目から鱗を取り除きましょう。

現在、この国では互いの違いというものに人々の思いが向かっています。そして、その違いが憎悪となったり、排斥となったりしています。確かに私達は皆、異なります。しかし「我々は神の前に互いに罪人である」ということにおいては同じ所に立つことができるのです。

すなわち、私達は誤り多き者であり、自分の我欲に突き動かされる者であり、失敗を犯すものであり、独りよがりであるということ、このことゆえに私達は同じなのだということに私達の思いが行く時に、初めて、私達の間に理解と共感というものが生まれてくるのです。そして、この人に対する視点をイエス様は私達にも望まれているのです。

諸事情により今週の礼拝動画、ポッドキャストはありません。

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目から鱗を取り除きましょう
2018年11月11日

眼から鱗がとれた」という言葉があります。これは目の上に鱗がかぶさっていて、見るべきものが見えていない状態であったにもかかわらず、その鱗がとれて見えるようになったということを示しています。そして、ご存知のようにこの言葉は聖書のある出来事からきています。

すなわち、かつてキリスト教徒を迫害していたパウロが(使徒行伝9章)、クリスチャン達を捕らえるために殺害の息をはずませてダマスコという町に向かっていた時に、彼は天からの強い光に照らされ、乗っていた馬から落馬しました。そして、三日間、その目が見えなくなってしまったというのです。

この視界を失ったパウロをアナニヤという人が訪ねたところ、彼の目から鱗のようなものが落ちて、彼の目が元通りに見えるようになったということが聖書には書かれています。

その鱗が取れた時、彼はそれまで失っていた視力を取り戻しました。しかし、実際には視力を取り戻しただけではなく、それまで知っていた世界とは異なる世界を彼は知り、その生き方が全く変わってしまったのです。

すなわち、それまではキリスト教徒を諸悪の根源と見ていた彼はキリスト者となり、今度は命をかけてキリストを伝える宣教者となったというのです。これは、およそ常識では考えられない劇的な変化だと思います。

私達も生まれてからこのかた、各々の視点をもって世界と人間を見ています。しかし、私達がキリストに出会うと、私達には新しい視点が与えられていくのです。そうです、まさしく目から鱗がとれるような経験をしていくのです。そこで、今日は3つのことを通して、この新しい視点についてみてまいりましょう。まず、最初に「人を見る視点」ということです。

人を見る視点

人間はどのように情報を自分の中にインプットしているのかという統計があります。それによりますと人は55%の情報を目から入れています。それは人の服装や立ち振る舞いです。そして38%は声の調子・話し方、すなわち耳に入る情報がインプットされ、残りの7%はその人の言葉や話の中身による情報だというのです。この統計によれば私達が誰かに対する印象の93%は「話の中身」以外の非言語的要素によって成り立っているということになります。

すなわち、私たちの人の見方というのは、「その人の中身」というよりも、その人の姿」であるということが分かります。

ルカによる福音書7章36節にこんな出来事が記録されています。あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとその時、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。

このところには3人の人が出てきます。すなわちパリサイ人がイエス・キリストを食事に招き、そこに一人の女が来て、泣きながらイエスの足に香油を塗ったというのです。

この光景はこの3人の目に見えるものであったと思います。当時は客を招き食事をしている部屋に外部の人も自由に入ることができたようです。そんな状況の中、町で罪の女として知られていた女が部屋に入ってきたのです。「罪の女」と呼ばれる女がどんな女であったのか、あえて説明するまでもありませんでしょう。

この女がイエス様の足元に跪くと自分の涙でイエスの足を濡らし、髪の毛でそれをぬぐい、そして足に接吻して香油を塗ったというのです。

この光景を見ていたパリサイ人は心の中で思ったのです「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女が誰だか、どんな女か分かるはずだ。それは罪の女なのだから」。

このパリサイ人の言葉をもっと単刀直入に言いましょう。すなわち彼は「もし、この人が本当に預言者であるなら、自分の足を洗っている女がどれだけこの町で悪名高い女であることぐらい分かるだろう。なぜ、そんな汚れた女が足を洗うことを咎めないのか、やめさせないのか!」。

なぜ彼が言うようにイエス様はその女を咎めなかったのでしょうか。・・・・なぜなら、イエス様の目に彼女はそのようには映らなかったからです。この女について、続くルカ7章44節―47節にこんなイエスの言葉が書かれています。

この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

パリサイ人にこの女は「罪人」としてしか見えなかったのです。しかし、イエス様はこの女を「赦された罪人」として見えました。

私達、神の前にあって、いかなる人も共通点があります。それは誰しもが神の前に罪人であるということです。ある人達は「いいや、私は罪人などではない」と憤慨しますが、それは聖書によりますと「自己判断に基づいて、自分は罪人ではない」と言っているということで、「誰もが罪人」ということは「私達が全知全能の神の前に立つ時」のことを言っているのです。

アメリカにおりますと互いの違いというのが明確に分かります。肌の色は違いますし、言葉や文化も違います。同じ日本人、同じアメリカ人であっても、その考え方や生き方も違います。

しかし、私達全ての人間に共通することがあります。それは私達、全ての者は「神の前に罪人である」ということです。このことにおいて私達の間に違いはありません。そして、同時にそんな私達は誰もが主イエス・キリストの十字架により、その罪が赦されうる者なのです。このことゆえに、この罪人がさらに二つの部類に分けられるのです。そうです、私達は「罪人」か「赦された罪人」かということなのです。

現在、この国では互いの違いというものに人々の思いが向かっています。そして、その違いが憎悪となったり、排斥となったりしています。確かに私達は皆、異なります。しかし「我々は神の前に互いに罪人である」ということにおいては同じ所に立つことができるのです。

すなわち、私達は誤り多き者であり、自分の我欲に突き動かされる者であり、失敗を犯すものであり、独りよがりであるということ、このことゆえに私達は同じなのだということに私達の思いが行く時に、初めて、私達の間に理解と共感というものが生まれてくるのです。そして、この人に対する視点をイエス様はあのパリサイ人に望まれ、また私達にもそのように望まれているのです。

パウロの目の前の鱗は自分と同じ信条をもたないキリスト教徒への迫害と殺意へと彼を駆り立てました。私達の目にもこのような鱗がありませんでしょうか。私達がイエス・キリストに出会い、このお方の心を知る時に、この鱗がとれます。そして、そこに私達は神の前にある人間を見るのです。二つ目の視点についてお話ししましょう。

真実を見極める視点 

私達の目から鱗がとれます時に見えるようになることがあります。それは「真実を見極める目」ということです。 

マルコ14章3節―9節にはこんな出来事が記されています。③イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。④すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。⑤この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。⑥するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。⑦貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。⑧この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。⑨よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

ここにもひとりの女と香油が出てきます。今度はらい病人シモンの家にいたイエスの元に、一人の女がやってきて、持っていた石膏のつぼを割り、その香油をイエスの頭に注ぎかけたというのです。

そしてここにもこの女を見ていた人達がいました。厳密に言いますと、彼らはその女よりも「一目で高価と分かるナルドの香油が入った石膏の壺」を見ていたのです。

ゆえに彼らは「この女の心」に対しては完全に目がふさがれていました。ですから彼らは「なんのためにこの香油を無駄にするのか」と憤り、女を厳しくとがめたのです。しかし、それに対してイエスは、香油云々と言うことなく、「女は私によいことをしてくれたのだ、出来る限りのことをしたのだ」(6,8)と言いました。 そう、イエス様は彼らのように香油を見ていたのではなくて、彼女の真実な心を見ていたのです。

ここには大きな視点の違いがあります。かたや「無駄なことを!」、かたや「良いことをしてくれた!」。「無駄なことを!」と言った者達はイエス様が見ていたものを見ていなかったのです。

イスラエルの初代の王にサウロという人がいました。彼には色々と問題があり、次の王を神が選ばれたという記事が聖書のサムエル記上16章に書かれています。

読んでみましょう。6彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思った。しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。

新しいイスラエルの王を探すために、神様はサムエルという預言者をエッサイという8人の男の子を持つ父の元に送ります。そして、まず最初にサムエルの前にはエッサイの長男、エリアブが立ちました。彼を見て、おそらくその外観と存在感というものをサムエルは感じ取ったのでしょう、「自分の前にいるこの人こそ、主が油を注がれる人だ」と思いました。しかし、主はサムエルに言われたのです「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」

私達がイエス様に出会う時に、私たちに与えられる視点はこの神の視点であり、それは「目の前で変化する物事」に注がれるのではなく「その物事に関わる人の心」、もっと言いますと「その人の真実」に目が向けられるようになるのです。

イエス様が言われた「この女はできる限りのことをした」ということは、そこに彼女の真実な心があったということです。たとえ彼女がしたことが人の目に奇妙で無駄なことに見えたとしても、イエス様はその心を見つめ、そこにイエス様に対する真実な思いを見出し、それを高く評価したのです。

私たちの目も“物事・出来事”ではなく、その‟人の心の真実さ”に注がれていくべきであります。「人間関係」という言葉が巷ではよく聞かれますが、本当の人間関係は「こうしていただいた、ああしていただいた」という目に見えることだけではなくて、このように目には見えない、人の心の真実をくみ取るということ、ここにまでいたって構築できるものなのです。

神の視点

私達の目から鱗がとれます時に見えるようになること、その三つ目の事は「神の視点」ということです。

私はアメリカに住むことによって、考え方が色々と変えられました。その多くは「こうでなければならない」とか「こうであるべきだ」という考え方が変えられたということです。それは「神に対する信仰」ということにおいても同じです。

時に私達の信仰生活の形にはその国の国民性が出てくることがあります。そして、そのことに対して、どの国の信仰が一番いいというようなことを私達は判断することなどできません。日本にいる時は「こうに違いない」と思っていたことも、実はそれは日本だけで評価されていることであり、世界では全く誰も異に介さないというようなことはけっこうあります。

マルコムXというイスラム教徒の指導者がいました。私たちはM Lキング牧師をよく知っていますが、彼と同時代に生きたイスラム教のリーダーです。彼はよくキング牧師と比較されます。キング牧師が非暴力主義者であるなら、マルコムは過激な暴力すらも辞さないリーダーとして見られます。彼は自分の民族性というものを大切にし、他の民族に対して心を閉ざしていました。

しかし、その彼は1964年、イスラム教徒にとっての聖地であるメッカを巡礼した時に、その地において世界から集まる人種の間に隔たりがないのを見て、驚き帰国するのです。それから彼は自分の信条というものは、自分の属する民族だけに適応されるものではなく、それはこの地球上の誰にでも適応されるものであるということを見いだしたのです。

この経験を境に彼の過激さは薄れていき、キング牧師との歩み寄りも進んでいたというのです。しかし、彼はそのような中、1965年に暗殺されてしまいます。そして、それから3年後にキング牧師も殺されました。マルコムXは自分の住む土地を離れて世界を見た時に、目が開かれました。 皮肉なことに彼の目から鱗が取れかかっていた時に、その鱗のある者達によりマルコムXもキング牧師も殺されてしまったのです。

イエスの12弟子の一人にペテロという人がいます。彼はユダヤ社会の中を生きた人です。すなわち旧約聖書における神の救いとはユダヤ人に向けてなされるということを当たり前のこととして、受け止めて彼は生きてきたのです。しかし、そんな時、彼はこんな経験をするのです。使徒行伝10章9節―16節を読んでみましょう。

 ⑨翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。⑩彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。⑪ すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。⑫その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。⑬そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。⑭ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。⑮すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。⑯こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。

彼の前に天が開かれて、そこに大きな布のような入れ物が四すみを吊るされて地上に降りてきましたその中には地上の四足の動物や這う動物、空を飛ぶ鳥などの生き物が入っていた。これらは全て旧約聖書において「食べてはならないもの」、「きよくないもの」として、書かれていたものです。しかし、ペテロに聞こえてきた声は「それを食べなさい」というのです。ペテロは言いました「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」しかし、その声は言いました「神がきよめたものを、清くないなどど言ってはいけない」。

当初、ペテロはこの夢について当初、戸惑っていたようですが、後に続く34節―35節でこう言っています「神は人をかたよりみない方で、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました」

この夢はキリストの教えがユダヤ社会という限定された民族から世界の全ての 民族に広がるための突破口となりました。クリスチャニティーはこのペテロの幻がなければ今日のように世界に広まっていなかったかもしれません。

ペテロもかつてはパウロのようにその目の前に鱗があるような人でした。そうです、彼は自分の視点でユダヤ民族、そして他民族を区別して見ていました。しかし、この夢を通して彼は自分の視点とは異なる神の視点というものを知ったのです。

主にある皆さん、合衆国も日本も今、諸々のことに直面しています。私達が本当に必要なのはこの神の視点です。私達の視点はとかく「私達の我欲や損得」という鱗に覆われてしまうことが多々あります。そのような視点で私達は世界を見ており、そのスケールは非常に小さいのです。ですから、神様にこの鱗を取り除いていただいて、この世界を、私達を、神様はどのように見ているのか、その視点を私達の視点とさせていただきましょう。それらに注がれている神の視点はどのようなものなのかということに祈りと思いを寄せましょう。

私達は今朝、3つの視点について見てきました。「人を見る視点」、「真実を見極める視点」 、そして「神の視点」です。  これらの視点はなかなか私達が持ち合わせることができないものであり、これらの事に対して私達は目の前に鱗を有するものです。

この鱗があり、私達が見るべきものを見ていないのなら、私達の行く手にあるものにぶつかったり、それゆえに衝突や争いが起きたり、大切な判断を見誤ったりすることを避けることはできないでしょう。この混迷した世界で、私達が必要なのはまさしく、神様が私達に与えてくださる開かれた視点なのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年11月11日

1)「眼から鱗がとれた」という言葉から、あなたはどんな意味をそこからくみ取りますか。どんなイメージを思い浮かべますか。

 

2)パウロの目の前にあった鱗とは何だったと思いますか(使徒行伝9章)。パウロが視力を失った三日間、彼はどんなことを考えていたと想像しますか?

 

3)ルカによる福音書7章36節―39節を読みましょう。もし、あなたがその場に居合わせたら、どんな思いをもってこの女とイエス様を見ていると思いますか。イエス様はどんな思いでこの女性を見ていたと思いますか。

 

4)パリサイ人が「それは罪の女なのだから」(9)と言った時、彼が忘れていたことは何ですか。

 

5)ルカ7章44節―47節を読みましょう。イエス様はここで罪人を二つに分類しています。それはどんな分類ですか。

 

6)マルコ14章3節―9節を読みましょう。ここに居合わせた人達とイエス様の視点には大きな違いがありました。それは何ですか。イエス様は何を見つめていましたか。このイエス様の視点を私達はなぜ見失いがちなのですか

 

7)使徒行伝10章9節―16節を読みましょう。このことによりペテロの目からどんな鱗がとれましたか。ペテロの視点と神様の視点の違いは何ですか。

 

8)この世界のどこに神様の視点の欠如を見ることができますか。

 

9)どうしたら私達は神様の視点をもって、この世界を見ることができるのでしょうか。

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