杭を強固に 幕を広く 綱を長く

ある企業家が自分が成功しているビジネスについての講習会を開きました。立ち見が出るほどの人が集まりました。そこで彼は自分が何十年もかけて苦労して得たビジネスのノウハウを余すところなく話しました。側にいた部下は彼が成功の秘訣を全て語ってしまったので講演会の後に聞きました「社長、ちょっと話しすぎではないですか。今日、集まった人の中には同業者もたくさんいます。いいんですか」。社長は答えました「いいんだよ。今日の話を聞いて実際に惜しみなくそれをする人は100人に一人もいないから」。この言葉は社長の話を聞いて試みる人はたくさんいるということを物語っています。しかし、それを実際に惜しみなくし続ける人はいないということです。

私達の人生にもし違いがあるとするならば、それはとても単純なことです。その違いは大抵、その人の生まれや育ちではありません。その人がどこに住んでいるとか、どれだけの財産があるかないかでもありません。その違いはその人が自分がすべきことを「惜しみなくする」か「しないか」です。実に単純です。パウロはそのシンプルな真理を自然界の法則をもって説明しています。

「わたしの考えはこうである。少ししか撒かない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、強いられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のある方なのである Ⅱコリント第二の手紙9章6節‐8節

説明する必要もありません。種をまくのです。しかし、それが少しなのです。少ししかまかないから刈り取りも少ないのです。しかし、豊かにまくもの、すなわち惜しみなくまくものは、豊かに刈り取ることになるというのです。なんという単純な真理でしょうか。

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マック

今日は新年度の教会の標語、                                       「杭を強固に 幕を広く 綱を長く」にそくして、                            お話しました。よかったらどうぞ。↓ 


杭を強固に 幕を広く 綱を長く                                2010年6月13日

今日は一年の締めとなります教会総会がもたれます。そこで、お気づきになられた方もいるかと思いますが、礼拝プログラムの表紙の今年度の標語も新しいものになりました。すなわち、イザヤ54章2節の御言葉、あなたの天幕の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張り広げ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」から新しい年度は「杭は強固に、幕を広く、綱を長く」という標語を掲げて歩んでいきたく願っています。

過去一年は「自分の足で立つ」という標語で、その主要メッセージは「自分で考え、自分で決断する」というものでしたが、今年はそこからさらに一歩を踏み出すこと、すなわち自分で考え、決断したら、今度は自らの幕を張り広げ、惜しむことなく、私達の綱を長くすることに目を向けたいと願っています。敬愛します大川道雄先生がいつも言っています言葉に「信仰は進行」というものがありますが、私達がそれぞれ個人的に、また教会としても、信じて前に進む一年でありたいと思います。

今日は本来ですと現在の礼拝メッセージ・シリーズの「信じて仰ぐ」にそくした予定がありましたが、今日は新しい標語を掲げた初日ということで、このイザヤ54章からお話をさせていただきたく願っております。そこで、まずこのところで私達が心に留めなければならないことをお話します。それはまず「杭が強固でなければならない」ということです。

杭が強固でなければならない。

私達が見ていますこのイザヤ書は全部で66章ありますが、その中で40章から55章は、これが預言者イザヤによって書かれた時にはまだ起きてはいない、しかし、その後実際に起きましたイスラエルの民達がバビロンで捕囚の民として暮らす、その彼らに対する慰めと希望の預言が記されています。その中にある今日の54章はそのところで肩を落とし、うなだれるている彼らに向けて、大きな励ましが語られているのです。すなわち、捕われの身という過酷な状況にありながらも自らの天幕を張り広げ、その綱を長くせよというのです。彼らにとって、それは全くマイナスからのスタートだけれども、そこで肩を落とさずに、顔を上げて、私があなたたちを祝福するから、信仰をもって前を向きなさいと神様は彼らに語られたのです。

私は毎年、有志を募ってレイバーディーのウィークエンドにキャンプに行きます。今年で四回目となります。それ以外にこれまでもあちこちにテントをはってきました。経験された方はお分かりになると思うのですが、テントをたてるためには杭が不可欠です。ヒモで結ばれた杭がなければ、テントは安定しませんし、風が吹けば簡単に飛ばされてしまうからです。

今日の御言葉を書いたイザヤの時代は天幕に暮らす人達というのは、日常的なものであったと思われます。ですからイザヤ自身も天幕の構造というものをよく知っていたことでしょう。ですから彼が最も大切なこととしてとらえていたのも杭だったのです。杭が地中深く、強固でなければ、どんなに立派な天幕を建てても、その目的にかなったものとならないからです。

私達はこの古の神様の言葉を私達に語りかけられているものとして受け止め、天幕を広げたく願います。しかし、同時に私達の杭を強固なものとしたいと願います。杭を強固なものにするとはどういうことでしょうか。それは、「これだけは譲れない」という確固たるものを私達がもつということです。すなわち、それは私達が聖書の言葉という杭を強固にするということです。

聖書は正典といわれ、これは英語ではキャノンと呼ばれる言葉です。それはギリシア語のカノースという言葉からきているのですが、もともとは「定規」という意味がそこにはあります。すなわち、それは真っ直ぐな線を引くことができる基準となるものです。それが曲がっていたら、全てのものが曲がってしまうのです。すなわち、私達が天幕を張ったり、そこから綱を伸ばす時にこの杭が定まらずに、動いたりしてしまうと、その天幕自体が動いてしまうのです。そこに強い風が吹けば、その天幕は吹き飛ばされてしまうことでしょう。

私達はこのことを個人的なこととして心に手を置いて考えたいのです。私達にはこの杭があるだろうか。それは私達の私生活に本当の安定を与えるものです。それに照らし合わせて、結婚生活や、育児、労働、病気や死というものに対して動くことがない意味と目的を与えることができるものです。30年前には有効でしたが、今は時代が変わりましたので、そうではなくなりましたというものではなく、これまでも、今も、これからも向こう何十年、否、私達がこの地上を去るその日まで、私達の杭となりうるものです。イザヤはそれを強固なものとしなさいというのです。そして、それは神の言葉なのです。

そして、教会として私達は同じ問いかけをしたいのです。私達は教会として、この杭を強固なものとしているだろうか。教会は信仰をもって前身すべきです。そのためには天幕を広げなければなりません。しかし、そのためには強固な杭を必要としています。私達が礼拝に出席すること、バイブルスタディーの機会に御言葉に触れること、日々の個人的なデボーションの時間、それらによって少しづつ、しかし確実に杭は強固なものとなっているのです。二つ目のこと、それは「張り広げ、長くする」ということです。

張り広げ、長くする。

さて、私達が杭を強固にしたならば、次に私達の目は、私達の幕を張り広げる、綱を長くすることに目を向けられます。今日の私達の天幕とは何でしょうか。それは私達がなすべきこと全てといってもいいかもしれません。特に聖書が約束しているように私達各々に与えられている賜物(ギフト)を用いて、その可能性を広げていくことです。

ただ、気をつけなければならないのは、そのことによって自分が褒め称えられるのではなくて、そのことによって神様の栄光があらわされることが私達の願いです。ヨハネ 15章にはイエス・キリストの有名な「ぶどうの木」の譬が記されております。そのところでイエスはブドウの木はキリスト御自身で、私達それぞれはその枝、そして、父なる神は農夫だといっております。そして、もしその枝がキリスト、すなわち、ブドウの木につながっているならば、その人は多くの実を結ぶと言われています。そして、そのことについてこういっています「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15章8節)私達はその父なる神の栄光のために、私達に与えられている賜物のみならず、与えられている資源を用いて、与えられている機会をもちいて、この天幕を広げるのです。

私達の心にはいつも「現状を維持しよう」という思いがわいてきます。この言葉にはそのためには、今と同じことをしていればよろしいという意味が含まれます。しかし、私達は気をつけなければなりません。しばらくは、その現状は維持できるかもしれませんが、多くの場合「現状維持」という目標は達せられることなく、それは徐々に徐々に後退していくことが多々あります。

イエス様はマタイ25章14節-30節においてタラントの譬を話されました。ある人が旅に出る時、その僕、三人の能力に応じて、おのおの自分の財産を預けていった。一人には5タラント、一人には二タラント、そしてもう一人には一タラント。五タラントの者もニタラントの者も、それぞれそれを用いて、五タラントに対して五タラント、二タラントに対して二タラントをもうけた。しかし、一タラントを託された者はそれを土に埋めておいた。長い時が去り、その主人が帰り、それぞれの僕を呼んだ。五タラント、二タラントの者には最大の賛辞の言葉が告げられた。しかし、一タラントを隠しておいた者には厳しい叱責がなされ、その一タラントは十タラントを持っている者に与えられたというのです。

この譬から私達が分かるのは、父なる神様は私達に与えてくださっているものを私達が用いて神の栄光をあらわすことを願っておられるということです。現状を維持しようとした者は、その維持していたものをも失ったのです。

その杭がしっかりとしていれば、私達は思いもしないところまでその幕を広げることができます。私は今「世俗牧師宣言」というブログを書いておりますが、何せ「世俗」なとというクリスチャンにとって目の敵となってしまうような言葉を使っているものですから、そのタイトルを聞いて、いい印象をもたないクリスチャンも多くいることを想像します。しかしながら、私の願いは天幕の周りで、同じ信仰や同じ考えをもっている人達と、互いの間にしか理解できない言葉や話題だけをして満足していてはいけないという危機感があります。世の中の人達の話す言葉で、話題で、関心の只中にもおられる神様を指差したく願っているのです。

しかしながら、これには常に注意が必要でして、幕を広げれば広げるほど、その杭が強固でなければならないということを実感するです。簡単にミイラ捕りがミイラとなってしまうからです。杭が強固であればあるほど、私達は遠くに綱を延ばすことができるのです。教会も今やその杭を強固にして外に出なければならない時なのかもしれません。「本質以外は寛容たれ」という言葉がありますが、杭という本質が強固であることが肝心なのであり、それが強固であるならば、私達は世のただ中に主の証人として出て行くことができるのです。

私達は常に前を向いて信仰をもって進行しようではありませんか。私達、個人的なこととして、私達は主の栄光のために何ができるのかを考えましょう。そして、考えるだけではなく、それにチャレンジしましょう。最近、思わされるのです。私達はよく聞きます「今、出来ることをしよう。後になってはできなくなるから」。その場合は私達の年齢やおかれている状況を意味して語られるのだと思います。

しかし、それはこのようにも考えられます。聖書は私達に永遠の命を約束している。それは強固な杭であって、その約束が変わることはありません。やがて私達も必ずそこに行くのです。そうであるならば、私達が今、生きているこの地上で起きる多くのことは全て逆立ちしても「天国では体験できないことなのです」。

朝、目覚めて朝日の眩しさを感じること、新鮮な空気を吸うこと、そして、夜、一日動かした体をベッドに横たえた時のなんともいえない安息感、これらは今だけしかできないことです。さらに私達が天国に行ったら、おそらく私達は与えられている賜物を使う必要がないと思われます。あちらでは、天幕を広げる時の緊張感、一歩を踏み出す時の勇気、そのようなものを体験する必要はないものと思われます。神の天幕の中に永遠に生きるのですから。すなわちこれらのことができるのは、この地上限定なのです。ですから今しか天幕を広げる時はないのです。

東京都中央区に聖路加国際病院があります。そこはあの有名な日野原重明医師が現在も現役の医者として活躍している病院です。日野原先生は1911年生まれですから、今年100歳となります。先生の持論は「人生は75歳から」だといいます。

私達は日野原先生とは同じではありません。やはり先生は特別なのだと思います。その気力においても、才能においても飛びぬけていらっしゃると思います。しかし、先生と私達の違いは、実はそんなに複雑なのではないと思われます。すなわち、先生と私達の違いは「幕を張る」「綱を伸ばす」ということに関して、先生は自らに色々な理由をあげて制限を設けなかったということです。先生はそれらを広げる、伸ばすという心がまえをもって、これまでの人生を歩んでこられたのです。誰しもが先生のような働きはできません。しかし、私達にも一人一人、自ら昨日よりも今日、今日よりも明日、広げることができる幕屋があるはずです。伸ばすことができる綱があるはずです。この地上でしか、できないこのことにチャレンジしようではありませんか。三つ目のことです。それは惜しむことなくということです。

惜しむことなく。

ある企業家が自分が成功しているビジネスについての講習会を開きました。立ち見が出るほどの人が集まりました。そこで彼は自分が何十年もかけて苦労して得たビジネスのノウハウを余すところなく話しました。側にいた部下は彼が成功の秘訣を全て語ってしまったので講演会の後に聞きました「社長、ちょっと話しすぎではないですか。今日、集まった人の中には同業者もたくさんいます。いいんですか」。社長は答えました「いいんだよ。今日の話を聞いて実際に惜しみなくそれをする人は100人に一人もいないから」。この言葉は社長の話を聞いて試みる人はたくさんいるということを物語っています。しかし、それを実際に惜しみなくし続ける人はいないということです。

私達の人生にもし違いがあるとするならば、それはとても単純なことです。その違いは大抵、その人の生まれや育ちではありません。その人がどこに住んでいるとか、どれだけの財産があるかないかでもありません。その違いはその人が自分がすべきことを「惜しみなくする」か「しないか」です。実に単純です。パウロはそのシンプルな真理を自然界の法則をもって説明しています。

「わたしの考えはこうである。少ししか撒かない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、強いられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のある方なのである Ⅱコリント第二の手紙9章6節‐8節

説明する必要もありません。種をまくのです。しかし、それが少しなのです。少ししかまかないから刈り取りも少ないのです。しかし、豊かにまくもの、すなわち惜しみなくまくものは、豊かに刈り取ることになるというのです。なんという単純な真理でしょうか。

今日、開かれているイザヤ書の言葉も言っていますねあなたの天幕の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張り広げ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」神様は私達が惜しまずに、神様の栄光があらわされるようにと幕を広げていくのならば、それに答えてくださるお方です。

先日、見事に失敗しましたが、再度、この礼拝を全世界に生中継しようと試みています。実際にその可能性は確認しましたので、後はKさんに助けていただいて、天井裏にもぐることによって、準備が整います。私達が試みようとしていることは最先端の技術を考えれば、きわめて初歩的なものです。語らせていただくメッセージも普通の牧師の普通のメッセージです。本心を言いますならば、ご理解できる方もいると思うのですが、自分の話した声とか、自分の写っている映像というものは。できることなら聞きたくないし、見たくもないものです。こんなに恥ずかしいことはないのです。ましてやその語っていることが、いたるところで視聴できるということは思いがけないリスクをともなうかもしれません。ですから、別にしなさいとも言われていないし、やらなければいいのです。しかし、そのような可能性があるならば、どうしてしない理由がありましょうか。全世界におります日本語による礼拝を求めている人がいますならば、そのことで一人の人が福音を聞くことが出来れば「恥はわが身、栄光は主のもの」という思いで惜しまずに綱を伸ばしたく願っています。

ローマ人への手紙8章32節においてパウロは言いました「ご自身の御子をさえ惜しまないで、私達全ての者のために死に渡された方が、どうして、御子のみならず万物を賜らないことがあろうか

父なる神様は惜しむことなくわが子を私達に与えられたのです。「惜しみなく」ということを最も痛みをともなう犠牲をもって自らお示しになられた神様は、私達が惜しむなく主のために天幕を広げ、綱を長くしようとしていることを最もよく知り、そして、それに豊かに報いてくださるお方だと信じます。あなたの天幕は何ですか。杭を強固にして、それを惜しみなく広げませんか。神様はあなたを祝福してくださるに違いありません。お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り                                2010年6月13日

1)イザヤ54章2節にはあなたの天幕の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張り広げ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」という御言葉が記されています。天幕を張る時に、杭はどのような役目をはたしますか。杭が強固でないと、どんなことが起こりますか。私達にとってこの杭とは何でしょうか。

2)私達が強固な杭を得たならば、私達は天幕を広げることができます。そのことにより、私達は誰がその栄光を受けることを望むべきでしょうか。ヨハネ15章8節を読みましょう。

3)マタイ25章14節-30節を読みましょう。一タラントを預けられた者はそれをどうしましたか。そのことに対して主人はどんな評価を与えていますか。ここに記されているタラントが私達にとっての賜物(神様から私達それぞれに与えられているギフト)であるならば、私達はその賜物をどうするように求められていますか。

4)自分の賜物が何かを知るのは難しいかもしれません。あなたが苦なく、喜びさえもってしていることに対して、誰かに「よく、そんな大変なことをしていますね」と言われたことはありませんか。もしかしたら、そのことがあなたの賜物かもしれません。そう考える時に、あなたの賜物は何だと思いますか。

5)イザヤ54章2節の御言葉には「惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」と書かれています。惜しむことなく主のために生きる人に対して、パウロはコリント第二の手紙9章6節‐8節にこう記しています「わたしの考えはこうである。少ししか撒かない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、強いられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のある方なのである」。私達ができることはそれぞれ異なります。神様の前にその大小は意味がありません。マルコ14章3節‐9節を読みましょう。イエス様は「自分ができることを精一杯した女性」(8節)を賞賛しました。私達も惜しむことなく主のためはたらきましょう。

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