まぁまぁ、以下の一文を読んでみてください。
わたしはわが家の窓により、格子窓から外をのぞいて、思慮のない者のうちに、若い者のうちに、ひとりの知恵のない若者のいるのを見た。彼はちまたを過ぎ、女の家に行く曲りかどに近づき、その家に行く道を、たそがれに、よいに、また夜中に、また暗やみに歩いていった。
見よ、遊女の装いをした陰険な女が彼に会う。この女は、騒がしくて、慎みなく、その足は自分の家にとどまらず、ある時はちまたにあり、ある時は市場にあり、すみずみに立って人をうかがう。この女は彼を捕えて口づけし、恥しらぬ顔で彼に言う、「わたしは酬恩祭をささげなければならなかったが、きょう、その誓いを果しました。それでわたしはあなたを迎えようと出て、あなたを尋ね、あなたに会いました。わたしは床に美しい、しとねと、エジプトのあや布を敷き、没薬、ろかい、桂皮をもってわたしの床をにおわせました。さあ、わたしたちは夜が明けるまで、情をつくし、愛をかわして楽しみましょう。夫は家にいません、遠くへ旅立ち、手に金袋を持って出ました。満月になるまでは帰りません」と。
女が多くの、なまめかしい言葉をもって彼を惑わし、巧みなくちびるをもって、いざなうと、若い人は直ちに女に従った、あたかも牛が、ほふり場に行くように、雄じかが、すみやかに捕えられ、ついに、矢がその内臓を突き刺すように、鳥がすみやかに網にかかるように、彼は自分が命を失うようになることを知らない。
子供らよ、今わたしの言うことを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。あなたの心を彼女の道に傾けてはならない、またその道に迷ってはならない。彼女は多くの人を傷つけて倒した、まことに、彼女に殺された者は多い。 その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く。
読んでいただきました言葉は古代の庶民の間で読まれた処世訓ではなく、ホーリーバイブル、聖書の箴言7章6節‐27節に書かれている言葉です。説明するまでもありません。そこには一人の若者が遊女の誘いに遭い、その誘いに屈していく様が書かれています・・・。
マック
今日、お話したメッセージです。
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誘惑から守られるために
2008年7月27日
箴言7章6節‐27節
6わたしはわが家の窓により、格子窓から外をのぞいて、7思慮のない者のうちに、若い者のうちに、ひとりの知恵のない若者のいるのを見た。8彼はちまたを過ぎ、女の家に行く曲りかどに近づき、その家に行く道を、9たそがれに、よいに、また夜中に、また暗やみに歩いていった。
10見よ、遊女の装いをした陰険な女が彼に会う。11この女は、騒がしくて、慎みなく、その足は自分の家にとどまらず、12ある時はちまたにあり、ある時は市場にあり、すみずみに立って人をうかがう。13この女は彼を捕えて口づけし、恥しらぬ顔で彼に言う、14「わたしは酬恩祭をささげなければならなかったが、きょう、その誓いを果しました。15それでわたしはあなたを迎えようと出て、あなたを尋ね、あなたに会いました。16わたしは床に美しい、しとねと、エジプトのあや布を敷き、17没薬、ろかい、桂皮をもってわたしの床をにおわせました。18 さあ、わたしたちは夜が明けるまで、情をつくし、愛をかわして楽しみましょう。19夫は家にいません、遠くへ旅立ち、20手に金袋を持って出ました。満月になるまでは帰りません」と。
21女が多くの、なまめかしい言葉をもって彼を惑わし、巧みなくちびるをもって、いざなうと、22若い人は直ちに女に従った、あたかも牛が、ほふり場に行くように、雄じかが、すみやかに捕えられ、23ついに、矢がその内臓を突き刺すように、鳥がすみやかに網にかかるように、彼は自分が命を失うようになることを知らない。
24子供らよ、今わたしの言うことを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。25あなたの心を彼女の道に傾けてはならない、またその道に迷ってはならない。 26彼女は多くの人を傷つけて倒した、まことに、彼女に殺された者は多い。 27その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く。
読んでいただきました言葉は古代の庶民の間で読まれた処世訓ではなく、ホーリーバイブル、聖書の箴言に書かれている言葉です。説明するまでもありません。そこには一人の若者が遊女の誘いに遭い、その力に屈していく様が書かれています。
この遊女の誘いですが、このような「誘惑」は今日、色々なものに形をかえて私達に近づいてきます。特にこの誘惑は私達の持ち合わせている欲望、すなわち私達の食欲、金銭欲、性欲、名誉欲、その他、書き記せば限りないほどに繰り返し繰り返し迫ってきます。
神様は私達に何かを欲する思いをお与えになりました。そして、これらの欲はその使い方を間違えなければ、それは必要かつ良きものであり、神が私達に与えてくださった大きな祝福です。しかし、その使い方を間違えると私達は取り返しのつかない問題を抱えるようになります。
そして、実際に私達は誰しもこのような欲と誘惑のせめぎ合いの戦いに日々、向き合うことが多いのです。そして、私達の欲と誘惑とが仲良く手をつなぐ時に、私達はその誘惑の中に落ち込んでいくのです。
そのような意味においては、この誘惑についてのメッセージは自分には無関係だという人はいないと思います。以前、とても経験のある牧師数名が口々に「これまで異性・お金・名誉の誘惑に陥らないでこれたことは本当に感謝なことです」と言っておりましたが、本当にそうだと思います。「人は墓に眠って初めて誘惑から解放される」と言った人がいますが、この誘惑はまさしく私達がこの地上に別れを告げるその日まで続くと言ってもあながち間違っていないのではないでしょうか。
今日はこの誘惑について3つのことをお話します。
「誘惑は可能性のある状況で発生する」
「誘惑の結末は死です」
「誘惑への必勝パターン」
誘惑は可能性のある状況で発生する
誘惑には一つの性質があります。それは、その誘惑に陥った者が自分が誘惑にあったのは、誰彼のせいだとよく責任を転嫁しようとすることです。この責任転嫁というのは、私達人間の心に焼きついているものでありまして、それは人類最初の人間、アダムとイブの間に既にその姿が赤裸々にあらわされているのです。
アダムとイブの話、ご存知かと思います。神から食べてはいけないよと言われていた禁断の実を彼らは食べてしまいました。そして、そのことを神に指摘された時に、アダムはこう答えました。
「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」(創世記3:12)。
アダムによって指先が向けられた女イブはこう言いました「蛇がわたしを騙したのです。それでわたしは食べました」(創世記3章13節)彼らは自分達の過ちは自分の責任ではないと主張したのです。アダムにいたっては「わたしと一緒にしてくださったあの女が」と言っており、それは言い方を変えれば「あなたがこの女を私と一緒にしてくださらなければ、私はこの実を食べることはなかったでしょう」ということであり、その責任を神にまで向けているのです。
新約聖書においてヤコブという人もこの人間の心に染み付いている性質というものについて、書いています「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません」(ヤコブ1:13)
私達はどうでしょうか。私達は自分の過ちを誰かのせいにしてはいないでしょうか。「俺がこうなったのは、あいつのせいだ」と家族や友人を責めることがないでしょうか。クリスチャンの間でよく聞く言葉に「これはサタンの仕業です」という言葉がありますが、真冬に薄着で不摂生をして風邪をひいたら、それは「サタンの仕業なのでしょうか」。車の定期検査をずっとし忘れていて、車が停まってしまったら、それは「サタンが私達の働きを止めようとしている」ことなのでしょうか。私達はこれらのことを冷静に見極めなければなりません。
ヤコブは先の言葉のすぐ後にこう書いています。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」(ヤコブ1:14) ヤコブは言いました。「人はそれぞれ自分の欲に引かれて、おびき寄せられて、誘惑される」と。この言葉を私達は厳粛に受け止めなければなりません。この言葉は明らかに私達が誘惑におちいる場合というのは、誰かれの仕業ではなく自分の欲によるのだと言っているのです。
今日の箴言の言葉は「彼はちまたを過ぎ、女の家に行く曲りかどに近づき、その家に行く道を、たそがれに、よいに、また夜中に、また暗やみに歩いていった」と書いています。
皆さんはこの言葉を読む時に、この若者がこの女と会ったのは偶然だと思いますか?いいえ、彼は自分の足で必ずその類の女性にあう場所へと自ら進んで行ったのです。そして、ただ一言、その結末について10節は「見よ、遊女の装いをした陰険な女が彼に会う」と書いています。
すなわちこの若者が自らその女がいる場所に赴くという原因があって、必然的にこの若者はこの女に会うという結果がともないました。時に私達はこのような状況にある時に自己弁護するのです。「あそこでたまたま彼女に会ってしまって、そして魔がさして」と。しかし、多くの場合、そうではなくヤコブが既に指摘しているように私たち自身が欲に引かれて、その誘惑に手が届くすぐ側まで赴いていることが多いのです。
イスラエルの二代目の王であるダビデは自分の部下の妻バテシバと姦淫を行いました。どんな時にそれが起きたのか、彼が自分の王宮のバルコニーを歩いていた時に、階下で体を洗っている彼女を見た時です。聖書は書いていませんが、彼はそのバルコニーから見ることができる光景というものを知っていたかもしれません。ある人はこのバテシバもこの王が自分を見ることができる場所で体を洗っていたのではないかと言います。真意は分かりませんが、もしかしたらそうだったのかもしれません。
ダビデは神に仕えていた真実な王でした。しかし、彼はバテシバの裸を見たのです。そして、彼の情欲が彼の信仰と理性を突き破ってしまったのです。ということは、彼があの王室のバルコニーを歩いたというところに、既に彼の敗北があったのかもしれません。
皆さん、私達は心に刻みましょう。誘惑は私達が自らを誘惑に陥る可能性のある状況に置く時に陥りやすくなるのです。「一ミリオンを手に入れたいという誘惑にいつもかられているの」と言える人はあまり多くありません。この誘惑にかられる人は、実際にワンミリオンのキャッシュが目の前に置かれているとか、それが保管されている金庫を開けることができる立場にある人達だけに現実的なものなのです。ダイエットをしている人がデパートの地下食品街を歩けば、食を口にする可能性は高いのです。人の噂話に加われば、あなたも非現実的な噂話を風潮するその人になりうる可能性を背負うことになるのです。
二つ目のこと、それはこの誘惑の結末は死ということです。
誘惑の結末は死です
21女が多くの、なまめかしい言葉をもって彼を惑わし、巧みなくちびるをもって、いざなうと、22若い人は直ちに女に従った、あたかも牛が、ほふり場に行くように、雄じかが、すみやかに捕えられ、23ついに、矢がその内臓を突き刺すように、鳥がすみやかに網にかかるように、彼は自分が命を失うようになることを知らない。 24子供らよ、今わたしの言うことを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。25あなたの心を彼女の道に傾けてはならない、またその道に迷ってはならない。 26彼女は多くの人を傷つけて倒した、まことに、彼女に殺された者は多い。 27その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く。
皆さん、この若者の姿をどう思われますか。この若者の姿をこの箴言を書いたソロモンは「それはあたかも牛がほふり場に行かれていくようなものだ。牡鹿が捕えられて、その矢がその内臓を突き刺すようだ、鳥が網にかかるようだ」と描写したのです。そして言いました「彼は自分が命を失うようになることを知らない」。
皆さん、父なる神様は肉親の父がその我が子に幸せを願うように、私達に幸いな人生を歩んでほしいと願っておられます。しかし、そのような人生を歩むためにはどうしても避けなければならないことが人生にはあるのです。この避けるべきものを、どれだけ避けることができるかということが、イコール私達がどのような幸いな人生を歩む事ができるのかということなのです。
でも世の中の主張は違うのです。それは「この甘いものを飲み込むことによって幸せになれるよ」というものです。そして、私達はそれを飲み込んでしまい、後になって自らに降りかかる問題に唖然とするのです。そして、その時に私達がしてしまったことに責任を取る人は誰もいません。全て責任をとらなければならないのは私達なのです。
箴言6章26節―29節に書かれています「遊女は一塊のパンのために雇われる。しかし、みだらな女は人の尊い命を求める。人は火をその懐にいだいて、その着物が焼かれないであろうか。また人は、熱い火を踏んで、その足が焼かれないであろうか。その隣の妻と不義を行う者も、それと同じだ。すべて彼女に触れる者は罰を免れることはできない」
今日もこのとによって、それは様々な誘惑ということができると思うのですが、それらによってその命を、この場合は霊的な命、そして文字通り私達の肉体的な命を失う人は日々、続出しているのが私達の世界なのです。火は最初は温もりとしてその身と心を温めてくれるかもしれません、しかし、火を懐にいだけば、着物は焼けるのです。熱い火を踏めば、足は焼かれるのです。そして、その火は自分から飛火して、私達の回りのものすらも炎に包まれることがあるのです。あらゆるものを焼き尽くした山火事はマッチ一本で始まるのです。
誘惑はその時は甘いものに見えます。しかし、それによって支払う代価はあまりにも大きいのです。箴言の記者は「誘惑の結末は死である」ととても厳しい言葉を残しました。彼は大げさなことを言っているのでしょうか。いいえ、そうではありません。私達はこの現実を心に刻まなければなりません。
誘惑への必勝パターン
野球などを見ていますと、監督の采配の中に「必勝パターン」というものがあります。それは打者がしっかりと仕事をして、すなわちそこそこの点を相手から奪い取って、同時に先発ピッチャーがきっちりと押さえて、その後、中継ぎピッチャーもクローザーもしっかり仕事をすれば勝てるというパターンです。今年のパドレスはこのパターンになかなか乗れないゆえに、勝てないとも言われています。
私達が誘惑へ勝利するためにもこのパターンがあります。まず、その前提として、私達がこの誘惑に勝つために必要なことがあります。それは「自分を知る」ということです。多くの戦いは敵を知る前に、自分を知ることから始まります。この場合、自分の何を知るのか、それは「自分は到底、誘惑には勝てない」ということを自覚するということです。
皆さんの中で私は決して誘惑に負けませんという人いますか。以前、お坊さんが異性の力に負けないようにしている修行の内容を聞いたことがあります。それは美しい魅力的な女性が脳裏に浮かんだ時に、その女性は実は骸骨に肉がついている醜い人なのだということ、死ねばその屍にウジがわくような存在なのだということを想像するのだというのです。でも、実際、そのようなことで誘惑に勝つことなどできるのでしょうか。
ここではそのようなイメージトレーニングはお話しません。一つ目、今お話しましたように私たち自身には誘惑に勝つことができる力がないということを自覚しましょう。そして、これも先にお話しましたように「私達が誘惑が起こされる可能性のある環境から常に遠ざかる」ということを意識することが大切です。
カジノに行く人が財産を失うのです。そこに行かなければ財産を失うことはありません。「見ているだけですから」ということは、全く無力なものであることを知りましょう。防御は最大の攻撃なのです。
詩篇一篇一節に書かれています「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである」私達は悪しき者の側を歩き始めると、そこに立ち止まることになります。そして、立ち止まると、やがて座るようになります。しっかりと腰を落ち着けるようになるのです。そして、そうなってしまったら、そこから再び立ちあがることは難しいのです。立たないために、座らないために、私達はその側を歩くことをやめるべきなのです。
これらは全て自分の決断によってなされることです。しかし、私達にはその力すらないのです。ですから、私達はやはり頼れるお方から勝利する力をいただかなければなりません。
イエス。キリストはかつて「どう祈ったらいいのでしょうか」と問われた弟子達に対して主の祈りを教えました。そして、その中に「私達を試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ6章13節)という簡潔な言葉を入れられました。
ここでイエスが言われた「試み」という言葉の意味には「誘惑」という意味が込められています。イエスは日常の生活の中で、人がどんなに誘惑に陥りやすいか、そしてそれに対してどんなに人間が無力であるかということをよくよく知っていたに違いありません。それゆえに「誘惑に勝たせてください」と祈れとは言わずに「誘惑に会わないように」と祈るようにいったのです。ここには真理がこめられています。すなわち、「私達は会ってしまったら負けてしまう」弱さがあるということです。ですから会わないようにというのです。
そして、この祈りをイエスは「私達」として教えておられることに目を留めましょう。私達は一人でこの誘惑に打ち勝つことはできないのです。私達は互いに助けあって、時には互いに注意をしあいながらこの誘惑に勝利をとりましょう。本当に信頼できる人に自分が受けている誘惑をシェアーして、時に応じて、冷静なアドバイスと励ましを受けることは大切です。ダビデもあの時にバルコニーに信頼できる仲間がいたら、あの誘惑に負けることはなかったでしょう。
ヘブル書2章18節「 主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」
ヘブル書4章15節「 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」。
イエス様はこの地上で人間と共にその生涯を歩まれたゆえに、この世界で人間が何に直面し、何に悩み、何によって傷つき、何によって落ちていくかをよくよく知っていました。誘惑に会ってしまえば、それに負けていく人間というものを知っていたに違いありません。そして、何よりもご自身も私たちと同じようにその試みに会われたお方なのですから。だからイエス様は「私達を試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」と祈れと言われたのです。
そして、神様は私達がこの祈りを真実に祈るなら、この祈りを聞いてくださって、その誘惑に会う機会から今も私達を守ってくださっているに違いありません。神の守りにあって、実は私達が会わずにすんでいる誘惑というものが多くあり、しかし私達は祈りが聞かれて実際にそれらに会っていないのですから、事の背後にある神の働きに気がつかずに日々を過ごしているのかもしれません。実際は私達はもっと多くの誘惑に向き合う日々を送っているのかもしれません。そのように神様はもう既に私達と共に働いていてくださるのです。
でも、それらの神様の守りがあっても、私達は誘惑にあいます。どうしたらいいのか。先ほどの箴言7章1節‐5節にはこう書かれています。
1わが子よ、わたしの言葉を守り、わたしの戒めをあなたの心にたくわえよ。2 わたしの戒めを守って命を得よ、わたしの教を守ること、ひとみを守るようにせよ。3これをあなたの指にむすび、これをあなたの心の碑にしるせ。4知恵に向かって、「あなたはわが姉妹だ」と言い、悟りに向かっては、あなたの友と呼べ。5そうすれば、これはあなたを守って遊女に迷わせず、言葉巧みな、みだらな女に近づかせない。
ここで繰り返し、ソロモンは誘惑に勝つために、わたしの言葉を守り、戒めを心にたくわえ、それを守れ、それを守ること、瞳を守るようにしなさい、それをあなたの指に結び、心に刻み込めと言っています。そして、そうするならば、あなたは遊女から免れると言っているのです。
先ほどの詩篇一篇にもこう書かれています。「1悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。2このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」。
誘惑に会わない人は幸いだ。そのような人はどんな人なのか。主のおきてを喜び、昼も夜もそのおきてを思っている人なのだというのです。ここに私達は勝利の方程式を見るのです。
キリストが神の子としてその働きを始められる時、彼はサタンの誘惑に会われました。すなわち極限の空腹をかかえていたイエスにサタンは「あなたはこの石をパンに変えてみよ」と誘うのです。しかし、この言葉に対してキリストは「人はパンだけで生きる者ではない」という聖書・申命記の言葉で答えたのです。神の子が自分の言葉ではなくて、その時に聖書の言葉を引用したということは、虎の子が親から獲物の捕え方を学ぶように、私達に対して、どうしたら誘惑に勝つことができるのかということをイエス様が目に見える形で私に示してくださったということではないでしょうか。
ペテロ第一の手紙5章8節にはこう書かれています「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを求めて歩き回っている」。
私達はこのような世界に生きているということを知りましょう。ダビデがバテシバとの姦淫を犯した時が「平和な夕暮れ時」で「自分の国が戦においても連勝が続いていた時」であったということを心に刻みましょう。ダビデはそのような時、自分の前にいる目に見えない敵を見失ってしまったのです。私達は常に誘惑に向き合う世界に生きているのです。そして、それに自分の力で立ち向かうことなどはできないのです。私達はどうしても神様の力を必要としているのです。
エペソ書の最後はこんな言葉で始まります「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために神の武具で身を固めなさい」(6章10節‐)エペソ書はそして一つ一つの武具が何かを説明して、その中で「剣を手に取りなさい」というのです。そして、その剣とは御霊の剣であり、それは「神の言葉」なのだというのです。私達はこの神の言葉、すなわち聖書の言葉によって諸々の誘惑と戦うのです。
「誘惑から守られるように」。まず、それに自分の力で勝とうという思いは捨てましょう。そのために誘惑の可能性がある状況に身を置くことがないように、たとえそこに居合わせても神様が私達をその場から立ち去る力を与えて下さるように願い求めましょう。神様は既に今も多くの誘惑を私達から遠ざけていてくださるのですから、その力にすがりましょう。しかし、それでも誘惑に向き合わなければならない時は、イエス様が模範をしめしてくださったように、御言葉の剣で勝ちをとりましょう。
お祈りしましょう。