしょう。

彼らは木を育てるところから始め、その木を切り取り、その一部を薪として身を温め、それでパンや肉を焼いて食べて、残った木で偶像を作り、そして、その偶像に向かい言います。「あなたはわが神だ、わたしを救え」。イザヤは彼が目撃した事実について語り、最後にこう締めくくります。「あなたは木の端くれの前にひれ伏すのか」と。

この人間が作り出した神々について第二戒は言いますあなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない』(出エジプト記20章4節)そうです、その刻んだ像は自分のために作ったものなのだというのです。製作者は「私の願いを聞け、私を救え」という言葉を偶像に言うためにそれを作ったのです。

この人間が作り出した神々、偶像についてエレミヤはこう言っています。

その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、ものを言うことができない。歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない。それを恐れるには及ばない。それは災いを下すことができず、また幸を下す力もないからだ(エレミヤ10章5節)

そしてハバククはエレミヤと同じことを言っています。

その作者が物言わぬ偶像を造って、その造ったものに頼んでみても、なんの益があろうか。わざわいなるかな、木に向かって、さめよと言い、物言わぬ石に向かって、起きよと言う者よ。これは黙示を与え得ようか。見よ、これは金銀をきせたもので、その中には命の息は少しもない(ハバクク2章18節―19節)

人は畑のかかしを作るかのようにして、自分の神々を作りました。そして、そのかかしが物を言わないように、その神々も物を言わないとエレミヤは言います。

同じようにハバククもそれを「物言わぬ偶像」と呼びます。その物言わぬ石に向かって、目覚めてくれと言っても、何かを頼んでみても、その石は何も言わずに、そこにあるだけ。どうして、そんな石があなたに黙示、すなわち、これからあなたがどうあるべきかというようなディレクションを示し得ようかというのです。

皆さん、偶像が何も語らないと、どういうことになりますか。そうです、それを作った者は人間ですから、その人間だけが偶像に語りかけるのです。そして、その時に人が偶像に語りかけることは明らかです。そうです、それは「あれをしてくれ、これをしてくれ」ということなのです。

こうなりますと、物言わぬ偶像は人にとって都合がいい物となります。なぜなら、その偶像はいつも黙っていますから、一方的に自分の願いだけをぶつけることができるのですから。

しかし、このことは実は喜ばしきことではないのです。お分かりでしょう。自分に都合のいいことだけを求めていて、私達の人生が良きものになることは、まずないのです。それどころか、それは私達にとって害となりうることなのです。

なぜなら、私達の考えや図り事はいつも不完全なものだからです。また人は欲深い者、そんな者達が心に願うことがいつも善きものになることはないのですから。私達にとって本当に益となることは、私達の考えに神の御心が語られ、そのことゆえに自らの心を省み、その神の御心に私達が聞き従うことなのです。

すなわち、ここまでお話ししてきたことと全く逆のことを言っているのが聖書なのです。そう、聖書は人が神々を作ったのではなく、神が人を作られたといいます。人のみならず、この全世界を作られたのも神です。私たちが吸っている空気も水も太陽の光も神の恵みです。この神の恵みなくして私達は一日たりとも、いいえ、一瞬たりとも生きながらえないのです。

つまり、聖書は神こそが主(あるじ)であり、私たちはその主(あるじ)の許しのもとに生かされている者なのだというのです。さらに私達こそ、神の御手の中にあるもので、私達は本来、神の前に、神の御声に聞くべき者なのです。そう、神は私達に語りかけるお方なのです。偶像はこのことと全く反対のことを言っているのです。

申命記はこのことをはっきりと力強く語ります。

4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。(申命記6章4節-9節)

「神よ、私の話を聞け、あなたは黙って私の言葉を聞いて、私の願いを叶えろ」ではない、神はイスラエルに力強く言います。「イスラエルよ、聞け!」と。何を聞くのか、主は唯一の主である。あなたは私が語りかけたことを心にとめ、それをいかなる時も語り伝えなければならないというのです。私達は神に一方的に語り続けるように造られているのではなく、神の言葉に聴き、それをしかと心に留め、神の言葉に聴くことを伝え続けなければならない、そのように我々は造られているのです。

この世界に生きるにあたり、逆らってはならないものがあります。それは既に設置されている神の法則です。重力に勝とうとして、物心ついてから毎日、宙にジャンプをし続けている方はいないでしょう。それを一生続けても重力に打ち勝つことなどできないのです。神の法則に逆らって、私達の側に勝算はないのです。

私達の願いを聞かせるために、私達のために神々を木や石で造るのではなく、神が私達を造り、その神の言葉を心に留めて、それに従い生きるところに祝福への道があるという神の法則、このことに逆らうのではなく、それに聞き従おうと心に決めている人はさいわいだと思います。その法則の下、私達は大いに祝福されるでしょう。

人が作った偶像は私達に何も語りかけてきません。言うまでもなく、そこに命はなく、それは物質だからです。さらに言えば、それはものを言わないばかりか、自ら歩くこともできないので、人に運んでもらわなければならないとイザヤは指摘します。

『ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。2 彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができずかえって、自分は捕われて行く』(イザヤ46章1節―2節)

彼らはこれをもたげて肩に載せ、持って行って、その所に置き、そこに立たせる。これはその所から動くことができない。人がこれに呼ばわっても答えることができない。また彼をその悩みから救うことができない』(イザヤ46章7節)

イザヤは言います。人は神々を背負い、神々を救おうとしている。火事だ、水害だ、御神体を運び出せ、燃えちゃうぞ、濡れちゃうぞ。その時は無我夢中で気がつかないかもしれません。しかし、よく考えてみましょう。自分がしていることは、おかしくないか。私はいったい何をしているのか。神を火から、水から私達が救い出し、きれいにススを取り、泥を流し、埃りを払い、再び、私達の前に神としてそれを置くのか・・・。

先週、十戒には前提があるとお話ししました。そうです、十戒を与えてくださった神様とはイスラエルの民を鷲の翼に載せるかのようにして、諸々の危機から救い出して、彼らを運んでくださった神なのです

イザヤはこのことをしかと知っておりますゆえに、持ち運ばなければならない神々に対して、彼が仕えている神について確信をもって力強く語ります。

3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。5 あなたがたは、わたしを誰にたぐい、誰と等しくし、誰に比べ、かつなぞらえようとするのか。(イザヤ46章3節―6節)

主にある皆さん、私達が神を運ぶのではない。救うのではない。神は私達が母の胎を出た時から、私達を持ち運んでくださる。年老いるまで、私達が白髪となるまで、この神は私達は持ち運んでくださるのです。

私の神学校の卒業論文は「なぜ人の命は尊いのか」というテーマで、アフリカでの医療活動に生涯を捧げたアルバート・シュバイツアーについて研究しました。そして、その論文の結論は、私達が「人間の尊厳」について、その根拠はどこにあるのかと問う時に、その人間の尊厳の根拠は人が神によって造られた者であり、神はその人を一人子イエスをお与えになるほどに愛しておられるというところに、そこにその根拠があるということでした。自分のために木や石から神々を作り、それを持ち運んで歩くというようなところから、我々、人間の尊厳は生まれようがないのです。

聖書、創世記は言います。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された(創世記1章27節)。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2章7節)

この「神は自分のかたちに人を創造されたということと、土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れたことにより、人は生きた者となった」ということは、人間以外の被造物には向けられていない言葉です。

このことはすなわち、神が造られた万物の被造物の中で、人こそが神の最高傑作であり、神の前に人は他の諸々の被造物とは全く異なるものであり、その人間が物質なる、命なき物に頭を下げること、それはあってはならないことであり、さらに言えば、それは神の前にある人間の尊さを貶(おとし)めることになるのです。

主にある皆さん、私達は神様が私達に確証してくださっている自らの尊さを地に貶めてはなりません。さらにはただ自分の願いばかりをこの神様に言い続け、神様の御心に耳を閉ざすような生き方をしてはなりません。私達がなすべきことは真なる神を礼拝し、その神の言葉に聴き、それに従い生きることです。ここに我々の生き方の王道があるのです。

私達がひざまづくべきお方はこの世界でただ一つ、私達の神のみなのです。そして、よくよく考えますと、このことは私達にとりまして救いの言葉なのです。私達は神以外のあれやこれやにひざまづく必要はないのですから。

このメッセージを聴いていて下さるほとんどの方はクリスチャンではないかと思われます。まさかクリスチャンになりましても、神々を製作し、自宅に祭っている人はいないかと思います。

それでは我々、クリスチャンにとりまして、この二戒はパスしてもいいものなのでしょうか。いいえ、先週もお話ししましたように、たとえ私達が神々を作り、それを祭っていないとしても、それがいかなるものであっても、神がおるべき場所にそれ以外のものが置かれているのなら、神がおるべき心の王座に他のものが座しているのなら、それは私達にとりまして偶像となりうるものなのです。

それゆえ、私達は今朝、今一度、神の光に心を照らしていただき、もしそのようなものが心にあるのなら、それらを全て一掃して、その座に主なる神を置こうではありませんか。

第二戒はその戒めに対して、続くこのような言葉を書き残しているのです。

4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう(出エジプト記20章4節―6節)

私達がこの二戒に生きるか否か、そこから生じる影響はどうやら私達の生きる間だけのことで完結ということにはならないようです。それは私達の子や孫達にも影響を与えていくであろうということがここに記されています。

もし私達が神のみを拝して生きるのであるのなら、私達の子達は、孫達はそれを見ることでしょう。そして、それはやがては彼らのものの捉え方、見方、そして生き方となっていくことでしょう。その彼らの姿を見た子達、孫達も、その生き方を継承していくことでしょう。こうして神の祝福は後の世にも受け継がれていくのです。

もし、私達が目で見て、手に取って触れるような崇拝の対象を持ち合わせていないのなら、それを神に感謝しましょう。私達をその手の中に収めてくださっている神と共に生きることができることを感謝しましょう。今も私達のために天来の導きと知恵を私達に語り続けておられる、天地万物を支配しておられる、王の王、神が我らと共にいることを何よりも私達の喜びと力の源としましょう。このお方は私達の棚に置かれているお方ではなく、いつ、いかなる時も私達と共におられるお方なのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年8月23日

1)人間は太古の昔から何かを拝んできました。なぜ人にはこのような心があるのでしょうか。人が崇拝の対象にするものにはどんなものがありますか。

 

2)イザヤ44章10節―19節を読みましょう。そこにはどんな偶像の姿がありますか。

 

3)エレミヤ10章5節、ハバクク2章18節―19節を読みましょう。エレミヤ、ハバクク共に共通して言っていることは何ですか。「物言わぬ偶像」は私達にとってなぜ都合がいいのですか。「物言わぬ偶像」は私達にとってなぜ無意味なのですか。

 

4)出エジプト記20章4節―6節を読みましょう。「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」の「自分のために」ということはどういうことでしょうか。

 

5)申命記6章4節-9節から神様が私達にとってどんなお方であることが分かりますか。

 

6)イザヤ46章1節―2節、7節を読みましょう。ここには人間が神々に何をしなければならないと書かれていますか。3節―6節に書かれていることと、比較しましょう。

 

7)神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された(創世記1章27節)。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2章7節)という御言葉から私達と他の被造物の違いについて何が分かりますか。私達が神以外のものの前にひざまずき、それを拝むということは何を意味しますか。

 

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