日本がバブルに浮かれていた頃、「3K」という言葉がありました。それは「3回、三振とりました」ということではなく、「高学歴」「高身長」「高収入」ということでありまして、それはそれは男達にはおぞましく大変な時代であったのです(私はどれにも引っかからない者でした!ハレルヤ!)。しかし、この言葉もバブルがはじけてからはあまり聞かなくなりまた。ゆえに、時々生まれては消えていくこの類のことに一喜一憂することなく、男達は堂々と「らしさ」を失わずに生きていけばいいのではないかと思うのです。

でも、今も昔もどこに行っても、おそらく人々が異性に求める言葉があります。それは「誠実」という言葉。少し言い換えるならば「真実」という言葉です。この言葉にはとてつもない力があり、3Kが束になってかかっても吹き飛ばされてしまうほどの驚くべき力がそこにはあるのです。
さらにさらにバイブルは「神はあなたに対して真実だ」などと、椅子から飛び上がって倒れてしまうほどに驚くべきことを宣言しているのです。この辺り、しかと受け止めていくならば、私達は考えもしなかった、思いもしなかった世界を知ることになるのです。
マック
今日のメッセージです↓
よかったらどうぞ。
神の真実にかける
テモテ第二の手紙2章13節
エレミヤ31章3節
071104
私達はキッチンでもオフィスでもイエスを見出すという標語と共にこの一年を歩んでいますが、8月からその一つのシリーズとして「9つのせい」というものを取り上げてきました。このシリーズも今日の「誠」と来週の「静」で終わろうとしています。一つ一つが皆さんの日常生活のただ中にはたらいていることを心から願っています。
さて、今日、皆さんと共に見ていこうとしている「せい」は「誠」ということです。新撰組というのが日本にはいましたが、彼らが着ていた着物の後ろにも「誠」という言葉が縫われていました。
この「誠」ということ。英語でいうところの「Faithfulness」という言葉、この言葉は国や文化を越えて多くの人達の心をつかむものであります。この言葉には、とにかく相手のために、自分ができる最善のことをするというような、その人にとって最も良いと思うことを真心をもってするような、そんな意味合いがそこにはあるように思われます。時にその誠実さが裏目に出たり、誤解されたりすることもありますが、その心が常に相手を思い、相手の最善を思っていることが分かれば、これもまた相手に感謝されますし、もっと強い絆がそこには生まれることでしょう。そして、このようなことを誠と同じような意味として私たちは真実と呼ぶのです。
この真実というのは不思議なものでありまして、「これさえあれば」というものがこの中にはあり、反対に必要なもの、欲しいものを全て手に入れてもこの真実がなければ、何か力のないもののように思えます。
今日、お読みしました2つの聖書箇所にも実はこの真実という言葉が記されているのであります。そこで、今日は皆さんと、これらの御言葉を通して、テモテ第二の手紙を書いたパウロとエレミヤ書を書いたエレミヤの姿を通して真実、特に神様の真実についてお話をさせていただきたく願っています。
皆さん、このⅡテモテ2章13節にはこうあります「たとい、私たちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである」。ここで、この箇所を書きましたパウロはこの一文を「たとい、私たちは不真実であっても」とういう言葉で始めています。
彼がここで言っている不真実とは主に天地万物の創造者なる神様に対しての不真実であります。そして、神に対して不真実であるということはイコール、私たちは人に対しても不真実な存在なのだとパウロは言っているのです。
こんなことを言いますと、機嫌を損ねる方がいるかもしれません。「私は自分の親にもそんなことを言われたことがないのにパウロさん、あなたははそうかもしれないけれど、あなたと私を一緒にしないでください」
もし、そんな方いましたらごめんなさい。でも、そんな方もパウロのこの言葉の真意を知ることができたら、彼が言っていることにも同意できるのではないかと思います。
ある人が「自分の本当の姿を知るためにはどうしたらいいでしょうか」と聞いてきたそうです。その時、聞かれた人はこう答えました。一日だけでいいからイエス・キリストが言われた「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさいという言葉を実行してみなさい」。その人は言われた通りに実行してみようとしました。しかし、その一日が終わらないうちに、再びやってきて言ったそうです「自分のことがよく分かりました。私はあなたが勧められたことを半日たりとも、することができませんでした」。「真実」とは見た目ではなく、その「動機」までもが計られて真実だということです。
皆さん、どうでしょうか、そこまで私達が自分の心を探るのでありますならば、私達はパウロが言うように「私達は不真実である」ということに同意せざるをえないのではないでしょうか。
このパウロも自分自身を神の光のもと、よく見つめる人だったようです。あのローマ書7章においては、彼自身「私の内には善なるものが宿っていないことを知っている・・・。私の欲している善はしないで欲しない悪はこれを行っている」と赤裸々に自分の心の内を告白しています。また彼は自分自身を「罪人の頭」(Ⅰテモテ1章15節)とも呼んでいます。自分が神の前に立つ時に「私たちは不真実である」と言ったのは、嘘偽りのない本心からだったに違いありません。
そして、もし彼自身がその「自分の不真実さ」に気がつかされているだけであるなら、彼はとても惨めな人間であったことでしょう。現代的に言えば、自尊心の低い、自己憐憫に陥っていくような人としてその生涯を歩んだに違いありません。あるいは開き直って、ますます、その不真実さに生きていったことでしょう。しかし、彼はこれら自分の不真実に対して、神は常に真実だと言うのです。しかも、この言葉には当然「神は常に私達に対して真実である」という意味が含まれており、彼がこの言葉を書いた時、もしくは口から語った時、彼の心は熱く燃えていたに違いありません。
そして、人間というのは本質的にいつの時代も同じものであります。これと同じことを今から2700年前、すなわちパウロより700年前に生きたエレミヤという人物も、先ほど読みましたエレミヤ31章3節において「神は絶えずあなたに真実を尽くしてきた」と言っていたのです。パウロが言うところの「常に」という言葉と、エレミヤが記すところの「絶えず」という言葉は、あえて説明するまでもない、これは一時もその神の真実は不真実に転換されることはなかったということであり、今もないということであり、これからもないであろうということであります。何と驚くべき言葉でしょうか。
よく私達は期間限定という言葉を見聞きすることがあります。期間限定のお値段とか、期間限定の果物とか。これはその時が限定されているということであり、それ以外の期間は含まれないということです。
神様の真実はどうなのでしょうか。その真実はある年のある期間だけのものなのでしょうか。それは1993年の春から1998年の夏まで神様は自分に真実であったけれど、その後はどうも・・・ということではないのです。これから自分の体も弱っていくだろう、あの問題もこの問題もあるから、これからしばらくは神様の真実さも音沙汰なくなるだろうなということではないのです。神様の真実はいつもどんな時にも私たちの上に注がれているというのです。
最近、一米先生とも話したのですが、教会の内外においてここ一、二ヶ月、教会の内外で色々なことがありました。それらは、どちらかというと悲しみや痛みを伴うことでありました。しかし、じゃーその時に私達の教会に対する神様の真実はなくなっていたのでしょうか。いいえ、そうではない、神の真実は変ることがないというのが今日、読んでいる聖書が言っていることです。
「神様よ、あなたは絶えず私に真実を尽くして下さったのですね」と言ったエレミヤはその書、エレミヤ書を書記バルクに記させたとされています。Ⅱテモテはパウロが自分より年若く経験の浅いテモテに宛てて書いたものとされます。彼らはどのような状況で、このような言葉を語ったのでしょうか。皆さん、このパウロとエレミヤはどんな人物だったのでしょうか。この二人には共通点があります。それは彼らが神のために散々、苦しんだ者たちだということです。まさしく人の苦しみの極地に落ちた人間がこの二人です。
エレミヤ書は彼の生涯の晩年に書かれたのではないかと言われています。エレミヤは南ユダ王国時代の最も暗い時代を生きた若き預言者です。泥だらけの井戸に落とされて監禁され、幽閉され、郷里で殺されるような危機に遭い、売国奴と罵られ、親戚旧知の友人からも捨てられた人間でした。とにかく涙の預言者とまで言われるほどに苦労の全てをなめ尽くした人です。預言者には二つのタイプがありまして、やがてこの国にいいことが起こるということを預言する預言者と、やがてこの国には滅亡がやってくるという警告を語らなければならない預言者がいます。エレミヤは後者でありました。乱れきった国と国民に対しての彼の警告の叫びは多くの者たちの反感を受けたことが聖書に書かれています。まさしく天涯孤独の生涯が彼の生涯だったのです。
その彼もあのパウロが叫んだように、まさしく「私たちは不真実であっても」というような人間だったのでしょう。その困難な生涯において、神に対して「怒る、愚痴る」というような醜態を見せたことも度々ありましたし、彼はその困難があまりにも大きかったので、その苦しさのあまり「わが母よ、あなたはなぜ、私を生んだのか」(エレミヤ15:10)と自分の母を呪ったり(そして、この言葉は神への呪いでもあります)、「主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになる」(20:8)と自分の今の困難は全て神のせいだとばかりに罵りともとれるような言葉をこぼしたのも彼でした。
しかし、この預言者がその自分の困難だらけの経験を通して「イスラエルの民よ、神はこう言っている」というのです。それが、この言葉なのです。そして、それは彼の晩年において、すなわち確かに大変な生涯を彼は送ったけれども「神は限りなき愛をもって、私を愛していてくださる。それゆえに、神は絶えず、わたしに真実を尽くしてくださった」というのです。生涯、人から罵られ続けた一人の人間が、その晩年にこの神の愛と真実を証言するのです。
パウロはどうでしょうか。彼は命がけの伝道に生きてきました。彼は告白しています(Ⅱコリント11:24―)「苦労したことは最も多く、投獄されたことも最も多く、むち打たれたことははるかに多い。ユダヤ人に40に一つ足りないムチを受けたことが5度、ローマ人には3度、石で打たれたことが一度、難船したことが3度、その他、川の難、盗賊の難、同国民の難、あらゆる難をこのパウロはなめ尽くしたとあります。度々、眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあったというのです」
このⅡテモテはパウロが獄中で殉教の時を待ちながら書いたと言われている、数々あるパウロの手紙の中でも最後の手紙です。そして、その最後の方を見ていただきますなら、お分かりいただけるかと思うのですが、彼の仲間でさえ彼を捨てて離れていったとパウロは記しています。それ故に、今は彼のもとにはルカしかおらず、彼はこの手紙の中で近づいてくる冬に備えて上着を持ってきてくれないかとまでテモテに望んでいるのです。彼の状況は孤独で緊迫しており、心身ともに追いつめられていました。人間的にいえば悲しい、寂しい人生の晩年です。
しかし、このパウロは神の真実をこの獄屋の中で書き連ねるのです。自分の生涯は常に神の真実によって満ちていたと彼は証しするのです。「たとい、私たちは不真実であっても、神は常に真実である!」と。自分の仲間さえ彼を捨て去って、自分は今、獄屋の中にいる。その時、彼の口からは神への呪いではなく「この神は常に真実である」という言葉が出たのです。
これが彼の生涯を振り返った時の証しだったのです。この困難、迫害の見本のようなこの二人はその晩年、神をのろうのではない、今までの自分の生涯を後悔するのでもない、愚痴るのでもない、神はいつも私に対して真実であったというのです。
9月に病床に伏している母を訪ねることができました。一週間余りを共に過ごしてきました。かつてのように母は自分から何かを私に尋ねたりすることがなくなっていました。こちらから何かを聞けば答えてくれます。しかし、その逆はなくなりました。医者の話を聞けば聞くほど、決して前向きにあの事もこの事もしていきましょうとは考えられない話も出てきます。
病のためでに、側で私が医者と話しているその話を聞いてもあまり理解できないであろう、そんな母に尋ねてみました「お母さんの一番好きな聖書の言葉は何なの?」。母はスラスラとは言えませんでしたが、すぐにこう答えました「第二テモテ2章13節」。そう、今日、開いている御言葉です。
「たとい私達は不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである」。
彼女が決して安心していられるような場所ではない病床で、このみ言葉について触れたことは私にとって大きな驚きでした。しかし、よく考えれば、今までお話しましたように、エレミヤやパウロが神の真実を語った時も、それは決して安泰な時ではなかったのです。
皆さん、もし私達が全てがうまく行っている時にだけ、この聖書の言葉はありがたいなーと言っているのなら、それはまだこの御言葉がもつ本当の意味の半分にしか触れていないのです。私達がいかなる状況の中にある時も「神は常に真実である」というところに立つことができることが神を信じるということの本当の力であり、そのことによって、私達は神の驚くべき恵みを知っていくのです。
聖書はこの朝も私達に語っているのです「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである」。私たちは聖書を開く時に全知全能の神を見出します。創世記にあるように光を創造し、天地万物の生きとし生けるものを創造し、その命を保っておられるお方の姿です。
しかし、パウロは驚くべきことを言った。その神にも一つできないことがある!それは、神様はご自身を偽ることだけはできない。ご自身を偽って、私たちに不真実になることはできないというのです!!
皆さん、この2007年も残す所二ヶ月です。この一年にも色々なことがあったことでしょうし、これからも私達のいく手にいは何が待ち構えているかは分かりません。それは私達がそうであるように、あのパウロもエレミヤも私達以上に緊迫した時を生きていたのです。しかし、この朝、私達は彼らの燃えるような息づかいを感じるのです。
パウロがあの息が白くなってしまうような極屋の中で書き記した言葉が私達にも語りかけるのです。
たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである
泥だらけの井戸に落とされて監禁され、郷里で殺されるような危機に遭い、親戚旧知の友人からも捨てられた人間、涙の預言者エレミヤの言葉が私達に語りかけるのです。
神は限りなき愛をもって、あなたを愛している。それゆえに、神は絶えず、あなたに真実を尽くしてきた。
この言葉を差し引くことなく、本心から受け止めていく者は、これからどのような生涯を送ることになるのでしょうか。そんな人達が家庭のキッチンや自分の働くオフィスで日常を生きる時、そこにはどんなことが起きていくのでしょうか。それを考えただけで私達は心の底から熱いものを感じないでしょうか。
今朝もう一度、私達は確認しましょう。いや、確認しましょうでは言い方が浅いかもしれない。強く確信しましょう。たとい私たちは不真実であっても神の真実は決して変わることがないということを!神は私達に対して限りない愛をもって、愛していてくださるということを。
私達の今日を支え、明日を導くもの、それは実にこの神の真実を他にしてはないのです。
お祈りしましょう。