悔いのない人生を送りたい

エルサレムには聖墳墓教会という教会があります。そこはイエス・キリストが十字架につけられたゴルゴダの丘の上に建てられたと言われている教会です。その場所が当時のゴルゴダの丘だろうと裏づけられた理由は、その丘から十字架刑に使われたと思われる朽ちた木々、その中には人の手首の肉片がそのまま釘付けにされた木片が発見されたからだというのです。

十字架に磔にされる者達とは犯罪者ですから、その死体が丁重に扱われることはなく、まさしくその遺体は引きちぎられるようにして処理され、その手首の肉片はそのまま木につけられたまま放置されていたのでしょう。それが十字架という刑なのです。私達はこの十字架を信仰のシンボルとしているのです。

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悔いのない人生を生きたい
2021年3月28日

イエス・キリストは今から2000年前にベツレヘムで生まれ、ナザレで育ち、およそ30歳になられてから3年半あまりの間、神の御心を宣べ伝え、またその御心に生きたお方です。

聖書に書かれているイエス・キリストの言葉と行いは99パーセント、その生涯の内のわずか三年半の間に起きたことなのです。その間にイエス様は12人の弟子を選び、彼らと暮らし、訓練されますが、最後に彼らはイエスを見捨てて逃げてしまいます。そして、その最期は二人の犯罪人と共に十字架につけられて殺されました。

このイエス・キリストの生涯の舞台となりましたイスラエルに行かせていただきました時、このお方が後世に残された影響力に目が開かれました。三年半という短い年月の間に猫の額ほどの小さな土地で言われたこと、なされたこと、そのことにより、かの日々から2000年を経た今日も、おびただしい数のクリスチャンと呼ばれる者達が絶えることなく、世界中からベツレヘム、ナザレ、エルサレム、ガリラヤを巡礼しているのです。

これらからも分かりますように人類史上、このイエス・キリスト以上にこの世界に影響を与えた方は存在せず、このお方と比較できる人間というものはこの世界にはいません。その存在は比類なきもので、圧倒的なのです。

そしてこのキリスト教が他の諸々の宗教と一線を画すのは、そのシンボルに「十字架」をかかげているということなのです。

私はエルサレムで聖墳墓教会に行きました。そこはイエス様が十字架につけられたゴルゴダの丘の上に建てられたと言われている教会です。そこが当時のゴルゴダの丘だろうということを裏づけたのは、その丘から十字架刑に使われたと思われる朽ちた木々、中には人の手首の肉片がそのまま釘付けにされた木片が発見されたからだといいます。

十字架に磔にされる者達とは犯罪者ですから、その死体が丁重に扱われることはなく、まさしくその遺体は引きちぎられるようにして処理されたのでしょう。その手首の肉片はそのまま木につけられたまま放置されていたのでしょう。それが十字架という刑なのです。私達はこの十字架を信仰のシンボルとしているのです。

私達はイースターを来週の日曜日にひかえ、今週、受難週を迎えます。これからの一週間、私達は2000年前にイエス様がゴルゴダの丘へと向かわれた日々、すなわちこの十字架を思うのです。

この朝、私達はこの「十字架」が私達に何をもたらすのかということについてお話したいと思います。この十字架は私達と何の関わりがあるのかということです。コリント第二の手紙7章10節にはこう書かれています。

「神の御心に添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」(コリント第二7章10節)

時に私達は後悔するような経験をすることがあります。「ああしておけばよかった、こうしておけばよかった」と思われることです。「後悔」とは読んで字のごとく「後で悔いる」ことを意味します。

「悔い改め」とはこの「自分がしてきたことを悔いて、生き方を改める」ということです。そして、生き方を改めるということは、その「生き方を悔いのないものに改める」ということです。しかし、そんなことができるのかと私達は考えます。この問いに対して、聖書は「できる!」と言います。

神様は私達各々に、一度限りの人生を与えてくださっています。この人生にリハーサルはなく、この人生は最初から最後まで本番です。その本番なる人生において、私達は悔いのない人生を送りたいと願います。悔いのない人生とはどんな人生なのでしょうか。

以前、NHKの番組を観ておりましたらカール・ベッカーさんという宗教学を専門としている京都大学の教授が『人生を振りかえる夜』というテーマで話をしていました。ベッカー教授は諸々の宗教を研究しながら、人間とは、宗教とは、生きるとは 死ぬとはということを日々、研究されている著名な宗教学者です。

かといって彼の研究が机上の上だけでなされていることなのかというと、そうではなく、先生は日本語を完璧に話し、日本の病院やホスピス等で末期患者と対話をし、医療現場で心のケアに活かす研究を進めてきたのです。そのベッカー教授がこんなことを言っておりました。

「人が死に直面すると、自分の心の底にあることを語り出します。自分の人生を振り返ってみて「この生き方でよかったのか」とか、「いったい自分の人生はなんだったんだろう」と考えるというのです。

人は死がすぐそこにある時に、自分の人生を振り返り、そこに人生の意味づけを探り出すというのです。そして、このことはその本人だけではなく、その人と関わりのある者達も、その人を見て「自分の今までの人生はこれでよかったのだろうか」と考え始めるというのです。

ここから先生の研究は「私達は何を思いつつ死にたいのか?」という命題に導かれていったというのです。このベッカー教授に番組出演者がこう尋ねます。「先生はどのように死にたいのですか?」すると、先生はこんなことを語り出しました。

『私も平安に死にたい。そのためには、悪いことをしてこなければ後悔はしない。でも、私も人間ですから、悪いことをする。つい言ってはいけない事を言い、人を傷つける。この命には意味はないと思ったり、私の人生は悲しみを増すばかりで、喜びが増していない、環境を壊して、環境を守っていない・・・など考えると、自分なんかいないほうがましではないかと思うこともある』

私は先程、「神の御心に添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」とコリント第二の手紙を読みました。ベッカー先生が「自分に対して抱く悲しみ」を聖書は「神の御心にそうた悲しみ」と呼びます。なぜなら、この悲しみこそが、「私達を悔いのない救い」を得させる悔い改めに導くものだからです。

そうです、ここから全てが始まるのです。ここから何が始まるのでしょうか。先生は引き続き、こう語ります。『心の中に後悔の念があると平安に死ねるとは思えない。しかし、悪いことをしてしまうので、自分では贖えない場合には、赦してもらいたいという心理が働く。だが死んだ人には赦してもらえない。誰に赦してもらえばいいのかわからない。そういった葛藤やギャップがある』

病院やホスピスで多くの方達の最期を見てきた先生が「平安の内に死ぬためには、赦してもらわなければ」と言っていること、また「自分がしてしまった悪しきことは自分では贖えない」と言っていることに私は深く心が探られました。

「贖う」という言葉は日常生活では使わない言葉ですが、その意味は「買い戻す」ということになります。すなわちそれは自分がしてしまった負債を買い戻すということで、そのようなことは自分にはできないと先生は言うのです。

ですから「私は自分がしてきてしまったことを赦してもらいたい」というのです。そして、もしそうしていただけるのなら私は後悔のない人生を生きることができるだろうと先生は言っているのです。しかしながら、こうも言っているのです。「いったいどこの誰が私を許してくれるのだろうか。誰が私を贖ってくれるのだろうか」

主にある皆さん、ここにイエス・キリストの十字架があります。イエス・キリストの十字架は私達の罪に赦しを与えるものなのです。ベッカー先生がおっしゃったように私達は皆、不完全で過ちを犯す者です。聖書が『義人はいない、一人もいない』(ローマ3章10節)と書いているとおりです。

そう、義人、すなわち正しい人、罪なき人は一人もいないということは、私達の中に自分自身を含めて、罪人を赦すことができる人などはこの世界に誰一人いないということです。「有罪判決を受けている者」が「有罪の者を赦す権威」はないからです。

しかし、罪なき神の一人子イエス・キリストが私達の罪の身代わりとなり、その一切の罪を身に負って十字架におかかり下さったということ、そこには私達の罪の赦し、贖いがあるのです。

なぜキリスト教は無病息災、商売繁盛をうたい文句としないのでしょうか。なぜ私達のシンボルは「招き猫」や「打出の小槌」ではないのでしょうか。なぜなら、それらは私達の願いをかなえる自動販売機のようなもので、人間の本質的な救いとは何ら関係ないからです。

私達の「赦されたい」という気持ちこそが私達の最後に残る思いであり、このことによりキリストの十字架は私達に悔いのない人生を約束するのです。

そして、そのキリストの十字架は私達に対する愛を完全に示すものです。この十字架が私達に明らかにしているメッセージは「あなたは愛されている」というメッセージなのです。

仮に「打ち出の小槌」なるものがあって、それで自分が望むものを全て手に入れても、そのことにより私達の心が満たされることはなく、かえって心の渇きは増します。なぜ?なぜなら私達はそのことにより心が満たされる、渇きが癒されるように造られていないからです。

私達に本当に必要なことは「私達は確かに、本当に愛されているのだ」という揺るぎない思いなのです。この思いがあるのなら、私達はこれからの人生を生きていくことができます。イエス様の十字架はこの神の私達に対する完全な愛を明らかにしているのです。

私は牧師ですので、これまで人の死に向き合わせていただいたことが度々あります。そして、それらの方達が亡くなられる前に、このイエス・キリストの十字架の赦しについて語らせていただいたことも何度もあります。その中の何人かの人は、その十字架の赦しを信じて召されていきました。

彼らはそれまでどこか苦しそうな顔をしているのですが、その時から人生において背負ってきた荷を下ろしたというような安らかなお顔をして亡くなっていきました。その時の彼らの表情をどう表現したらいいのか、あえて申しますなら、彼らはまさしく「安心して」召されていったのです。

悔いのない人生を送りたい方、キリストの十字架のもと、悔い改めて、人生をリセットなさって新しい人生を歩み始めることを心からお勧めします。そうする時に、人生最後の日々のみならず、私達はこの残された人生を神の愛に包まれて生きることができます。これにとって代わるものはこの地上にはないのです。

私達がこのキリストの十字架と自分自身との関係を知る時に、私達の人生には意味が与えられます。コリント第二の手紙5章15節において、パウロはこう記しています。

そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである(コリント第二の手紙5章15節)。

先ほどお話しましたカール・ベッカーさんはこうも言われていました。「人間は意味を求める動物です」。そうです、私達は意味のないことには耐えられません。私達は勉強する意味、働く意味、結婚する意味、もっと実存的な問いかけになりますと、生まれてきた意味、生きている意味、そして死ぬ意味までも知りたいのです。そうです、私達は無意味なことに向き合うことが耐えられないのです。

日本は今、卒業シーズンでしょうか。アメリカも数か月後に卒業シーズンを迎えます。学生達は学び、色々な経験をして、社会に出ていきます。これらの知識や経験の蓄積は彼らの生涯にとても大切なものです。

しかし、そのこと以上に大切なことがあります。それは彼らが、その人生において神様が自分に与えてくださっている使命を知ることです。

人生を歩むために必要な諸々の道具は手元にあります。しかし、それを何のために用いるのかという、その目的を知らなければ、やがて私達は息切れしてしまい、行き詰まってしまうことでしょう。

「悔いのある人生」とは私達の過去のことです。しかし、十字架は私達を前に向かわせます。十字架の愛を知る時に、私達は過去を振り返る生き方ではなく、前を向いて歩きだすのです。なぜなら、その時に私達は自分が何のために今日、生きているのかを知るからです。

キリストの十字架により、私達は全く身に余る神の愛を知ります。そして、その後の人生を生きる意味を、私達が神から与えられている使命を知ります。この神の愛と神に与えられる使命が私達の人生の両輪です。そして、ここに生きるということがイコール、悔いのない人生を生きるということなのです。

精神科の医師が指摘されていることですが、人間は「自分のためだけに生きている」とその心に虚しさが生まれてくるそうです。自分の労力も時間も財もただ自分のためだけに使っていると喜びは失われていくというのです。「何も不足はない、欲しい物は全て手に入れている。しかし、何なのだろう、この虚しさは」という思いがフッと心にわいてくるのです。

「どうしてなのだろう」と思う時には大抵、その背後には神様がおられ、私達に大切なことを語りかけている時だと信じます。そうです、神様は私達の心に誰かのために生きていく時に心の中に喜びと生きがいというものが生まれてくるように私達を造られたのです。

先にパウロが言ったことは実にこのことでありました。キリストが全ての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためなのだと。

比類なき富と知識を与えられたイスラエルの二代目の王であったソロモンは伝道の書の中で「よくぞここまで書いたな」と思わされるほどに「働く事には意味がないとか、生きることも虚しい」と「虚しい、虚しい」と嘆き悲しんでいますが、その結論として最後にこう書き残しているのです。

1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、2 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ」(伝道の書12章1節‐2節)

なぜ彼はあえて「あなたの若い日に」と言ったのでしょうか。なぜなら、ソロモン自身がその人生の中で悟ったことは、自分の作り主を知ること、すなわち自分がどこから来て、どこに向かって生きているのか、その自分の存在の意味と、そこから知る自分が「生きる使命」を知るなら、早ければ早いほどいうことだったからです。

確かに自分はどこかに向かって歩いている、そうであるなら一日も早く、自分がどこに向かって歩いているのかを知り、神が自分に与えてくださっている使命に生き、そこに人生を注ぐ、これこそが人間の本分であり、この虚無で満ちた世界で、このことに勝る生き方はないと彼は悟ったからです。

これらを知るならば目的なく、場当たり的な人生設計を建てる必要もなくなります。ソロモンが書いていますように「あぁー、わたしには何の楽しみもない」などと言うことがないように、彼はこれらのことを書き記したのです。

皆さんの中には思われている方がいるかもしれません。「私はもうこんな年になっちゃったから、遅いでしょう」。いいえ、どうぞ覚えてください、私達は明日の自分より、今日は若いのです。遅くなどはない、今日という日がこれから迎える人生では一番、若い日なのです。

ですから、あなたの若い内に、あなたの造り主を覚えて下さい。イエス・キリストは、あなたが生まれてからこの方、今もあなたの心の扉を叩き続けています。

キリスト教会はこれからも人々が目をそむけた磔のために用いられた処刑道具を掲げていきます。そのところに私達に対する神の愛が完全に余すところなくあらわされているからです。そして、その十字架は私達に悔いのない、私達がその人生をかける価値のある生涯を約束するのです。主にある皆さん、一度限りのこの人生、悔いのない人生を全うしようではありませんか?お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年3月28日

1)あなたには後悔していることがありますか。私達が召される時にどうしたら「悔いのない人生を送った」と言うことができるでしょうか。

 

2)「イエス・キリストが磔にされた十字架」は何を意味するものですか。処刑道具を私達の信仰の象徴としていることについて、あなたはどう思いますか。

 

3)『神の御心に添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる』(コリント第二7章10節)は私達が神の前に悔い改める時に、私達は悔いのない人生を送ることができることを示しています。「神の御心にそうた悲しみ」とはどんな悲しみですか。

 

4)私達が命を引き取る時に心に平安があるとするのなら、その平安はどこから来ますか。

 

5)『そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである』(コリント第二の手紙5章15節)。 この御言葉はキリストの十字架によって救われた私達の人生がどのように変わることを明らかにしていますか。

 

6)あなたの人生の目的は何ですか。あなたは誰のために生きていますか。自分のためだけに生きる時になぜ私達の心には虚しさが生じるのでしょうか。

 

7)あなたは残された人生をどのように生きたいと願いますか。

 

 

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