私達は神様が恵み深いお方であり、愛に満ちているお方であることを知っています。しかし、私達には忘れてはならないことがあります。それは、このお方は義なるお方でもあるということです。義なるお方であるということは、不正をないがしろにせず、それに対して裁き、ジャッジをなさるお方であるということです。不正に対して激しく怒るお方であるということです。このことにおいて神は私達が恐れるべきお方なのです。
時に神は怒ります。私達はその神の怒りの矛先に立つことだけは避けなければなりません。それこそが私達が最も恐れるべきことなのです。主イエスはその恐ろしさについて、かつてこう言われました。
『また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい』(マタイ10章28節)
このイエス様の言葉は私達に大切なことを気がつかせてくれます。そうです、このことは私達が恐れるべきお方は神であることを私達に語りかけ、それ以外の者に対する過剰な恐れはいらないということを暗示しています。神を本当に恐れる時に、その他の諸々の恐れから私達は解放されるのです。本当に恐れるべきものを正しく恐れる、この世界を生きるにあたり、私達がこのことを知ることはとても大切です。
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恐れるな、ここに愛がある!
2020年11月29日
私は二週間前に出エジプト記より、モーセがシナイ山に登り、40日40夜、一人で山中にとどまったとお話ししました。その間、麓にてモーセの帰りを待っていたイスラエルの民は、モーセが戻ってくるのが遅いと分かると、モーセの兄弟、大祭司アロンに向かい「自分達に先立つ神を、私達のために造ってくれ」と求めました。アロンはその民の願いを聞き入れ、彼らの耳についていた金のイアリングを集め、それで金の子牛を作り、彼らの前に神として差し出し、民はその前に熱狂し、戯れたのです。
彼らはついこの間まで、神様の前に「私達は主が仰せられたことをみな、従順に行います」と誓っていた者達です。しかし、彼らはその契約を、いとも簡単に翻したのです。彼らは神を知らない者達ではありません。彼らをエジプトから救い出し、紅海をわたらせ、日毎にマナを与えてくださった存在を彼らは知っていたのです。
神を知っている者達が、いとも簡単に金の子牛を慕い求め、その置物に神に向けるのと等しい思いを託したということ、「ノー」と言うべきことを託されている者が「ノー」と言わなかったこと、そのことゆえに彼らの偶像崇拝はもはや歯止めのきかないものとなったこと、これらを「絶望」と呼ばずに何と言いましょうと、先々週はお話ししました。
そして、その時に、お約束しました「私達は今、絶望を見ていますが、二週間後に希望についてお話します」と。その約束通り、今日は私達に与えられている希望についてお話ししたいと思います。しかし、その希望をお話しするために、まずとても厳粛なことをお話させていただくことになります。先々週の続きを見てまいりましょう。
モーセがまだ山にいる時に、麓で起きていることをご覧になった神はモーセに語りかけます。7 主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。8 彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。9 主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。10 それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」(出エジプト記32章7節-10節)
私達は神様が恵み深いお方であり、愛に満ちているお方であることを知っています。そのことについて聖書から繰り返し読み、牧師からそのメッセージを聞いています。しかし、私達には忘れてはならないことがあります。それは、このお方は義なるお方であるということです。義なるお方ということは、不正をないがしろにせず、それに対して裁き、ジャッジをなさるお方であるということです。不正に対して激しく怒るお方であるということです。このことにおいて神は私達が恐れるべきお方なのです。
時に神は激しく怒ります。私達はその神の怒りの矛先に立つことだけは避けなければなりません。それこそが私達が最も恐れるべきことなのです。主イエスはその恐ろしさについて、かつてこう言われました。
『また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい』(マタイ10章28節)
私達には多くの恐れがあります。その究極的な恐れは私達の命が、私達の愛する家族の命が何者かの手によって奪われてしまうということです。
しかし、キリストは言われたのです。私達の体を殺すことができても、その魂に手を触れることができない者を恐れる必要はない。私達が本当に恐れるべきものは、私達の体も魂も地獄で滅ぼす力のある方だと。
このイエス様の言葉は私達に大切なことを気がつかせてくれます。そうです、このことは私達が恐れるべきお方は神であることを私達に語りかけ、それ以外の者に対する過剰な恐れはいらないということを暗示しています。
神を本当に恐れる時に、その他の諸々の恐れから私達は解放されるのです。本当に恐れるべきものを正しく恐れる、この世界を生きるにあたり、私達がこのことを知ることはとても大切です。
この神の怒りを知ったモーセは何をしたでしょうか。11 モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。12 どうしてエジプト人に『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」14 それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。(出エジプト記32章11節-14)。
モーセは激しく怒る神を前に、その燃える怒りにより、民が滅ぼされてしまうことを食い止めようとしました。被造物である人が創造者なる神に談判するなどは到底、考えられないのですが、モーセは必死でした。
彼は神に進言します。「神よ、あなたは我らの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたではありませんか。あなたご自身がその御手をもってエジプトから救われたあなたの民を、ここで全て殺すのであるのなら、それを見たエジプト人は何と言うでしょう。彼らの神はエジプトから民を救い出したにもかかわらず、山地で彼らを滅ぼされたと言うことでしょう。そんなことを彼らに言わせていいのでしょうか」。モーセはこの時、かつて神がイスラエルに誓われたことを神の御前に差し出したのです。こうして神は彼らに下すと言われた災いを思い直されました。
緊迫した神との直談判をし、モーセは身を転じて、中腹でモーセを待っていた従者ヨシュアと合流し、山を下ります。モーセの手には神によって与えられた律法が刻まれた石の板がありました。きっと彼らは息せき切って、駆け下りたのではないかと想像します。
麓に近づくと、民の声が聞こえてきます。当初、それは戦の勝どきの声のように聞こえましたが、やがてそれが歌であることが分かります。さらに宿営に近づきますと、そこに金の子牛とその周りで歌い、踊る民を彼は見ました。先まで神の怒りをなだめていたモーセでありましたが、その光景を見た時に、彼は怒りに燃え、たずさえていた石の板を地面に投げつけ、それを砕いてしまうのです。
民数記12章3節はこう記しています『モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた』。この言葉はモーセが比類なく柔和な人、寛容な人であったということを言い表しています。柔和とは怒りと対極にある人間の性質です。確かにこの言葉の通り、モーセは柔和な人だったのでしょう。しかし、その彼でもこの光景を見た時に、心から憤りが沸き上がって来たのです。
「義憤」というものがあります。正しいことのために怒るということです。モーセの怒りは、神を知る者達が、自ら金の偶像作り、それを前に踊り戯れている者に向けられました。
今日、私達は神様の怒りを見ています。モーセの怒りを見ています。そして、私達は神殿の境内で商売をしていた者達のテーブルをひっくり返したイエス様の憤りを知っています。あのイエス様がなさったことは元祖「ちゃぶ台返し」です。
「なんでも、よかよか」というのが私達、クリスチャンではありません。私達が不義に対して、憤りを感じること、それは、その不義に私達が飲み込まれてしまわないように、滅ぼされることがないようにと、神様が私達に与えてくださった大切な感情なのです。
しかし、その怒りに対して、エペソ書は短く、力強く私達に助言をつけ加えます。『怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない』(エペソ4章26節-27節)怒ることが私達の罪につながってはならない。憤ったままで日が暮れてはならない。憤りを持ち続けると、やがてそれは憎しみとなり、それが熟すと私達は罪を犯すからです。私達は不正に対して憤ります、しかし、私達はその憤りを治めなければなりません。
麓に降りたモーセは宿営の門に立ちました。そして、言いました。「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」(出エジプト記32章26節)。モーセが宿営の門に立ったということは、彼が全てのイスラエルの民にメッセージを送ることを意味しています。モーセは民に問いかけます「全て主につく者はわたしのもとにきなさい」。
聖書の御言葉を読むということは、私達が神様とキャッチボールをするというようなことなのかもしれません。神様は私達に御言葉というボールを投げるのです。そのボールが投じられた後、それを受け止めるか、受け止めないか、それは私達にかかっているのです。神様は私達に決断をせまります。あなたはどうするのか。あなたは「どちらを選ぶのか」と。
聖書、申命記の30章には別の時にモーセがイスラエルの民に語った言葉が記録されています。彼はここでも民に向かい、あなたたちは何を選び取るのかと、こう語りかけるのです。
15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。(申命記30章15節-18節)
モーセは言います。「命と幸い」、そして「死と災い」があなたの前にある。あなたはどちらを選ぶのか。モーセはこれらの言葉を通して私達に選択を迫ります。ここには彼の切実なる思いがあります。そうです、彼は「あなた方は命の道を選ぶべきだ」という願いを心に持ちつつ、民に語りかけるのです。
このことを選ぶのは私達の親でもないし、伴侶でもない、牧師でもない。私であり、あなたなのです。私達は自分で選び取ることに対して責任があります。私達は自分が蒔いたものを刈り取らなければならない。自分で選んだことにより導かれることに、私達は甘んじなければならないのです。
モーセが宿営の門で民に語りかけた時、そのボールを受け止めた者達がいました。そして、受け止めない者達がいました。その者達に向かい主は言われました。
「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。28 レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。29 そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。(出エジプト記32章27節‐29節)
このことにより3000人が剣に倒れました。私達はこのような言葉を聞きますと、疑問がわきます。何と残酷な命令なのかと。しかし、私達は知らなければなりません。畏れなければなりません。このお方は、このことをなさる権威のあるお方であるということを。ご自身の存在を民に明らかにし、その御業により彼らはエジプトを脱し、神様の恵みにより彼らは今日まで導かれてきた。その神を受け入れず、自分達で作った物を神とした。
私達には、そのことは命を奪われるような、たいしたことには思えないかもしれません。しかし、神様にとり、それは本来、私達の命を差し出さなければならないほどのことだったのです。覚えていらっしゃいますか。十戒を。その第一、第二のものを。十戒、第一の戒め。
1 神はこのすべての言葉を語って言われた。2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない(出エジプト記20章1節―3節)。
十戒、第二の戒め。
4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう(出エジプト記20章4節―6節)。
神様が激しく怒られる理由がここにあります。神様が人間に与えた十戒のうち、これが第一の戒め、そして第二の戒めです。これらは残りの戒めの前提となる戒めです。イスラエルの民はこの戒めをいとも簡単に破ったのです、
神様が怒られるのは当たり前。その律法を直々に神様から受け取ったモーセが怒るのは当たりまえ。その時点でもはやこのイスラエルの民に弁解の余地はなく、神様がおっしゃるとおり滅ぼしつくされても仕方のないことです。
このことは「そんなのいやだ」「悲しすぎる」「厳しすぎる」というような話しなのではなく、神様がそのように思われ、そのようにされたということなのです。それ以上の議論はなく、ピリオドなのです。このような存在を私達は「神」と呼ぶのです。私達は、神様を自分達の土俵に招き入れ、そこで議論をすることを望みます。しかし、神様は本来、そのような相手ではない、神様が創造者であり、私達はその被造物であるということを私達は知らなければなりません。
私達の気分を損なわせない神々を求め、自分の都合や思い描いていることを全てかなえるために神様はいるのだと思う私達は、このことに気がつきません。神様は実に私達を遥かに超越したお方であり、恐るべきお方なのです。
しかし、それでも、その神様の前にモーセは再び立ちました。神様と同じ土俵に立つことなど出来ないということを一番、知っていたのはモーセです。しかし、それでも彼の必死の思いは彼を駆り立てたのです。
30 あくる日、モーセは民に言った、「あなたがたは大いなる罪を犯した。それで今、わたしは主のもとに上って行く。あなたがたの罪を償うことが、できるかも知れない」。31 モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば―。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。33 主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。34 しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、わたしの使はあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」。35 そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのである(出エジプト記32章30節‐35節)。
モーセは承知していました。民は罪を犯したということを。それは事実であり、その現実をモーセはしかと受け止め、その彼らの罪を償うことができないかと神様の前に出るのです。
言うまでもなくモーセは金の子牛とは一切かかわっておりません。そのような意味で彼が神様の前に裁かれることはありません。しかし、彼はその民を取りなすために神様の前に立ったのです。そして、その談判のために彼が担保として差し出したものは、神様が書き記した文(ふみ)から自分の名前を消し去るということでした。
それは彼の命のみならず、永遠の命をもモーセが失うということを意味していました。このことと引き換えに民を赦してくれとモーセは言ったのです。そして、このことゆえにイスラエルの民はその時、全滅にいたることなく、破滅的な裁きから免れることができたのです。
その後、自分達が救われたのはモーセの命がけのとりなしによるということをイスラエルの民は心に刻み、猛省して、以降、神様の前に生きようとしたのでしょうか。いいえ、彼らは同じようなことを繰り返し続けます。実に聖書の出エジプト記以降のイスラエルの歴史は彼らの汚点ばかりが目につく歴史なのです。いいえ、それはイスラエルの歴史だけではなく、私達、人間の歴史なのです。
私達が見ております、このイスラエルの民の姿は私達に多くのことを語りかけます。否、語りかけるだけではなく、彼らの姿に私達の姿を見出すのです。神様への信仰と忠誠を誓いながらも、いつの間にか、自分の前に神ならぬものを置いている。それが私達の先立つものとなっている。そのような自分でも気がつかない、そんな、すり替えをしながら私達は生きている者です。そのような意味で私達も神様の前に償い、贖いを必要とするものです。
ここまでお話ししてきて、私達の脳裏には、あのお方が思い起こされているのではないかと思います。そうです、神様がこの地に送られたイエス・キリストです。モーセが神様の前に民をとりなしたように、その命を差し出したように、神様の側から来たイエス・キリストも神様と人との間に立たれたのです。
結果として、モーセの名は命の書から除かれることはありませんでした。それでは、イエス様はどうだったでしょうか。
ヨハネによる福音書17章は1章をまるまる全て、イエス様が父なる神に語りかける祈りに費やしています。それは十字架にかかる直前の祈りです。そこでイエス様は6度、「父よ」と神に親しく語りかけています。イエス様は言われます。「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります」(ヨハネ17章21節)。そう、イエス様は父なる神とご自身がこれまで片時も離れることなく一つであったということを、ご自身と神との関係を確認するかのように、何度も言うのです。「父よ、父よ」と。「あなたとわたしは永遠に一つでしたね」と。
そして、この祈りが終わると直ぐにイエス様は捕らえられ十字架につけられます。その十字架の上でイエス様は七つの言葉を言われました。その一つにこんな言葉がありました。『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』(マルコ15章34節)
数時間前に何度も「父よ」と神に呼びかけていたイエス様は十字架の上で、その「父よ」という呼びかけを「わが神、わが神」と変えたのです。
そうです、その時、イエス様は「神」を「父」と呼ぼうとはされませんでした。なぜ?その理由をこの十字架のイエスを、その時から750年も前に預言したイザヤはこう記しています。
『これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした』(イザヤ53章12節)。
イザヤは彼、すなわちイエスはとが、罪ある者と共に数えられ、多くの人の罪を背負い、罪ある者のために取りなしをしたと預言しました。そうです、イエス様は罪人の一人として数えられ、罪人として裁かれたのです。それはイコール、その時、イエス様は、これまで永久の昔から「父と子」であり続けた神とご自身の関係を捨てたことを意味します。永久に一つであったその関係を失い、もはや神を父と呼ぶことをせず、私達、罪人なる人間が呼ぶのと等しく、「わが神よ」と父なる神を呼んだのです。
イエス・キリストの十字架は彼が私達の罪に代わり、神の裁きを受け、神との関係が失われた時であったのです。主にある皆さん、ここに私達の唯一の希望があるのです。
今、もしモーセが山から下りてくるとしたら、山麓に居る私達の姿をとして、彼は何枚の板を割らなければならないことでしょうか。神はその怒りをもって私達を滅ぼしつくさなければならないことでしょう。
しかし、その神の怒りはくいとどめられています。なぜ?どうして?イエス・キリストの十字架があるからです。このお方が私達のために取りなしてくださったからです。その十字架を私達は神の愛と呼びます。その神の愛こそが、私達が生涯、持ち続けることができる唯一の希望なのです。
神は恐れるべきお方、私達はこのことを心に刻まなければなりません。しかし、私達は天からの御声を聞くのです。「恐れるな、ここに愛がある」と。この愛が神の怒りから私達を救い出してくださっているのですから。
かつてキリスト教徒を捕らえることに殺意をもって、情熱を傾けていた男、パウロは、このキリストの愛に触れた時に、その心にあふれてくる言葉を書き留めました。このパウロの言葉、そのまま私達の信仰の告白になるのです。その言葉をもって、今日のメッセージを終えたいと思います。
31それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。32ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。33だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。34だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。35だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。36「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。37しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。38わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、39高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ8章31節‐39節)
「恐れるな、ここに愛がある」。主イエスの愛と栄光が世々限りなく、私達の生きるこの全地におよびますように!お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2020年11月29日
1)出エジプト記32章7節-10節には神様の怒りが描写されています。私達が本当に恐れるべきものは何ですか。そのことを知ることはなぜ大切ですか。
2)『また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい』(マタイ10章28節)というイエス様の言葉は私達に何を語りかけていますか。
3)モーセも民が金の子牛を前に戯れているのを見て怒ったと書かれています。イエス様は神殿の境内で商売をしている者達の机をひっくり返し、憤られました(ヨハネ2章13節‐17節)。これらに共通していることは何ですか。
4)『怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない』(エペソ4章26節-27節)この御言葉は私達にどんな大切なことを教えていますか。怒り、憤りにはどんな危険がありますか。
5)申命記30章15節-18節を読みましょう。神様はいつも私達に選択を迫ります。あなたはこの主のはたらきかけに気がついていますか?
6)出エジプト記32章30節‐35節を読みましょう。ここにはモーセの命をかけたとりなしがあります。このことは私達にイエス・キリストを思い起こさせます。イエス様が私達にしてくださったことはどんなことだったのでしょうか(参考:ヨハネ17章21節、マルコ15章34節、イザヤ53章12節)
7)ローマ8章31節‐39節を読みましょう。ここを読む時にあなたはどんな励ましと力を受けますか。