人生観の確立(1):神観

コロナパンデミックとなり一年以上が過ぎました。このパンデミックを通して、私はあらためて、この世界には色々な考え方、物の見方があるということを知りました。自分が暮らす国で考えられていることが、他国においては意も介さないというようなことがある、ある国地域で大騒ぎしているトピックに関して、この国では話題にもならないということが、少なからずあるのだということを知りました。大きな国に住んでいても、小さな国に住んでいても、どうやら、そこは世界の片隅のようです。

これからも私達が今、経験しているようなウイルス感染というようなことや、人間が生み出す紛争や分断というようなことがこの世界には起きることでしょう。さらには個人的には重度の病にかかったり、諸々の理不尽な問題にぶつかったり、最終的にはこの地上での別れの日を迎えることでしょう。その時に私達が自分の人生をどのように観ているのかということは、とても大切なことに思われるのです。これらのことをおぼえ、これからしばらく、私達はどのようにこの人生を観ていけばいいのかということを聖書から見ていきたいと願っております。

今日はその最初として、とても大切なことを考えていきたいと思います。それはこのことに取り組むために必要な、最初のボタンのようなトピックです。それは私達が「神」という存在をどのように見ているのかということです。全てはここから始まります。

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人生観の確立(1):神観
2021年5月16日

コロナパンデミックとなり一年以上が過ぎました。このパンデミックを通して、私はこの世界には色々な考え方、物の見方があるということを知りました。自分が暮らす国で考えられていることが、他国においては意も介さないというようなことがある、ある国地域で大騒ぎしているトピックに関して、この国では話題にもならないということが、少なからずあるのだということを知りました。大きな国に住んでいても、小さな国に住んでいても、どうやらそこは世界の片隅のようです。

これからも私達が今、経験しているようなウイルス感染というようなことや、人間が生み出す紛争や分断というようなことがこの世界には起きることでしょう。さらには個人的には重度の病にかかったり、諸々の理不尽な問題にぶつかったり、最終的にはこの地上での別れの日を迎えることでしょう。その時に私達が自分の人生をどのように観ているのかということは、とても大切なことに思われるのです。これらのことをおぼえ、これからしばらく、私達はどのようにこの人生を観ていけばいいのかということを聖書から見ていきたいと願っております。

今日はその最初として、とても大切なことを考えていきたいと思います。それはこのことに取り組むために必要な、最初のボタンのようなトピックです。それは私達が「神」という存在をどのように見ているのかということです。

この一年、一日10分でもいいから外に出て、陽の光を浴びることを日課としてきました。そして、そこで発見したことがあります。それは、そこにはいつも、命の躍動があり、注意深く、その世界を観察すればするほど私の心には驚きと感動が溢れてきたということです。ため息が出るような花びらの造形と絶妙な色使い、葉っぱ一枚をとっても、その構造は精密で、その一枚すら人間が作ることはできません。その一枚の葉の中にも小さな宇宙があるように思われるのです。

私達の目に見えないところで、そこを棲みかとする動植物は互いに与え、受け、絶妙な関連性と調和を保ちながら、互いに支え合って生きています。そこには完全にバランスのとれた命のシステムがあるのです。

「調和がある」とは、それが「でたらめ」に置かれているということではなく、その背後には順序や秩序を考慮する知性があり、それは、この世界の万物の背後には大きな意思と意味に基づいて、それらはそこに置かれているということであり、そのことを思う時にこの世界が偶然に、目的もなくできたと認めることは難しい、本当に難しいと私には思えました。

神が「いる」のか、「いない」のか、その確率は二分の一です。それは「つちのこ」とか「ビッグフット」ではありません。仮に「つちのこ」がいても、「ビッグフット」がいたとしても、それは私達の人生にはほとんど何の影響もありません。

しかし、私達の命の始まりと終わりに関わり、その存在によって今、この時も私達を生かしてくださっている存在がおり、私達の明日が、その存在の手の中にあるというのなら、そして、その存在を私達が「神」と呼ぶのなら、このことは最重なことになります。私達、人の人生にとりまして、最高の生き方はその実在する神と共に生きることではないかと思うのです。

そして、実際にこの地球に生きる人間の多くは神の存在を信じています。それはいかなる国地域にも宗教というものが存在するということが物語っています。

今日は私達の人生観を確立するということの初めとして、聖書がいうところの神観、すなわち聖書が神というものをどのように観ているのかということを考えていきたいと思います。

以前も皆さんに話したことがあるかと思いますが、私の心から今も消えない出来事があります。1998年、日本のあるプロ野球チームが日本一になった時、その優勝の立役者であったピッチャーがボールを握りしめた黄金の手の像が、そのチームのスタジアムの最寄りの駅に置かれ、連日一万人以上がこの金色の手に手を合わせ、最終的には5ヶ月の間に、延べ170万人がこの手に参拝したといいます。

しかし翌年、この手が納められた社(やしろ)は撤収されたというのです。その後、この選手の活躍は続きますが、ある年、度重なる怪我に悩まされ続け、関係者は占い師に相談しました。すると「あのご神体が影響している。本人できちんと管理すべきです」という助言を受けたというのです。「あれは単なる像ではなく、その投手の右手の分身。不思議な力が宿っていると思う」という占い師の話。その手は現在、東北にある寺に祭られているようです。

170万人の人が足を止めて参拝しているということや、この手の像をご神体と呼び、その投手の不調をこのご神体の影響によるとしているということ、このようなことは日本のみならず、決して珍しい光景ではありません。

果たして聖書は「神」というものをどのように記しているのでしょうか。私達は聖書が記している神をこのようなものとして受け止めているのでしょうか。まず、最初に「神は霊なるお方」であるということについてお話します。

神は霊なるお方

先ほどの金の手の話ですが、その手は何かしらの理由により撤収されたのです。具体的な理由は分かりませんが、もしかしたら、その場所に売店が出店するとか、人込みができて苦情が出たから撤去してくれということだったのかもしれません。売店に場所を譲る神、邪魔だからどかされる神、それは言うまでもなく、人間の都合でどうにでもなる神ということになりますでしょう。

この時からさかのぼること約2000年前、このことに対してメッセージを語ったキリストの使徒、パウロという人がいます。彼は紀元50年から52年頃にギリシアのアテネを訪ねています。ギリシアと言えば、ギリシア神話であり、その神話にはざっと数えて50以上もの神々がいます。

その中には雷を司るゼウスや、夜の神ニュクスや、恋心と性愛を司るエロースというような神々がいます。パウロはそれらの神々のみならず、それこそ人が考えつくありとあらゆる神々が石や木に彫られて、アテネの町を埋め尽くしているのを見ました。

果てには、彼がアテネの街中を歩いてみれば「知られない神に」という祭壇までも見たというのです。つまり、当時のアテネ市民が忘れてしまっている、人に知られていない神もいることだろうからと人々はそんな神々のためにも心を配り、祭壇を作ったというのです。

パウロはそんなアテネの街中でイエス・キリストについて語ったのです。アテネといえば、当時、世界最高の学問の町。人々はこのパウロという男が語っていることに好奇心をいだき、アレオパゴスという評議場に連れて行き彼に話す機会を与えたというのです。彼はそこでこう語ります。使徒行伝17章22節から28節、

「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。23実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。24この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。25また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、26また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。27こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。28われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。(使徒行伝17章22節-28a節)

パウロがこの言葉を語るのに、人の手で作られた神々で満ちていたアテネ以上にふさわしい場所があったでしょうか。

主にある兄弟姉妹、私達の信じている神は目には見えませんが、この天地万物を支配されているお方です。まさにここに書かれているとおり、神は何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要などなく、この神は全ての人々、万物に命と息を与え、一人の人から民族を造り出し、地の全面に住まわせたのです。われわれはこの神のうちに生き、動き、存在しているとパウロは言ったのです

ここ数年、私はいつも心に思います。それは「持ち運べないものを蓄えたい」ということです。「持ち運べるもの」とは、私達が手にとり、動かすことができるもの、それは置き忘れたり、失くしてしまったり、さらには最後には朽ちてしまうもの、極めつけは私達が死ぬとき、持参していくことができないものです。そのような意味で「持ち運べるもの」というのは、一時的で、非常に頼りないものです。

愛する者の形見は私達にとって大切です。しかし、もっと大切で、確実なものはその人が私達の心にいつもいることです。私達が獄に囚われても、私達が病床に伏しても、それを私達から取り去ることができる人はいないのです。

どこそこの場所に設置されているとか、私の家にあるものは、誰かがそこに置いたものです。そう、その誰かとは人間です。さらに、その設置されたものは、誰かが作ったものです。それも人間です。なぜ、私達はそのような物を「神」と呼ぶのでしょうか。私達が置いた神、私達によって運ばれ、埃をはらわれ、修復しなければならない物に向かって、私達は何を願うのでしょうか。

パウロはこのこととは全く逆のことを言っているのです。そう、神が全ての人、万物に命と息を与え、あらゆる民族を地の全面に置かれたのです。私達が神々を造り、我々の都合のいいところに置くのではないのです。あちらが私達を造り、私達をしかるべきところに置いているのです。

 神は時とか、場所に制限されず、ましてや人間の創作や配慮など一切、全く必要としない霊なるお方。パウロが言いますように、私達の目には見えませんが、われわれは神のうちに生き、動き、存在している」(28)のです。

 これらのことゆえに、この神は私達にとりまして大いなるお方なのです。このお方に私達が触れたり、見たりすることができない存在であるということは、すなわち、24,7、いつも神は私達と共におられるということなのです。パウロも書いていますでしょう「事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」(27)そこに物理的な限界はないのです。主にある皆さん、見えない存在こそが一番、私達にとって心強い存在、確かなる存在なのです。

二つ目のこと。それは「神は義なるお方」であるということです。先ほどのパウロの言葉に続く使徒行伝17章28節以降を読みましょう。

神は義なるお方

28われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように『われわれも、確かにその子孫である』。29このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。30神はこのような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。31神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」使徒行伝17章28節-31節)

パウロはこのところでこう言っています「神は義をもってこの世界を裁くため、その日を定められた」。

もし「いつも俺は正しい」と言っている人がいるのなら、そのように振舞っている人がいるのなら、私達はその人を胡散臭く思うことでしょう。誰もその人の言葉を聞きませんでしょう。絶対に正しい人間などこの世界に誰一人としていないのですから。

しかし、パウロはここで「完全な正しさをもっておられる神」について触れているのです。それはこの神が人間世界には存在しない義なるお方であるからです。

聖書は言います「義人はいない、一人もいない」。人間が人間を完全に裁くことはできません。本当に人間を完全に公平に裁けるのは神だけなのです。

皆さん、このことは私達の理性に語りかけます。そうです、もし神という存在がいるなら、その存在は絶対に正しいお方であるべきだということを、そうであるから私達はその存在を「神」と呼ぶことができるのです。

そして、完全に義であるということは、その正しさは悪と共にあることができないということです。その義は悪に対して完全な裁きをくだすということです。人の義は時に、状況や感情によって変化します。しかし、神の義は悪なるものを完全に、公平に、誤りなく裁くのです。

神は義なるお方であり、私達は義ではない。そのことは何を意味するのか。私達は神の義を振りかざして、己の義をもってこの世界を切り裂いてはならないということです。ここにいたる歴史においてキリスト教は、クリスチャンはこの勘違いをし、世界に多大なる傷を負わせてしまいました。そのことは神の御心ではありませんし、明らかにそれは私達の過ちでありました。私達はこのことを悔い改めなければなりません。

そして、神が完全に義なるお方であるということ、それは神が人間に対して絶対的な権威を持っているということを意味しています。しかし、先にお話した神々は逆で、私達、人間がその神々に対して権威をもっていました。すなわち、私達が神々の住む場所を造り、人の都合で、それを置き換えたり、排除しました。その神々は人間の手の中でどうにでもなったのです。

全ての主導権は人間の手にはなくあちらにある、そのような完全に独立した存在を聖書は神と呼びます。そして、我々人間はこの神に完全に依存した存在なのです。

聖書に記されているヨブという人はその全ての財産と愛する家族を人災、震災によって失った時に言いました、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1章21節)。

もし私達がヨブと同じところに立つのなら、この言葉は決して私達の口から容易に言いうる言葉ではありません。しかしながら、本来の神というものを考える時に、ヨブは何人も異論を唱えることができない、極めて正しいことをここで言っているのです。そう、主が私達に全てを与えてくださったのであり、それを取り去る権威をこのお方は持っているのです。

このお方こそが私達の主(あるじ)であって、私達が私達の人生の主(あるじ)なのではないのです。これが義なる神を信じる私達の神観であり、このことを土台に私達は各々の人生を見つめ、その人生観を形づくるのです。

最後のことをお話しましょう。聖書は私達の意表をつくようなことを言っています。すなわち、「神は義なるお方」であると共に「神は愛なるお方」であるということです。使徒行伝17章31節を読みましょう。

神は愛なるお方 

神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである使徒行伝17章31節)

神は義なるお方であり、その「義をもって、世界を裁く日を定めている」とお話しました。そして、その後にこう書かれています「お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。

この義の裁きは神が選ばれた方によって成し遂げようとされている。この方は死人の中から甦られた方だ、そのことによって全ての人に確証が与えられているのだとパウロはここに書いているのです。この神が選ばれた方とは誰か。イエス・キリストです。

神がこのイエス・キリストを選ばれ、あることを成し遂げようとされている。そして、このお方を死人の中からよみがえらせようとされている。このことはすなわち、神の義は容赦なく私達を裁くのではないということです。なぜなら義なる神と私達の間にこのキリストがいるからです。

本来なら、私達は神の前に裁かれるべき者です。それは「私は牢屋に入ったこともなく、皆がいい人だと言ってくれていますから、私には裁かれる理由がありません」というようなことではないのです。私達が取り繕っている外面だけを言っているのではないのです。神は私達の心の奥底、その心にある私達の思いや動機まで見つめられているのです。何人もこの神の前に自分の正しさを主張できる人はいません。

神は義なるお方ですから、それをナァナァにすることなどできないのです。罪に対してはやはり正当な裁きが下されなければならないのです。それが神の義です。でも、それではこの裁きを免れる人間などこの世界には誰もいないのです。

しかし、そんな私達のために神はキリストを立てられたというのです。これは逃れることなどできない死罪に当たるような人間に対して、裁判官の側から確定無罪になる方法を提示してくださったということです。そして、それは神の一人子イエスを十字架にかけることによってなされたのです。

だから、何も罪のない、汚れのないイエス・キリストが私達の罪の身代わりとなられて十字架にかかられたのです。「そのイエスの十字架とは、実は私達がかかるべきものであったものが、イエス様が私のために十字架にかかってくださった、イエス様、ありがとうございます。私はあなたの前に私の罪を悔い改めます」と心から祈るならば、あなたは神の前に完全に義とされるというのが聖書の約束していることなのです。

裁判官が確定的に死罪にあたる被告を無罪として赦そうと努めること、こんなことは法治国家ではありません。しかし、驚くなかれ、神はまさしくその考えられないことをなさったのです。その方法としてご自身の愛する一人子の命を私達のために捧げられたのです。

神は義なり、そして神は愛なり。世界を見回せば黄金で包まれた神々はいくらでもいます。人々の恐れの対象になっているような神々は多くいます。人間の欲望のために都合よく担ぎ出されている神々の数は数えきれません。

しかし、世界どこを見回しても、私達の罪を一身に背負い、私達のために十字架にかかり、命を捨てた神はいません。愛というものを、何をその相手に与えることができるのかということで計るとするならば、神はその一人子を私達に与えるほどにこの世を、あなたを愛してくださったのです。

今日、お話しましたことは多くの方々にとって「この人は何を言っているの」とか「そんな難しいこと考えないで、今が楽しけりゃいいじゃない」「いいじゃない、もっとなぁなぁで」という風にとられることなのかもしれません。

しかし、本当にそうでしょうか。今日の世界を見る時、私達の身の回りをよくよく眺める時、何がこの世界の、何が私達が抱えている問題なのでしょうか。その問題は今日お話した3つのことに集約されませんでしょうか。

私達にとって、目に見える神々とは色々なものに形を変えます。時にそれは物品となります。それは金銭であり、私達のステイタスでもあります。それらのものが私達の人生をコントロールするのであるならば、それは私達の崇拝の対象です。そして、これらの物が私達の心や人と人との関係を次々と壊していく様を私達は目の当たりにしています。

そして今日の世界、私達は何が本当に正しいのかということ、すなわち善悪の基準なき時代を生きています。「あなたがよければ、いいじゃない」という世界は私達の道徳や倫理を完全に骨抜きにしています。その「あなた」は本当に正しいことをしているのでしょうか。その動機が探られても私達は胸を張ることができるでしょうか。「弱い者をいじめて何が悪い」「人を刺して何が悪い」。私達に必要なものは決して動かない正しさの基準です。

悪人が栄え、善人が衰退する。そのようなことが人生にはある。しかし、それはそのままではない。神は最後に裁く。そこに私達の最終的な心を置くことができる。

そして、最後に一番の問題。それは、私達の愛が冷め切っている。愛という言葉は今日、自己愛という仮面をかぶって闊歩しています。民族を超えて私達が抱える諸々の問題の根源はここにあるのではないでしょうか。「愛しているわ、愛しているよ」といいながら、その心の底では互いに愛を惜しみなく奪い合っている。奪い合っているのですから、やがてそこには亀裂が生じ、最後には引き裂かれてしまうことでしょう。

この世界には私達を愛しているお方がいる。その愛は私達に完全なかたちを経て示されています。そう、キリストの十字架の愛です。ここに私達が生きる理由があり、ここに私達が今日も生きようとい力の源、そして希望があるのです。

これらの三つのことを私達が心に受け止める時に私達は神という存在に対する観方が変わり、必然的に私達は自分の人生の観方、そう、私達の人生観が変わるのです。その人生観と共に私達はこの人生の旅路を神と共に歩んでいくのです。

聖書はあなたを宗教家になれとは言っていません。禁欲主義者になれとはいっていません。神は目に見えて、手に取ることはできないけれど、その生涯、片時もあなたと離れずに、あなたと共にいるということ、そして、私は「惜しみなく私自身をあなたに与えたよ」というキリストの愛に包まれて、この一度限りの人生を生きていかないかと聖書は私達に語りかけるのです。あなたに命を与えたのは私、そうであるのなら、あなたが私と共に歩みだす時に、真の人生は始まるのだ、主は私達に今も語りかけているのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年5月16日

1)日々の生活の中で、あなたは神様の存在を感じる時がありますか。それはどんな時でしょうか。

 

2)使徒行伝17章22節-28節を読みましょう。パウロはここで何に驚いていますか。なぜ人は止むことなく神々を作り続けるのでしょうか。

 

3)ここでパウロはどんなお方であると書かれていますか。私達は神々を作り、好きな所に設置します。このことに対してパウロが言っていることは何ですか。

 

4)形ある神々の限界は何でしょうか。霊なる神は私達に何をもたらすのでしょうか。

 

5)使徒行伝17章28節-31節を読みましょう。あなたは「神の義」をどのように定義しますか。

 

6)神が義であるということに対して、私達はいかなる者なのでしょうか。神が主(あるじ)であるということは、私達の人生観にどんな影響を与えますか。

 

7)悪が栄えるように思えることがこの世界にはあります。私達の最終的なよりどころはどこにありますか。私達が恐れるべき存在を知るということはなぜ大切ですか。

 

8)神様は私達に対する愛を明らかにするためにイエス・キリストを通して何をしてくださいましたか。あなたが愛する者に対して示すことができる最大の愛は何でしょうか。

 

9)「愛されている」ことを知ることはなぜ私達に必要なことですか。愛に応えて生きることは苦痛ですか。愛にはどんな力がありますか。愛されているということは私達の人生観にどんな影響を与えますか。

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