お勧めの靴があります。 

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今日、礼拝でお話したメッセージです。

よかったらどうぞ。

お勧めの靴があります。                             2010年1月31日                             エペソ6章10節-20節

10最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15平和の福音の備えを足にはき 16その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。

私達は「自分の足で立つ」という教会標語と共にこの一年を歩んでいます。そして、礼拝では「試み多きこの世に立つ」というテーマでエペソ書から見ております。ここにいたるまで私達は「真理の帯」、そして「正義の胸当て」というものを見てまいりました。これらは全て私達が試み多きこの世に自分の足で立つために必要不可欠なものであります。そして、今日はその後に記されています「平和の福音の備えを足にはき」ということについて幾つかのことをみていきたいと思います。

子供の成長というものは早く、ついこの間、買い与えた子供のズボンの丈が短くなっており、くるぶしぐらいまでしかないものをはいていることがあります。ピエロやチャップリンのような喜劇役者ならまだしも、身の丈に合わない短いズボンというものは決して見栄えのいいものではありません。

同じことが靴にもいえます。子供の成長と共にやがて靴は小さくなり、はけなくなります。そして、それだけではなく子供は日々激しく動いていますから、靴もすぐに汚れ、傷みます。そして最終的には新しいものを求め靴屋に行くことになります。

靴屋に行きますと子供たちは自分の好みの靴を探します。そして、いいものを見つけたら値段と相談して、それを買います・・・。いいえ、買う前に必ずすることがあります。そうです、まずそれを履いてみるのです。それが足にフィットするかどうかを確認するのです。このところに大切な真理があります。それは、新しい靴を履くためには、まずそれまで履いていた靴を脱がなくてはならないということです。今日、開かれている「エペソ書」は私達に「平和の福音の備えをはき」とある靴を履くようにと薦めています。そして、それはそれまで履いていた靴を脱がなければできないことなのです。

興味深いことにこの靴を脱ぐということについて聖書にはいくつかのことが書かれています。そして、おそらく多くの方々このことでまず思いおこす人というのはモーセであり、ヨシュアではないかと思うのです。

モーセは奴隷の立場であるヘブル人でありながら当時世界最高の文明国家であったエジプトの王子として、将来が約束された身分を与えられていました。しかし、自分の力を過信し、当時エジプトに奴隷となっていた同胞の仲間を救おうとして殺人を犯し、それが原因で窮地に陥り、命からがらエジプトからシナイの荒野に逃げ、そこで朝に陽がのぼり、夕にそれが沈む、そんな太陽を毎日ただ眺めているだけのような変化のない生活を40年過ごしたのです。そんな時に神様から「エジプトに囚われている同胞のへブル人達を救い出すように」という声を聞くのです。

彼はかつてエジプトで最高の地位に居ながら、何の刺激も力もない荒野へと身を落として何十年も生きてきましたから、そのような神様の語りかけに自信を持つことができずに恐れたようです。そんな彼に神様は「あなたの足から履物を脱ぎなさい」(出エジプト記3章5節)と命じられたのです。舗装された今日の道を裸足で歩くことはそんな大変なことではないかもしれません。しかし、ゴツゴツとした岩が重なる荒野、どんな生き物が地中にいるか分からない土地を裸足で歩くことは死を意味します。しかし、神様は彼にそんな自分の命を支える履物を脱ぐことにより、自分の能力に頼るよりも神にのみ頼ることを確認させたのです。

一方、このモーセの死後、そのリーダーシップを継いだヨシュアは若い時からモーセの側に仕えた優秀な従者であり、根っからの軍人として生きてきました。よく言われますが隊長と副隊長の違いは、言葉でいえば「副」があるかないかなのですが、その責任とプレッシャーということを考えますならば、それこそ天と地の差があります。指導者モーセのはたらきを間近に見ていたヨシュアも実際にイスラエルの民をリードする責任を負ってはいなかったので「自分ならこうする、もっとこうすればいいのに」というように色々なことを考える余裕があったことでしょう。

そして、そのような理想が多く彼の内に貯えられますから、彼がいよいよリーダーとして立つという時には身震いするような情熱がその心にはあったに違いありません。しかし、そのヨシュアにも神様はモーセと等しく同じ言葉を語りかけました「あなたの足から履物を脱ぎなさい」(ヨシュア記5章15節)。神様はモーセの後を引継ぎ出で行こうとするヨシュアに対しても、まず自分の思いや経験に頼るのではなく、履物を脱がせることによって、神にのみ寄り頼むことを教えられたのです。

のように聖書が記している靴を脱ぐという行為には「自らにより頼むことをしない」「自らを神に明け渡す」「自らの全てを神に委ねる」という意味がありました。ということはすなわち今日、「平和の靴の備え」を履くようにと薦められている私達はまず、「自身に寄り頼んでいた生き方から、神に寄り頼んで生きる生き方」を選ばなければならないということです。そのことをしてからパウロが言っている「平和の福音の備え」を履くことができるということなのです。このあたりのことをもう少し詳しくお話しましょう。

実は今まで、「靴を脱ぐ」ということについて聖書の中から幾つかをお話しましたが、今度は聖書の中における「靴を履く」ということがどんな意味を持っているかということを見て生きたいと願っています。興味深いことに、聖書は「靴を履く時」について幾つかのことを言及しています。その内の二つを読ませていただきます。

まず最初に旧約聖書の歴代誌下28章14節-15節です。

14そこで兵卒どもがその捕虜とぶんどり物をつかさたちと全会衆の前に捨てておいたので、15前に名をあげた人々が立って捕虜を受け取り、ぶんどり物のうちから衣服をとって、裸の者に着せ、また、くつをはかせ、食い飲みさせ、油を注ぎなどし、その弱い者を皆ろばに乗せ、こうして彼らをしゅろの町エリコに連れて行って、その兄弟たちに渡し、そしてサマリヤに帰って来た。

このことだけを呼んでもその背景が分からなければ何のことなのか分からないと思います。短くご説明します。ここに記されている人達とは、紀元前720年頃の捕虜として囚われていた南ユダ王国の人々の姿で、その彼らの悲惨な状態に対して、神様が「裸の者に着せ、また、くつをはかせ、食い飲みさせ、油を注ぎなどし、その弱い者を皆ろばに乗せる」ようにと彼らを憐れまれたという出来事です。

もう一つは有名なイエスが語られた新約聖書のルカ15章11節-24節に記されている放蕩息子の譬話です。イエスはこんな譬を話されました。 ある人に、ふたりの息子があり、その弟が父にその財産のうちで自分がもらえるものを求めました。そこで、父はまだ自分が生きているにもかかわらず、この兄と弟にその財産を分与してやったというのです。そうしますと、それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして全ての財産を使い果したてしまいました。何もかも無くなってしまった上に、その地方にひどい飢饉が起こり、食べることにも窮しはじめました。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところ、そこの主人は彼に畑で豚を飼わせたのです。彼は、飢えており豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、誰も何もめぐんではくれませんでした。そこで、彼は本心にかえって、食物のあり余っている父のもとに帰り、そこで雇い人として働かせてもらおうと思い、家路につくのです。しかし、父はその子がまだ遠くにいるのに、それを認め、哀れに思い走りより、彼の首に接吻し、最上の着物を着せ、指輪を手にはめさせ、そしてその足にはきものを履かせたのです

この歴代誌下とルカ伝に記されている事柄の間には何千年もの隔たりがあるのですが、一つの共通点があることにお気づきになりましたか。これらの話に出てくる者達が靴、もしくは履物を履かされたということに、同じ意味があったことにお気づきになりましたか。そうです、彼らが靴を履かされたということは、かつての彼らの惨めな状態が神様によって回復されたということを意味しているのです。加えて申し上げますならば、彼らの「誉が回復されたこと」を意味しているのです。

それでは、靴を履くことによって誉れが回復されるということ、それはどんな意味なのでしょうか。このことをお話しすることによって、今日、見ております「平和の福音の備え」とは何であるかということが分かるかと思います。すなわち「神に寄り頼む」ということと、この「平和の福音の備えを履く」ということが無関係ではないということが私達に分かってくるのです。

そもそも今日、私達に身に着けなさいと言われている「平和の福音の備え」の「平和」とは私達が普段使っている「平穏無事」「何も起こらない平凡な日々」というようなものとは異なります。争いのない、紛争のない世界を意味しているのではありません。この平和について明らかにパウロの頭にあったことは、ローマ5章1節‐2節に記されていることであったと思われます。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。彼が平和ということを考えた時に、その平和とは「主イエス・キリストによる神との平和」ということでした。いったい「主イエス・キリストによる神との平和」とは何を意味するのでしょうか。

以前もお話しましたが「フォーレスト・ガンプ」という映画の中で、ベトナム戦争で両足を失い帰還したダンという軍曹が出てきます。車椅子と共に帰国した彼を待ち受けていたものは国のために両足を失った彼に対するリスペクトではなく、反戦運動で揺れるアメリカであり、彼は自分の居場所を見つけることができずに怒りを伴った荒れすさんだ生活をし、その人間関係はことごとく壊れていきます。唯一彼が心を許すことができたのは、ベトナムで自分の部下であった、この映画の主人公のガンプだったのです。そんなある時、二人はガンプ所有のエビ漁の船にのり漁にでます。

しかし、その時に物凄い嵐にあいます。その時、ダン軍曹は暴風の中、船のマストにしがみつきながら、まるで神と格闘するかのようにそれまでの自分の心にあるありったけの苦々しい思いを全て神様にぶちまけるのです。やがて嵐が過ぎ去った後、彼はそれまでは見せたことのない穏やかな顔をして、波ひとつない静かな海に身を投じ、仰向けになって浮かぶのです。その時にガンプの声でこんなナレーションがはいります「ダン軍曹はその時、神と和解したのだ」と。

この映画の製作者がこのシーンで何を伝えたかったのか私には分かりません。ただ、一つ分かるのは、この日を境に彼の生き方が変わるのです。それまでは怒りに満ちていた表情や言動が全く穏やかなものとなるのです。すなわち彼が神と和解をした時に、彼自身の心の中に平和が訪れたのです。

この映画の最後にダン軍曹は背広を着て、一人の女性と手をつなぎ幸せそうにガンプのもとに歩いてくるのです。そうです、彼は歩いているのです。なぜ?彼はその足に義足をはめているのです。そして、彼はその女性と結婚するというのです。本当に幸せそうな二人の姿が銀幕に映し出されるのです。かつて盛り場でリッカーボトルを壁に投げつけて暴れていた彼の姿はそこにはもはやないのです。

皆さん、神との平和とはそのようなものです。それまでの自分の心のあらゆる問題、憎しみ、恨み、怒り、後悔、それら全てを神の前に持ち出し、それらのものが全てイエス・キリストの十字架によって赦されているということを信じるということです。それにより、私達は神との平和を得るのです。そして、そのことにより私達は自分の心にも平和を回復することができるのであり、それがひいては他者との平和へと変えられていくのです。

皆さん、私達が履くようにと言われている「平和の福音の備え」とはそのようなものなのです。そして、それは何を意味すのかといいますと、ダン軍曹がもっていたような心の軋(きし)み、痛み、怒り、それが心のみならず私達を通して外にあふれ出て、私達の人間関係を混乱させているもの、それを聖書は罪と呼びますが、それら全てをイエス・キリストが十字架において赦してくださるのだというグッドニュースと共に新しい人生を生きるということです。そして、今日、最初にお話しましたように、そのキリストの十字架に一歩を踏み出すためには、私達は自らにより頼むことなく、神様の前に私達の全てを明け渡す必要があるのです。そのために私達は古き靴をまず脱がなくてはならないのです。

私には母違いの兄が二人韓国にいます。私が生まれた時に彼らはすでに成人でしたので私の父親のような兄です。そのうちの私の一番上の兄は韓国の仁川というところで車の修理工をしています。毎年のように韓国に行くことはできませんでしたが、幼い頃、青年になってからと度々、彼を訪ねました。

昔、韓国への玄関口はキンポ空港だったのですが、諸々の審査を受けて、あの外界に通じるドアを開けた瞬間にごったがえす人達出てくる人達の顔を覗き込みます。そこで、兄が私を見つけると人目をはばからず、大粒の涙を流して私を抱きしめ(この兄は胸板が厚く、プロレスラーのような体格なのですが)、髭でザラザラの頬を私の顔にこすりつけ、私の頭をこねくり回してくれました。

韓国訪問も終わりに近づき、いよいよ帰国ということになりますと、彼はいつも仁川の市場に連れていってくれるのです。そして、そこで私に靴を買ってくれたのです。まだ経済発展をする前の韓国の時代、決して裕福ではない兄なのですが、幾つもの靴屋を回り、私が選ぶ靴をニコニコしながら眺めていました。

今思えば、私は当時、いい靴を履いてはいませんでした。私達親子も余裕のある生活をしていなかったので、靴を買うということは家計の一番、最後に回されたのだと思います。なんとも寂しい話とですが、よく靴のかかとやつま先に穴が開いてしまっていて、そこから水がしみてきました。兄はそんな私の破れた、汚れた靴を見るにつけ、弟に新品の靴を履かせたいと願ったのでしょう。ですから、私がいつも韓国から帰る時に私はいつも自分の新しい靴を誇らしげに帰国したものです。私の心はその兄の愛によって、リフトアップされたのです。

私達はかつては自分だけに寄り頼む生き方をしていました。自分により頼み、自分の願うところに向かっていくべく自分という靴をはいていたのです。そこには私達のプライドや私達の傲慢があり、また私達の弱さがあります。あのダン軍曹のように、自分の内のそんな問題が自分を苦しめ、それが他者との関係を混乱させてしまったりすることもあるでしょう。そのようなことを重々、知っておられる神様は私達のそのような靴を脱ぐことを私達に望んでおられるのです。そして、私達はその神様に自分を明け渡すようにその靴を脱ぎ、主イエス・キリストの愛で満ちた平和の福音の備えという新しい靴をはいて生きていくのです。

そのような人のことをイエスが生まれる何百年も前に生きたイザヤはこのように記していますよき訪れを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救いを告げ、シオンに向かって、「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう」(イザヤ52章7節)。

人事ではない、誰彼ではない、私達が「平和の福音の備え」という靴をはく時に、私達にはこのような生涯が開かれていくのです。「成功した人生」を送ることを願う人はたくさんいることでしょう。しかし、神様が私達に与えようとしていてくださる人生は「麗しい人生」なのです。私達はこの聞きなれない言葉に驚きます。それはかつての私達が考えもしなかったことだからです。あなたも「平和の福音の備え」を履きませんか?

祈りしましょう。

お勧めの靴があります。                              本日のお持ち帰り                             

私達がはく靴にはどんな役割がありますか。モーセとヨシュアが「あなたの足から履物を脱ぎなさい(出エジプト記3章5節ヨシュア記5章15節)と神様に言われたことは何を意味しますか?

歴代誌下28章14節-15節ルカ15章11節-24節に記されている「靴をはかせ」という行為にはどんな意味が込められていますか?

「平和の福音の備え」の「平和」とは「平穏無事」「何も起こらない平凡な日々」というようなものではなく、争いのない、紛争のない世界を意味しているのでもありません。それでは、どのような平和を意味しているのでしょうか?(ローマ5章1節‐2節)

靴を脱ぐという行為には「自らにより頼むことをしない」「自らを神に明け渡す」「自らの全てを神に委ねる」という意味があるとしたら、なぜ「平和の福音の備え」を履く前に靴を脱がなければならないのでしょうか。

「平和の福音の備え」を履いた者には新しい使命が与えられます(イザヤ52章7節)あなたは、このイザヤ書のみ言葉をどのように受け止めますか?

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