室内犬を飼っている方、一日、クタクタになって仕事を終えて帰宅すると、犬だけがシッポがちぎれるほどに、あなたのお帰りを朝から待っていましたとばかりに、玄関に迎えてくれるっていうことありませんか。さて、家族は留守かと思い、廊下をぬけてダイニングに行けば家族は皆、自分が帰ったことにも気がつかずに天気予報を見ているなんてこと経験したことありませんか。
「父帰る 一番喜ぶ 犬のポチ」なんて川柳がありましたが、犬は本当に「あなたが帰ってきて嬉しいよー」と喜ぶのです。そうしたらやっぱり会社で色々なことがあっても犬のことが可愛くなるのです。でも犬はこのような父だけではなくて、家族全員にも同じように振舞いますから、皆から愛されるのです。喜ばれて嬉しい飼い主達は、自分も嬉しくなって、可愛くなって犬を大切にします。ですから「散髪代、俺は千円、犬 一万」なんていう哀愁ただよう川柳も生まれるのです。

人間の皆様、私達は犬以上のはず!
マック
今日、お話したメッセージです。
よかったらどうぞ!↓
今日からできる人間関係回復術! 2008年3月30日 ルカ6章32節-38節
32自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。33自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。34また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。35しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。36あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。37人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。 38与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
1956年、日本初の第1次観測隊が南極観測船「宗谷」に乗って東京を出発しました。そして、翌年、この南極観測隊の隊長であられた永田武氏さんは帰国後の記者会見でこう言いました「一番苦労したのは、隊員同士の人間関係でした」。
ある本を読んでいました。そこには刑務所で刑期を終えて、出所してくる人達が開口一番で最も多く言う一言が書かれていました「所内では仲間とのつき合いが一番大変でした」。
私たちは、たとえそれが周囲数百キロ人が住まない土地であっても、自由が制限されている塀の向こう側であっても、どこに行っても、何をしていても、人との関わりなしに生きて行くことはできませんし、その関わり、人間関係の問題がなくなることはありません。
シリーズで見ています、この人間関係について今日も、神と人について記されている聖書からの知恵をいただきましょう。3週間前に人間関係についてお話しました時に人は変えられない、だから、まず自分が変わりましょうということをお話しました。そして、今日のメッセージも「自分が変わる」ということが前提としてあります。なぜなら、そこだけが私達がコントロールできるところなのですから。ですから、今日はそれでは具体的に私達はどう変わることができるのかということをお話したいと思います。
与えなさい。(ルカ6章37節‐38節)
37人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。38与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
「エコーの法則」というものをご存知でしょうか。私達が山に向かって何かを叫ぶとその声が山にぶつかり、はねかえってきます。私達はこの現象を「やまびこ」または「こだま」と言います。
たとえば定番ですが、私達が山に向かい「ヤッホー」と言えば「ヤッホー」と返ってくるのです。「お前、いい奴だなー」と言えば、「お前、いい奴だなー」と返ってくるのです「ありがとう」って言えば「ありがとう」って返ってくるのです。
もう、何をお話しするのかお分かりになったと思います。エコーの法則とは、私達、人と人との間にも生じる法則でありまして、私達が友人に「おはよう」と言えばあちらからも「おはよう」と返ってくるということであり、「あなた変だよ」と言えば「あなた変だよ」と返ってくるということです。ドアーをバタンとしめて去っていくならば、相手もあなたの目の前で湯のみをガチャンと置いて立ち去るということです。
皆さん、このことを一番、心得ている人をご存知ですか。いいえ、訂正します、一番よく心得ている生きものです。そう、犬です。一日、クタクタになって仕事を終えて帰宅すると家で飼っている犬だけが、シッポがちぎれるほどに、あなたのお帰りを朝から待っていましたとばかりに、玄関に迎えてくれる。さて、家族は留守かと思い、廊下をぬけてダイニングに行けば家族は皆、自分が帰ったことにも気がつかずに漫才を見ているなんてこと経験したことありませんか。
「父帰る 一番喜ぶ 犬のポチ」なんて川柳がありましたが、犬は本当に「あなたが帰ってきて嬉しいよー」と喜ぶのです。そうしたらやっぱり会社で色々なことがあっても犬のことが可愛くなるのです。でも犬はこのような父だけではなくて、家族全員にも同じように振舞いますから、皆から愛されるのです。喜ばれて嬉しい飼い主達は、自分も嬉しくなって、可愛くなって犬を大切にします。ですから「散髪代、俺は千円、犬 一万」なんて川柳も生まれるのです。
でも、果たして当の人間はどうなのでしょうか。私達はこのエコーの法則を知り、そして、それを生活の中に取り入れているでしょうか。よく見ていただきたいのですが今日、読んでいただきましたルカによる福音書にもこの「エコーの法則」が書かれているのです。この箇所の言い方を反対にしてみますと「人を裁いてごらん、あなたも裁かれるよ、人を罪に定めてごらん、あなたも罪に定められるよ。赦さずにしておいてごらん、あなたも赦されないよ」と言っているのですから。
もちろん、この背後には神様の視線があるのです。すなわち裁き、罪に定め、赦さずにおくなら、あなたも同様に神に同じ量りで量られるよということです。でもそれと同時に、私達がもし誰かを裁き、罪に定め、赦さないでいるなら、その誰かも私達に同様な態度を持つだろうということもこの言葉の中には含まれていないでしょうか。そんなことはないと思われるかもしれませんが、立場を変えて、もし誰かが皆さんをあからさまに裁き、罪に定め、赦してくれないのなら、あなたのその人に対する態度が内心,刻一刻どうなっていくのかを観察すれば分かることでしょう。
この箇所の最後にはこう書かれています「与えなさい。そうすれば自分にも与えられる。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたの懐に入れてくれる。あなたが量るはかりで、自分にも量りかえされる」。
「与えなさい。そうすれば与えられる」。一体何を与えればいいのか。私達は「与える」と聞きますと、何か手にとって触ることができる物を考えますが、ここではそのような形あるものではない二つのことをお話します。それはこれから通信販売のカタログやモールで売っているようなお歳暮やギフトの類とは違うものです。それらは私達が今、持ち合わせているものです。それが本当に真実に機能するなら、私達の人間関係は今日の午後から変化します。いったいそれは何でしょうか。
私達が与えることができるもの、それは「微笑み」と「言葉」です。
反キリスト教思想家として知られるニーチェという人がいました。彼は「神は死んだ」という衝撃的な言葉を残した人として有名ですが、彼は言っています。「自分がキリスト教を信じないのは、クリスチャン達が喜んでいないからだ」と。
ニーチェのような思想家・知識者がキリストを信じないのは知的に納得できないからだとは言わなかったのです。誰も俺を論破できなかったからだとは言わなかったのです。彼は単純にクリスチャンに喜びを見ることができないからだと言ったのです。別の言い方をするならば、クリスチャンの内に微笑みを見ることができないからだというのです。
今から120年ほど前、マサチューセッツ州ボストン郊外の精神病院の地下室に、アニーと呼ばれる少女が入れられていました。当時はまだ悲しいことですが、精神的な障害を負う者は決して直らない、人目にさらしてはならない、と考えられていました。ですから、この少女はこの小さな部屋で一生を過ごす運命にあったのです。しかし、その病院で掃除をして働く一人の婦人がその少女に食事を運ぶ度に“I Love You”と声をかけ続けたというのです。その結果その少女は心を開き、徐々に回復し、やがて学校を卒業し教師の資格をとりました。
そして、ある家庭に家庭教師として遣わされました。その家庭には三重苦の少女がいました。その少女の名前はヘレン・ケラーと私達は呼びます。一人の名もない婦人の励ましがなかったらアニーは教師になれなかったでしょうし、ヘレン・ケラーのその後の大きな働きもなかったでしょう。一人の婦人の一言が、そう本当に小さな小さな一言が、大きな結果をもたらしたのです。
皆さん、細かく言う必要はないでしょう。ガチガチの反キリスト者、ニーチェが見たかったことはキリスト者の喜びでした。地下室で暮らすアニーサリバンが救われたのは、著名な学者のカウンセリングによったのではないのです。名も記されていない一人の女性が彼女に繰り返し語り続けたアイ・ラブ・ユーという言葉でした。
ホノルルに住んでいらっしゃる中野雄一郎先生がよく話します。ワイキキ・ビーチを歩いているとすぐに日本人カップルは分かる。彼らは互いに数歩離れて歩いており、そこには会話がないから。「言わなくても分かりあっている」なんていうあたかもテレパシーをもった宇宙人のようなことを言う方が時々いますが、それは全くの迷信であり、そんなことを言っている間に互いの心は日に日に離れてしまうのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。「表情は平静を装っているけど、心の中では喜んでいるのだ、感謝しているのだ」って、そんな禅問答みたいなこと言っていないで、素直に嬉しい事、感謝すべきことを表情に出し、言葉で表すなら、私達の社会は確実に変わるでしょう。
誰も自分に良くしてくれない。世の中なんて、会社なんて、学校なんて、という前に今朝開かれた言葉と共に私達の心をもう一度点検する価値があるのではないでしょうか。
37人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。38与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
イエス様はかつて言われましたよ「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」(マタイ10章8節)。皆さん、私達は自分の話す言葉と微笑みにお金をかけましたか。もちろん、職業としての噺家とか顔が命なんていう女優という人がいます。しかし、その人達とて日常の笑顔とか日常会話を話すためにお金を支払っている人はいません。それらは全て私達にタダで与えられているのです。そうです、これらのことは全て神の許しなければ私達はもち続けることができないものです。だから、そうたやすくお前にはあげぬ、渡さぬ、譲らんぞと言っているものではないのです。これらは本来、惜しみなく与え続けることができるものなのです。
でも、皆さんの中にいるかもしれません「確かにそうですね。私も相手が笑ったら、相手が言ってきたらそうしましょう」と思われる方。皆さん、私達はまたまた底なしの沼に落ちていくのでしょうか。またまた、自分ではコントロールできないもののために自分の貴重な時間を待つことに費やすのですか。
このことに関しては、とにかく先制攻撃あるのみです(攻撃ではありませんが)。こちらから顔表面の神経を緩め笑うのです。こちらから元気よく「おはようございます」「ありがとう」と言うのです。言ってしまうのです。
これらはとてもシンプルなことなのですが、このシンプルなことをする人は多くはありません。疑心暗鬼の方、この一週間、実験をしてみてください。誰かにきつい言葉を吐き、いつも怒り顔で睨みつけてみてください。来週、同じような仕打ちを受けて、精神的にへとへとになった皆さんにお会いできるかと思います。反対にこちらから、笑みと前向きな言葉を惜しみなく放出してみてください。皆さんの周りにいる人が皆さんを幸せな気分にしてくれるでしょう。
ガラテヤ書が言っているように「人は、蒔いたものを刈り取ることになる」(6章8節)のです。コスモスの種を撒けば、コスモスの花が咲くのです。茨の種を撒けば、茨が芽を出すのです。そして、この法則に気がついて、この法則で人生を歩み始めた人達は、今日の箇所に大胆にも書かれている「人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう」というようなことまでも体験するようになるのです。
そして、これらのことに関して聖書はとことん現実的な書です。マタイ13章 12節には書かれているのです「おおよそ持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」
今日の聖書が語るエコーの法則に生きる者には、さらに与えられ豊かになりますが、この法則を私達がミスして、笑みも言葉も大切に心の内に保存しておきましょうなどと言っていますと、持っているものまでも取り上げられてしまうのです」
私達は微笑みかけましょう。私はあなたを親しく思っていますと言葉をかけましょう。このシンプルなことが私達の人間関係に及ぼす影響はとてつもなく大きいのです。
与え続けなさい (ルカ6:32-36)
32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。35人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。36あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
今までのようなことを、お話ししますと必ずこう思っている方がいると思います。この中にも43名ぐらいいるかもしれません。それは「そんなこと言ったって、オハヨウと言っても何も言わないでツンとしている人だっているわよ」。そうなのです、確かにいるのです。人間世界はとてつもなく幅広いのです。世界を見渡せば色々な人がいます。まさしく海のもの、山のものが存在します。
それでも、私達は何はさておき「まず笑うのです。まず語りかけるのです」。それに返答しないのは、相手の意思であって、数週間前にお話したように、私達はその人を捕まえて口を開かせて「お・は・よ・う」とは言わせられないのですから。
肝心なのは私達から言うのです。私達がすべきことはするのです。ボールを投げるのです。投げ続けるのです。あとは相手次第なのです。その人がボールを受け止めて、また受け止めやすいボールを私達に投げかけてくるかは相手次第なのです。
誰かとキャッチボールしている人が自分が投げたボールを追いかけますか。そして、相手のグラブに入ったのを間近で見届け、その人が確かに自分に受け止めやすいボールを投げやすいように、その人の手をとって投げさせますか。冗談じゃありません。それらは、私達にコントロールできることではないのです。
でも、その人に向けて投げることなら私達にできるのです。自分で投げるボールなら自分でコントロールできるのです。ですから、コントロールできないことでクヨクヨ悩むのはやめましょう。投げたら、あぁ、いい球が投げられたなー、今日も気持ちいいなーと後は神様に委ねのです。
演劇をしている俳優が、舞台から観衆を観察して、こここそ感動する場面なのに感動していない客を見つけて、舞台から飛び降りて、その人に「感動しなさい」とは言えないのです。俳優のすべきことはその瞬間、瞬間の演技に全力を注ぐ事です。
キリストは既に十字架にかかられたのです。あまりにもこの十字架を多くの人達が知らない、分らないからといって、人々の肩を掴み、どうして信じないのだと決断を迫ることはできないのです。キリストから史上最高のメッセージは既に私達に投げられているのです。そのボールをその人がどのようにするのか、受けるのか、受けないのか、それはその人次第なのです。
皆さん、私達は先に読みました箇所において、自分が与えることに対して、自分は相当のものを受け取ることができる、いいや、それ以上のものが与えられる、人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろうということを見ました。そして、私達ができることは微笑みであり、投げかける言葉だということを見ました。
しかし、この箇所には前者にはない特別な言葉が書かれています。すなわち、一言で言いますならば、それらのことをしてもあなたたちが報いを受けないことがあるということです。投げたボールが返ってこないことがあるというのです。
でも、そんな人達に先に開きました箇所には書かれていない特別な言葉が、ここでは投げかけられているのです。すなわち、たとえボールが返ってこなくてもボールを投げ続ける者は「いと高き神の子」となると書かれているのです。そういうことをしているあなたは「神の子」だというのです。もう、それは人間的なことではないのです。そのような人には神的な香りがするというのです。
なぜですか?なぜなら、神様がそのような割りの合わないことをまずあなたにして下さったからです。ある人に良いことをする、何もリスポンスがない。そのことを人類の歴史始まって以来、今日まで、これからも向き合っていて下さっているのが私達の父なる神なのです。
私達はいったい何年、いや何十年、神様から投げかけられている愛に応えずにきたのでしょうか。来る日も来る日も、リスポンスがない私達に神様の恵みと愛は来る日も来る日も注がれていました。そして、そのような愛はもう人間の持ち合わせているようなものなのではなく、もし、そのようなことが私達の世界にあるとするならば、それはDIVINEなもの。すなわち、神的なものなのだというのです。
ですから、そのような性質を持ち合わせている者達は「いと高き神の子」と呼ばれるのです。そして、私達の信仰は、一番、その時の私達の気持ちを察してくださる神様は、いつかその相手の心も変えて下さるということなのです。
今日はとてもシンプルなことをお話しました。私達は自分で蒔いたものを刈り取るのです。「お前、最低だ」という言葉を蒔けば、「お前、最低だ」という言葉をしょっちゅう耳にするようになるのです。「なんだ、お前」という表情で生きれば、「なんだ、お前」という人達に取り囲まれて生きるのです。
反対に「あなた素敵だね」という言葉を蒔けば、「あなたも素敵だ」という言葉に私達は育まれるのです。誰かに微笑むなら、私達は微笑まれて暮らしていくのです。
どちらがいいですか。言うまでもない、後者だと思います。そして、仮にそのような報いがなくとも、私達がこの姿勢で生きるなら、私達は確かに神の子となるのです。
あぁ、なんとシンプルなことでしょうか。シンプルなことは今日の午後からできるものです。しかし、シンプルなことゆえに、始めない人がほとんどなのです。それゆえに、キリストが度々言われた言葉をもって、私達はこのメッセージを終えなければなりません。
「耳のある者は聞くがよい」
聞く耳があって、この法則に生きる人は幸いです。
お祈りしましょう。
NZの行き着けのBARで飲んでいて、いつも感じが悪い奴がいたので、「お前感じが悪いな」と言ったら「NICE TO ME、NICE TO YOU」と言われた。凄く的を得た言葉だと思ったよ。
敢えて日本語で言うなら、「情けは人のためならず」みたいな感じかな。仕事の中で、あまり人にいい顔ばっかりしてられない事もあるけど、それでも NICE TO YOUで行きたいね!
さんぼ
そうだよね。シンプルなことだけど、この輪が広がるなら、必ずベターな世界になると信じているよ。職場に花を咲かせてくれ!