子供達を育てる神の子供達

ドレッシャー博士の表紙タイトル「幼い子をもつ親のための七章」を見ていましたら・・・

Img_0904

それが幼い親をもつのための七章」に見えてきました。なぜなら私達大人も一応、子供より年をとっているのですが時にその幼さ、ゆがんだ考え、子供を第一と言いながらの自己中心性、短気等によって、子供が確かに害を受けていると思うことがあるからです。実際にそんなタイトルの本が子供達の間でよく読まれる日がくるかもしれません。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。

よかったらどうぞ↓

子供達を育てる神の子供達

2009年2月15日

ジョン・M・ドレッシャーの「幼い子を持つ親のための七章」(P102)によると「リアリティー・セラピー」(現実療法)の創始者としてよく知られている精神医学者のウィリアム・グラッサー博士は「現実療法」という本の中で「心の病なるものは存在しない」と書いています。博士が言うには、今日まで「心の病気」として言い古されてきたものは、人が生きていくうえで必要な二つの要素の欠如あるいは、その不調和の結果に他ならないと博士は言うのです。

そして、その二つの基本的な要素とは「愛すること」と「愛されること」であるというのです。この二つの基本的な欲求が満たされない時、人は情緒的な混乱をもつと博士は考えるというのです。フランスの詩人・小説家であるヴィクトル・ユーゴーもまた「人間にとって一番幸せなことは、自分は間違いなく愛されているという確信である」と言っています。

これらのことが書かれているドレッシャー博士の表紙タイトル「幼い子を持つ親のための七章」を見ていましたら、こう見えてきました。「幼い親を持つ子ための七章」。なぜなら、私達大人も一応、子供より年をとっているのですが、時にその幼さ、ゆがんだ考え、子供を第一と言いながらの自己中心性、短気等によって、子供が確かに害を受けていると思うことがあるからです。実際にそんなタイトルの本が子供達の間でよく読まれる日がくるかもしれません。

そんなことを考えながら、育児という事について何をお話したらいいのだろうと考え祈りました。聖書が書いている父母と子供との関係について「父たる者よ、母たる者よ」と具体的なことをお話すべきだろうか。否、それよりももっと大切な根本的なことがあるに違いない。それは子に変われという前に親、もしくは全ての大人が変わらなくてはならない類のことではなかろうか、とそう思ったのであります。

すなわち、先ほどウィリアム博士が人間に絶対不可欠なものとして「愛され、愛すること」と指摘されているように「私達が子を愛するためには、私達、親が大人が愛されている」ということを知らなければならないということです。この土台があってはじめて、私はその上に諸々の育児の教訓を築くことができるのではないかと思うのです。

マルコによる福音書12章29節―32節にはイエス・キリストの言葉としてこう書かれています。イエスは答えられた。一番、大切なのはこれです。「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただ一人の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」第二はこれである、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」。これより大事な戒めは、他にない」

この言葉を読んでいると私達は気にもとめないのですがキリストはその言葉を「イスラエルよ」という掛け声で始めているのです。そうです、この「イスラエル」という言葉はあのイスラエルという国の国名になったものです。それではこの「イスラエル」とは誰のことですか。

創世記32章38節を見ますと、こう書かれています「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい」。また、創世記35章10節には「神は彼に言われた、あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」とあります。

そうです、イスラエルとは「ヤコブ」という人の名を指したものなのです。かつては「ヤコブ」と言われていた人が、神様から「イスラエル」と命名されたというのです。そして、彼こそがイスラエル民族の父となったその人、ヤコブなのです。そして、彼はかつて自分を愛することができない人でありました。それゆえ、自分の最も身近な隣人、すなわち彼の父や兄を愛することができない人でありました。

ヤコブは、今から4000年も昔に(紀元前1950年から1900年頃)生きた人間です。彼には双子の兄、エサウがいました。かろうじてエサウの方が先に生まれてきたので、彼がヤコブの兄となったのです。その時のことが創世記25章24節―28節にこう書かれています。読んでみましょう。「24彼女の出産の日がきたとき、胎内にはふたごがあった。25さきに出たのは赤くて全身毛ごろものようであった。それで名をエサウと名づけた。26その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。リベカが彼らを産んだ時、イサクは六十歳であった。27さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。28イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した」。

ここに記されている「愛」は聖書に一番最初に記されている「親から子に対する愛」です。そういう意味ではとても記念すべき愛なのですが、その愛とは驚くなかれ見事な偏愛でありました。すなわち父イサクは鹿の肉が好きだったので、巧みな狩猟者となったエサウを愛し、ヤコブは穏やかでいつも室内にいてきっと母親を助けたのでしょう、それゆえに母リベカはヤコブを愛したというのです。

皆さん、これが人間の現実です。親といえども条件で子供を愛している姿がここにあります。そして、その背後には夫婦の間の問題も浮かび上がってくるように思えます。さらにこのような父母の愛情のアンバランスが子供達に影響を与えることも想像できます。否、実際にこの歪な愛情関係がこの家族の亀裂となっていくことが創世記には事細かに記されています。

ある日、ヤコブは自分に近い母リベカと策略を組んで父を騙しました。すなわち、年老いて目も見えなくなった父、イサクの前に兄エサウとして変装して、兄が受けるはずであった長男の権利というものを横取りしてしまうのです。それを知った兄エサウは烈火のように怒り、弟ヤコブを殺そうとするのです。命の危険を感じたヤコブはそれで家を逃れて旅に出るのです。彼は家族と断絶されました。それと同時にその策略の首謀者であった母リベカと父イサク、兄エサウの関係が、その後、険悪なものになったことが容易に想像されます。これらを読む時に、私達が今日抱える家族や親族との関係が今、始まったことではないということが分かります。

さて家を逃れたヤコブは、故郷から50マイルほど離れた場所で野宿をしたことが創世記の28章1節―11節に書かれています。今まで自分が寄り頼んでいたものから全て、引き離された夜です。

その内の10節―11節を読んでみましょう。⑩さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、⑪一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。

「故郷を離れる」とは、この聖書の救いの歴史における一つの型となっています。人は一つ所に住み着くことによって、そこに自分の城を築きます。つまり家族、財産、文化等の中にアイデンティーを求めるのです。しかし、その住みなれた場所を離れて旅に出るということは、その土地にかかわる全てのもの、つまり自分の生活、習慣、財産、地位、特権のすべてから離れることを意味します。これらのものから引き離されて初めて、人は土地が変わっても変らない永遠の神を求めるようになります。そのような意味でここに集っている皆さんは、まさしくこの時のヤコブの立場に立っているともいえます。

彼の場合はテントなんてない時代です。満点の星空の下に彼はいたのです。どんなにか寂しかったでしょうか。彼を可愛がってくれた母の姿が目に浮かんできたことでしょう。自分の住んでいた家の温かいヤギの皮布団を恋しく思ったことでしょう。ひもじくもなってきたことでしょう。

しかし、そこで彼は夢を見たのです。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂きは天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのです。そして、主が彼の側に立ってこう言われたというのです「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」(創世記28章13節―15節)。 

今までヤコブは親の築いた祭壇で礼拝を家族と共に捧げていました。しかし、この所で神様はヤコブに「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」と言いました。ここではじめて神はヤコブの神となったのです。生まれて初めて、自分の足で地に立っているヤコブ、これからの自分の将来のことを不安に感じている青年ヤコブの心に神様は言われたのです「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

おそらくこの旅を通して彼が一番、その心に感じていたのは孤独ということではなかったかと思います。しかし、彼はこの場所における体験を通して、彼の「孤独な荒野の旅」が「神と共に歩む荒野の旅」と変えられたのです。皆さん、私達が故郷を離れ、母国を離れ、この地で旅を続ける時、私達もヤコブのように神に出会うことができるのです。

彼はそれまでは母の愛とその保護の中にいたでしょう。しかし、先にお話したように明らかに父からの愛情は自分には向けられていないでエサウに向けられているということを感じ取ったいたことでしょう(子供は大人が思う以上に、大人の感情というものを全て感じ取っています)。すなわち、彼は父の愛というものを知らずに育ったといっても過言ではありません。

ルイス・マクバーニーというクリスチャン・リーダーとして有名な精神科医がいますが、彼は「人々の神へのイメージは彼らの父親に対する感情と重複し、鏡が光を反射するように、その思いを反映します」と言っています。

父親が愛情深くて子供に適切な言葉をかけ、子供の言葉に真剣に耳を傾けて精神的な必要を満たすと、その子供は、神は父親と同じように取り扱ってくださると思うようになるそうです。自分の父と神を重ね合わせてイメージするのです。

マルチン・ルターは長い間「天の父」という表現を嫌いました。父という言葉を聞くだけで震え上がったそうです。宗教教育に熱心な父でしたが、当時の習慣を反映して優秀な僧侶にするために極端に厳しい訓練を課したのです。父を怖がったルターは、やはり天の父を恐ろしく感じるようになりました。彼の激しいうつ病はそのせいだろうと言われています。乗り越えるのは並大抵の努力ではなかったのです。ルターは言っています「父と母を敬えという戒めを守る人は聖人だ」。

父親が不在で子供に関心を払わないとするとどうなるでしょう。その子供が信仰に入った後でも、天の父は遠く離れて関心を持っていないと感じる傾向が強いというのです。こちらは困っているのに、天の父はご自分の関心事や仕事で忙しくて、こちらを振り返る暇もないと錯覚してしまいます。

ヤコブの心には「お父さん、どうしたらあなたから愛してもらえるのですか」という叫びがあったに違いありません。そういう意味では、彼も「父親不在」経験者です。なぜ、「彼も」と言ったか。なぜなら、私たちの世界でも父親不在が叫ばれているからです。アメリカは違うでしょうが日本において、父親が子供と話す時間は一日七分というデータがあります。日本社会が朝子供が寝ている間に出勤し、子供が寝静まった後に帰宅というような労働環境になっているという現実があります。その他、夫婦の間の問題、別居や離婚など確かに父親不在ということは私たち社会の大きな問題です。父親不在というによる家庭への影響ということは、今日教育者や心理学者が言っているとおりです。

ヤコブは父と精神的一体化を遂げることができずに、父という内的な対象を造り上げられませんでした。そこに彼の孤独がありました。彼はその孤独を抱えたまま、この旅を続けるのです。しかし、その時に初めて肉の父、イサク以外の父、すなわち父なる神と個人的に出会うのです。

多くの皆さんは「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」というイザヤ43章4節(新改訳)の有名な聖句を知っていますね。私達が好んで読む聖書の言葉です。この言葉は誰に向けて語られたかご存知ですか。

聖書を開いてその前の箇所を見て下さい。「だが今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる・・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:1,4)。

このことを私たちは見失うことがあるのですが、この御言葉は「ヤコブよ」と言う言葉で始まっているのです。ヤコブと名指しされているのです。「ヤコブよ、あなたを造り出した方、あなたを形造った方、主はこう言われる」という言葉の後にに「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という言葉が続くのです。

神の前にヤコブは父兄を騙したりと完全なものではないのです。ヤコブとは今までお話してきましたように父との関係が破綻してしまった人間です。しかし、そんな彼の誕生を喜び、彼の人生を良きものにするために関わっておられたお方は言われるのです。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

私は韓国ソウルで生まれました。父は韓国人、母は日本人です。父は私が生まれてちょうど100日目に亡くなりました。故に、私は父のぬくもりというものを知りません。そう考えると、先にお話しましたように、父なる神に対するイメージというものを、肉の父によって知る機会はありせんでした。もしかしたら、この中に様々な理由により、父や母、あるいは両親を知らないで育った方がいるかもしれません。もしかしたら、両親と共に暮らしながら今日お話したような偏愛の中で育った方や「お前さえいなければ」とか「お前はもう私達の子供ではない」というような言葉で心に大きな傷を負って生きてこられた方がいるかもしれません。

でも、今日、知って下さい。私たちには父なる神がいるのです。詩篇27篇10節が言っている通りです「たとい父母がわたしを捨てても、主が私を迎えられるでしょう」。

皆さんも経験していらっしゃると思いますが、私たちも年をとり、親が自分を育ててくれていた年代になると、親へのありがたさが分かって来ます。子育てだけではなく、健康の問題や経済的な問題とかというものを自分も経験するとかつての親の苦労とか、なぜ親はあの時、あのような言動をしたのかということも何となく分かってきます。そして、その私たちの親にも親があり、彼らの幼少の時代というものがあったのです。そして、私達がはたと気がつくことは、彼らもその心に傷をもち、親の愛を十分に受けることなく育ったのです。愛されることを知らない者が、愛することは難しいとお話したとおりです。私達はそんな親達の気持ちが分かる年となりました。私達はその親の弱さを受け入れ、赦し、そして我らの父を父なる神として生きていくのです。その無条件の愛の中に生きるのです。その時に、私達ははじめて愛することができるようになります。

先ほどの野宿していたヤコブが神と出合ったと話しましたが、神から語られた時にヤコブは眠りから覚めてこう言ったと聖書は記しています。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。

それまでヤコブの心には「お父さん、どうしたらあなたから愛してもらえるのですか」という叫びがありました。しかし、この所で、彼は私と共に父なる神がいるではないかと気がついたのです。私は肉の父からは愛されなかった。しかし、私には父なる神がいるではないかという発見です。彼はその旅において、父なる神の存在に気がつかされ、さらに彼の旅は続くのです。

そして、長い年月が過ぎた後に創世記35章10節において、神様はヤコブにこう語りかけたのです。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もうヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」(創世記35:10)。ヤコブはどうしたでしょうか。そうです。「それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ」(同新改訳35:10)のです!

ヤコブはそれまで自分を生み育ててくれた親がつけてくれた「ヤコブ」という名前と共に生きてきました。その意味は「欺く者」というものです。すなわち、かつての彼は初対面の人に出会う時、「私はヤコブ、(すなわち私は欺く者)」ですと自己紹介してたのです。その名のもと、彼はまさしく父を欺き、逃亡の生涯を歩み始めたのです。

しかし、彼は新たに父なる神様から「お前の名前はヤコブではない、もう、ヤコブと呼んではならない」と言われたのです。あなたの名はイスラエルなのだ」と言われるようになったというのです。そして、彼は神様がそう呼んでくださること、それを、そのままを受け入れて、自分で自分の名をイスラエル(勝利者)と呼んだのです。すなわち、それは、彼が神を己が名を命名した父として、また、自分はその父なる神の子として自分自身を受け入れたということです。

それは何を意味するのか。それは、その時こそが彼が父を求めて歩んだ長い旅が終わった時なのです。今まで、父の愛を知らずに、その愛に飢え乾いて生きてきた。それゆえ、歪んだ心、満たされない心から、欺く者と人から呼ばれ、自分もそのように生きてきた。しかし、私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。それ故に、あなたは、これからは勝利者なのだということを知ったのです。

数年前、私達の教会に稲垣俊也さんというオペラ歌手が来て下さいました。その稲垣さんはよく「稲垣さんはなぜクリスチャンなのですか?キリストの何に惹かれるのですか?」というような質問を受けるそうです。

それに対して稲垣さんは臆せずにこう答えるそうです「私がキリストに惹かれるのは、キリストが私に惹かれているということです。キリストが惹かれるぐらい、私は魅力的な人間です」

普通の人はこのような言葉を聞くと驚きます。そしてその驚きとは「この人は何と大胆不敵なことを言うのだろう。なんと能天気な人なんだろう」というような驚きなのです。

でも、本当のところ、稲垣さんが言っていることは正しいと思います。他の人が何と言おうとイエス・キリストは私たちを愛していて下さる。神様は私たちに惹かれているのです。

「私は父なる神に惹かれるくらい、魅力的な人間です」。この言葉を臆せず、遠慮せずに受け止めることができるならば、私たちの人生は変るのではないかと思います。そして、そのように愛されている者となって、はじめて私達は本当の意味で育児という土俵に立つことができるのではないでしょうか。育児は子供を変えるところから始めるべきものではありません。まず親達が、大人たちが自分は無条件に父なる神に愛されているというところから始めるのです。

            

あなたはいかがですか?空の瓶から水を出せと言われてもそれはできません。人を愛することも同じです。愛されていないのに、人を愛する、それは無理な話です。遅かれ早かれその無理によって私達自身が倒れてしまうことでしょう。

ではその愛をどこに求めるか。人間か?私達はその不完全さを知っています。しかし、父なる神の私達に対する愛は永久に変わらないのです。

お祈りしましょう。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村 ↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください