平和の君

80年代、私はテネシー州の片田舎のキャンパスにいました。周りには牛と馬ばかりがいるような所で、私の楽しみは校内にあるスチューデンドセンターで友達をつかまえては卓球とビリヤードをすることで、そこに設置されたテレビからは一日中、MTVが流れていました(いつもそこに入り浸っていましたので、私は80年代のアメリカンポップだけは全て聞き尽くしたと思います)。その時にほぼ毎日、私の耳に聞こえてきた曲は、既にその時にポップスターとなっていましたマドンナの「ライク・ア・バージン」や「マテリアル・ガール」でした。

そのマドンナに今から10年ほど前、ある女性キャスターがインタビューをし、色々な質問を投げかけました。一つ一つの質問に答えたマドンナに対して、最後にこんな質問が投げかけられました「これが最後の質問です。あなたは大成功を収めています。富も、美貌も、名声もすべて手に入れています。これ以上、何か欲しいものがありますか」この質問はマドンナにとって予想外だったようで、マドンナはしばらく考えた後にこう言いました・・・。「ピース・オブ・マインド」。

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「平和の君」
日英合同クリスマス礼拝
2017年12月10日

ベツレヘムに行きますと聖書の時代の羊飼いたちが野宿をしていたのではないだろうかと思われる野原が今もあります。この野原のすぐ側には自然の洞穴があり、私達の想像力をかきたてます。これから、そのベツレヘムの野原で2000年前に野宿をしていた羊飼い達に起きた聖書の記録を読みます。そう、私達がが何度も聞いたことのある、あの出来事です。

8さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、14「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2章8節ー14節)。

この羊飼い達に光が照らされました。その時に、御使いは彼らに言いました「あなたがたは幼子が布にくるまって飼い葉おけに寝かされているのを見るであろう」。そうしますとおびただしい数の天の軍勢がそこに加わり、神を賛美して言いました「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。彼らは「地の上ではみ心にかなう人々に平和(ειρήνη:イリニ)があるように」と歌ったのです。

なぜ、御使いはこの時に幼子イエスの誕生を前に「平和」という言葉を用いたのでしょうか。そこには意味がありました。その時からさかのぼるところ750年、このイエス・キリストの誕生を預言した預言者がいました。彼の名はイザヤ、クリスマスを前に、これからの二週の間にはたして何度、この御言葉は全世界の教会で読み上げられることでしょうか。

 『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである』(イザヤ9章6節ー7節)。

イザヤは一人の男の子が我々のために生まれると言い、その名は平和の君と唱えらえ、その平和は増し加わり、限りがないと預言しました。そう、イエス・キリストが生まれるはるか前にイザヤが伝えたことは、神は我々に平和を与えるという約束でした。それは神が私達に対して抱いている計画であり、万軍の主の熱心がそれをなすとイザヤは書き残したのです。そして、その成就こそがイエス・キリストの誕生だったのです。

ちなみに、この平和という言葉は聖書の原語であるギリシア語でειρήνη:Eiríni、英語で「PEACE」と訳されますが、これらは日本語では「平安」とも訳されますので、今日は平和という言葉ではなく、平安という言葉に注目したいと思います。

すなわち神は私達に平安を与えることを古の昔から強く願い、今も私達にその平安を与えようとしています。しかしです、その主の熱心な思いに対して、私達はいったいどれぐらい、この平安というものを心にとめているのでしょうか。「平安」と言われてもぴんとこないという方がいるかと思います。このことについて、ある女性が語った言葉をお分かちしましょう。

80年代、私はテネシー州の片田舎のキャンパスにいました。周りには牛と馬ばかりがいるような所で、私の楽しみは校内にあるスチューデンドセンターで友達をつかまえては卓球とビリヤードをすることで、そこに設置されたテレビからは一日中、MTVが流れていました(いつもそこに入り浸っていましたので、私は80年代のアメリカンポップだけは全て聞き尽くしたと思います)。その時にほぼ毎日、私の耳に聞こえてきた曲は、既にその時にポップスターとなっていましたマドンナの「ライク・ア・バージン」や「マテリアル・ガール」でした。

そのマドンナに今から10年ほど前、ある女性キャスターがインタビューをし、色々な質問を投げかけました。一つ一つの質問に答えたマドンナに対して、最後にこんな質問が投げかけられました「これが最後の質問です。あなたは大成功を収めています。富も、美貌も、名声もすべて手に入れています。これ以上、何か欲しいものがありますか」この質問はマドンナにとって予想外だったようで、マドンナはしばらく考えた後にこう言いました・・・。「ピース・オブ・マインド」。

キャスターは彼女に言ったのです。「あなたは「富」も「美貌」も「名声」も全て手に入れた成功者です」と。そう、それらは今日、多くの私達が求めているものです。あたかもそれらがあれば全てはうまくいくというかのごとくにして・・・。

しかし、その山の頂きに立った彼女はそこから言うのです。私が本当に求めているのは「ピース・オブ・マインド」だと。そして、その「ピース・オブ・マインド」はこの頂にはないと・・・。

サンキュー、マドンナ。あなたは私達に大切な教訓をくれました。そう、あなたは私達にあなたが得たものによっては心の平安を得ることができないことを身をもって教えてくれました。すなわち、もし私達が彼女が得たものにこそ心の平安があると思い、それを今も追い求めているのなら、彼女の証言により、ここでそのことについて今、一度、考える機会を私達は得たということです。そう、後になって「こんなはずじゃなかった」ということがないように。このような気づきは早ければ早いほどいいのです。

思えば、皆さんと同じように私もこの人生、色々な人間に出会ってきました。その中にはマドンナが得たようなものを得ながらも、心にある不安が時おり話す言葉の節々や、表情の中に見て取れる人達がいました。反対にこの人達のような物は何も持ち合わせていないにもかかわらず、その心がいつも何かを見つめており、そこに全幅の信頼を置いて、笑みをたたえながら生きている人達にも出会いました。

これらのことを思いめぐらします時に私達には内なる問いかけが聞こえてきます。「結局のところ、あなたは人生に何を求めているのか」と。あれも大事、これも大事、あれが必要、これが必要・・・。でも、結局のところ私達の魂が心から慕い求めていることは何なのか・・・。その時に「ピース・オブ・マインド」という言葉が聞こえてこないでしょうか。

ここ数週間、なぜ私達の心の平安は失われるのかということを考えてみました。そして、一つのことに気がつかされたのです。そう、それはマドンナにも私達にも共通すること、全ての人間が共有するものです。それは何か。それは私達は「明日のことは分からない」ということです。この動かしがたい事実が私達の前にある限り、私たちの心に平安はないのです。そう、たとえ、私達がこの世界の万物を得たとしても・・・。たとえ私達が今、愛する者と共に幸せな毎日を送っていたとしても・・・。私達の明日が分からない限り、私達の心に平安はありません。

当初、それでも私達は明日の平安を得るためにできる限りのことをします。おそらくマドンナも自分が与えられているリソースを惜しみなく用いて、そのことを試みたのだと思います。しかし、皆さん、ご存知でありますでしょう、私達は「これで安心」というものを得れば得るほど、今度は「それを失うのではないか」という不安に陥るのです。

それではどうしたらいいのか、この不安から逃れる道はあるのか、あるのです。それは私達には知りえない明日、誰が私達と共にいるのかということを知ることです

イエス・キリストは人の姿となり、赤ん坊としてこの世に生まれました。そのイエス様は私達と同じようにこの世界のただ中で育ち、自ら人の営みをし、傍らにいる人間の喜怒哀楽を見続けました。そして、その人の中にいつも不安と恐れがあることを読み取りました。ですからイエス様は度々、彼らに向かって「心を騒がすな、安かれ」と語りかけました。そう、どの人の表情の中にも不安と恐れをイエスは見いだしたからです。そのような中、イエス様は彼らが何に不安を感じ、何を恐れているかということを身をもって知るのです。

ですから、ある時、イエス様は彼らが不安に感じている核心に語りかけたのです。「だから、明日のことは思いわずらうな。明日のことは明日が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ6章34節)。もう一度、申し上げますが、明日のことが分からない私が誰かにこの言葉を語りかけることはできません。それは無責任なことだからです。

イエス・キリストはご自身を羊飼いとし、我々を羊として語られました。なぜだかお分かりになりますか。この羊飼いは明日の羊と共にいるということを明らかにするためです。ダビデはその様子をこう書き残しました「たとえ死の陰の谷を歩むとも、わたしは災いをおそれません。主が共におられるからです」。私達は明日、死の陰の谷を歩むかもしれません。さらにはその谷で災いに遭うかもしれない。このことはある意味、人の宿命でもあります。しかし、それを恐れない、なぜならその時、主が我々と共におられるからです。

イエス・キリストは十字架にかかる直前に弟子達と共にエルサレムのとある二階座敷で時を過ごしました。そのところでイエス様は弟子達の足を自ら洗い、彼らにブドウ酒とパンを分かち合い、これから起きることをお話しになりました。その中でイエス様はこう言われました。『わたしは平安(ειρήνη:Eiríni)をあなたがたに残していく。わたしの平安(ειρήνη:Eiríni) をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな』(ヨハネ14章27節)。

そう、この言葉を語られた数時間後にイエス様は十字架に磔にされました。イエス様はそのことが自分の身に起きることを、この言葉を語られた時に知っていました。そのような中でイエス様は弟子達に「わたしの平安」を彼らに与えると言われたのです。そして、それはこの世が与えられるものとは異なる、すなわちそれは束の間の慰めとなるようなものではないと言われたのです。

確かにイエス様はこの直後、捕えられ、十字架に磔にされて、殺されました。しかし、先の言葉の直後にイエス様はこう言われていました「わたしは去っていくが、またあなたがたのところに帰ってくる」(ヨハネ14章28)。そして、その言葉どおり、イエス・キリストは死から復活され、かの弟子達の前にその姿を何度もあらわされました。そして、いよいよ、天に帰られる時に彼らに向かって言われたのです。そうです、それはもはやイエス様が一つの肉体に限定されずに、空間を超えた霊によって復活されたということを言い表していました。イエス様は彼らに、そして私達に約束されたのです。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章20節)。

この言葉はこの時にイエス様が思いつきで語られた言葉ではないのです。このイエスは我らの平和の君であり、同時に、このイエスはいつまでも我々と共におられるということは古の昔から神の私達に対する熱意によって定められていたことなのです。

イエス・キリストの誕生が御使いによってヨセフに告げられた時、御使いは彼にこう言ったのです。「みよ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(マタイ1章23節)。御使いは前代未聞の言葉をヨセフに語りかけたのではありません。そうです、この言葉も先にあげました預言者イザヤがイエス誕生750年前に予め、預言していた言葉であり(イザヤ7章14節)、御使いはイエスの誕生をその預言の成就として語ったのです。

そして、マタイはこのインマヌエルという言葉の意味をこう書き残しています『これは「神われらと共にいます」という意味である』(マタイ1章23節)。そう、イエスはインマヌエルと呼ばれる、その意味は神われらと共にいますという意味です。

「私達の明日は分からない」という事実は今もこれからも変わりません。このことを神はしかと承知しておられ、インマヌエルなる主イエスをこの地に誕生させたのです。主イエスは今も、明日も、そして永久に私達と共にあります。この事実は今もこれからも変わることはないのです。

主にある皆さん、どうぞ、このことをお心におとめにになって今日はお帰りください。そして、どうぞ覚えてください。このインマヌエルなるイエス・キリストを知るまで、我々がこの地上で「ピース・オブ・マインド」を得ることはできないということを。

最後に先にした質問をもう一度します。「結局のところ、あなたが自分の人生に願うことは何ですか」。思い当たることを全て心のテーブルに並べてみてください。最後に残るものは何ですか。もし、そうだ、私が今まで求め続けていたのは、そしてこれからの人生、自分の心に求めることは「ピース・オブ・マインド」なのだという方がおりましたら、今日、お話ししましたように、私達が知るべきことはただ一つです。そうです、私たちの平和の君、インマヌエルなる主イエス・キリストと共にこれからの人生を歩むということです。クリスマスを迎えるこのシーズンほど、このことを始めるのにふさわしい時はないのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2017年12月10日

1)ルカ2章8節-14節を読みましょう。み心にかなう人々に平和があるように」(14)と記されている「平和」は新約聖書の原語のギリシア語では「平和」と共に「平安」という意味も含まれます。これらから御使いは私達にどんな「平安」があるようにと言ったと思いますか。

 

2)イザヤ9章6節ー7節を読みましょう。これは預言者イザヤが紀元前750年頃に書いたものです。ここに記されている「男の子」とはイエス・キリストのことです。イエス様の誕生750年前に「平和の君」と呼ばれていたことは、どのようなかたちで成就しましたか。

 

3)歌手のマドンナはなぜ「ピース・オブ・マインド」を求めたのでしょうか。彼女が生涯獲得したものは彼女にピース・オブ・マインドを与えることはなかったのでしょうか。なぜですか?

 

4)私達の不安はどこからきますか。あなたが自分の人生(心)に求めていることは何ですか。

 

5)イエス・キリストは「だから、明日のことは思いわずらうな。明日のことは明日が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ6章34節)と人々に語りかけました。あなたはこの言葉を自分の言葉として誰かに言うことができますか。なぜ言えないのですか。

 

6)明日に対する不安はどのようにしたら平安と変えることができますか。

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