ある神学者は言いました「心配は未来に住んでいます」。
私達もこんな心配したことがないでしょうか?
「明日、仕事のインタビューがあるけれど、どうなるだろうか」「子供は来年、大学に進学するが学費は大丈夫だろうか」「家を買ったら、きちんと支払いができるだろうか」「私の老後はどうなるのだろうか、その時、社会保障はしっかりしているのだろうか」「カリフォルニアには必ず地震がくるらしいけど私は生き延びれるだろうか」。

心配にふりまわされていませんか?
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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将来が心配なあなたへ
2008年5月18日
創世記32章3節ー21節
3ヤコブはセイルの地、エドムの野に住む兄エサウのもとに、さきだって使者をつかわした。4すなわちそれに命じて言った、「あなたがたはわたしの主人エサウにこう言いなさい、『あなたのしもべヤコブはこう言いました。わたしはラバンのもとに寄留して今までとどまりました。5わたしは牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでわが主に申し上げて、あなたの前に恵みを得ようと人をつかわしたのです』」。
6使者はヤコブのもとに帰って言った、「わたしたちはあなたの兄エサウのもとへ行きました。彼もまたあなたを迎えようと四百人を率いてきます」。7そこでヤコブは大いに恐れ、苦しみ、共にいる民および羊、牛、らくだを二つの組に分けて、8言った、「たとい、エサウがきて、一つの組を撃っても、残りの組はのがれるであろう」。
9ヤコブはまた言った、「父アブラハムの神、父イサクの神よ、かつてわたしに『おまえの国へ帰り、おまえの親族に行け。わたしはおまえを恵もう』と言われた主よ、10あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。わたしは、つえのほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は二つの組にもなりました。11どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。12あなたは、かつて、『わたしは必ずおまえを恵み、おまえの子孫を海の砂の数えがたいほど多くしよう』と言われました」。
13彼はその夜そこに宿り、持ち物のうちから兄エサウへの贈り物を選んだ。14すなわち雌やぎ二百、雄やぎ二十、雌羊二百、雄羊二十、15乳らくだ三十とその子、雌牛四十、雄牛十、雌ろば二十、雄ろば十。16彼はこれらをそれぞれの群れに分けて、しもべたちの手にわたし、しもべたちに言った、「あなたがたはわたしの先に進みなさい、そして群れと群れとの間には隔たりをおきなさい」。17また先頭の者に命じて言った、「もし、兄エサウがあなたに会って『だれのしもべで、どこへ行くのか。あなたの前にあるこれらのものはだれの物か』と尋ねたら、18『あなたのしもべヤコブの物で、わが主エサウにおくる贈り物です。彼もわたしたちのうしろにおります』と言いなさい」。19彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った、「あなたがたがエサウに会うときは、同じように彼に告げて、20『あなたのしもべヤコブもわれわれのうしろにおります』と言いなさい」。ヤコブは、「わたしがさきに送る贈り物をもってまず彼をなだめ、それから、彼の顔を見よう。そうすれば、彼はわたしを迎えてくれるであろう」と思ったからである。21こうして贈り物は彼に先立って渡り、彼はその夜、宿営にやどった。
今朝、司会者に読んでいただきましたように創世記にはヤコブという人の生涯が書かれています。このヤコブにはエサウという双子の兄がいました。彼らは双子ですから同じ日に生まれたのですが、エサウの方が先に母の胎を出てきたということで彼が兄となりました。その時間差、数十秒ほどだったかと想像しますが、当時は長男に与えられる特権というものはそれがたとえ数十秒の誕生の違いであったとしてもとても大きなものでありました。
ですから文句なしにこのエサウには長男として保証されているものがあったのです。しかし、弟ヤコブはある出来事を通してこのエサウの長男としての特権と特別に父親から与えられる祝福というものをずる賢い方法で横取りしてしまうのです。ヤコブという名前には「押しのける者」という意味がありまして、彼はまさしくその名のごとく生きたのです。それに怒った兄エサウは弟ヤコブを殺そうと図りました。なんとも悲しい話です。かつては母の胎で10ヶ月を共に過ごした関係でありながらの骨肉の争いです。
そして、結局、その兄の殺意から逃れるためにヤコブは実家を一人、逃げることになりました。まさしく夜逃げのような状態です。「黙って逃げる」という手段によって、兄エサウの心の中にはさらなる怒りと恨みが増したに違いありません。
そして、今日、読んでいただいた箇所は、ヤコブが家を逃げ出してから20年後のことで、ヤコブは兄エサウの元に使者を遣わし、どうにかして兄との関係を修復するためにたくさんの捧げ物をしようとしている試みを私達は見るのです。そうしたところ、兄の元に遣わした使者が伝えたところによると、兄エサウが 400人もの人を引き連れてくるというのです。
その報告を聞いたの時のヤコブの心境というものを7節は「恐れ、苦しんだ」と書いています。そりゃそうでしょう、20年前に殺されかかった兄から逃げて、隠れるように過ごしてきた人生、心のどこかにいつも良心の咎めと恐れとがあったことでしょう。この世界にかつて本気で自分を殺そうとした者がいたという事実、そして、その者が今も、もしかしたら変わらない殺意をもって、この世界のどこかに生きているかもしれないという恐怖。これらの心配は故郷を離れてから20年、いつも彼の心のどこかにあったに違いありません。今日はこのヤコブの姿から「心配」ということについて見ていきたいと願っています。
心配
ある医者が言いました「あなたの腹痛はあなたが食べたものによって生じているのではありません。あなたが何に食われているかによって生じているのです」。ジョン・カルバンは「極度の心配に支配されている者は、常に自分を脅迫する者を身にまとっているようなものだ」。
私達の心配はストレスを生み、頭痛、腰痛、腹痛を生み、眠れぬ夜、高血圧、低血圧、消化不良、胸の痛み、イライラ、落ち込み、気力減退を招くものです。ゆえに私達は誰も好んでいつも心配することを願うことはありません。誰もがこの心配から解放されたらということを願っているに違いありません。
ある神学者は言いました「心配は未来に住んでいます」。私達の心配はどこにあるのか。心配は未来にあるというのです。ヤコブは心配したのです。自分が兄の前に立った時に何を言われるだろう、何をされるだろうと。そして、その時というのはまだ来ていないのです。それはダビデにとって、これから先の未来のことだったのです。
これは心配というものを的確に表しています。私達もこんなことを心配したことがないでしょうか「明日、仕事のインタビューがあるけれど、どうなるだろうか」「子供は来年、大学に進学するが大丈夫だろうか」「もし家を買ったら、きちんと支払いができるだろうか」「私の老後はどうなるのだろうか、その時、社会保障はしっかりしているのだろうか」「カリフォルニアには必ず地震がくるらしいけど私は生き延びれるだろうか」。「今日の牧師のメッセージ、長くならないだろうか」(これはおまけ。結果はその内、分かります)。
新約聖書で使われている「心配」という言葉には「分かたれた心」という意味があります。つまり本来一つの心であるはずなのに、それが分断されてしまっているということです。すなわち「安心とか平安という心」が、それとは全く異なる「心配という心」によって二分されてしまうということです。そう言われてみれば「心配」という漢字には「心を配る」という意味があり、それは心があちこち分かたれていることを意味しています。
ベッドに入った時、色々な心配事が思い起こされる。そのような時、私達の心は分かたれており色々な思いの間を行ったり来たりします。つまり「あのこと大丈夫かしら」「きっと大丈夫よ」と考え始め、眠れなくなるのです。そして、この心配とは一部の人達の事柄ではなくて、誰でも経験するものでもあります。すなわち、ヤコブも、ナポレオンも、ビートルズも、オバマさんも、私もあなたも、私達の父母も、心に心配を持つものなのです。
そして、私達が人生を歩んでいくにあたり、私達がこの心配とどのように付き合っているかということは、時に大きなポイントになるのではないでしょうか。明日の試験のこと、野球の試合のこと、私達は心が二分されたまま時を過ごし、そして、その肝心要の試験や試合が始まっても、その心配を引きずってしまい、自分の本来の実力を出し切れないというようなこともあるのです。
日本人のスポーツ選手がいつも「プレッシャーに負けてしまいました」とよく言っているのを聞いていた外国人記者が親しい日本人記者に言いました「いつかミスター・プレッシャーに会わせてくれ。そうとうに強い男らしいな」。「Mr.プレッシャー」のラストネームは「WORRY、すなわち心配」なのです。心配は本来のあなたの実力、本来あなたが乗り越えていくことができる力すら、奪い去っていくものなのです。私達はどうにかこのような心配から解放されたいものです。まず、そのために心配とはどんなものなのかということをみていきましょう。
心配とは私達を脅かすもの
ヤコブにとっての心配は「自分が脅かされるのではないか」というものでした。もし、エサウの怒りが収まっていなければ、あの時、殺そうと思った彼の感情がそのまま自分を脅かすだろう。自分の命が失われるかもしれないし、それだけではなく、自分の家族や財産も全て脅かされるだろうという心配です。
私達の周りには私達を脅かすもの、恐れさせるものがあります。いつか自分はホールドアップされるのではないか、あの人が怒鳴り込んでくるのではない、誰かが自分の家に侵入する者がいるのではないか、あの人達は自分のことを悪く言っているのではないか。以前、境界線(バウンダリー)の話をしましたが、これらの心配は誰かが身体的に、もしくは精神的に私達のバウンデリーを超えて侵入して来るのではないかということなのです。また逆に考えると私達自身が誰かの境界を越えて侵入していたのではないか、脅かしていたのではないかということすらも私達は心配します。二つ目です。それは心配とは決断する時に起こるものです。
心配とは決断する時に起こるもの
ヤコブが兄エサウに使者を遣わすということは大きな決断でした。あちらから使者が送られてきたのではなく、自分から使者を送ったのです。すなわち、その決断に導かれる前に彼は「このまま自分は兄を会うことなく生涯を隠れるように生きていこうか」という思いと「いや、残りの生涯を逃げ隠れながら生きるのはごめんだ。どうにか兄と和解しよう」という思いがありました。そしてこの二つの間を「でも、もし、ああなったら、こうなったら」という心配が行き巡り、その心は何度も何度も揺れ動いた事でしょう。その心配の大きさが20年という年月の長さを物語っています。
私達も何かを決断する時に心配のすぐ側を通ります。そこをうまく通り過ぎることができればいいのですが、ちょっとした隙にすっかり心配という穴に落ち込んでしまうのです。思えば私達の人生は決断の連続です。学校、仕事、結婚相手、転職から始まって、事細かな日々の決断。その度に「これを選んだらどうなるんだろう。あれを選ばなくてあとで後悔しないだろうか」というように私達は決断と共に心配をしているのです。3つめのこと、それは心配とは私達の過去の経験からくるものです。
心配とは私達の過去の経験からくるもの
不思議な言い方になりますが、私達の将来への心配は私達の過去の経験から生まれることがよくあります。ヤコブは兄エサウに使者を送るにあたり、使者に命じました「あなたがたは私の主人エサウにこう言いなさい。あなたの僕ヤコブは・・・云々」。ヤコブは兄を「主人」と呼び、自分を「僕」と呼んでいるのです。この彼の兄に対する姿勢には彼の心のどこかに兄に対する罪悪感があったことを意味するのでしょう。彼はこれまで何度も眠れない夜を過ごし、確かに自分が兄に対してしてしまったずるい謀(はか)り事を反省したに違いありません。思えばその彼の過ちがその後の人生の恐怖と心配を生み出していたのです。
私達は過去の失敗や過去に受けた傷によって、将来を心配します。例えば真実を尽くして成し遂げようとしことが、全くの失敗に終わってしまったり、「お前はできそこないだ」ということを幼い時から言われ続ければ、将来、自分なんかは何もできないものなのだと自分の将来を悲観的にしかとらえられなくなり心配に支配される生涯を送ることがあるのです。
また、それらと共に私達の罪という問題があります。私達の罪によって、私達は過去に問題を作り、その問題が解決されずに私達の将来の心配にまで暗い影を伸ばしていることが多々あります。そして、この過去というものは、自分の力ではその時に戻り、取り消したり、修正したりすることができないものなのです。
さて、それでは、これらの心配に対して、私達はどのように対処しているのでしょうか。
私達は知恵をしぼりだします。
この兄との再会が起きようとしていることに対してヤコブは一つのことを考えました。心配についてどうにか自分で知恵をひねりだしたのです。それは、自分の家畜や僕と自分達の間に距離を置き、彼らの後ろに自分が続くということでした。それは仮にエサウがこの最初の群れを襲ったとしても、じぶんは逃れることができるということであり、仮にエサウがそのような暴挙に出ない場合は、先に配置した家畜は全てエサウへの贈り物なのですと言わせることによって、その機嫌をとろうというのです。それによって、どうにかエサウの心をなだめることができたらとヤコブは知恵をひねり出して考えたのです。
でも、興味深いことはこれら知恵を絞っても、まだヤコブは心配だということです。私達もそうではないでしょうか。色々な心配に対して、色々なことを考え、知恵をしぼり、過去の経験からどうにかそれに向き合おうとする。いくつかのシュミレーションを事細かに考える。でも、心配が心から消えることはないのです。いいえ、それは入道雲のようにますます大きくなってくる。心臓の鼓動が早くなる。自分の知恵と経験によって私達の心配はなくならないのです。
では、聖書は何と言っているのか。大切なことをお話しましょう。
心配から解放される
自分で考えつく知恵を出し尽くしたヤコブ、しかし、その心にはまだ心配があるということを彼はよく分かっていたのでしょう。創世記32章22節以降を見ますと、彼はその夜、起きて自分の家族を連れて川を渡り、彼らとは離れて、一人で夜を過ごしたというのです。ちょっとその時のことを読んでみましょう。
22彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。23すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。24ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。25ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。26その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。27その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。28その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。29ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。30そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。31こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。32そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。
ヤコブが必死に考え出した方法。しかし、それによって、彼の心の心配はなくなりませんでした。彼の心にはまだ心配が同居していたのです。だから、その晩も眠ることができなかったのです。私達が心配で眠れない夜、突然、電気をつけて何かをしだすように、せっぱつまったヤコブは家族と川を渡り、ペヌエルという地で一人、夜通し神と格闘したのです。
激しい争いです。ヤコブは敗北を認めずに、命がけで祝福を求めます。彼はその番、それまでの苦しみの20年間を振り替えつつ、覚悟したのでしょう、こう言いました。「私を祝福してくださらなければ、去らせません」と。この大胆さ、この図々しさ。彼は神様が介入して下さらなければ、エサウとの問題を解決することができないと思ったに違いありません。あなたの介入なくして、この自分の心配は消えることがないということを悟ったのでしょう。
そして、ヤコブはついにこの格闘に勝利を得たのです。よく絵画などでヤコブが御使いのような存在と実際に組討しているものがありますが、私達はこのヤコブの格闘を「祈りの格闘」として解釈していいと思います。神様との直談判の祈りです。自分の心にある兄への恐れ、そして、そこからくる20年来自分の心を縛りつけてきて心配。その心配を今日こそ解決していただこうという強い気持ち。
皆さん、ぺヌエルという地名には「神の顔」という意味があります。すなわち、ヤコブがこの場所で「私は顔と顔をあわせて神を見た」という所から、その名は来ています。
そして、それはヤコブが神に近づいたというのではなく、神がヤコブに近づかれたということです。そして、同時にそれは神ご自身がヤコブの心配に手を伸ばされたということです。そうです、この格闘は24節に「ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした」とあるように、これは神によって始められた格闘だったのです。確かにヤコブが自分の問題を解決しようとしたことも事実でありますが、神ご自身がヤコブの不安を解決しようとされたのであります。
そして、ヤコブはこの激しい格闘の結果、ももの間接を傷めたのです。ももの関節には人間の体の中で一番力のある筋肉がついています。その一番強いところに神は触れられ、その強さを弱さへと変えました。そして、このことはガンとして動かないヤコブの我が(俺が、俺がという思い)神が触れられたことを意味します。神様はヤコブの自我があまりにも強烈であり(そもそもその彼の強い我が、兄エサウとの問題を引き起こしたのです)我に固執しているのを見てとってそのもものつがいを打ったのです。ヤコブは自分ではこの自我を打ち砕くことはできなかったのです。
皆さん、ここでヤコブは「人間でありながら神に勝ったのか」と思われる方いるかもしれません。しかし、これはヤコブが神と戦って、彼の自我が神に勝利したというような意味ではありません。むしろ、ヤコブの自我が砕かれることによって神が勝利し、神が勝利したことによって、ヤコブが霊的な勝利を得たということです。彼はその晩、もはや自分に頼まず、神に頼むことによって真の解決を得たのです。それはヤコブの生涯を神に全く明け渡した晩でもあり、その日から神がヤコブの生涯の主となられたのです。
32章の31節がそのヤコブの心の状態を簡潔に記しています。「こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた」。苦しみと絶望の夜は過ぎ去り、喜びと希望に満ちた太陽が輝く朝を迎えました。彼はその足を引きずりましたが、彼の内面にありました不安、恐れ、虚無と罪意識は過ぎ去り、その後には静かな平安が残されたのです。
そして、この出来事の後に起きたことが創世記33章1節―4節に記されています。①さてヤコブは目をあげ、エサウが四百人を率いて来るのを見た。そこで彼は子供たちを分けてレアとラケルとふたりのつかえめとにわたし、②つかえめとその子供たちをまっ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置いて、③ みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。④するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。
皆さん、彼が神と格闘した前と後で、状況は何も変わっていないのです。いいえ、あえて言うならば、あれだけ恐れていた兄エサウとヤコブとの物理的な距離はますます近づいている、あの20年もの間、恐れていた兄エサウの顔が今や近づいてくるのです。しかし、ヤコブの心は確かに変わっていました。それまでは自分の一族の一番、後ろに隠れて何かあったら逃げようとしていた彼、まさしくそれはヤコブという名、押しのける者という名に相応しい生き方であったのが、この体験の後にはその一族の先頭に立つものとなりました。彼の我は打ち砕かれたのです。彼の恐れと不安、心配は取り去られたのです。
そして、二人は20年ぶりに再会したのです。そこで、ヤコブとエサウは涙を流し、抱き合い、兄弟愛の表れとして口づけをしました。そして、そのような中でヤコブは兄エサウに向かいこういっているのです「あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います」。
彼の過去20年の間には、兄への恐れと同時に、兄への恨みというものもあったと思います。確かに自分が兄を欺いたのは悪かった、しかし、殺意をもつことはないではないか、そんなことをするから、俺は故郷を離れなければならなかったのだというような思い。しかし、ヤコブが自分の心配を全く神に委ねた時に、彼は想像すらもしていなかった祝福を経験することができたのです。
私達はどうでしょうか。私達の心の中にはどんな心配があるのでしょうか。もしかしたら、その心配をヤコブのようにもう20年も持ち続けているという方がいるかもしれません。よくよく考えたら、それはヤコブがそうであったように、私の過去の過ちから来ている、だから仕方ないと思っている方いるかもしれません。
私も先に言いました。この過去の過ちというものは、自分の力ではその時に戻り、取り消したり、修正したりすることができないものなのです。でも、私達はその絶望と共に行きていくのかと言いますとそうではないと聖書は言っているのです。「私の過去を消す事ができる消しゴムあるかしら」と言った人がいますが、ある意味、それは私達、全ての者が共有する思いなのかもしれません。
しかし、その思いに対して「あなたの過去を解決し、あなたの将来の心配を解決し、それを平安に変えてあげるよ」と約束しているのが聖書なのです。すなわち、神はその一人子イエス・キリストを私達が住む、この地上に生まれさせ、そしてこのキリストをして十字架において、私達のもろもろの罪をその一身に負わせ、私達の身代わりとなってくださり、私達の罪を一切赦してくださったのです。そのことによって、私達が過去に犯した罪は全て赦されるのです。そして、過去を赦された者はいまだ踏み出してもいない明日にも光を見出すことができるのです。
皆さん、私達もこれからの人生の心配について一つの終止符を打ちたいと願うならば、私達はやはりいつかどこかでこの神様と一対一で向き合わなければなりません。私達の知恵と経験は確かに私達を導いてくれるでしょう。私達は自分の心配について知恵と経験をもって考え、自分ですべきことはするべきです。しかし、それではまだ私達の心配は私達の心にあります。
ですから、私達もヤコブのように神様と向き合うのです。そして、神様にこの不安を委ねるべきです。知恵と経験で何とかしても心配は私達の心に同居しているのです。ですから、時と場合によって、またこの同居人が心の中で大きな顔をするようになるのです。私達はこの同居人と共に住むのではなく、この同居人にはどこか別の場所に出て行ってもらわなければなりません。それは心配をただ捨て去るというのではなくて、その心配を私達にとって一番、頼りになる方に委ねるということです。
どこにこの心配をもって行けばいいのでしょうか。
イエスの弟子の一人であったペテロは言いました。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神に委ねるがよい」(1ペテロ5章7節)。これは英語の聖書によれば、Cast all your anxiety on him because he cares for you.と書いてあります。CASTとは投げるということです。あなたの心配を自分の心の内に止まらせないで投げなさい。どこに?神様に。私達の過去に一人子の命を与えるほどに、私達をかえりみてくださったお方が私達の心配をもケアーして下さるからです。
心配はこれからも私達から離れることのない、私達の影のように私達につきまとってくるでしょう。その心配から解放される方法、それは私達の人生を神に明け渡すことなのです。
お祈りしましょう。