聖霊の助けを見過ごさない

もし皆さんが愛する家族とこの世で最後の食事をする時、何をその食卓で語りますか。言うまでもなく、その場は彼らに直接、語ることができる最後のチャンスなのですから、どうでもいいことは話しませんし、どうしても彼らに伝えたいことを語るでしょう。そのような場面がイエス・キリストの生涯にもありました。そうです、イエス・キリストが十字架にかかる前夜、弟子達と最後の食事をした時のことです。そう、私達が俗に言います「最後の晩餐」の食卓の席です。ご存知ですか、イエス様が弟子達と引き離される直前、イエス様はその食卓で四度、繰り返しある約束を彼らに語ったのです・・・。

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聖霊の助けを見過ごさない。
2017年11月12日

先週、私達はローマ8章において24回も「霊」について触れられていることをお話ししました。そして、その8書の前の7章においては「わたし」という言葉が31回も記されており、その7章でローマ書を書いたパウロはこの「わたし」を用いて自分は善を知りつつも、それをする力がないということを告白していると話し、そのような意味では7章と8章はとても対照的であるとお話ししました。

すなわち7章における罪の前に無力で絶望的な自分に対して、パウロは8章において「聖霊」というものに触れ、その聖霊はいつも私達と共におり、罪の前に無力となっている自分を変えうる力があるということをお話ししました。

これらのことを踏まえながら、今日はさらにこの聖霊のはたらきについてお話しをします。なぜ説教者はこのように聖霊のはたらきをスキップして先に進まないのでしょうか。なぜなら、この聖霊こそがイエス・キリストが私達に約束された最大のギフトだからです。

もし皆さんが愛する家族とこの世で最後の食事をする時、何をその食卓で語りますか。言うまでもなく、その場は彼らに直接、語ることができる最後のチャンスなのですから、どうでもいいことは話しませんし、どうしても彼らに伝えたいことを語るでしょう。そのような場面がイエス・キリストの生涯にもありました。そうです、イエス・キリストが十字架にかかる前夜、弟子達と最後の食事をした時のことです。そう、私達が俗に言います「最後の晩餐」の食卓の席です。ご存知ですか、イエス様が弟子達と引き離される直前、イエス様はその食卓で四度、繰り返しある約束を彼らに語ったのです。

ヨハネ14:16-17「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは、真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない」

 ヨハネ15:26「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それは私についてあかしをするであろう

ヨハネ16:7-8「しかし、わたしは本当のことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もしいけば、それをあなたがたにつかわそう。それが来たら、罪と義と裁きについて、世の人の目を開くであろう

ヨハネ16:13-15「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊は私に栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」

 イエス様は差し迫る最後の時、限られた時間の中で「助け主なる聖霊があなたがたのもとにくるであろう」ということを、繰りかえし、繰り返し話されたのです。なぜ、何度も何度も聖霊について語られたのでしょうか。なぜなら、そのことはイエス様にとっても私達にとっても最重要なことだからです。言うなればイエス・キリストが目に見える存在として今、私達の前にはいないこの時代、私達がキリスト者として生きていくにあたり、最も大切なものは聖霊であるということであり、私達のクリスチャンライフとはすなわち、この聖霊のはたらきにかかっていると言っても過言ではないのです。

この聖霊の働きというものが聖書の中には数多く記されていますので、その中から今日はいくつかのことをお話しします。まず最初に「聖霊は私達に語りかける」ということです。

聖霊は私達に語りかける

ヨハネによる黙示録にはこのような言葉があります。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにある命の木を食べさせよう」(黙示録2章7節)。

言うまでもなく、ここには聖霊は私達に語りかけるお方であるということが記されています。そうです、聖霊は私達に語りかけ、私達の進むべきディレクションを示されるのです。

使徒行伝8章29節には「御霊がピリポに近寄って、あの馬車と一緒に行きなさいと言われた」と書かれています。聖霊は伝道者ピリポに「あの馬車と一緒に行きなさい」と語られました。その馬車に乗っていたのはエチオピアから来ていた宦官でした。ピリポはその宦官に福音を語り、この宦官はイエスを信じたのです。彼はきっとその受けたものをエチオピアに持ち帰ったことでしょう。今日、アフリカ諸国の多くがイスラム教を信仰しているのに対して、エチオピア人の半分はキリスト教徒であるということがこの出来事を裏づけています。

聖霊は私達に語りかけます。「あなたが今なそうとすることは正しいことなのか」「そうではなく、こうするべきでないか」これらの聖霊の語りかけはどちらかと言いますと、耳元で囁かれるというよりも、私達の心に神が語りかけてくれるものでありましょう。それを聞き逃すことなく、その言葉に聞き従っていく時に私達は諸々の試みから守られ、また私達の思いを超えたことが起きてくるのです。

ヨハネはイエス様の言葉として、その聖霊の私達に対する語りかけについて具体的にこのような言葉を記録しています。「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなたがたに全てのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」(ヨハネ14章26節)

ここには聖霊は私達に教えてくださる。また、聖書の言葉を思い起こさせてくださると書かれています。これは大切なポイントです。そうです、聖霊は私達に「主イエスが既に語りかけている」ことを思い起こさせてくださる。これは何を意味するかと言いますと、それは言うまでもなく聖書の言葉です。すなわち、聖霊は私達が進むべき道を、聖書の言葉を私達に思い起こさせることによって示してくださるのです。

「思い起こさせてくれる」ということは、既にその思い起こされる言葉を私達は知っていなければなりません。知らない、聞いたこともない言葉を思い起こすことはできないからです。ですから、私達は教会に来て聖書の言葉を学び、日々、聖書を読むことが進められるのです。その言葉を多く知れば知るほど、心に蓄えれば蓄えるほどに、当然、私達が思い起こす言葉は増えていくからです。そして、その思い起こされる言葉が私達を守り、私達を祝福します。

二つ目の事、それは「聖霊は人格をもつ」ということです。

聖霊は人格をもつ

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」(エペソ4章30節)。

私達はブラジルで今日、青年たがち親に反抗しているというニュースを聞いても泣くことはありません。でも、それが自分の子供になると私達は涙します。どうしてこうなったのか、何が問題なのか、色々と考え悩み悲しみます。私達の悲しみはその相手がどれだけ自分と近い人であるかということによって、大きくなります。聖書は聖霊が私達のために悲しむといいます。なぜですか、聖霊は私達にとても身近な存在だからです。

イエス様は神の子としてこの地で生きられましたが、わたしたちと同じような感情をもって生きました。同じように聖霊も私達の言動によって悲しむお方であり、また悲しむのであるならば、その反対に私達を喜ぶお方でもあるのです。

公の場で、誰も見ていない場所において、はたして聖霊は私達を見て悲しんでいるのでしょうか、喜んでいるのでしょうか。私達の心からの願いは聖霊が喜ばれる生き方をすることです。実に聖霊は私達と同じ人格をもち、私達を見て、喜び、悲しむお方です。

聖霊と私達との関係が離れているのであるならば、聖霊は私達のために悲しむ必要などありません。しかし、聖霊は私達に近く、私達に起きる事柄に深い関心をもっています。聖霊は私達と常に共におられ、私達のために日々、様々な語りかけをされています。ですから、私達はこの聖霊を悲しませてはいけません。聖霊を悲しませないために私達がなすべきことは、この聖霊のはたらきを無視しないことです。私達は常に、この聖霊のはたらきかけに心を向けているべきです。

ヨハネの手紙14章、15章、16章でイエス様は聖霊のことを「それ」と呼んでいますが、ギリシア語の原文では聖霊を「彼、その方」と呼んでいます。すなわち、すなわち聖霊は霊的な物質ではなく、私達の心内を理解する人格をもつお方なのです。それゆえに人と人が向き合って話し合いをするかのごとく、私達は聖霊と共に私達が直面していることに向き合い、聖霊の導きをいただきながら決断をするのです。使徒行伝にこのように書かれているとおりです。

「すなわち聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた(使徒15:28)。

この言葉は聖霊が人格をもつ存在として、私達の相談相手となってくださり、そのことによって決断に導かれた様を記しています。この言葉は弟子達が一つのこと決める時に、その決断は自分たちの思いだけでしたのではなくて、その決断は「わたしたちと聖霊」とによって決められたのだというのです。私達の決断、デシジョン・メイキングの場に聖霊様も列席していただき、その御声に私達が耳を向けるということです。いかがでしょうか、私達はどれくらい、私達のあの決断、この決断の中に聖霊の語りかけを取り入れているでしょうか。

さらにはこの聖霊は人格を持つゆえに私達のために言いようもない深いうめきと共に私達の祈りを神にとりなしてくださるとローマ書は記しています。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私達は、どのように祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私達のためにとりなして下さいます」(ローマ8:26)

私達は祈れないということを経験します。そもそもどんなに私達が美しい言葉を使って祈っても、私たちの言葉は全知全能の神の前には足りない言葉なのです。しかし、そのような時に聖霊は私達のためにとりなしの祈りをしていて下さる。しかも、私達の苦しみとか痛みというものを全て自分の苦しみと痛みとするかのごとくに「言いようもない深いうめき」によって私達のために神にとりなし、祈っていてくださるのです。

イエス様が自分に代わるものとしてこの世界に送られた聖霊はまさしく私達と人格的に交わることができる存在として、いつも私達と共におります。この聖霊とともなる生活をしないということによって、どれだけ大きな益を私達が失っているか私達は知っているでしょうか。最後です。それは「聖霊は真理を見分ける」ということです。

聖霊は真理を見分ける

御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、誰が知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には知るものはない(第一コリント2章10節、11節)。

この世にあって私達が本当に必要とすることは、物事の上っ面だけを見て一喜一憂することではなく、その深みにまで目を注ぐことです。日々の生活をしていく時に、どれだけ一つ一つの事象の背後にあるものを見極めることができるかということはとても大切なことです。どこに真理があるのか、どこに善悪の一線があるのか、このことを見極めることは私達にとって不可欠なことですが、私達はなかなかこのようなことを成すことができません。

子供はやがて世に出ていきます。もしかしたら、彼らは聖書に記されている放蕩息子のように生きるかもしれません。世界はまさしくコンクリート・ジャングル、隙あらば、私達を誘惑し、騙し、根こそぎ私達が持っているものを奪おうとする輩はいくらでもいます。聖霊はそのような中、何が真(まこと)なのかということを私たちに示してくださいます。

以前、ある方が話してくれました。その方がある人にビジネスを一緒にしないかと誘われたというのです。話を聞いていると確かに多くの利益を得ることができるような話なのですが、どうしても心の中に平安がなく、心が騒ぐというのです。そこで、彼は勇気をもってその誘いを断りました。しばらくして分かったことは、その決断が確かに正しかったということでありました。その時、聖霊様が表向きにはいい話に思えるその背後にあるものを彼に示してくださったのでしょう。

このようなことはどのようにして獲得できるのでしょうか。それは常に自らを霊の世界に身を置き続け、その霊を感知することによって得ることができると信じます。子供は何も分かっていないと私達大人は判断しがちですが、子供達が教会に来て、親と共に祈祷会に出てるとか、集会に出席しているということ、たとえ彼らがその話されことはていることを理解できずとも、彼らはその所で、文字通り全身で教会の中ではたらく聖霊のはたらきを受け止め、霊的なことを察知する感覚を身に着けているのです。

やがて彼らは親元を離れていき、自らの責任のもと、諸々のことを選び取っていかなければならなくなります。その時に彼らが親と共にきていた教会で、聖霊ののはたらきの中に身を置いて育まれていたのであるのならば、御霊が語られるものを感知し、生活のそれぞれの場面で、聖霊により「主の言葉を思い起こす」ことができるのなら、彼らは「ああ、ここは自分がいるべき場所ではない」「この話は何かおかしい、関わるべきではない」ということを知るようになるのです。このことがどれだけ将来、彼らを救ってくれることでしょうか。

ここまでお話ししてきました聖霊のはたらきについて思いめぐらしますのなら、なぜ、イエス様はご自身が天にのぼって、弟子達の前から姿をなくす前に何度もこの聖霊についてお話になったかお分かりになられたのではないかと思います。

そうです、イエス様が弟子達を残して天に帰られた後、この聖霊はイエス様が弟子達一人一人になされた具体的なことと等しい、いやある意味、肉体をもたれているゆえに、その働きの時と場所が限定されていたイエス様に対して、この聖霊のはたらきはそのような制限を一切、受けずに、今、この時も私達と共にあり、そのはたらきをなしていてくださるのです。

この聖霊は私たちの日常生活の細部にいたるまで、様々な助けとなってくださいます。なぜ、そこまでしてくださるのか。先週、申しあげましたようにイエス様は自分がなされた約束、「あなた方を捨てて孤児とはしない」という言葉に忠実なお方であるからです。

まだ誰も踏み出したことのない明日に向かう時に、私達は何をもっていけばいいのでしょうか。前人未踏の明日という日に、聖書は何を持って私達は出て行けばいいとアドバイスをしているのでしょうか。今日、お話したことにより皆さんは答えが分かっていることでしょう。そうです、聖霊です。私達はこの日々の生活に起きる様々な事柄に聖霊と共に向き合い、それを乗り越えていくのです。ですから私達はもっともっと聖霊の働きに敏感になり、そのはたらきに寄り頼もうではありませんか。そうする時に私達の生活は必ず、変わるのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり

2017年11月12日

1)あなたは愛する者達と人生最後の食卓を囲むときに何を話しますか。ヨハネ14章16節-17節、15章26節、16章7節―8節、16章13節-15節を読みましょう。この言葉がイエス様から語られた時の状況はどんな状況ですか。

 

2)ヨハネ黙示録2章7節、使徒行伝8章29節を読みましょう。あなたは「あれは私に対する聖霊の語りかけだったな」と思い起こされるようなことがありますか。

 

3)ヨハネ14章26節を読みましょう。聖霊は「わたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」ということはどういうことですか。なぜ聖書をよく読んで学ぶことは大切ですか。

 

4)エペソ4章30節を読みましょう。「聖霊が悲しむ」というところからあなたはどんな思いを持ちますか。聖霊はあなたにとってどんな存在ですか。

 

5)使徒15章28節を読みましょう。聖霊と共に物事を考え決断するということをあなたは心がけていますか。このことはどのようにしてなされるのでしょうか。

 

6)ローマ8章26節を読みましょう。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私達のためにとりなして下さる」ということを知る時に私達はどんな励ましと慰めを受けますか。

 

7)第一コリント2章10節-11節を読みましょう。あなたは物事の表面だけを見るのではなく神の深みまで掘り下げられて日常の出来事を見たいと思いますか。このようなことはどうしたら可能になりますか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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