「あなたが何を食べているか言ってみなさい。それによって私はあなたがどんな人間か答えてあげよう」と言った方がいます。
私達が日常、触れているものは何ですか?感じている空気は何ですか?
不平不満の多い子供を育てることはたやすいことです。親や大人達が常に不平不満を言っていれば、子供達は真っ白な心のキャンバスに不平不満を刷り込んでいき、やがて口を開けば不満を言う子になるでしょう。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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不満から感謝へ テモテ第二の手紙4章3節‐9節 2009年11月22日
幸せというものを測ることはできませんが、私達は幸せとはどんなものなのかということ、私達がどんな状態にいることが幸せなのか、どうしたらそれを継続することができるのかということならなんとなく分かります。その時に鍵となるものの一つが私達の「感謝する心」です。
どんなに莫大な財産をもち、人々が羨むような役職についていたとしても、もし感謝の心がなければ(普通で考えますと、このような環境にある人は不満など持ち得ないと想像しますが、なかなか人間はそうもいかないということを私達は見聞きします)、その人を幸いな人とは呼びがたい感じがします。
私達がこの感謝の心をもつことは至難の業です。反対に不平と不満をもつことは、とてもたやすいことです。あのモーセに率いられてエジプトでの奴隷の日々を脱出したイスラエルの民は、約束の地カナンに向 かって 旅立ちます。彼らは奴隷としての身分から解放されて、今は自由の身なのです。しかしながら、その荒野の旅の中で、このようなことが起きてきました。
民数記11章4~6節
1さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。2そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。3主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。
4また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。5われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。6しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。
不満は感染します
今、フルー感染に私達の関心は向いています。そのためにショットを打ったり、色々と大変です。しかし、感染するものはフルーだけではありません。もっとやっかいな感染症が私達の間に蔓延しています。
この民数記を見ますと、とても教えられます。不満に支配されている人達がどのようにその不満に支配されていくかということを、はっきりとシンプルに描写しているからです。果たしてこの不満はどのように人の心に起きてきたのでしょうか。4節、5節にはこう書かれています。
「また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。5われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。6しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。
明らかにイスラエルの人々はここで不満を吐いています。この彼らの言葉はどこから来ているのか。聖書はまず「彼らのうちにいた多くの寄り集まり人が欲心を起こし」と書いています。この「寄り集まり人」とは、周辺地域から集まってきた他国の人々だと言われています。その彼らが欲の心をもち不満を言い始めたようです。
この一文から想像できますことは、寄り集まり人らの欲心が何かしらの引き金になって、イスラエルの人々も同じ欲心をもったのではないかということです。ここには「イスラエルの人々は再び泣いて」とありますから、彼らはかつても同じ思いを持っていたのでしょう。その思いが再び彼らの心を支配するようになったのです。
以前、底までもが見える澄み渡った池に行ったことがあります。その日は暑く、またその水があまりにもきれいだったので、私はズボンを捲り上げて、膝ほどの深さのその池に足を入れてみました。そうしましたら、見ていただけでは気がつかなかったのですが、その底には泥がたまっており、足をその上に踏み入れた瞬間に、足はその泥の中にズブズブと沈み、一面、汚い泥水となりました。
イスラエルの民の欲心はいったん、心の底に沈んでいたようです。しかし、泥水がたまっている水槽にビー球一つを落せば、そこから泥水が浮かび上がるように、彼らの心は寄り集まり人達が投げかけた欲心によって乱れ、彼らも泣きながら不満を吐くようになりました。
皆さん、不満は不満を引き寄せます。不満分子と言う言葉がありますように、大抵、不平不満で満ちている人の周りには不平不満で満ちている人が集まります。なぜか?彼らは互いの心の底をかき回しているからです。そうしますと、出てくる出てくる、あの時、この時のものがとめどもなく再び浮上してくるのです。一度、この心が濁りますと、泥水がそうであるように、なかなかその濁りは収まらなくなるのです。まさしくイスラエルの民の間に起きたことはそのようなものでした。
さらにこの不満の感染は広がりました。この民のリーダーはモーセでした。民数記12章3節には「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と書かれています。これはモーセに対する最大の賛辞であり、実際にモーセの人となりは謙遜で忍耐があり、優しさというものを備えていたのだろうとうかがい知れます。ですから、普通、考えますならばモーセほどに不平とか怒りとはほど遠い人はいなかったと思われます。しかしです、そのモーセもこんな姿を現しています。
民数記11章10節~15節
10モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。11そして、モーセは主に言った、「あなたはなぜ、しもべに悪い仕打ちをされるのですか。どうしてわたしはあなたの前に恵みを得ないで、このすべての民の重荷を負わされるのですか。12わたしがこのすべての民を、はらんだのですか。わたしがこれを生んだのですか。そうではないのに、あなたはなぜわたしに『養い親が乳児を抱くように、彼らをふところに抱いて、あなたが彼らの先祖たちに誓われた地に行け』と言われるのですか。13わたしはどこから肉を獲て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らは泣いて、『肉を食べさせよ』とわたしに言っているのです。 14わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。15もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください。
皆さん、地上に彼以上、柔和な人はいないと言われた彼ですら、イスラエルの人々の度重なる不満・不平を聞いている内に、その不満・不平が彼の心にも感染していったのです。そんな彼はリーダーですから、その不満を持っていく人がなく、神様にその不満をぶちまけたのです。さらにまた別件において(別件と言わざるをえないほどに、イスラエルの民の不満は日常的に聖書の中に書かれています)、モーセはとても大切なことを失うことになりました。
民数記20章2節~13節
2そのころ会衆は水が得られなかったため、相集まってモーセとアロンに迫った。3すなわち民はモーセと争って言った、「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを。4なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。5どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」。6そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、7主はモーセに言われた、8「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。9モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。
10モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。11モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
皆さん、神様はモーセに何と命じましたか?「岩に命じて水を出させなさい」ですよ。しかし、モーセはどうしましたか。彼は会衆に言ったのです「そむく人達よ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」そして、彼は杖で岩を二度打ったのです。
皆さん、この聖書の言葉は上品に書かれていると思います。実際はもっと激しいものだったでしょう。モーセは神様から「命じなさい」と言われていたのに、そうせずに岩を二度打った時、彼は思ったに違いありません「こんな奴らのために、こんなことやってられない!」。そういって彼はつえが折れるほどに激しく岩を二度打ち叩いたに違いありません。不満を一身に受けた彼は、石に不満をぶつけ、それのみならず神に不満をぶつけました。そして、このことの代償は大きなものとなりました。続く12節以降です。
12そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。13これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。
神様はモーセを約束の地に導くことはなさらないと言われたのです。彼は約束の地を目指して、エジプトを逃れてきたのです。すなわち、それを目的とし希望とし、命をかけてここまでやってきたのです。しかし、神様はこの行動ゆえに、もはやその目的を果たすことはできないというのです。実際にその後、彼は神様の言われたとおりにその地に足を踏み入れることなく死んでいくのです。
皆さん、不満が心にある時にあなたは幸せですか。幸せだという方がいましたら、もうお話することはありません。その幸いを存分にお楽しみください。しかし、そんな人はいないでしょう。私は不満に満ちている人で、その人は幸いだな、その人のようになりたいなと思わされたことはありません。そのことは自分の心に不満がある時を思い起こせば分かります。そして、恐ろしいのはこの不満は必ずと言っていいほどに、さらなる問題を生み出します。モーセのように怒りが生まれます。人間関係の混乱が生まれます。この不満が私達の人生を壊してしまいます。私達が見聞きする事件の多くの根源はこの不満から生まれているのです。ですから、私達はこの不満をどうにかしなければなりません。
以下、この不満に対する処方箋をみていきましょう。
不満への処方箋
不満から離れる
「あなたが何を食べているか言ってみなさい。それによって私はあなたがどんな人間か答えてあげよう」と言った方がいます。あなたが日常的に触れているものは何ですか?感じている空気は何ですか?不平不満の多い子供を育てることはたやすいことです。親が常に不平不満を言っていれば、子供達は真っ白な心のキャンバスに不平不満を刷り込んでいき、やがて口を開けば不満を言う子になるでしょう。
その石が投げ込まれて、それが底に達してしまったら、何かが起ることを私達は知るべきです。フルーを避ける予防があります。手洗い・うがい・マスク・そして、必ず最後にこう記されています。「人混みには行かない」。同じように不満感染の予防策は不満をもつ人から、不満が感染されうる場所から遠ざかることです。不満という投石から心を守るのです。
モーセですら自分が置かれている環境に勝てなかったのです。私達はどんなに意思が強い人間であっても、置かれている環境に負けてしまうのです。まずこのことを認めましょう。そのためには不満が飛び交う場所からは身を引くことです。フルーの細菌が飛び交う場所に進んで行く人はいないでしょう。不満が生むダメージはフルー以上のものです。
しかしながら、これはあくまでも防衛策であり、処方箋としては消極的なものです。さらに私達が知らなければなりませんことは、不満は外部から起こされもしますが、等しく自らの心で容易に生産もできるのです。これらに対するもっと積極的な処方箋はないでしょうか。
その唯一の方法は私達の心の底にあるものを変えてしまうことです。もし私達の心の底に不満という泥さえなければ、たとえ不満の一石が投じられても、私達の心は騒ぐことがありません。このようなことを全て承知していたのでしょう。ソロモンは箴言4章23節において言いました「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」
私達の底、すなわち心、命の泉、それをどうすればいいのでしょうか。その心を感謝で敷き詰めるのです。そこから感謝だけが沸くように、たとえそこに不満の石が投げ込まれても、感謝が舞い上がるように根本を変えるのです。そして、常々、お話していますが、これは私達の祈りと訓練の領域です。
感謝を探す 私達が感謝するものは私達が見つけるべきものです。今まで私達はイスラエルの民達が食べ物に対する不満、すなわち肉や水に対する不満をぶちまけたということをお話しました。そして、今日は詳しくお話しませんでしたが、聖書を見ると神様はそれらの不満に対して、ありあまるほどに天からマナという食物を降らせ、とどまることのない水を与え、さらに同じようにおびただしい数のうずらを彼らに与えたと聖書は記しています。しかし、それであったも彼らの不満は止まなかったのです。彼らはこれらのものをいただいているということを自覚し、そしてそのことに感謝をすべきでした。それらに対する感謝でその心の底を敷き詰めるべきでした。
パウロはテモテの手紙4章3節―5節にこんなことを書いています「これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。4神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。5それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。
持っていないものについて不平を言うことはとてもたやすいことです。反対に私達が既に与えられているものについて感謝することは至難のわざです。
パウロは言っています。「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」(4)。ここにはとても大切なことが書かれています。お気づきになりましたか?それは「感謝して受けるなら」ということです。神様が与えてくださっている諸々の良きもの、それが現に私達の前に無数にある。しかし、それを感謝して受けるか否かは私達次第なのです。神様もその私達の心まで介入なさらないのです。
ですからパウロはこれらの言葉を記し、そのすぐ後の7節以降に「訓練」という言葉を使っているのです。7しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。8からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。9これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉である」。
今年のサンクスギヴィングレターにも記しましたが、アメリカの作家エレアノ・ポーターが1920年代のアメリカ西部の小さな町のに住むポリアンナという処女を主人公にした「愛少女ポリアンナ物語」というアニメがあります。
ポリアンナは4歳の時に母を亡くし、教会の牧師をしている父に育てられました。父は病気がちだったのですが、彼はポリアンナに「良かった探し」というゲームをするように言うのです。なぜなら、父とポリアンナは聖書の中に書かれている“喜び”や“楽しみ”の言葉を一緒に探し、その中には800もの“喜び”や“楽しみ”の言葉が書かれていることを発見したからです。
父は言いました「いいかいポリアンナ、神様が800回も“楽しめ”とか“喜べ”とか言われているのは私達みんなが喜ぶ事を望んでいらっしゃるからだよ。これからは聖書の中だけではなく毎日の色々な事の中から喜びを探してごらん。きっとどんな事にも良かったと思える事があるはずだよ。お前と父さんとどっちが良かったを探せるか競争しよう」それ以降、ポリアンナは身の回りの出来事の中から良かったを探すようになっていたのです。
やがて父の病気が悪化してしまいます。そんな時、父はポリアンナを枕元に呼び、こう言いました「ポリアンナ、お前は色々な事から本当に上手に良かったを探し出して私をほっとさせてくれた。これから先もそれを決して忘れてはいけないよ。これからの生活にも、きっと良かったと思える事がたくさんあるはずだ。良かったを探すんだポリアンナ、その良かった探しがきっとお前を幸せにしてくれる」そう言い残すと父は静かに息を引き取りました
その後、ポリアンナは叔母の家に預けられていきます。それから、様々な厳しいことがこの少女の身の上に起きてきます。時にはこんな時に良い事探しなんかできないというようなところを通ります。しかし、彼女はそのような中でもこの良かった探しを続け、それは確かに彼女を支えました。そして、それだけではなく彼女はこのことによって周りにいる人達の悲しみの中に笑みすらも取り戻していくのです。彼女は人々から愛される人間として育っていきました。言い方を変えます。ポリアンナは父から言われたように、良きものを探す訓練を自分に課して、それが彼女の習慣となり、それが彼女を幸いな人生へと導いたのです。
パウロはピリピ、コロサイの手紙の中でこう書きました。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事々に感謝をもって、祈りと願いとを捧げ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」ピリピ4章6節 新改訳聖書は「事々に」を「あらゆる場合に」と記しています。
「目を覚まして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」コロサイ4章2節。パウロは目を覚ましていなさいといいました。この言葉は心の目を覚まして、その目をしっかり開いて、感謝を見つけなさい、そして、祈りなさい。たゆみなく祈りなさいということです。
皆さん、これはパウロがミニストリーを続けていくための、いいえ、もっといいますとキリスト者として生きていくための心構えでした。心の構えは主の助けをいただき、私達の訓練のうちに習得されていくものなのです。その訓練が習慣となっていくものなのです。
オペラ歌手はエアコンが冷えている部屋には入りません。私達は不満が立ち込めている部屋に踏み入りません。私達は不満に満たされて生きるのではなくて、神様が既に私達に与えてくださっている、現に今も与えてくださっている良きものを見出し、日々、感謝に満ち溢れていきていくのです。その感謝によって私達は投げかけられる不満から自分を守ることが出来ます。不満ではなく、感謝を他者に感染させていくのです。
いつからこのことを始めますか。2009年、神への感謝を思い起こす、サンクスギヴィングを迎えるこの時以上に絶好の日取りはありません。この小さな日々の心の変化は、やがて私達の人生を大きく、大きく変えることでしょう。
お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り テモテ第二の手紙4章3節‐9節
今日のメッセージは以下の二つのサイトから全文、読むことができます。 https://pmac.sanbi.us/ https://www.sdjcc.net/japanese/message/index.html
あなたは「幸せ」と「感謝する心」とは関係があると思いますか。願うものを全て得ることができた人がもし、感謝する心を持ち合わせていないとするなら、その人の心に平安はあるでしょうか。
民数記11章4~6節を読んでみましょう。4節を見ますときに、不満は人から人へと感染するものであることが分かります。あなたはそんな体験をしたことがありますか。
聖書は「モーセはその人となりと柔和さにおいて、地上の全ての人に勝っていた」(民数記12章3節)と記しています。しかし、そんな彼も以下のような姿をあらわしました(民数記11章10節~15節&民数記20章2節~13節)これらの結果、モーセが受けなければならない結末は何でしたか。不満から何か良いものが生まれますか?我が身を振り返ってみましょう。
フルー感染から我が身を守る処方箋の一つは「人込みに行かない」ということです。ここから、私達は不満感染から逃れるどんな方法を見出しますか。箴言4章23節を読みましょう。
テモテの手紙4章3節―5節にこんなことが書かれています「これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである」。
「感謝して受ける」というのは私達が自発的にすべきことです。7節以降に「訓練」という言葉が出ているように、私達は意識的に物事を感謝して受ける訓練を自らに課す必要があります。あなたはそんな訓練を何か自分に課していますか?いかなる状況の中でも、そこから「感謝を探す」ことを習慣としませんか。習慣が私達の人生を決めます。
今日という一日、あなたの感謝は何ですか。すべて、挙げてみましょう。